―第一章:One’s past―




地に足が着かないような、ふわふわとした感覚があった。
眠りと覚醒の狭間、夢うつつの時…。
夢心地のうちに宗次郎は、思った以上に長く寝ちゃったみたいだ、と気付く。しかしまだ頭はぼんやりとしていて、睡魔も離れてくれてはいないようだ。
もう少しだけ、眠っていたいな…。瞼を閉じたままうっすらと思う。体だってまだ重い。もう少しだけ眠っても問題は無いだろう。特に忙しいわけじゃないし、時間に追われているわけでもない。
眠気に抗わず、宗次郎はそのまま素直にまた眠ることにした。身をすっかり眠気に委ねてしまうのは、とてもとても心地良かった。こればかりは無意識のうちに笑ってしまう。もう少し、もう少しだけ……。
―――と。
「いつまで寝ていやがるんだ、このガキッ!!」
荒々しい怒号が聞こえたかと思うと、脇腹の辺りに激しい痛みが走った。
反射的に飛び起きた宗次郎が、え、と思う間も無く次は拳が飛んできた。その拳は見事に左頬を打ち抜き、その衝撃で宗次郎は倒れ込んだ。これまた強かに顔を畳に打ち付ける。
―――えっ、畳?
宗次郎はハッと目を見開いた。目の前には確かに、微かにい草の香りが残る畳が敷き詰められていた。手のひらや頬にあたる部分の感触も、間違いなく畳だ。
(あれ? 僕、確か湖のそばにいたはずじゃ…?)
木に寄りかかって、一休みしていたのが最後の記憶である。家屋に引っ込んだ覚えはない。
寝てしまった自分を生き倒れと勘違いして、誰か親切な人が連れて来てくれたのだろうか、と、そんな思考を巡らせていると、宗次郎の胸元をぐいと掴む手があった。
「まだ寝ぼけてやがんのか? あぁ? お前にそんな暇なんかねェぞ」
偉そうなもの言いに、宗次郎はその声の主を見る。見た瞬間、体が強張った。
どうして、声を聞いた時にすぐに気が付かなかったのだろう―――…。
宗次郎の目の前に今いるのは、あの義理の家族の、長兄だった。
「何、で……」
思わず宗次郎の口から漏れたその言葉の意味は、勿論、『何で生きている?』という疑問に尽きる。
確かに十年前のあの時に、この手で殺した筈だった。しかし宗次郎の前に存在するその男は忌まわしい記憶のそのままに、顔も、声も、姿形も、何一つ違ってはいなかったのだ。宗次郎を蔑みと加虐の対象として見るその嫌な目つきも、また。
長兄は宗次郎の反応に目元を歪めた。それから掴み上げた手にも力を込めて、言った。
「何で、じゃねェだろ! お前には呑気に寝てる暇なんかありゃしねェんだ。家の掃除、洗濯、店の裏方! やることは山程あるんだよ」
言い捨てて、ようやく長兄は宗次郎から手を離した。尻を軽く畳に打ち付けて、宗次郎は長兄を見上げる形になる。それで宗次郎はまたあることに気付く。
見上げる長兄の体がやけに大きい。確かに、思い起こせば長兄の体格はそれなりに良い方だった。しかし今や青年となった宗次郎からして見れば、そんなに大きくは見えない筈なのに、視点がまるであの頃と同じなのだ。いつ振りかかるかも知れぬ彼の暴力に怯え、その大きな体をびくびくしながら見上げていた幼い頃と。
宗次郎は体の横についた、己の手を見遣った。つけていた筈の手甲が無い。それどころか、目に映ったのは指が短く肉厚も薄い、か弱い手だった。
宗次郎は両手を自分の胸の前まで持ってくると、その掌を開いてみた。あかぎれやひび割れだらけの手。刀によるタコがない手。薄着で寒空に放り出された時には、必死に息を吹きかけて温めていた手―――要するに、子どもの頃のあの手だったのだ。
「僕の手……小さくなってる」
宗次郎は両の掌を見下ろしながらぽかんとした。よくよく注意して見れば、手よりも下、自身を覆う継ぎ接ぎだらけの着物もまた、子どもの頃ずっと身に着けていたそれだ。新しい着物なぞ義理の家族達が寄越す筈も無く、毎日同じ物を着ていたから今でもよく覚えている。加えて、手と同様にやはり小さくなっている体や足。
「もしかして僕、子どもになっちゃってる……?」
一体何がどうしてこうなっているのか、全く分からない。しかし、そうとしか考えられない。
それにしても何故だ。状況がまるで掴めない。ついさっきまで大人で―――湖のそばで休んでいた、筈なのに。
「兄さん、さっきから何を騒いでるんだい?」
粘つくような声が降ってきて、宗次郎は今度はそちらを見上げる。またも宗次郎は、珍しく顔を強張らせた。障子戸を開け、覗き込むようにして立っていたのは、宗次郎が初めて殺した相手、つまりは義理の次兄だったのだ。
にやにやと笑うその相手を、宗次郎は受け流すことができなかった。剣心との闘いの最中に、稲妻の下での殺戮をはっきりと思い出してしまったから尚更、心臓がひとりでに早鐘を打ち、知らず知らずに唇は震えている有様だった。
(何で……どうして?)
軽く混乱状態に陥っている宗次郎は、ただただそんなことを思う他ない。
事態を整理しきれない宗次郎に、長兄と次兄は容赦なく罵声を浴びせてくる。
「おらっ、とっとと行け! まずは表門の掃除だ!」
「早く済ませてこないと、また朝飯にありつけないかもよ〜?」
急き立てられるようにして、宗次郎は部屋を飛び出した。嫌な笑顔を浮かべたままの二人を残して、宗次郎はひとまず廊下を進んだ。歩きながらきょろきょろとあたりを見回す。
家の造り。間取り。やたら豪華な欄間に、玉石の敷き詰められた庭。見覚えがあり過ぎた。
(…間違いない、やっぱり、ここは…)
母を亡くした後に引き取られて数年過ごした、神奈川の米問屋の母屋だった。もう十年以上前のことでも結構覚えているもんだなぁ、と宗次郎は変な感心をして、そのおかげでほんの少し冷静になれた。
(何だかよく分からないけど、僕は子どもになっちゃってて、それであの家にいる。その上、あの人達はまだ生きてて…)
長兄と次兄の兄の顔を思い出し、宗次郎は少し苦味の混じった笑みを浮かべた。
この手で殺した相手であっても、こうしてまた面と向かって顔を合わせると、どうにも殺されかけたあの時の恐怖を思い出さずにはいられなかった。何の助けも無く追い詰められた、あの時を。容赦なく自身に迫る、暴力と殺意。体中を蝕む痛み…。
「あら、まだそんなとこにいたのかい」
「今日はずいぶんノロマなのねぇ。父さんにまた殴られても知らないわよ?」
前から聞こえた二人分の女の声に、今度は宗次郎はあまり驚くことなく顔を上げた。案の定、そこには義母と義姉が立っていた。
決して品が良いとは言えぬ笑みでこちらを見下ろしている。見下ろす、ではなく、見下すと呼んだ方がふさわしい目だ、二人とも。
宗次郎は朝の挨拶だけをしてそそくさとその二人の横を通り過ぎた。裸足のまま縁側から降りると、足の裏に久しい砂利の感覚があった。外を歩く時は足袋と草鞋を履くのが常だが、この頃の宗次郎は裸足が当たり前だった。
砂利で足の裏がちくちくと痛んだが、じきに慣れた。元々、ずっとそうしていたのだ。
庭をそのまま横切って、しばらく行ったところで宗次郎は振り返った。義母と義姉が義父の部屋に入って行くところだった。開かれた障子戸の間に義父の姿が見え、すぐさま戸が閉ざされ見えなくなった。
やっぱり、と宗次郎は思った。義理の兄弟達も義母もいるのだ。義父がいないわけがない。子どもの頃は一番の恐怖の対象だった男。
彼も確かにいることを見届けて、そうして宗次郎は改めて思案した。
(僕が子どもになっちゃって、僕が殺した筈のあの人達が生きてて……)
そう考えると、答えは一つだった。
(きっと、これは夢なんだ)
その答えはすとんと宗次郎の中で落ち着いた。不思議と気分も落ち着いて、ようやく顔にはいつもの笑みが戻ってきた。
これが夢だとしたら、すべての辻褄が合う。宗次郎が子どもの姿に戻ってしまっていることも、義理の家族達が生きていることも、この家でまだ一緒に暮らしているらしいことも。
多分、長旅の疲れが出るか何かして、あの湖のほとりで自分はすっかり寝入ってしまっているのだ、と、宗次郎は納得した。
(昔のことを考えてたからかな)
だからきっと、こんな夢を見ているのだ。
そうと分かれば、何も心配することはない。そのうち目が覚めるだろう。
やけにはっきりした夢で、そのせいで何だかまた嫌な思いをする羽目になったけれど、まぁ仕方ない。
むしろ早く目が覚めないかな、という気分で宗次郎は足取り軽く掃除へ向かった。どうせ夢ならさぼっても良かったが、そのせいで義理の家族達にまた殴られるというのは、やはり夢でもごめん被りたかった。余計な被害は避けるに越したことは無い。
物置から竹箒を取り出し、宗次郎はそれを引きずるようにして表門へと向かう。記憶はしっかりしているが、体は子どもだから筋力は落ちてしまっているらしい。ただの竹箒なのにやたら重く感じる。これよりずっと重い真剣を、自分は長いことぶんぶん振り回していたというのに。
宗次郎は何だか複雑な思いで、庭の掃き掃除に取りかかった。柿の木から落ちた葉や、熟し過ぎて落ちてしまった実などを丁寧に集めていく。
竹箒を握った時の感覚。肌に触れる微風に、衣擦れの音。
小鳥の鳴き声。青い空。潰れた柿から漂ってくる匂い。義兄に殴られた左頬の、ずきずきした痛み。
色も音も匂いも感触もしっかりと分かる、生々しい夢である。顔を伏せた時に視界の端を見れば、自分の髪の毛の一本一本すらはっきりと分かる。
「オイ、宗次郎、何をぐずぐずしてやがる! とっとと家の中も掃除しねェか!」
遠く、母屋の方から義父の怒鳴り声が響いてきて、宗次郎は思わず身を竦ませた。
やっぱり、随分と明確な夢だ。声の調子も言い方も、何もかもあの頃のままだ。
どうせ夢を見るなら、楽しい夢を見ればいいのに。
自分に軽く毒吐きながら、宗次郎は道具を片付けて今度は義父の元へ向かう。そこで家中の掃除を言いつけられ、義母にはお勝手仕事や洗濯を命じられ、義理の兄弟達にはからかわれる。
まったくもって、あの頃と同じくこき使われた。勿論、やり方やコツを熟知している宗次郎にとっては、今やあまり苦ではなかったのだが、それにしては幼少の頃と同じ過ぎた。
そんな日がそれから何日も何日も続いて―――、
この夢から宗次郎が目覚めることは、決してなかった。







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