―第一章:静かな日々の階段を―
洗濯を終え、次は家の掃除、買い出しと家事を済ませているうちに、日はいつしか高く昇っていた。
(そろそろ休診の時間かな)
そう判断した宗次郎は、台所で手際よく三人分の茶を淹れると盆に載せ、浅葱とがいる診療室へと運んでいった。つやつやした板張りの廊下を進んでいくと診療室へと繋がる。その前に着くと、宗次郎は右手だけで盆を持ち、左手で器用に戸を開けると中へ足を踏み入れた。
診療室内は広さは十二畳程のこざっぱりとした造りで、調度品など綺麗に整えられており、清潔感と親しみを感じさせるような空気で満ちている。
後ろ手で戸を閉めると、その閉まる音に反応した浅葱とが宗次郎の方を向いた。
「宗次郎君」
まず声をかけたのはだった。
宗次郎から見て手前側にいるは、何かの薬の瓶を棚に戻しているところだった。下ろしてある肩までの長い髪が振り向いた拍子にふわりとなびき、両耳の斜め上でアクセントのようにほんの少しだけ束ねてあるそれぞれの髪もまた揺れていた。十七という歳相応の少女らしい顔には、柔らかで健気さも感じさせる表情が浮かんでいる。
兄の浅葱は、兄妹とはいえとは少し雰囲気が違い、涼しげで毅然とした顔立ちをしている。少し長めの髪を首の後ろで束ね、医者の胸当てを身につけている。浅葱は椅子に座り、問診表らしきものに何事かを書き込んでいるところだったが、宗次郎を見ると手を止めそれを机の上に置いた。
宗次郎はそんな二人に笑顔を向ける。
「お疲れ様です。お茶淹れてきました」
「すまないな。もうそんな時間か。じゃあ一休みするかな」
浅葱は宗次郎との二人分の椅子をすっと取り出し、座るよう促した。
が座るのを待って、宗次郎は二人の側にある机に盆を載せた。湯呑みを浅葱とに手渡すと、宗次郎も椅子に腰を下ろした。
「ありがとう、宗次郎君」
「いつも悪いな」
いいえ、と答えながらも、自分の行った行為に対して礼の言葉が返ってくるのが心地良くて。宗次郎はにこっと笑みを深めた。
「うん、美味い。やっぱり一働きした後の茶はいいもんだな」
ずず、と茶をすすりながら浅葱が目を細める。宗次郎もつられて目を細め、相槌を打つ。
「最近、忙しそうですものね。ここ三、四日は患者さんがいつもより多いみたいですし」
家事をしている最中に外を見てみれば、訪れる患者の姿が分かる。普段はいつも来る常連の姿が多いのだが、ここのところ見ない顔が多いような気がしたのだ。
浅葱はその言葉に、わざとらしく苦笑いを浮かべてみせた。
「・・・何だかまるでウチの診療所が普段は流行ってないよーな言い方だな?」
「え、あ、そういうつもりじゃないんですけど・・・」
あははと宗次郎も愛想笑いを浮かべてみせる。もう、と呆れたように溜息を吐いて、も苦笑した。
「お兄ちゃんたら、またそーやって宗次郎君をからかうんだから」
「すまんすまん。こいつからかうと面白いから、ついな」
「全くもう」
再び溜息を吐きながらも、の顔は怒ってはいない。宗次郎もまたにこにこと笑っている。こういったやりとりはもはや慣れっこになっていて、存外気分も悪くないものだから、宗次郎自身も割と楽しんでいるのだった。そう気兼ね無しに話せるのもまた、宗次郎にここが居心地がよい場所だと感じさせる一因となっていたりするのだったが。
そうしてしばらく笑みを浮かべていた浅葱だったが、やがてふっと真剣な表情になった。
「でも実際、笑い事でもないんだけどな」
「どういうことですか?」
浅葱のただならぬ雰囲気に、宗次郎もまた真摯な顔つきになる。浅葱はもう一口茶を飲むと、湯呑みをコトッと机の上に置いた。
「俺も最近、何で急に患者が増えたのか気になってたんだけどな。どうやら隣町に新しく医者が来たらしい」
「え、でもそれじゃあ逆に患者さんは増えないんじゃ・・・・? 隣町って言っても、ここからじゃ大分離れてますし」
宗次郎が不思議そうに首を傾げると、も深刻そうな顔で話し出した。
「それがね、治療費がかなり高いんですって。裕福な人はその医者にかかれるけど、そうでない人は医者に行きたくても行けない・・・・だからわざわざ遠くのウチにまで来るってわけ」
「成程。確かにここの治療費は良心的ですからね」
相場に詳しくない宗次郎でも分かるほど、診療所は安い治療費で患者を診ていた。それは多くの人を救いたいという医者としてのひたむきな志と、それほど裕福でなくても普通の穏やかな暮らしができればいいという、浅葱との思いから来るものであった。以前聞いたところによると、二人の亡き両親もそうした信念を持っていたというから、その影響も大きいのだろう。
医者としての腕も立つから、困った患者がここを頼っても無理も無い。
「でも、その話は大体分かりましたけど、それだけでこんな急に患者って増えるものなんですか? 見る限り、何だか腕とか体とかに怪我をしてる人が多かったみたいですけど」
「ああ、それも問題なんだ。実はな・・・・」
浅葱が更に険しい顔をして事情を話そうとした時、外の方から「ごめん下さい」という声が響いてきた。外から診療所へと繋がる廊下を歩いてくる足音も聞こえてくる。
「休診時間なのに・・・誰だろう? お客さんかな?」
が首を傾げると、その声に答えるようにして引き戸が開いた。
スーツを着た三十代前半くらいの男がそこに立っていた。知性を感じさせながらも少し神経質そうな顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。とは言ってもその男の笑顔は、どこか人を食っているような感じがした。
正直、何となく鼻持ちならない男だ、という第一印象を浅葱は受けた。
「突然お訪ねしてすみません。失礼ですが、あなたは浅葱さん、ですな?」
「そうですが・・・そういうあなたは?」
憮然とした態度で浅葱は聞き返す。気に入らなかろうと何だろうと客は客だ。浅葱は立ち上がり、と宗次郎もそれに続く。
男は大袈裟に頭を下げてみせた。
「私は隣町に新しく越してきて診療所を開いております、安塚と申します。同じ医者同士、以後お見知りおきを」
「はぁ・・・・」
慇懃無礼、といった風な安塚に浅葱は呆れ気味に頷いた。
これが例の医者か、と宗次郎も安塚を見る。同じ医者でも、浅葱やとは大分種類が違うように思えた。
「で、どういったご用件で?」
「いえ、特に用というわけではないんですがね。近くに立ち寄ったものですから、巷で評判の医者兄妹はどんな方々なのか見ておきたいと思いましてね」
安塚はニッと口の端を吊り上げると今度はの方を見た。は何故だか背中に悪寒を感じて、ぞぉっとした。やはりこの男の笑みは人を安心させるような質ではないらしい。
「それにしても、腑に落ちませんな・・・・」
安塚はきょろきょろと、診療室内を遠慮なく見回して溜息を吐いた。
その態度にムッとして、浅葱の口調もぶっきらぼうになる。
「何がだ?」
「あなた程の腕を持ちながら、どうしてこんな粗末な診療所で患者を診ているのか、ですよ」
「・・・俺に言わせれば、患者から高い金取ってるあんたの方が理解できないけどな」
はん、と浅葱は確信犯的に冷笑を浮かべる。安塚の態度に、自然と挑戦的にならざるを得ない。
安塚もまた鼻で笑うと、雄弁に語り出した。
「何を言うんです。患者はいわば医者にとっては客。客から金を取って何が悪いんですか。何故必要最低限のお金しか貰おうとしないのです?どうして多くの金を取って、豊かになろうと考えないのですか? 怪我をしたり具合が悪くなったりするのを、わざわざ診てやっているというのに」
「あ、あんたな・・・・」
浅葱の握り締めた拳がぶるぶると震えている。怒りと呆れがない交ぜになっている、そんな表情だ。もまた、安塚への不信感をその顔に浮かべる。
「治してやってるんですから、高い治療費を取るのは当たり前だと私は考えています」
「治してやってる、だぁ? 思い上がるのもいい加減にしろ! 患者を、人の命を救うのが医者の務めだろーが!」
「まぁまぁまぁ、浅葱さん落ち着いて」
怒りのあまり声を荒げる浅葱を宗次郎は諫めた。安塚のような男は、宗次郎にとっても何となく虫が好かない部類に入るが、同業である浅葱だったら余計にそう感じたことだろう。
まして、患者をただの客としてでなく、同じ目線に立って考え、何よりもその命を救いたいと強く思う浅葱やなら尚更。
「失礼。どうやら怒らせてしまったようですね。けれどこれは忠告ですよ。もっと多く金を患者から取れば、より良い器具や設備も整えられ、多くの患者も救えるというのに・・・・」
「ご忠告どーも。けどな、生憎俺は今までのやり方を変える気なんてさらさら無いぜ。生活だってそんな困っちゃいないし、とりあえずは俺と、それに宗次郎が、食っていければいいんだからな」
一応落ち着きを取り戻した浅葱がきっぱりと言い放った。そうして安塚をキッと見据えて、
「大体、その最後のいかにも取ってつけたような理由、絶対あんたの本心じゃないだろうしな。あんたみたいな客を商売道具としてしか見ていないような医者と、これ以上話すことは何も無いね」
凛とした浅葱の物言いに安塚もわずかにたじろいだ。そうして情けを求めるかのように、今度はへと目を向けた。
「お嬢さん、あなたも同じご意見で?」
「・・・悪いけど、私がもし患者さんと同じ立場だったとしたら、あなたみたいな医者に診てもらいたくはないですね」
も控えめながらはっきりと拒絶の意を示した。安塚は頬をピクピクさせ、何か言いたげな顔をしていたが、やがてふうっと大きな溜息を吐いた。
「・・・まぁいいでしょう。世の中には決して分かり合えない同士の者もいるのです。あなた方みたいな医者がいるのも、底辺の生活をしている人達には悪くないでしょう」
「そろそろ気が済みました? 浅葱さんもさんも、この後また診察が控えてるんです。言いたいこと言ったんなら、もうお暇して頂けませんか?」
負け惜しみのような言葉を吐いている安塚に、宗次郎がやんわりと退出を促す。これ以上この人を相手にするのは疲れるし、実際に浅葱との二人にはこの後診察も控えているのだ。
宗次郎自身、困っちゃうなぁこーゆー人、と思っていたせいでもある。
「・・・分かりました。今日のところはこれで失礼しましょう。少々残念ですが・・・」
意味深な一言を残しながら、案外あっさりと安塚は引き下がった。礼をして戸に手をかけ廊下へと出て行く。引き戸を閉めかけ、ふと何かを思い出したかのようにその手を止めた。
「・・・あ、そうそう。もしあなた方が何か大怪我をしたら、私の診療所を利用するといいですよ。特別に割引料金で診て差し上げますから。では」
トン、と引き戸が完全に閉まると同時に、浅葱が再び声を荒げた。
「。塩撒いとけ、塩!」
「お、お兄ちゃん・・・・」
引きつり笑いを浮かべるものの、も浅葱の気持ちが分からなくもない。
浅葱は安塚の去っていった戸を睨みつけると、どっかと椅子に腰を下ろした。それでもまだムカムカした気分は治まらないようである。
「ったく、とんでもない医者もいるもんだな。医者ってのは患者診るのが当たり前だってーのに、その患者の足下見やがって・・・・!」
「そうですね。あんな人が医者なら、患者さんもここに流れてきても当たり前かも・・・・」
宗次郎はにこにこと相槌を打つ。と、浅葱はまた剣呑な顔つきになった。
「それなんだよ。さっきも言いかけたんだけどな、患者が増えたのはそれだけじゃないんだ。それに、怪我の重さを見て隣町のこっちまでくるんじゃ間に合わなくて、仕方なくあいつに診てもらってる患者も大勢いるんだ」
「・・・どういうことです?」
声のトーンを落として宗次郎は浅葱に問うた。再び椅子に腰掛けると、もまたそれに続く。
「何でも最近、隣町に辻斬りが出るらしいんだ」
「辻斬り?」
宗次郎が聞き返すと、も深刻そうな面持ちで頷いた。
「うん、怪我した患者さんの多くはその辻斬りにやられたんだって・・・。何でも、お金や命を奪ったりはしないそうなんだけど、殺さない程度の怪我を道行く人に負わせるんだって。警官も出動したけど、捕まらなかったそうよ。かなり腕が立つ人らしいよ」
「おちおち街中も歩けないだろうな、それじゃ。何でも夕方以降に現れるそうなんだが」
「へぇ・・・」
頷きながら宗次郎は考えた。
その辻斬りにやられた者が隣町に多くいるのなら、あの医者にかかる者だっているだろうし、治療費の高さに諦めてこの診療所を訪れる者だっているだろう。
それにしても、このご時世に辻斬りとは。命や金銭を奪うのが目的でなければ、一体何が狙いなのだろう。ただ人を傷つけるのが楽しいだけなのだろうか、或いは己の力を世に知らしめたいのだろうか、それとも・・・・。
「まぁ、何にしても、物騒ですね」
笑顔で言う宗次郎は、いつものことながら表情と台詞が合ってない。それでも何となく、にはぴんと来た。
「もしかして・・・宗次郎君、その辻斬りと闘う気・・・?」
言葉の中に幾ばくかの不安を含みながら、宗次郎に確かめるように問う。
宗次郎がこの診療所で居候し始めてから、幾度な事件にも遭遇し、彼の剣の強さは知っていた。宗次郎が過去に何をしてきたのかも、旅をしていた理由も―――そして今までに多くの人を殺めてきたことさえ、浅葱とは知っている。もっとも、全てというわけでなく、宗次郎が教えてくれた範囲でだけれど。
それでも二人は宗次郎を拒絶することはなく、知った後も普通に接してくれた。それが有り難くて、きっと嬉しくて、だからこそ宗次郎はこの場所に長く留まっているというのもあったのだろうけれど。
いくら宗次郎の腕が立つとはいえ、それでも心配なことに変わりはない。そんな心配性のの憂いを拭い去るように、宗次郎はふわりと笑った。
「それは分かりませんけど」
それは分からないけれど、相手がこの廃刀令下の明治でも、自分と同じく刀に生きている者だと言うことに違いは無い。
怪我人をこれ以上増やさないため、という意味でも、早めに接触しておいた方がいいのかもしれない。
けれど。
「とにかく、まだ家の掃除が終わってないから、そっちを済ませてきちゃいますよ。二人だってまた診察時間でしょうし」
ひとまず宗次郎は明るく笑って話題を変えた。空になった三人分の湯呑みを再び盆に載せ、すっと立ち上がる。
「それじゃあ、また後で」
「ああ」
「ありがとう、宗次郎君」
二人の声にまたやんわりと笑顔を返しながら、宗次郎は診療室を出た。台所へと続く廊下を歩きながら、ふと足を止めて一人ごちた。
「辻斬り・・・か」
目的が何であれ、その者が血を求めているのは相違ない。そうでなくては、殺さない程度に人を斬ったりはしないだろう。
理由は分からないけれど自分と同じように、刀を、手放せない人。
(・・・まぁいいや。まずは掃除を済ませてきちゃおう)
存外あっけなく、宗次郎は思考を切り換えた。
今ここで考えていても仕方ないことだし、実際こなさねばならない家事もまだまだたくさんある。再び歩き出し、まずは湯呑みを片付けるべく台所へと向かう。
とりあえず宗次郎は、辻斬りのことを考えるのを止めにした。
先程訪ねてきた安塚のことも、同じように頭の片隅に追いやった。
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