もう一つの、はじまり。




―第八章:序曲―



「恐ろしい・・・・・とても恐ろしい事が、このスフォルツェンドで起きようとしています・・・・・」
真実の鏡を手に、女王ホルンはわなわなと震えた。
その美しい顔を―――スフォルツェンド王家の人間は長命で、老化もゆっくりと進む、ホルンも十五年前と比べれば年老いたものの、まだまだ若く、美しかった―――その顔を恐怖に歪ませていた。
後ろに控えていたパーカスが焦りの色を浮かべる。
「ど・・・どういう事でございますか、女王陛下!!」
「絶望が・・・・」
ホルンの頬をつ、と冷や汗が伝った。
「千億の絶望が・・・・・このスフォルツェンドにやって来るのです・・・・・」
真実の鏡から凄まじい威圧感を感じる。その場にいた一同はざわめいた。
「千億の絶望ですと・・・? それは一体・・・・・魔族でございますか・・・・!!」
パーカスが皆の思いを代弁したかのようにホルンに尋ねた。
それには答えず、ホルンは穏やかな表情で告げる。
「ですが・・・・希望もやってまいります。僅かですが、五つのとても・・・・大きな希望達」
ホルンは空を見上げた。どこまでも広がる青い空。
彼女は切なげに、目を細めた。
「その一つが・・・・とても懐かしい・・・・・」









エルは颯爽と廊下を歩いていた。
長い髪が彼女の軽やかな歩きに合わせて揺れ、その表情はどこかうきうきしている。
彼女の隣を歩くのは、今や立派な青年となり、そして夢を叶えて大神官となったクラーリィだ。
時を止めた彼女は十七歳のまま少しも変わらず、それでも周りは当然のように年を取っていく。クラーリィにもいつの間にか背を、そして歳も越えられてしまって少し寂しくもあったが。
後悔はしていない。この道を選んだことに。
「・・・・何だか、ご機嫌ですね」
「ふふ、分かる?」
クラーリィの言葉にエルはにっこりと笑んだ。彼の言葉通り、今エルはすごく上機嫌だったので。
「どうしてですか? エル様も、ホルン様の予言を聞いていたでしょう?」
眉根を寄せてクラーリィは尋ねる。
千億の絶望が来る、とホルンは言った。恐らくそれは魔族の襲撃のことだろう。十五年前の戦を思い出し、クラーリィの表情が陰る。
またあの時のような、惨劇が繰り返されるのか。
「・・・・勿論、それは気になるわ」
エルの顔にも、暗いものがよぎる。何せ彼女は、矢面に立って当時も戦った者。特にあの悲劇を思い出すと、今でも胸が締め付けられる思いがする。
けれど。
彼女はまた、明るい笑顔を浮かべる。
「だけど、ホルン様、こうも言ってたでしょ? ”五つの大きな希望”がやって来るって。
―――私、それはフルート王女達だと思うんだ」
あの時、リュートが言った言葉を信じて。
この十五年間、ずっと待ち焦がれた。
その予言が実現する日を。リュートを助け出せる日を。ただずっと、願い続けて。
底の無い絶望に落とされた気がした、十五年前の戦い。
彼を奪われ、魔族達への憎しみが募った。
そして正直、寂しかった。ずっと側にいたのに、その彼はもう側にいなくて。
あの時の夢を見て、泣きながら目が覚めたことも何度もあった。
それでも、彼の言葉と、彼を取り戻したいという思いを支えに、エルはこれまでやってこれた。
長かったようで、過ぎてみればあっという間で・・・・・けれどやっぱり、エルにとっては一日千秋のようだったこの十五年間。
「この非常時に喜ぶなんて、不謹慎だって分かってる。でも、もうすぐフルート王女に会えるかと思うと、何かこう、嬉しくて・・・・」
あの時は、まだ腕の中に収まってしまう小さな赤ん坊だった。
本当は、その成長を見守りたかった、リュートと一緒に。もう、決して叶わぬ願いだが。
あの可愛らしい笑顔が、鮮やかにエルの脳裏に蘇る。
リュートに逢いたい。それと同じくらい、彼女に逢いたかった。
どんなに手を尽くしても見つからなかった彼の妹。やっと、逢える気がする。
「まだそうと決まったわけじゃないじゃないですか」
なのにそれに水を差すように、クラーリィのこの一言。
「ったくもう、つれないんだから」
エルは溜息を吐く。
この大神官は、いささか真面目に育ちすぎてしまったらしい。
「・・・俺はただ、期待を裏切られて悲しむあなたを見たくないだけですよ」
けれど、優しさも持ち合わせている。それは少し、不器用だが。
心遣いが嬉しくて、エルの声はまた弾んだ。
「そうならないことを願ってるわ」
その言葉にクラーリィはほんの少しだけ口の端を吊り上げ、そしてまた眉根を寄せた。
「どうしたの?」
エルはクラーリィの顔を覗き込む。
「何かクラーリィはさっきから不機嫌だね」
クラーリィはその言葉通り、不機嫌そうにむすっと言う。
「・・・・・いくらホルン様の予言でも、どこの馬の骨かも分からない奴らにスフォルツェンドは任せられない」
なぁるほど。
エルは納得した。クラーリィもこの十五年間、魔法兵団に入ることを、そして大神官になることを目指してひたすら頑張ってきた。エルと共にスフォルツェンドを支えてきた一人だ。責任感も強い。
だからこそ、いきなり降って湧いたようなその”五つの大きな希望達”を認められないのだろう。
「まぁ、クラーリィの気持ちは分からなくも無いけど・・・・」
頭を掻きながら歩を緩めるエルとは対照的に、クラーリィはさっと歩いていく。
そうしてスフォルツェンドの町を見渡せる大きな窓の前まで行き、その風景を眺めた。
十五年前に一度燃え、ようやく復興してきたこの町。
リュートがかつて、命がけで守った場所。
「・・・・スフォルツェンドは、俺が守る!」
クラーリィは大神官の証であるイヤリングを握り締め、力強く言い放った。
その言葉にエルは頷いた。その思いは、同感だったから。
(私も・・・・スフォルツェンドを守る)
あの時のように、魔族達の好きにはさせない。
たとえ千億の絶望が訪れようと―――必ず、退けて見せる。
そう決意するエルの胸元には、十字架が揺れていた。
それは、かつてリュートが額に着けていたものだった。細い銀の鎖にそれを通しただけのシンプルなネックレスを、彼女はいつも身に付けていた。
彼のような強さでこの国を守っていけるように、そして。
いつでもそれを、彼に返せるように。







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短いですね。まさに序章的な話。
十五年経ったエルやクラーリィの姿を、戦いの前に書きたくて。
章名の前にあるモノローグ、二部から入れない予定だったのですが、何だか無いとしっくりこなくて、結局入れちゃいました(^^;)


2004年12月19日


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