やまびこの唄




―序章―


北の大地の奥の奥、そのまた更に奥深く……。
そこはまさに秘境であった。
深い森を潜り抜け、ようやく開けた視界の先にぱっと広がった光景に、宗次郎は素直に声を上げた。
「うわぁ、綺麗だなぁ」
飾り気なしの感嘆詞だ。美というものにさほど頓着のない宗次郎からしてみても、目に映った景色は絶景の一言だった。
限りなく広がる青い空と、裾野に浮かぶ白い雲の群れ。それよりも何よりも宗次郎の目を引いたのは、深い深い青色を湛えた湖だ。
空のそれを遥かに越えた青と、静かにぴんと張り詰めたかのような水面……。昨年京都を出立してからこの夏にかけて、越後に奥州、そしてこの北海道と様々な場所を流浪れてきた宗次郎だったが、このように神秘的で荘厳な場所に足を踏み入れたのは初めてのことだった。
「琵琶湖よりはずっと小さいけど、こんな色をした湖は初めて見たなぁ」
切り立った崖のような畔から、その湖水を覗き込む。周囲を高い崖で取り囲み、何人たりとも容易に足を踏み入れさせないその潔癖な様が、尚のことこの湖の高貴さを増していた。
聖域―――。
そんな言葉がふさわしかったかもしれない。
そういえば、この地で以前出会ったアイヌの者達に、“険しく高い山の奥に、山の神の湖がある”と聞いたことがあった。宗次郎がこの湖を訪れたのは、その話を聞いて興味を持ったから、というわけではなく、足の向くまま気の向くまま歩いてきた結果、偶然辿り着いた、ただ単にそれだけだ。
まぁそれにしたってやはり随分と険しい山だったけれども、それでも無事踏破してしまう辺り、かつては京都の霊峰・比叡山を根城にしていた一味の幹部だっただけある。
明治十二年、季節は夏真っ盛りだが、流石に北の大地なだけあって、暑いといっても比較的過ごしやすい。更にこうして高い山の上に登ってみると却って肌寒いくらいだ。眼下に広がる穢れ無き水が、尚のことそう思わせる。
とりあえず、一休みしよう。
宗次郎はそう思って、一度湖畔から離れた。森の一番端の木の幹に寄りかかるようにして腰をおろし、両足もそのまま前に投げ出す。
いくら足に自信があるとはいえ、こうしてみるとやはり、疲労が溜まっていたのが分かる。宗次郎は両足の脚絆を外し、一旦草鞋と足袋も全部脱いだ。解放感が気持ちいい。
それから、手持ちの竹筒を取り出すとその中の水を飲む。涼しいといっても喉は乾く。酷く潤されるような気もした。
「……ふぅ」
文字通り、宗次郎は一息吐いた。そこに浮かんでいる笑みは、志々雄の元にいた頃のそれと、何ら変わっていないように見える。
一年近く流浪して来て、旅も、野宿も、すっかり慣れた。
とはいえ、昔、野宿をする機会はあった。志々雄と旅を始めたばかりの頃は、政府の追手に見つからぬよう、人目を避けて野山に伏していたものだ。
志々雄の協力者が増えるにつれ、野宿する日は減り、屋根の下で眠る日が多くなり、いつしかそれが当たり前になっていた。京都大火前に東日本に散らばった十本刀の同志を探す際など、やむを得ず外で夜を過ごす日もあったけれど、それでもやはり、基本は畳の上の温かい布団の中で眠った。
それは志々雄と共に行く道を選んだことで得たもの。
(……志々雄さん)
ぼんやりと、かの人に思いを馳せる。
『それじゃあ、ちょっと行ってきます』
出立の言葉を軽く投げかけたあの時が、今生の別れになってしまった。あの時は、まさか彼が死ぬとは思っていなかった。自分がこんな風に旅を始めると、微塵も思っていなかった。
藍の色が濃くなり始めたあの空に立ち上る黒煙を遠く眺めながら、宗次郎は方治の口から志々雄の死を聞いた。
アジトが燃え上がり、崩れ出したという事実にどこかでそれを悟っていて、「やっぱり」と思いながらも、その一方で宗次郎は志々雄のあのあまりの存在感ぶりに、彼の死を実感できなかったのも本当だった。
それでも自分にとっての真実を見つけるために、と自分自身の足で歩き出すことを決めたのも、宗次郎自身だ。各地をつらつらと辿って来て、見知らぬ誰かと関わることや、季節の移り変わっていく中での何気ない景色の変化、今まで接していた筈のそれらにまるで初めて触れるかのような、そんな思いをまだ一年程の旅路の中でも何度も繰り返してきた。
今まで見ようとしなかった、見ないようにしていた他者の価値観。そうしたものも幾度も知った。けれど、そうした真新しい日が続くから、宗次郎は却って志々雄との日々を思い出さずにはいられない。
やはり茫漠とした瞳のまま、宗次郎は目前に広々と広がる湖を眺める。
まるで空を映している鏡のようだ。
その余りの静けさに、ふとそんなことを思う。
『所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ』
『もしそれがまだ手遅れでなくば、今からでもやり直しは利かぬのか…?』
反響するように、その両者の声が耳の奥に蘇る。
志々雄真実と緋村剣心。相反する二人の剣客。どちらも、宗次郎にとってその場から踏み出すきっかけをくれた人。良くも悪くも。
『今からでもやり直しは……』
「今からでもやり直し、なんて、」
反発するように呟いてみる。
今現在、自分なりにやり直しているつもりだ。誰か一人だけの答えだけをあてにするのをやめにして、難しいけれど何とか、自分でそれを探り当てようとする。
けれど、この手で大勢の人を殺めたという罪は消えない。今からやり直したところで、その人達が還ってくるわけでもない。そう、例えば生まれて初めて殺した、あの人達にしたって。本当は殺したくなかった、といくら気付いたところで、あの日あの時に戻ってあの人達を殺さずに済ませるなど、絶対に不可能なことなのだ。
そういったことを思い起こさぬままこの先もずっと、人を殺め続けるよりはマシだけれど……、
「厄介だなァ」
宗次郎は笑い声と共に吐き出す。
自身で為したことなのに、いやだからこそそれを撤回するのは大いに困難だ。どうすればいい? 罪を償う手立ても何も、まるで分からない。
…まぁいいや、まだまだ先は長い。焦らずにいこう。
元来の大らかさで、宗次郎はのんびりとそんなことを思う。土台、こんな短時間で分かるものでもないのだ。だからこそ十年は流浪れてみようと決めた。
思った途端、ふわぁ、という間の抜けた声が宗次郎から飛び出した。欠伸である。久方振りに頭を使ったせいなのと、あとはやはり、山道を歩き通しというのが堪えているのだろう。
(いいか。歩き通しだったし一眠りしよう)
熊が出ないといいなぁ。
何の対策もしないまま眠りに落ちる、だからその危険を思わぬわけでもなかったのだが、押し寄せる眠気に勝てなかった。
唐突にうとうととしながら、重くなった瞼の間からでも分かる例の湖を、もう一度宗次郎は見た。
やっぱり、綺麗だな。
そんなことを思いつつ、宗次郎はまどろみの中に落ちていった。





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かな〜り前に予告していた宗次郎逆行物。ようやく始動でございます。
お待ちしていて下さった方、本っ当〜にお待たせして申し訳ありません。


逆行した宗次郎はどんな道を選ぶのか?
正直私自身にも先が読み切れないこのストーリー、よろしかったら最後までお付き合い下さい。


2013,4,21





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