―第三章:其の刀が示すもの―


弥彦と合流した後、二刻程の時間、町を探索して回ったが、それでも辻斬りに出会うことは無かった。
空には夜の帳が下り、町は相も変わらず不思議なくらい静かだ。
「猫の子一匹もいやしねぇ。ま、無理もねぇのかも知れねェけど・・・」
溜息を吐きつつ弥彦は言うが、その目は鋭く、周りへの警戒を怠らない。宗次郎もそうですね、と相槌を打ちつつ、
「もしかして、この町では遣り辛くなって移動したのかもしれないですねぇ」
「オイオイ、そりゃねーだろ? こっちはわざわざ東京から出てきたってのによ」
二人とも声を潜めてはいるが、辺りが静かなためそれは酷く響いて聞こえる。耳に届くのは自分達の発する声と道を踏みしめる音だけで、目に映るのは闇の中にかすかに浮かぶ無人の町。辻斬りはおろか、町の人の気配すら感じられない。
己の感情に疎い宗次郎でも、剣客としての感覚は備えている。例え剣気や闘気が通じなくとも、実戦で培った経験は身にしっかりと染み付いていた。宗次郎は目的の人物を捉えるべく、視覚や聴覚、それらの感覚を研ぎ澄ませていたのだったが。
「・・・・・?」
ふと、何かに気が付いて足を止める。
もう一つの感覚、嗅覚がそれを感じた。遠くからかすかに、だが確実に漂ってくるその臭い。かつて嗅ぎ慣れていたからこそすぐに分かった、それは喉に粘つくような血の臭い。
「弥彦君」
それを確認するようにその名を呼ぶと、弥彦も気が付いたのだろう、さっと険しい顔つきになり頷いた。
そのまま、その臭いの元と思われる方向へと二人は走り出す。駆けていくうちに道の端の民家の数がまばらになり、次第に木が鬱蒼と立ち込める景色だけになっていた。
近付く程に血の臭いが体に纏わりつくようで、それはあたかも二人を蜘蛛の巣の中心に引き擦り込んでいるかのようで。
血の臭いが一層増したと感じた時、そちらの方向から「ひいぃぃぃっ」という人の声が上がった。それも幾度か、複数の声で。
ただの悲鳴ではない、激しい痛みと、死の恐怖を感じた時に腹の奥底から湧き上がって来るような、心の底からの悲鳴だった。
「ちっ」
隣にいる弥彦が眉を顰めて舌打ちをする。被害者が出てしまったことに憤りを隠せないでいるようだ。
断続的に続いていた悲鳴は、次第に遠ざかっていった。宗次郎と弥彦がいる方とは反対方向へ逃げたのだろう。どうやら噂の通り、命まで奪われたわけではないらしい。
駆けていた道の終わりが近付き、二人は少しずつ速度を緩めた。道の先には、夏の間に伸び秋になり枯れた草が地面を覆う広い草原しかなかった。
その中心に、目的の人物はいた。
二人の方へは背を向けていたためその顔は見えなかったが、六尺を超える長身、着物ごしでも程好く筋肉がついていると分かるその体からは、静かな、だが鋭い剣気が発せられていた。
そしてその右手には、新鮮な血の滴る、鈍色の日本刀が握られている。
「・・・お前が、例の辻斬りか?」
足を止め、弥彦は逆刃刀の柄に手をかけながら覇気のある声で問うた。一方の宗次郎は、右手は自然体で下ろしているものの、左手は刀の鞘をすっと引き上げていた。
並大抵の相手なら引けを取らない二人だが、それでも実力が未知数の相手に油断はできない。弥彦は辻斬りの剣気の強さでそれを感じ取っていた。弥彦が臨戦態勢をとったからこそ、宗次郎はただ静かに辻斬りを見据えている。
「―――今夜も小物ばかりで退屈していたところだ」
振り向かないまま、辻斬りは答えた。低く、どこか掠れているような声で、それが逆に独特の威圧的な雰囲気を醸し出していた。
ほんの少し、宗次郎は眉を顰めた。
「今度は、少しは楽しめる相手だといいがな」
そうして、ゆるりと振り返る。首の後ろで細く束ねた漆黒の長い髪が揺れる。向き合った辻斬りのその姿は、灰色の着物、白い袴、そしてその上に黒い羽織と、白と黒との単色で構成されていた。太陽の下で見たならば、尚の事その外側と、内側に秘めた闇が映えることだろう。
夜目に慣れ、おおよそは分かるその顔は精悍で、だが冷たい印象があった。そして二人に向けられた鋭い目。
宗次郎はまた眉を顰めた。似ているのだ。辻斬りの姿、声、そして何より彼の纏う空気が、自分がかつて志々雄の下にいた頃、知っていた人に。最後に会ったのはもう、あの京都での闘いより更に前のことだったけれど。
辻斬りがこちらを見て、彼も何かに気が付いたかのようにほんの少し目を見開いたのを、宗次郎は確かに見た。
(まさか、この辻斬りさん・・・)
「お前の辻斬りも今日でお終いだ、覚悟しやがれ!」
訝しむ宗次郎の隣で、弥彦は威勢良く言い放つ。けれど辻斬りは弥彦を一瞥すると、僅かに目を細め冷笑を浮かべた。
「神谷活心流道場師範代、明神弥彦か・・・」
「! 何で知って・・・」
辻斬りが自分の素性を知っていたことに、弥彦は驚きを隠せない。確かに東京や東日本で名は知れてはいるが、それでも会って名乗らないうちにそれと分かるものなのか。
狼狽する弥彦を尻目に、辻斬りは今度は宗次郎に目を向けた。そうして再びにやりと笑む。それは何かの確証を得たかのようで、どこか愉悦の色も含んでいて。
「お前のことも知っているぞ。まさか、こんな所で再会するとはな。
志々雄真実の懐刀、十本刀最強の修羅―――瀬田宗次郎」
「・・・・!」
これには弥彦の方が驚いていた。宗次郎は動じない。むしろこれで、自分の予想が確かなことを知る。
「やっぱり、あなただったんですか。元・十本刀『鬼刃』の蘇芳・・・・・琢磨蘇芳さん」
辻斬り、いや蘇芳と呼ばれたその男は笑みを深める。宗次郎に浮かぶ笑顔は変わらない。
弥彦一人、取り残されたように二人の顔を交互に見ていた。
「おい、宗次郎どーゆーことだ? あの辻斬りは、昔は志々雄一派の人間だったって言うのか? アイツは元・十本刀って・・・・え?」
疑問符が点々と浮かぶ頭の中で、弥彦も情報を整理しようとしていた。
そうしてはたと気付く。十年前、京都で敵対した志々雄一派の特攻部隊『十本刀』。自らが闘った者、剣心達が破った者、実際に見た話に聞いたその強者達を思い出してみる。
『天剣』の宗次郎、『盲剣』の宇水、『明王』の安慈、『刀狩』の張、『大鎌』の鎌足、『百識』の方治、『丸鬼』の夷腕坊、『飛翔』の蝙也、『破軍(乙)の才槌、『破軍(甲)』の不二。
そして今、目の前にいる『鬼刃』の蘇芳。
「・・・一人多いぞ?」
「ああ、それは蘇芳さんが抜けたところに夷腕坊さんが入ったからですよ」
弥彦の疑問に宗次郎はあっさりと答える。
夷腕坊は実は張子の人形で、その正体は剣心への復讐を企む縁に協力していた機巧芸術家・外印だった。彼は志々雄の組織をうまく利用するために一派に加わっていたのだが、そのことを宗次郎は知る由もない。
「抜けた? ・・・よく言うもんだな。貴様が追い出した癖に」
宗次郎の言葉を聞き咎め、蘇芳は皮肉を込めた笑みを浮かべる。宗次郎はそれでも穏やかで。
「何言ってるんです。あなたが自分から出て行ったんじゃないですか」
「・・・フッ。ま、それも間違っちゃあいないけどな」
静かに対峙する二人。だが相も変わらず蘇芳の剣気は衰えず、宗次郎は流れる水のごとくその剣気を受け流している。交し合う視線も因縁めいたものを含んでいて、それが弥彦にはこの二人の間にはかつて何かの確執があったように思えてならなかった。
「まぁいい。せっかく久々に巡り会えたんだ、さっそく勝負と行こうじゃないか」
蘇芳は刀を振るって血糊を落とす。血が地面に撥ねた音が生々しく響いた。
宗次郎がよくよく見てみれば、先程の悲鳴の主達のものだろう、血溜まりがその草原のあちこちにできていた。
「一つ、訊いてもいいですか?」
未だ右手を刀に伸ばさないまま、宗次郎が静かに問う。
「何故あなたは、辻斬りなんて真似を?」
「・・・・そうだな。理由は色々あるが・・・・」
その問いに蘇芳は不敵に笑んで、わざと何事かを考えるような真似をする。そうして再び、宗次郎に睨め付けるような視線を向けた。
「この刀と、俺自身が血を求めたからさ。本当は半殺しなんて生温い真似はしたくなかったんだが、事情があってな」
蘇芳は刀を前に突き出し、宗次郎に刀身を見せ付けた。刀に詳しくない宗次郎でも分かる程、その刃は鋭く洗練されていて、そしてどこか妖しげな輝きを放っていた。そして何より、深く染み付いているであろう血の臭い。
昔から、血を好む人ではあった。十本刀一血を求め、猛々しい剣の腕を持ち、だからこそつけられた字名が『鬼刃』の蘇芳。
この明治の世でも辻斬りをする者がいる。宗次郎はそれに興味を引かれ最初は探していた。刀を振るい、人を傷つけ、けれどそれもつまりは血を求めるが故だったのか。
未だ刀を捨てないのも、この人ならば納得ができる。しかしそれにしては、人を傷付けるだけに留めたというその事情とやらが気にかかるが。
「お前との決闘に敗れ、一派から離れた後に手に入れた俺の愛刀さ。いい刀だろ? 刀ってのは、人を斬るための物だ。良い刀を手に入れたとあらば人を斬らずにはいられない・・・剣客の性ってヤツだな」
「ふざけんじゃねぇ! 確かに刀は人を斬るための物だ、けど、だからって無差別に人を斬るなんてこと、やっていいわけねーだろ!」
黙って宗次郎と蘇芳のやりとりを見ていた弥彦が声を荒げた。
剣は凶器。剣術は殺人術。どんなにお題目や綺麗事を並べても、それは揺ぎ無い真実。
決して否定できることではない。それは良く分かっている。けれどそれでも、人々を守って刀を振るい続けた剣客がいた。
弥彦は誰よりも多く誰よりも一番側で、その人の闘いを見続けてきた。だからこそ憤りを隠せない。いくら刀が凶器といえど、だからといって利己的に人を傷つけていいはずがないと。
その人から受け継いだ逆刃刀を抜き放ち、弥彦は正眼に構えた。
「ほう、抜刀斎譲りの逆刃刀か。まさか甘っちょろい理想論も受け継いでいるとはな」
「・・・剣心のことも知ってやがるのか。元志々雄一派なら当然か」
キッと蘇芳を睨み付け、弥彦は少しずつ間合いを詰める。剣心からこの逆刃刀を受け継いだ六年前と比べれば、かなり使いこなせるようになってきている。往年の彼の強さには、まだまだ届いていないかもしれないけれど。
剣気を叩きつけてくる弥彦に、だが蘇芳はそれをさらりと流すかのように。
「抜刀斎が認めた剣才に興味はあるが、今この場で闘う気はねェ。俺の相手はお前だ、瀬田」
弥彦を一瞥して、蘇芳は宗次郎と再び向き合う。
どうあっても、この場で自分と闘うつもりらしい。そう観念した宗次郎は、軽く溜息を吐いて右手を刀の柄にかけた。
「もしあなたが、あの頃の・・・・十本刀だった頃の僕との闘いを望んでるんだとしたら、多分期待に応えられないと思いますよ」
穏やかに紡がれた宗次郎の言葉には、二つの意味が含まれていた。
一つは、十年前の闘い続けていたあの頃と比べれば、今の剣の腕は多少なりとも落ちているであろうこと。
もう一つは、強ければ生き弱ければ死ぬという、弱肉強食の理念だけをただ頼りに、何の躊躇いもないまま人を殺めてきたあの頃とは、今の自分は違うということ。
あれから十年の時を経て、心は、少なくとも何かが変わってきていると。
「そんなことはとっくの昔に分かってるさ。お前が風の噂で流浪人になったと聞いた時からな。だが・・・・」
蘇芳の纏う剣気の質が変わった。酷く好戦的で、幾ばくかの殺気を含んだ、重く威圧的な物に。常人ならば体が痺れて一歩も動けないであろう。けれども宗次郎は穏やかな微笑を湛えたまま、その剣気を物ともせずに受け流している。
「例えあの頃の強さが失われたとしても、お前が俺の追い求めた最強の修羅であることに変わりはない」
「・・・・・」
闘いは、避けられない。
少なくとも、蘇芳が過去の宗次郎の強さに固執している限り。
「抜け。お前が未だ刀を手にしていることが、お前がまだ剣客であることの何よりの証だ」
「・・・いいでしょう。久方振りの再戦と行きましょうか」
宗次郎はようやく、柄をぐっと握り締めた。
そうして弥彦の方にちらっと振り向いて、申し訳なさそうに笑む。
「すみませんけど、弥彦君、ちょっと下がっててくれません?」
「仕方ねーな。何か訳ありみてーだし。けど、気を付けろよ。何つーか、アイツ、只者じゃねェ感じがする・・・」
少し不満気な表情を浮かべていた弥彦だったが、蘇芳が宗次郎との闘いを望み、そして宗次郎もその闘いを受け入れた以上、反論の余地は無い。蘇芳の剣は危険だと、剣客としての勘が告げてはいるが、大人しく逆刃刀を鞘に戻し、二人の闘いの邪魔にならないよう後ろへと下がる。
「ありがとうございます。・・・じゃ、遠慮なく」
弥彦が退いたのを見て、宗次郎は安堵した風に笑う。そうして、微笑みを浮かべたまま、すうっとその刀を抜刀していく。
鈍色の刀身が少しずつ明らかになる。その形は確かに日本刀のそれだった。柔軟で、それでいて刀工の手によって芯は強く鍛え上げられた、細身の鋼。
けれど、刀なら必ずあるはずの物―――刃が、その刀には無かった。
「逆刃刀? いや、違う・・・・」
初めて目にした宗次郎の刀に、弥彦は半ば茫然と呟く。
人を斬らないと心に決めた剣心の刀ですら、逆刃という刃がついていた。だが宗次郎の刀にはそれすらも無い。逆刃刀の逆刃の部分が本来の峰になっている刀、そんな風に表現できた。
鈍刀だと、宗次郎は言っていた。確かに、こんな刀では何も斬れはしないだろう。
「見ての通り、僕の刀『天衣』には刃が無いんです。それでもいいなら、お相手します」
トン、と刀身を肩に当てながら宗次郎は蘇芳を見た。宗次郎の刀を目の当たりにして、蘇芳も驚きを隠せずにいるようだったが、やがて、酷く可笑しそうに高笑いを上げた。
「ククク・・・・ハハハハッ。これはお笑い種だ。かつての最強の修羅が、そんな人を斬らない刀を手にしているとはな・・・・だが!」
笑うのを止めた蘇芳は、再び宗次郎に冷たく鋭い視線を向け、そして己の刀を構い直す。
「すぐに思い知らせてやろう。そんな甘い考えでは、今の俺には通用しないとな」
不敵に笑んだ蘇芳に、宗次郎は同じく強気に笑みを返す。
「何とでも言って下さい。僕がこの十年で自分なりに見つけた道ですから」
二人の間に不意に風が逆巻き、草が靡いた。
考え方や目的は違えど、近代化の進むこの日本で未だ刀を手にしている剣客同士の対峙。
闇空の下、かつて同じ志々雄という一人の男に使えていた二人の剣客の再戦が、今まさに始まろうとしていた。