―第三十一章:lacrimosa―






迸る赤い鮮血。
それはヴォーカルのものと、ブリュンヒルデのものと。
その出来事の衝撃の大きさに、誰も何も言えなかった。
ブリュンヒルデは上半身と下半身とが完全に切り離され、ヴォーカルの方もまた手酷いダメージを負ったようで、両者倒れたままぴくりともしない。
己の精霊ごと敵を切り裂く…あまりにも悲壮な手段だが、それだけの怒りと決意とがサイザーの内にはあったのだろうと、見て取れた。
「ブリュンヒルデ……すまん……」
最後の力を振り絞りヴォーカルから体を離し仰向けになったブリュンヒルデの前で、サイザーは膝をつきうな垂れる。
こうでもしなければヴォーカルを倒せなかった、しかしそのためにブリュンヒルデを犠牲にしてしまった、サイザーのそんな悔恨が、すぐ近くで見ていたエルには、痛々しい程に伝わってきた。
ブリュンヒルデは虚ろな瞳でそれでも微笑み、か細い声でサイザーに語りかける。
「良いのですよ…サイザー様。主を守るのは我らワルキューレの運命……それに……ああするしか、手は、無かったのです……。
私は…あなたを守れたことを…誇りに思います……」
サイザーはその言葉に、ブリュンヒルデの手をぐっと握り締めた。主の覚悟に殉じた仲間を悼むように、他のワルキューレ達やフルートらもサイザーの背後に集まって来た。
ワルキューレの一人が言う。不死身の精霊といえど、術者に手をかけられた者は死は避けられない、と。
サイザーはそれを分かっていて、ブリュンヒルデもまたそれを分かっていて、それでもヴォーカルを倒す最後の手段として、先程の一撃を実行したのだ。
既に重傷を負っているサイザーがあの局面を打開するにはそれしかなかったかもしれない、そしてブリュンヒルデの方もそれを受け入れていても…サイザーはどこまでも彼女には申し訳ないと、そう思っているのだろう。サイザーの悲痛な面持ちがそれを物語っている。
「サイザー様……私は、いえ、私達は……あなたに生み出され、あなたと共に生きた……。だから、あなたの通って来た道が分かる……。
辛かったでしょう、苦しかったでしょう…でも、だから……、
生きて下さい、ね……」
ブリュンヒルデはサイザーの手を握り締めたまま、可憐な微笑みを浮かべた。
それは紛れもなく彼女の遺言だった。
ブリュンヒルデはそのまま淡い光になって、空気に溶け込むようにして消えた。俯く他のワルキューレ達は、黙祷を捧げているかのようだった。
その場でしばらく力無く座り込んでいたサイザーだったが、意を決したようにゆるゆると立ち上がる。ふらつくその体を、二人のワルキューレが両側から支えた。
「お疲れ様です…サイザー様」
心身共に傷ついている主を労るように、ワルキューレ達が次々にサイザーに声をかける。
今日、初めてサイザーとワルキューレ達とのやり取りを目にしたエルでも、そういった彼女らの姿に、彼女達は深い絆で結ばれた主従関係にあるのだろうと感じられた。それは先程昇天したブリュンヒルデにもまた。
「サイザー様。次の甲冑には私が…」
縦に巻いた長い髪が特徴的な一人のワルキューレがサイザーの前に進み出て、ふわりと姿を変える。サイザーの体を覆った彼女は、深紅の甲冑へと姿を変えた。
サイザーは胸に手を当てて、何かを決意したような表情を浮かべる。そしてヴォーカルに刺さったままの大鎌の柄に手をかけ、引き抜こうとした。
だが。
「ぬ、抜けない…!?」
瞬時にサイザーの表情が緊迫感を帯びる。当然だろう、今の今までヴォーカルはぴくりとも動かなかった。誰よりも彼女が手応えを感じていただろうし、傍目から見ていたエルにも、ヴォーカルに致命傷を与えるには十分な一撃のように思えていたのだ。
それなのに、ヴォーカルは高笑いと共に起き上がった。実に身軽に、何事も無かったかのように。
「ハハハッ! 惜しい、惜しいなァ―!」
楽しげなヴォーカルが放った衝撃波が、ワルキューレ達やフルート達を吹き飛ばした。
結界魔法で拘束されているエルですら、吹き飛ばされそうな暴風を肌で感じた。
(さっきの一撃が効いていない…!? 甘く見過ぎていた…!)
思えばヴォーカルが倒されても、ベースは一歩も動こうとはしなかった。それは有利なのは依然こちら側であると、分かっていたからこそだったのか。
「惜しい惜しい。今回もいい線いってたんだけどな。今まで内緒にしてたんだけどよ、俺……
腹に口がある、そーいうデザインなんだぁ」
ヴォーカルの言葉通り、彼の腹部には大きな口が出現していて、その鋭い歯がサイザーの大鎌の切っ先をバキバキに噛み砕いていた。
大凡は人の姿と似ていても、やはり魔族…誰もがそう思い、そして唖然とするしかなかった。
一転して局面がひっくり返ったこの時、誰よりも呆然としていたのはサイザーだったろう。ブリュンヒルデの命をもかけた渾身の一撃だったのに、ヴォーカルにはまるで無駄だったのだ、と、呆然とする中で、それでもそういった絶望感はあった筈だ。
「惜しかったよな! まさか仲間ぶっ殺してでも俺を倒そうなんてな! 流石魔族だよ、やっぱりあんたも、人殺しが大好きなんだよなぁ!」
立ち尽くしたままのサイザーの前髪を無造作に掴むと、ヴォーカルは彼女の体を反対の右手で貫いた。先程のフルートがそうだったように、その手にはサイザーのものであろう輝く魂の球が納められていた。
最後の抵抗のように、サイザーの右掌がヴォーカルの胸を押す。ヴォーカルはそれを意に介さず、サイザーの魂を眺めていた。
「へェ…その割には綺麗ないい魂してんじゃん…。こいつなら、斬れそうだぜ…」
ヴォーカルはサイザーの体を、用済みとばかりに投げ捨てた。瓦礫に打ちつけられたサイザーは何の反応も無く、目を見開いたまま全く動かなかった。乱れた長い金の髪も、血で赤く染まった翼も投げ出したまま。
そしてその途端ワルキューレ達はふっと姿を消し、オカリナが涙を零し膝をつく。
「……あんた達魔族は……一体どこまで……!」
怒るエルの声にも、魔族達は一切耳を貸さない。それどころかヴォーカルは横を向いているサイザーの顔を踏みつけ、自らの用事を続行する。
「ベース…箱貸しなよ。鍵、ぶった斬ってやるからよー」
その言葉にベースは素直に従う。サイザーの魂を剣の宝石に埋め込んだヴォーカルに向けて、パンドラの箱を放るようにして手渡した。
ヴォーカルが地面にパンドラの箱を置く。錠前の部分に剣の切っ先をあてがう。
ヴォーカルが剣先を沈めると、いとも簡単にパンドラの箱の錠前は壊れた。ぱき、と乾いた音を立てて、あまりにも呆気なく。だからこそどこまでも、現実離れした光景で。
フルートの魂の時のように、衝撃で地面が裂けることも無かった。ただ箱の軛だけがあっさりと割れて……。
「へ、へへへ」
だから箱の錠前を壊したヴォーカルにもその実感が遅れてじわじわとやって来たのだろう。
ひきつったような笑い声を上げて、箱にゆるゆると手を伸ばす。
「これで、ケストラーの親父が……これで……へへへ、これで、」
しかしヴォーカルの前にパンドラの箱を拾い上げた者がいた。
それはリュートの手で、鍵の壊れた箱を手中にしたのは、まさしくベースだった。
「これで…ようやく…」
冥法王たるベースにしてみれば、それは魔族の王・ケストラーが封じられた重要な箱。様々な策を巡らせ、ようやくその封印を解いた箱。
けれどそれはヴォーカルにしてみればせっかくの獲物を横からかっさらわれたようなものだったのだろう、ヴォーカルは慌てた様子でベースに食ってかかった。
「なっ、何だてめえ…返せ、ベース!!」
その途端、リュートから凄まじい法力が繰り出された。最早魔の気を帯びたそれは、ヴォーカルの体を押し潰すようにして辺りに充満する。
流石のヴォーカルも、リュート・ベースのこの力の前では一溜まりもないようだった。苦しげな声を上げるばかりで、一切の反抗を封じられている。
「あ……!!」
ヴォーカルから溢れた余波が周囲を覆い勇者一行もまた翻弄される中、エルは気が付いた。いつの間にか、ベースの軍艦・カイゼルクロイツが彼の真上の空に来ていることに。
また逃げられる…!
十五年前と似たような状況に、エルは瞬時にそれを察した。
「っ、待ちなさい、ベース!!」
制止の声は空しく響き渡るだけだった。どんなに鎖の拘束を振り解こうとしても、結界はやはり消えてはくれなかった。このままでは再びむざむざと逃げられる、あの日と同じように、それを良く分かっているのに、また何もできなかった。何も。
「……行かないで、リュート……!」
悲痛な声は、轟音にかき消された。
リュート・ベースは既に軍艦に吸い上げられていた。十五年前のあの時と同じく、用が済めばすぐさま撤退するつもりだったようだ。確かにベースの目的は果たしたのだろう、ヴォーカルを使い、自らはほとんど労力を使わないままで、まんまとパンドラの箱の封印を解いてみせた。
けれどエルは違った。リュートを取り戻すことは叶わず、フルートの魂も奪われて、サイザーも傷つけられて、そして挙句の果てにパンドラの箱の封印を解かれてしまった。
勇んで飛んできたはいいものの、何もできなかった。
何も。
何も。
(……私は、無力だわ……)
どうしようもなくエルは打ちのめされた。
十五年振りに会うリュートにも、またこの手は届かなかった。そうしてまた、彼は手の届かない所へといってしまう。
ベースの軍艦は、既に上空の彼方へと浮上していた。あのまま北の都へと戻り、その後は今まで同様そう簡単には表へは出てこないだろう。
そもそもこうしてベースが表舞台に出てくることこそがイレギュラーな事態であり、だからこその絶好のチャンスであったのに、一矢報いることもできなかった。それが悔しく、また情けなくて、エルは鎖に拘束されたままで空の遠い十字架を見上げるばかりだった。
「畜生め、逃げやがった!」
ベースが去ったことを面白く思わないのは、ヴォーカルも同じだったらしい。ケストラーとベースとどういった因縁があるのかは分からないが、ヴォーカルはどうもその二者に対して強い敵意を抱いているようだ。
「ちっ、腹が立つぜ。まぁいいや、あとで北の都ぶっ潰しゃいいんだからよー、見てろ、ベース!!」
もう既にベースの軍艦は見えなくなっていた。それでもヴォーカルは空に向かってそう吠えた。
だがその後は、ぎらつく目を勇者一行の方へと向けてきた。
「その代わりちと…腹の虫が治まんねぇから、雑魚しか残ってねェが…嬲り殺して憂さを晴らすかぁ! てめえらをよ…!!」
ヴォーカルの全身から、殺気が立ち上っていた。それはどこまでも激しく、まるで周囲を一瞬のうちに氷点下に陥れるような圧倒的な恐怖感があった。
フルートもトロンも、その恐ろしさにぶるぶると震えていた。無理もない。フルートは魔法使いとはいえ元々は非戦闘員であるし、トロンは純粋な戦闘力ではヴォーカルには遠く及ばないことを肌で理解している。オカリナはサイザーが魂を奪われたことですっかり意気消沈して、戦える状態ではない。
こちら側が圧倒的に不利であることは、火を見るよりも明らかだった。
「…憂さ晴らし、ですって? ふざけんじゃないわよ…」
思わずそんな言葉がエルの口をついて出た。怯えるフルート達を力づける為ではない、単純にそのまま自分の思いだった。
「散々、好き勝手やっておいて、その上ろくに戦えない者を甚振ろうだなんて、許さない…!」
怒りに震えるエルに呼応するかのように、鎖の封印がするすると解け、消えていった。
しかしこれはエルの法力によるものではない、術者であるベースが離れたことで結界の力が弱まったのか、或いは己の用件は済んだからエルを拘束から解いても問題なしと判断してベースが術を解いたのか…そのどちらかは分からなかったが、いずれにせよ、エルはようやく結界魔法から逃れ、自由の身となった。仇敵であるベースがこの場を去って、今更。
だからヴォーカルへのこの怒りは、やや八つ当たりでもあった。ヴォーカルに対して怒りがあったのは確かだが、ベースへの怒りと、無力な自分自身への怒りと、そういったものも混ぜこぜにして、ヴォーカルにぶつけているのに過ぎない。
やっと自分の思いのままに動けるようになったエルは、フルートやトロンを守るようにしてヴォーカルの前に立ちはだかった。端から見ていただけでも分かる、この男は凄まじい戦闘能力の持ち主だ、自分が勝てるかどうか分からない…それでも、エルはじっとしてはいられなかった。
満足な状態では無くても、今この場で戦えるのは自分しかいないのだ。
「ふぅん……今度はあんたがお相手かい。お姫さんよ」
ヴォーカルが少しばかり殺気を緩めてエルに向き直る。エルが法力使いであるということは、先程のベースとのやり取りで理解していることだろう。
それでもエルが女であるということを侮ってか、ヴォーカルは遠慮なくエルの姿をじろじろと見てくる。
「しっかし勿体ねェよなぁ、あんたもスフォルツェンドの王女さんなんだろ? そんな色気ねー兵隊の服なんて着込んじまって…そこのフルートちゃんみてーに、可愛い格好にしてやろーかぁ?」
ニヤニヤと笑うヴォーカルは明らかにこちらを下に見ている。しかしここで怯むわけにはいかないし、ヴォーカルのふざけた発言にはエルはいらつきも覚える。
「結構よ。戦うにはこの姿の方が都合がいいわ…!」
エルは傍らに投げ出されていた錫杖を拾い上げ、その先をヴォーカルへと向ける。ヴォーカルは大袈裟にやれやれと肩を竦めた後、再びにやりと笑んだ。
「そうかい…なら、せいぜい楽しませて貰おーじゃねーか…!」
再度ヴォーカルから放たれる膨大な魔力。エルもまた法力を錫杖の先へと溜め始める。
向き合う二人の間には緊迫した空気が張り詰め、後方のフルートが祈るように手を胸の前で組む。
まさに一触即発、エルとヴォーカルのどちらが先に動いてもおかしくは無かった。
しかしそんな張り詰めた空気は、突如その場に落ちてきた飛来物により散らされる。
「ひぃぃぃぃぃ〜!」
がらがらがら、と瓦礫の山を削るようにして、何やら黒い塊が勢いよく空から降ってきた。その勢いのまま黒い塊は大きな音を立てて地面を滑っていき、丁度ヴォーカルとエルの間辺りで止まった。土埃が凄くてその黒い塊の正体は分からなかったが、皆呆気に取られていた。……が。
「と、止まった……」
ようやく土埃が治まったその場所でよれよれと立ち上がったその人物は、なんと勇者ハーメルだった。







次章へ













情景描写が苦手なもので、こうしてコミックを文にするとえらく単調になります。
そしてこのところ章の終わりが似たようなヒキ…。

タイトルは「涙の日」の意。
2014,10,10
初稿:2014,7,31






戻る