―第二章:夕闇の中の再会―
(雲行きが怪しくなってきたなぁ・・・雨が降らないといいんだけど)
今朝はあんなに晴れていたのに、と宗次郎は診療所の軒下で空を見上げながら思う。
日は傾き、いつもなら青い空が茜色へと染まっていくこの時間、けれど今日は薄暗い雲があるばかりで、普段よりも幾らか早い夜の訪れを感じさせた。秋の日は釣瓶落とし、という言葉がある。秋は釣瓶を井戸に落とすように早く日が暮れやすい事を示す言葉ではあるが、今は特にそうだと言えた。
宗次郎は一日の家事仕事を全て終わらせ、自分がいなくても浅葱との二人は食べられるように、と夕食の支度も簡単に済ませておいた。愛刀『天衣』を腰に帯び、脚半は着けていないものの、その脚力を十分に生かせるように草鞋の紐をしっかりと足の甲に回してある。
いつ闘いになっても平気なように―――そう、宗次郎は例の辻斬りと一度会ってみようと、決めていた。
犠牲者を増やさないため、という正義感よりも、時代遅れの辻斬りへの好奇心が勝っていた為ではあるが。
(それにしても、もっと早めに出れば良かったかな)
空模様を見ながら、宗次郎は軽く溜息を吐いた。昼の明るさと夜の暗さの合間、この夕暮れのしかも曇り空の下での薄暗い空気というのは最も視界が悪い。漆黒の夜の方がむしろ、宗次郎にとっては昔からの経験上、夜目さえ利けば動きやすかったりする。
視界が悪ければそれだけ斬り合いになった時に不利になる。もっとも、それは向こうも同じことではある。ある程度の相手なら敵じゃないだろう、という自信は宗次郎にはあったが。
とは言っても、後悔先に立たず、である。時が過ぎてしまったものは仕方がない。
「宗次郎君」
と、後ろから声がかかる。振り向かなくともその声の主は分かる。もうすっかり耳に馴染んだ、柔らかだが芯の通った、の声。
「さん。どうしたんです?」
笑顔で振り向いた宗次郎とは対照的に、は少し沈んだ表情だ。というよりも、気遣わしげな顔、といった方が正しいか。
「やっぱり、行くんでしょう?」
「ええ。色々と気になりますしね」
の言おうとしてることを察し、宗次郎は頷く。その返答に、は何事かを言いたそうに口を開きかけたが、言葉を発さずまま閉じると、代わりに唇の端を緩やかに吊り上げた。
「宗次郎君の強さは知ってるけど・・・・気を付けてね」
「それは勿論。なるべく早く帰るようにはしますけど、先に夕飯食べちゃってていいですからね」
屈託の無い笑顔を宗次郎が浮かべると、は安心したように頷いた。
こうして誰かに心配してもらうと、何だか胸がくすぐったいような、不思議な感覚を覚える。が心配性なのはいつものことだけれど、それでも誰かに気にかけてもらえることは嬉しいと。宗次郎は多分、そう感じていた。
「それじゃあ、ちょっと行ってきます」
宗次郎はもう一度にっこりと微笑むと、に背を向けて歩き出した。の「行ってらっしゃい」という声が穏やかに後ろから追いかけてくる。
本当は恐らく、危険だからと引き止めたい気持ちもあるだろうに、それでも宗次郎の意志を尊重し引き止めずに見送る。それはらしいと思うし、彼女のそんなところが宗次郎は存外嫌いではない。それに何より、それでもなお彼女は宗次郎を気遣ってやまないのだ。それが有り難いとさえ、思う。
淡く浮かんだ気持ちを、けれど目的を思い出して宗次郎は一度それを霧散させる。ただ足を進める。人通りの少ない時間、自身の道を踏みしめる音だけが静かに響く。
ここから隣町まではおよそ一里といったところか。大人が普通に歩けば一時間程かかる距離ではあるが、強靭な脚力を持つ宗次郎にとっては容易い道のりだ。十年前、闘い続けていたあの頃に比べれば、年を重ねたせいもあっていささかその力は衰えたかもしれないが、それでもまだまだその只ならぬ脚力は健在である。
「さて、と」
診療所から離れ、民家もまばらになった頃、宗次郎はトントンと爪先を地面に叩きつけ始めた。宗次郎がその脚力を発揮する際に行う準備運動のようなものである。
すなわち、まるで仙術を使ったかのように距離を縮め、瞬間移動したかのように目に映る幻の体技、縮地の。
「まぁ・・・三歩手前で十分かな」
トン、ともう一つ地面に足に爪先をつけた次の瞬間、宗次郎は走り出していた。本気を出していないとはいえ、それは常人にはまさに目にも映らないといった速さである。走る際の衝撃で、宗次郎が通った箇所からは土煙が上がり、それがずっと先へと続いていく。走る宗次郎の側に人がいたならば、まるで風が通ったかのように思えただろう。
隣町へは所用で幾度か行ったことがあるので道は知っていた。人があまり通らず、縮地を使っても目立たないような道も。林の中をすり抜ける道や、或いは畑の側のあぜ道など、そういったところを駆け抜けて宗次郎は隣町へと急いだ。
その甲斐あってか、空の色が出立前と比べわずかに暗くなった頃に、もう隣町へは着いていたのだった。
「着いたはいいけど、まずどこから当たろうかな」
着いた後も大して息も切らさず、宗次郎は足を痛めぬように緩やかに道を歩き続ける。件の辻斬りを怯えてか、民家や商店などが脇を連ねる街の中心部なのに、人一人見当たらない。皆ぴしゃりと固く戸を閉じてしまっている。これでは情報収集もままならない。
辻斬りの情報を得るのに一番確実なのはやはり警察署だが、指名手配の身である彼がのこのこと顔を出すわけにも行くまい。の診療所がある町なら、前にある事件があった際に警察と関わったことがあったので知り合いもいるのだが(もっともその知り合いは、宗次郎が政府が極秘に追っている指名手配犯だとは知る由も無かったけれど)。
「でも、帯刀してたら僕が逆に怪しまれちゃうかなぁ・・・」
はた、と気が付いて宗次郎は苦笑した。
明治九年に廃刀令が出され十年余り、当時こそ神風連の乱・秋月の乱といった士族の反乱が起こったものの、今では文明開化の影響もあり刀を腰に帯びる者などほとんどいない。いたとしても他者に分からぬように仕込み杖にしてあるのがもはや一般的となっていた。刀の時代は終わりを告げ、刀を持つ者もいなくなった。それは宗次郎が今の愛刀『天衣』を譲り受けた所以でもある。
もう刀の時代ではない。それはもう誰もが認めていることだ。それを理解していても、いや理解しているからこそ、未だに刀を捨てぬ者もいることを宗次郎は知っていた。自分自身もそうであるし、今この町を騒がせている辻斬りや、或いは、あの緋村剣心やその志をついた明神弥彦、人知れず闇を葬る斎藤一や四乃森蒼紫―――。
もしもこの近代化が進む日本にまだ志々雄真実が生きていたとしても、きっと刀を手放さなかっただろうと思う。
「おや、あなたは・・・」
考えに沈んでいた宗次郎に声をかける者があった。声の方に振り向いた宗次郎は、思わず「あ」と声を上げる。
小さな鞄を抱えぺこりと頭を下げたその男は、昼間に会った失礼な医者、安塚だった。
「奇遇ですねェ。あなたとは確か、さんの診療所でお会いしましたか」
「えぇ、そうですねぇ」
片手で総髪を撫でつける安塚に宗次郎は気の無い返事をする。そういえばこの人、隣町の医者だったっけと宗次郎は前情報を思い出していた。
「そういえばあなたの名前を伺ってませんでしたな。あなたも医者・・・ですか?」
「いえ、僕は居候で。瀬田宗次郎といいます」
医者といった風ではないな、と遠慮なくジロジロと全身を見回す安塚に、宗次郎は簡潔に名乗った。それでも宗次郎を見回していた安塚は、ふと宗次郎の腰に帯びている刀に目を止めた。
「その刀・・・どうしたんです? 帯刀は法令で禁止されているのを知らないわけじゃないでしょう?」
「勿論知ってますけど、実は僕、この町を騒がせてる辻斬りさんに会いに来たんです」
「辻斬りに、会いに?」
その答えを聞いた途端、安塚はニヤリと笑んだ。それは宗次郎を小馬鹿にしているような、何かを企んでいるような、悪意のある笑顔。
宗次郎はそれが何か引っかかるような気がしたが、まぁこの人はこういう人だし、と無視して話を続けることにした。
「ええ。だから丸腰じゃ危険でしょう?」
逆に、悪意など全く無いといった風な無邪気な笑顔を向ける。ほんの少し、意図的に。
宗次郎のこうした屈託の無さは、時に人をたじろがせる。
「そ、そうでしたか」
「そんなわけで、辻斬りさんがよく現れる場所とかあったら、教えて欲しいんですけど・・・」
ほんの少し怯んだ安塚に、宗次郎は畳み掛けるように問いかける。安塚に情報を求めるのも何か癪だが、この町の被害者を治療しているのは彼だし、この町の人間である以上、何かしらは知っているはず。
けれど安塚の返答は。
「それが・・・生憎と分からないんですよ。何せ神出鬼没の辻斬りでしてねェ・・・。患者さんもこの町の様々な所から来ますしね」
これといった有力な情報は得られなかった。大袈裟に頭を振って嘆く安塚に、何かきな臭いものを感じ、宗次郎はほんの少し目を細めて彼を見た。そうして確かめるように更に問う。
「もう一つ聞きたいことがあるんです。その辻斬りさんに、殺された人はいないんですね?」
「ええ。命があるだけマシなのでしょうが、体を傷つけるだけなんですよ、その辻斬りは。全く、何が目的なのやら・・・」
「そうですか・・・」
頷きながら宗次郎も考え込む。安塚の言葉を借りるわけではないが、果たしてその辻斬りは一体何が目的なのか。もっとも、会えば分かることではあろうが。
「それでは、申し訳ありませんが私は所用があるのでこれで失礼いたします」
物思いにふける宗次郎を尻目に、安塚は別れを切り出した。元々安塚とは会う予定は無かったし多少の情報も得たので、宗次郎もあっさりと了承する。
「ええ、それじゃ僕もこれで」
「―――あ、お待ち下さい」
自分から別れを告げたくせに、安塚はうって変わって宗次郎を引き止めた。宗次郎が不思議そうに首を傾げると、安塚は例の質の悪い笑顔で。
「もしあなたがその辻斬りと相対して怪我をするようなことがあれば、ぜひ私の診療所にお立ち寄り下さい。このすぐ近くですから。それでは」
言いたいことだけ言うと、安塚はさっさと去っていった。薄暗いその道には、ぽかんとした顔をした宗次郎だけが残された。
「何なんだろ、あの人・・・」
もう見えない安塚の姿を見送りながら、宗次郎は呆れ気味に呟く。あの言い方では、まるで宗次郎に怪我をして欲しいと言っているようなものではないか。
傷を負った者を治せる力を持ちながらも、『気を付けてね』とその身を気遣ってくれた彼女とは雲泥の差がある。
「・・・まぁいいや。さんと浅葱さんに心配かけちゃうし・・・早いとこ済ませないと。とりあえずはこの町を歩き回って、探すしかないか」
ふと頭に浮かんだの姿に宗次郎は小さく笑みを零すと、気持ちを切り換えて辻斬り探索に向かうことにした。今夜一晩探し回って、会えるという保障は無いが、それでも全く動かないよりはきっと何かが掴めるはず。
日は落ち、辺りの闇もなお増したが、皮肉にも雨を降らすかと思われた雲が空を覆っていることで、全くの闇夜ではない。重い空色ではあるが、漆黒よりは幾らかマシである。もっとも、月夜なら言うまでもなかったが。
歩いているうちに夜目にも慣れ、民家から漏れる明かりもあって、町の様子もおおよそ分かるようになってきた。相変わらずどの家の戸も固く閉ざされ、歩いている者などいない。酷く静かな夜だ。
(ただ人を斬るにしたって、これじゃ遣り辛くなると思うんだけど・・・)
お金や命は取らないというし、盗賊の類ではないから家中に踏み込むことも無いのだろう。息を潜めている人々が中にいるということが手に取るように分かるような、家々の横を通り過ぎながらそう思う。誰も表に出ていないのなら斬りようが無い。ここまで噂が広がってしまっては、出動した警官や捕縛しようと試みる用心棒や、自分のように興味本位で出歩いている者を斬るしか。
(何が目的なんだろうなぁ)
歩いているうちに民家の少ない道へと出る。砂利を踏む音と、鈴虫や蟋蟀といった秋の虫の鳴き声だけが宗次郎の耳に届く。
ふと、ちゃき、と鍔鳴りの音が響いた。
(ああ、僕の刀か。―――・・・?)
そう思って、すぐにその考えを取り消す。鍔鳴りの音は、自分の左腰では無い方から聞こえてきた。
宗次郎は素早く左手で鞘を引き上げ、即座に抜刀できる体勢を取る。じり、と右足を踏み出しながら、目線は周囲への警戒を怠らない。
そうして音の聞こえた方向の目星をつけ、宗次郎は闇に紛れ顔の見えないその人物を見据えた。距離はおよそ三間といったところか。
相手も宗次郎に気付いているのだろう、臨戦態勢をとっているのが空気で分かる。
「例の辻斬りさんですか? 隠れてないで出てきたらどうです?」
静かに、だが挑発するように宗次郎は呼びかける。顔に浮かぶのは穏やかな笑み、けれど右手はすぐにでも刀の柄に手をかけられる位置にある。
準備万端の宗次郎だったが、相手からの返答は意外なものだった。
「―――もしかして、宗次郎か?」
「え、何で僕の名前知って・・・」
きょとんと宗次郎は目を見開く。正体の分からぬ相手が自分の名前を知っているのには確かに驚いたが、そういえばこの声はかつて聞いたことがあるような気がした。
「もしかして・・・・」
頬を緩めると共に、宗次郎は刀の鞘から手を離す。相手も警戒の姿勢を解き、こちらへと近付いてきた。
次第に見えてきた癖のある黒髪に、自分の予想が間違っていないことを悟る。宗次郎より若干背が高く、細身ながらもしっかりとした筋肉がついた手足を持つ彼は、半袖の黒い着物を纏い、裾にも同じように二つの黒い線が入った袴を身につけている。意志の強そうな瞳に凛とした表情、少年らしさを残しながらも逞しい青年へと成長していたのは、かつて北海道で共に事件に携わった、明神弥彦だった。
「やっぱり、弥彦君だったんだ」
「よぉ宗次郎、久し振りだな!」
笑んで呼びかけると、弥彦もからからと笑って言葉を返す。
宗次郎が年下であるはずの弥彦を君付けし、逆に弥彦は年上であるはずの宗次郎を呼び捨てにしている。一見妙な構図だが、それは北海道での事件以来、変わらない呼び方ではあった。
「何年ぶりだ? 五年ぶりくらいか?」
「そうですねぇ。僕が二年前くらいに神谷道場に立ち寄った時、弥彦君、遠くへの出稽古で留守してたから・・・」
しみじみと宗次郎は頷く。
十年前の京都での闘いの際は、宗次郎と弥彦は顔を合わせたことは無かったとはいえ志々雄側と剣心側として対立する立場にあった。宗次郎は抜刀斎、つまりは剣心の身辺を調べた際に弥彦の存在は知っていたし、弥彦も剣心から十本刀最強と称される『天剣』の宗次郎の事は聞いていた。北海道で初めて会った時は弥彦は宗次郎を敵視し、一悶着あったが、それでも一緒に事件に関わっていくうちに段々と確執は薄れていった。
そんなわけで宗次郎は旅の途中で何度か神谷道場を訪れ、剣心だけでなく弥彦や薫とも親交を深めていたりした。
とはいえ、二人の言葉にもある通り、すれ違いがあったために実に久方振りの再会となる。
「また背が伸びたんじゃないですか?」
「ああ。ってもなかなか左之助には届かねぇけどな・・・」
髪の毛が逆立っていることもあって、弥彦は宗次郎より余計に背が高く見える。宗次郎も旅の中でほんの少し背は伸びたとはいえ、成長期の弥彦には敵わないのであった。実際の身長差は二寸弱、といったところか。
「そういえば宗次郎、お前なんでこんなトコに」
「それはこっちの台詞ですよ。詳しくは後で話しますけど、僕、今はここの隣の町に住んでて、この町を騒がせてる辻斬りさんに会いに来たんです」
「そうなのか。実は、俺もその辻斬りを探しに来たんだ」
「えっ?」
宗次郎は弥彦の言葉に思わず声を上げた。突然の再会に驚いて、その可能性までは咄嗟に頭は回らなかったのだ。
「何でも、その辻斬りは色んな町を転々として人を斬りまくってるらしいんだ。で、警察も全然奴を捕まえられなくて、それで日本二の腕前を持つこの俺に話が回ってきたんだ」
弥彦はどーんと胸を張って答えた。日本二というのは弥彦の自称だが(日本一は勿論剣心だそうだ)、今や神谷活心流道場の師範代としてその名を知らしめていておまけに警察とも繋がりのある彼が、東京から比較的近いこの静岡への出向を依頼をされるのは成程当然かもしれない、と宗次郎は思った。
そしてそんな弥彦の腰には、剣心から受け継いだ逆刃刀―――。
「そういうわけだったんだ」
「まぁお前までソイツを追ってるとは思わなかったけど、宗次郎がいるんなら心強いぜ。・・・と、それより」
弥彦は宗次郎の腰の刀にすっと視線を移した。そうして、声のトーンを落として問いかける。
「その刀、前会った時は持って無かったよな?」
「ええ。その後、人から譲り受けて」
「もしかして・・・・・真剣か?」
弥彦はその刀に危ぶむような目を向けた。
宗次郎がかつて志々雄の下で多くの者を殺めてきたのは弥彦も知っている。宗次郎が流浪の旅の中で、自分にとっての真実と生き方を探しているのだということも。
その彼が、再び真剣を手にしたのなら、もしかしたらまた弱肉強食の理念に戻ってきてしまったのかと、また人を斬るつもりなのかと、弥彦はそう懸念したのだ。
北海道での事件の際、子どものように無邪気で、それでいて穏やかな空気を纏う宗次郎を見て、それこそが彼の本質なのではないかと感じていたから尚更。
けれど弥彦のそんな気がかりを全て打ち消すように、宗次郎は柔らかく微笑んだ。
「嫌だなぁ、心配は無用ですって。旅の間に色々あって、僕、もう人は斬らないって、
―――決めましたから」
宗次郎の瞳に、ふと何か懐かしいものを思い出したかのような色が浮かんだ。
剣心との闘いの際、宗次郎は本当は誰かを殺したりなどしたくなかったと気付いた、いや、気付かされた。気付いたからこそそれまでの全てが崩れ、やり直すきっかけにもなったけれど、それはあくまでも自分の感情でしかなかった。人を殺したくない、という自我。
けれど、旅の途中である人が教えてくれた。『殺したくない』という自分の感情ではなく、『殺さない』という相手の心も考えた上での自分の意志を。
ある人が―――教えてくれた。
「それに、安心して下さい」
懐かしい感情を胸の奥に仕舞いこんで、宗次郎は弥彦に目を向けた。そうして白塗りの鞘に左手を遣る。外見こそはかつての所持していた、名刀・菊一文字則宗と似ている部分もあるけれど。
怪訝な顔をした弥彦に、宗次郎はにっこりと笑ってこう言うのだった。
なまくらがたな
「この刀、凄い鈍刀ですから」
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