―第三十三章:ラ・トラヴィアータ その3―






ぼんやりと、夢を見ていたような気がする。
どんな夢だったのかは思い出せない。ただ、懐かしくて、居心地が良くて、その反面胸が締め付けられるような、そんな夢だった。
瞼が重かったが、隙間から入ってくる光が眩しくて、エルはゆるゆると目を開いた。
梁が剥き出しの、素朴な造りの天井が見えた。ここはどこだろう、とエルが考える前に、元気な声が聞こえてきた。
「エル姉ちゃん!」
「トロン…王子…?」
声の方へと顔を向ける。そこには額や腕に包帯を巻いたトロンが、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「良かった…無事だったのね」
「それはこっちの台詞だよ! もう少し横になっててよ、フルート姉ちゃんが回復魔法かけたっても、スゲー重傷だったんだから…!」
身を起こそうとしたエルをトロンが押しとどめる。確かに、体はとてつもなく重かった。
エルが己の手や足を見てみれば、トロンと同様に真新しい包帯がしっかりと巻かれていた。魔法兵団の法衣ではなく寝間着を着ていて、長い緑の髪も首の横で一つに結ってある。
いつも身につけているリュートの十字架のネックレスは首になく、どこに、と少し慌てたが、寝台脇の調度台の上に置いてあったので、ほっと胸を撫で下ろす。あの激しい戦闘の中で失くしていなくて良かった。もし鎖が千切れて瓦礫にでも埋もれたりしていたら、絶対に見つからなかっただろう。
どうやら自分は手当てを受けて、この寝台でずっと眠っていたらしい。室内を見回してみると、壁際のベッドでオカリナが力無く横たわっているのも分かった。床や窓の造りからして、どこかの民家の一室のようだった。
あれだけヴォーカルに痛めつけられても、何とか命を落とさずに済んだようだ。その事実にエルは安堵する。命を削って治療をしてくれたフルートには、特に感謝しなくてはいけないだろう。彼女も無事だったようで、エルはこれまた安心した。
「…他の、みんなは」
長く眠っていたせいか、喋るのもやや億劫だった。声が些か枯れている。
「みんな…無事だよ。サイザーは…まぁ、あれだけど……」
トロンは複雑そうな顔をしていた。当然といえば当然だろう。たとえ他のパーティーメンバーが無事でも、サイザーの魂を魔族側に奪われてしまったという事実は変わらない。
エルの記憶は、ヴォーカルに殴られ続けた時で途絶えている。あの後どうなったのか、純粋に気になった。
「…あれから…どうなったの。ヴォーカルは…!?」
「あぁ、待って待ってエル姉ちゃん。色々気になるのは分かるけどさ、まずみんなにエル姉ちゃんが起きたーってこと知らせねーと! 半日以上眠っててず〜っと起きなかったんだぜ、他のみんなが起きたのにさ。だから俺もみんなも心配してたんだぜ!」
そう言いながら、トロンは廊下かどこかへ通じるドアを勢いよく開けて、「エル姉ちゃん、目ぇ覚ましたー!」と大きな声で告げている。
その様子に、エルはようやく笑みを浮かべた。ともあれ、勇者一行は窮地を脱したらしい。サイザーのことだけが無念ではあるが…けれど反魂の法がかけられたわけではなく、彼女の魂も無事ならばまだ望みはある。
そう、反魂の法…そして冥法王ベース……エルの体感ではつい先程の戦いを思い出し、僅かに目を眇める。あの時は己の感情のままに突っ走ってしまい、勇者一行に説明する余裕も、また時間も無かった。
けれど、ようやく来たのかもしれない。
全てを話す、その時が。
「…エル?」
トロンが呼びに行った後、まず入って来たのはフルートだった。おずおずと呼びかけて、しかしエルが横になったままで小さく手を振って見せると、安心したような笑顔になって飛び込んできた。
「良かった…! 心配したわ! あんまり凄い怪我だったから…!」
「ふふ、そんなに酷かった? でもフルートが回復魔法をかけてくれたんでしょう? ありがとう」
当のフルートは簡素な寝間着姿で、頬に大きな絆創膏を貼っていた。回復魔法は、自らにはかけられない…パーティの回復役として皆の手当てはしたが、自分の怪我までは治せなかった、そういったところだろう。
「……あの、エル…その……」
エルが元気なのを確認すると、フルートは複雑そうな顔で口籠った。その理由は、同じ回復魔法の使い手のエルにはピンときた。そうでなくてもきっと、特に彼女はエルに問いたいことが山ほどあるだろう。何かを訊きたい、けれど何から訊けばいいのか分からない…そんな困った風な顔をフルートはしていた。
エルの方もまたなんと声をかけようか思いあぐねていると「エル様、お目覚めになられたんですって?」と可愛らしい声がした。ドアの方を見れば、コルネットを先頭にして、ハーメル、オーボウ、トロン、そして一行を離れていた筈のライエルまでもがそこにいた。久し振りに会ったからか、ライエルは小さく会釈してきた。
「良かったでーすわ! これ、コルネット特製の紅茶ですの。気分をリラックスさせて、傷の痛みを和らげる効果がありますわ!」
にこにこと屈託なく笑うコルネットは、盆にのせた紅茶のカップを差し出してきた。淡い茶色の紅茶は、甘い香りがする。
「ありがとう。頂くわ、コルネット。あなたも無事で良かった」
ゆっくりと上半身を起こしたエルは、コルネットからカップを受け取った。魔族体のまま崖の亀裂へと落ちていった彼女だが、今は普段の少女姿へと戻っていた。何がどうなったのかは分からないが、とにかく彼女も無事だったようだ。
「ところで…何でライエル君もここに?」
紅茶を一口飲んで喉を潤してから、エルはその疑問を口にした。紅茶の香りと甘い味は、疲れた体にすうっと染み込んでいくようだった。
「それに、ヴォーカルは」
気になることが多過ぎた。それは勇者一行の方もまた同じであったろうが…エルとしては、とりあえずヴォーカルとの闘いの顛末をまず知りたかった。
勇者一行は目を見合わせた。ハーメルの肩に停まっていたオーボウが彼から離れ、エルの寝台の縁まで飛んできた。
オーボウはこほんと一つ息を吐き、神妙な顔つきになる。
「うむ…儂から話をしよう」






オーボウによると、こうだった。
殴られ続けて意識を失ったエルを、ヴォーカルは「ちっ…威勢の割に、歯応えの無ぇ女」とつまらなそうに投げ捨てた。
その後は反魂の法を邪魔されたことへの罵詈雑言、サイザーへの侮辱発言。そして反魂の法が成功していた場合のサイザーがどうなっていたかをヴォーカルは得意気に語ったという。
「きっと俺の魂で生き返ってたなら、サイザーは喜んで人を殺す女になってた筈だぜ。何の躊躇いも、これまでの良心の呵責やらも無くよぉ。そしたら面白ぇことになってたってーのに…っとに忌々しいぜぇ。スカッと気分良く、ぶった斬るようになっただろーによ…」
そこで、今までのサイザーへの侮辱発言の積み重ねに、再びハーメルが怒りに任せてヴォーカルに飛びかかった。先刻よりも強力な魔王の血と肉の力を発揮しながら…今度は怒り故にハーメルに確固たる我が残っていた、そしてだからこそヴォーカルを追い詰めたという。
しかしそこでヴォーカルは意外な行動に出た。ヴォーカルが左手首からぶら下げていた大きな鉄球、それを例の何でも斬れる剣で斬りつけたのだ。
オーボウの見立てでは、あの鉄球はヴォーカルの力を抑える為にベースが仕掛けたもの、そしてそれを完全に破壊するまではいかなくとも傷つけたことで、ヴォーカルは姿を変貌させ、本性を現したのだという。長い金の髪に、体中から生えた角、両膝には悪魔の口…まさに悪魔族らしい姿であったと。
そしてそのヴォーカルはそれまでとは桁違いの力でハーメルを苦しめた。流石のハーメルも、魔の血を持ってしても攻撃に耐えるのがやっとだった。
しかし、そこでまた異変が起きた。突如としてヴォーカルの右腕に亀裂が走り、そこを起点として右手が崩れ、苦しみ出したのだという。
「……寿命……」
話の間にエルが思わず呟くと、オーボウは頷いた。
魔族達は各々が魔力を持つ。魔力というのは人間にしてみれば生命力。そして魔族はその魔力が尽きると、寿命が訪れる。
パンドラの箱に封印されている大魔王ケストラーは、魔族達にその魔力を供給する役割も持っている…つまり、ケストラーが封印されている限り、魔族達はおいそれと全力では戦えない。すぐに魔力が付き、寿命を迎えてしまうからだ。
そのことからするに、パンドラの箱が壊されたといっても、すぐに大魔王の封印が解けたというわけでもないらしい。だから反魂の法と本性を現わしたことで短い間に著しく魔力を消費したヴォーカルは、あっけなく寿命が来たのだ。
元の姿に戻ってしまったヴォーカルは、砕けた右腕を剣で斬り落とすことで寿命の進行を止めようとした。それでもヴォーカルは最後まで強気な態度のまま、ハーメル達に憎まれ口を叩きながら、オル・ゴールと共に撤退していったのだという。
「それでね、その後お母さんの水晶から連絡があってね…」
この後はフルートが話を引き継いだ。
ヴォーカルとの激戦を終え、一行がまだ呆然と立ち尽くしていると、フルートが持っていた水晶玉を通して、ホルンから連絡があった。
ホルンは激闘を繰り広げた勇者一行を労い、本国でも騒動があった故に十分に支援ができなかったことを詫び、魂を抜かれたサイザーについてこう提案した。
「サイザーは魂を抜かれただけ……体の損傷は激しいですが、魔族の手の内にあるサイザーの魂を取り戻せば、蘇る筈です。
ですが……魂の無い肉体は、亡骸も同然、生命活動も休止しています。そのままにしておいては、魂を取り戻すよりも先にサイザーの体が朽ちてしまうでしょう…。
ですから、サイザーの体を一度こちらで預からせて下さい。封印魔法と結界魔法の応用で、彼女の体をできるだけ生きている時に近い状況で保たせます」
勇者一行はホルンのその提案を受け入れた。正確には受け入れざるを得なかった。確かに、サイザーの魂を取り戻すよりも先に体が本当に“死んで”しまったのなら意味がない。
サイザーの身柄を預かりに来たのはクラーリィだった。随分と怪我をしていたが、サイザーには早急に処置が必要とのことで、早速転移魔法で飛んできたのだという。サイザーの体を受け取ると、クラーリィは言った。「コルネットのことをよろしく頼む。あいつは…そう簡単に死ぬ奴じゃない」。そこには底知れぬ信頼感が宿っていたという(実際、コルネットは崖から落ちたものの、魔族の体をしていたことが功を奏してか無事であり、一行がこの村に身を寄せた後に合流したのだそうだ)。
クラーリィが転移魔法でサイザーと共に姿を消したのを見送ると、ホルンは悲しげな瞳で気を失っているエルを見た。法力使いは戦闘時、全身に張り巡らせた法力で体を防御している、それにも拘らずヴォーカルに殴られ続けたことでエルは全身に手酷い打撲を負い、血塗れだった。
「…この子は…やっぱり無茶をして……。こんなに酷い怪我を……。でも、それだけエルは……サイザーに反魂の法をかけられるのだけは避けたかったのね…何としてでも……」
ホルンは涙ぐみつつそう言った。そしてその後は、エルの体を介抱するように支えているフルートに向き直る。
「あの…お母さん……」
「あなたが言いたいことは分かっています」
フルートが何事かを言いかけるのを、ホルンは沈痛な面持ちで制止した。
「この戦いの中で、あなた方が不思議に思ったことはたくさんあるでしょう。そして知りたいと思ったことも、こちらが話さなければならないことも。魔族のこと、エルのこと……あなたの兄のこと……。
それでも今は、まずは体を休める時です。ひとまずは傷を癒し、心身共に落ち着いてから……きっと、目が覚めたエルが全てを語ってくれる筈です。……私よりも、この子の方がずっと、色々なことを……あの子のことをあなた方に話したいと思っている筈だから……」
と。
それからハーメル達は、ダル・セーニョ国境付近の村に何とか移動し、そこにしばらく滞在することにした。傷の手当てをし、体を休め……ライエルは、今までの状況やサイザーの今後のことを考える上でも一行と合流した方がいいとのホルンの判断で、クラーリィにこの村へと連れて来て貰ったのだそうだ。







「……そう。大体状況は掴めたわ」
オーボウやフルートの話を聞いている間に、紅茶はすっかり飲み終わっていた。おかわりは、と勧めてくるコルネットにやんわりと断り、エルはカップを返した。
何にせよヴォーカルが去り、サイザーの身体も腐敗しないようにスフォルツェンドで管理する、ということが分かっただけでも良かった。とりあえず窮地は脱したのだ。ヴォーカル・オル・ゴール・ベースと強敵が揃った中で、被害がブリュンヒルデとサイザー以外に出なかったということは、むしろ幸運なことだったのかもしれない。それでも大きな犠牲であることに変わりは無いが。
長い話が終わると、今度は自分へと視線が集中していることにエルは気付き、少し苦笑した。誰もが何かを言いたそうな顔でこちらを見ている。何かきっかけを掴もうとするような…。
けれど、エルは言われずとも分かっていた。今度はこちらが話す番、というわけだ。
「……やっと来たのね、この時が……」
万感の思いでエルは息を吐いた。
そう、ようやく訪れた。ようやく、全てを語れるこの時が。
本当は、もっと早く話したかった。もっと早く、勇者一行に教えたかった。知って欲しかった、リュートのこと。偉大なる先代の英雄のことを。
「ずっと話したいと思ってはいたんだけど…まだその時じゃないのは分かっていたから……でも、ようやく、ようやく話せるのね……」
十五年待っていたのは、リュートやベースだけでは無かった。この時もだった。
回復魔法を施した時に、フルートだけはエルの思いの深淵を覗いたことだろう、それでもそれはすべてではないだろうし、エルの口から改めてきちんと聞きたいと思っているに違いなかった。
「何から話せばいいかしらね…」
言いながら、エルは姿勢を変えた。掛布を剥いで、勇者一行達に向き直るように寝台に腰かけるような形に。そして調度台の上の十字架をちらり、と見た。
勇者一行はめいめいに立ったり椅子に座ったりしている。オカリナだけは寝台にいたが、話は聞こえることだろう。
一度全員の顔を見回して、それからエルは口を開いた。












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お約束の、主人公が寝てる間に話が進ry
エルがやっとこの日が…とか言ってますが、ほんとにやっとここまで持って来られました。
結構前に書き上がってたのに、更新まで時間かかっちゃいました;

2014,11,10
初稿:2014,8,1








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