―第二十九章:ラ・トラヴィアータ―







(…リュート)
どれだけ、この日を待ち侘びたことだろう。
(リュート…!!)
どれだけ、この日を焦がれたことだろう。
十五年前に魔族に奪われたその人に、再び巡り会うこの日を。
自身のコンディションだとか、勝算とか、そんなものはとりあえず二の次だった。
リュートに、ベースに、また会える…!
ただその一心で、エルは転移魔法による空間を潜っていた。実際は数秒かもしれない、それでも体感時間は酷く長く思えた。早く、早くダル・セーニョに、そう思いながら法力に包まれていた。そして。
ふ、と空気が変わった。今までの転移空間のどこか温かな空気とはうって変わった、冷え冷えとして、重苦しいものが肌へと触れた。
瞼を上げる。煌々とした月が照らす廃墟が見えた。そこに佇むフルートやサイザーら、勇者一行の姿も。ヴォーカルやオル・ゴール、魔族達の姿も。それから何よりも。
漆黒の十字架を背にして立つ、冥法王の姿も。
「……ベース……!」
手にした錫杖の柄をぎゅっと握り締めながら、エルは万感の思いでその名を呼んだ。
既にその場にいた一同は、それでエルの出現に気がついたのだろう。思わぬ闖入者に皆が目を丸くする中、リュートの右掌上のベースの生首だけは感心する風ににやりと笑んだ。
「…ホウ、これはこれは…」
言葉を発するのは、無論本体であるその生首の方だ。リュートの唇は固く引き結ばれて少しも動かず、表情も凍てついたままだ。あの頃とはまるで別人の、どす黒い瞳…それでもベースがそう操ったのか、リュートは左の掌を空に向けて芝居がかった大仰な動作で肩を竦めた。
「意外な来客だな。実に久しいな、エレクトーン王女よ」
「エ、エル…!」
驚きと安堵の入り混じったようなフルートの声が聞こえた。エルは傷ついたフルートを安心させるように、一度彼女の方に振り向いてにこっと微笑む。
フルートは薄桃色のドレス姿で手首に枷を付けられており、まさに虜囚の姫君といった出で立ちだ。顔のあちこちには血がついていて、何とも痛ましい。
しかし思えば、これは十五年前に生き別れた兄妹の、久方の再会でもあるのだ。フルートはリュートのことを詳しく知らず、今のリュートがそれを認識しているかどうかも定かではないけれど。そしてフルートの誕生の前後、あんなにもはしゃいでいたリュートのことを思い出すと、改めて悲しい気持ちにもなる。リュートは、楽しみにしていた妹との触れ合いの時間をも、魔族達に奪われたのだ。そしてその末に、こんな皮肉な再会となってしまった。
ベースの狙いもやはりフルートだろうか。もしそうだとしたら、絶対にそれだけは避けねばならない。リュートがあんなにも大切にしていた妹に、その手をかけさせることは何としても止めなければ…!
エルは再び前を向き、鋭くベースを見据えた。
「だが、儂が用があるのはフルート王女ただ一人、そなたに用は無い」
素っ気ない言葉がベースからは返ってきた。案の定、ベースはフルートの魂が目的らしい。
それを阻止したいのは当然だった、しかし何よりも、エルがここに駆け付けたのは。
「あんたには無くても、こっちにはあるのよ!」
エルは錫杖の先をベースへと向けて毅然と言い放った。憎たらしいベースの顔を、これでもかとばかりに睨みつける。
「私はずっと待っていたわ、この日を…再びあんたに会えるこの日を! …そうよ…」
錫杖を持つ手が震えた。
エルは視線をリュートの方へとスライドさせる。顔形は同じなのに、すっかり変わってしまったリュートの風貌。それでも、今対峙しているのは紛れもなくリュートで。
例え冥法王の姿でも。
あの頃のような笑顔が無くても。
長い時を経て、ようやく、逢うことができた人。
今目の前にいるあなたは、あなたじゃない。それでも、あなたであることに変わりは無い。
私の大切な…大好きなリュート。
「やっと…やっと……逢えた……!!」
抑えきれなかった切なさと嬉しさが、声に滲んでいた。
先程まで怒りの目をしていたエルが不意に見せた儚げな態度に、勇者一行は不思議そうな顔になる。
それはそうだ。彼らはエルとベース、ひいてはリュートとの因縁を知らない。今この場にエルが現れたことすら、疑問に思っているのに違いない。
魔族達にとっても、エルは招かれざる客なのだろう。それでも、この好機を逃すわけにはいかない。
あちらとて、久し振りに会ったのに、リュートの方には何の感慨も見られない。虚ろな、凍てついた表情のまま。エルに対して、何の反応も無い。それが寂しく、同時に腹が立つ。
朗らかな表情も豊かな感情の動きも、あの悪魔がすべて奪い去ってしまった。人としての心を、リュートの心を…十五年もの長い間。
それを解き放ってみせる、今日こそは。
「フルートに手は出させない! そして、今日こそ、リュートを返して貰うわ!!」
エルの全身から法力が吹き上がる。その勢いに周囲に風が巻き起こり、瓦礫の欠片が舞う。
これだけの法力の放出を見てもベースは微動だにしないが、それならそれで好都合だ。
「爆!」
エルは錫杖から右手を離し、その掌に幾つもの法力弾を出現させた。それをベースに向かって投げつける。
ベースの周囲で次々に爆発が起こるも、さしてダメージを受けた様子も、意に介する様子も無い。
けれどそれで良かった。これはあくまでも牽制の為のもの、法力弾がベースに到達するまでの時間差で、エルは次の魔法を既に紡いでいた。
「聖なる光よ、彼の者の悪しき力を封じ込めよ!」
錫杖の先から放たれた法力が稲妻のような光を放ちながらベースを拘束した。渾身の力を込めた結界魔法。聖なる力を帯びた法力が、リュート・ベースを囲んでその動きを完全に封じ込めている。
結界が確実に作動しているのを確認して、エルは高台にいるベースの方へと駆け出した。リュート・ベースの力が封じられているうちに懐に飛び込み、あの生首の左目にはめられているリュートの魂を取り戻す。そういった思惑だった。
ぐんぐんとベースとの距離が詰まる。彼に辿り着くまであと数メートル、しかしエルがそこまで迫ったところで、ベースは鼻で笑った。
「フン、話にならんな」
木が真っ二つに裂かれるような音がした。リュート・ベースを取り巻いていた法力が、火花を散らして一瞬のうちに霧散した。
「……!!」
あっさりと結界を破られてしまったことに、エルは足を止めかける。まさか、こんな簡単に。氷爆結界程のレベルではないが、それでも相当に高等な結界魔法だったのに。仮に破られるにしても、こんな簡単にはいかない筈だったのに。
「教えてやろう…本当の結界とは、こういうものだ…!!」
リュートが左手を掲げた。次の瞬間、エルの体は周囲に現れた多くの鎖に束縛された。
「なっ…!」
逃れようと法力を放つよりも、動きを完全に封じられるのが先だった。手も足も胴体も、完全に鎖に囚われている。そのまま近くにあった廃墟の残骸に背を押しつけられるようにして拘束される。瓦礫ごと鎖にぐるぐる巻きにされた。
この結界から抜け出よう、と全身に法力を込めてみるも、まるで無駄だった。法力そのものが封じられているのか、うまく体の外に出てきてくれない。生身の力で引き千切ろうとしても、冷たい鎖はエルを完全に雁字搦めにしてしまっていて、びくともしなかった。
(こんな…こんなに、力が違うなんて……)
エルは愕然とするしかなかった。
リュートの強さは知っていたつもりだった。けれどそれはあくまでも敵に対して向けられていたもので、エル自身が直に受けたわけでは無かった。
実際に食らうと、まさかこれほどまでに強力だとは。
改めて突き付けられたあまりにも圧倒的な力の差に、エルは絶望にも似た気持ちを抱いた。
「鉄鎖封印結界魔法……そなたの生温い結界とは、訳が違うぞ。これでも大分手加減しているし…な」
「くっ…!」
エルは悔しげに歯を食いしばった。一矢も報いられないまま動きを封じられてしまうなんて。しかも、手加減してこの威力。
またむざむざとベースの暴虐を見ていることしかできないのか。
エルの剣幕に身を引いたのか、或いはベースの法力に圧倒されているのか、トロンやサイザーらはそれぞれの武器を手にしたままで固まっている。特に、サイザーはベースの恐ろしさも知っているから、尚更迂闊に踏み込んで来られないのだろう。
それでもまだ何とか拘束から逃れようと身をよじるエルの前に、ベースがゆっくりと近付いてきた。リュートの硬い足音が死刑宣告か何かのようだ……エルは肌にじっとりと冷や汗を浮かべながら、近付いてくる彼を見ているしかなかった。
リュート・ベースはエルから一メートル、という距離で足を止めた。双方共に、冷たい瞳でこちらを見据えている。
「若々しいな…」
「……っ?」
このタイミングにそぐわぬ思いがけない言葉に、けれどエルは内心ぎくりとする。
「スフォルツェンド王家の血族は、二百年という長い時を生きられる…それ故に外見が若い時間も長い。もっとも、回復魔法を使わなければ、の話だが」
ベースが論説のように述べていく。そしてそれは事実だった。スフォルツェンド王家の人間は、直系に近いほど長い寿命を持つ。そして普通に生きている分には、ゆっくりと老いていくので、同じ年齢の常人よりは若く見える。現女王ホルンが五十近い年齢でありながらあれほどまでに若々しいのも、それが理由だ。
しかしエルの場合は、彼女とは事情が異なる。
「だが、そなたはあまりにも若過ぎる。二十歳にも満たぬ少女の姿……あの頃のままだ。十五年前と何も変わらずな。フフフ…ハハハハハハ…!」
「な、何がおかしいのよ!」
高笑いをするベースにエルは言い返す。
「スフォルツェンドには禁断の呪法が極秘裏に伝わっているというではないか。己の残りの寿命を絶えず消耗するのと引き換えに、不老の時を保つ……そなたはそれを使ったというわけか」
「………」
エルは沈黙したが、それは肯定するも同義だった。長い時を生きてきただけあって知っていたか。流石は冥法王といった所か。
しかしそれを看破された所でエルにはどうということもない、紛れも無い事実であるからだ。
すべてはリュートを助ける為に、時の流れを無理やりに捻じ曲げた。
しかしそれでも、これほどまでに敵わないなんて…とエルがまた落ち込みかけたところで、ベースがこんな言葉を発した。
「思えばそなたも哀れな女だな、エレクトーン王女よ」
「…何っ?」
「本来なら…傍系とはいえスフォルツェンドの王女として、手厚く守られ、何不自由ない暮らしを約束されていたものを……戦いに身を投じ、常に死と隣り合わせの戦場の中で生きてきた。魔人と関わってしまったが故に、そなた自身も多くの魔族を殺め、一国の姫でありながら血みどろだ」
こんな奴に憐れまれたくも、自分の生き方をどうこう言われたくも無かった。少し運命が変わっていたら、戦いとは無縁の生き方をできたのかもしれない…それでも、エルは今まで自分が歩んできた道を否定する気など毛頭なかった。リュートと出逢えたことも、共に戦ってきたことも。
「…私は、リュートと共に戦うことを自分で選んだのよ。そこに後悔は無いわ」
言い切った。心からの本音だった。
始まりはただ、リュートのように魔法を習いたい、リュートと同じことをしたい、そんな幼心だった。けれど時を重ねるにつれ、紛れもなく自分の意志になった。確かにエルもまたスフォルツェンド王女の一人だった、それでもただ誰かに守られるだけの立場より、自ら前線に赴く戦士としての道を選んだ。常に誰かの為に戦おうとするリュートの助けに、少しでもなりたくて。その背を、ほんの少しでも守りたくて。だから戦いの中に身を置いたことに、後悔は微塵も無かった。ただ、あるのは、たった一つだけ。
「もし後悔があるとしたら、十五年前のあの時、リュートをあんた達の手に渡してしまったことだけよ…!!」
エルは悔しげに涙を滲ませた。
リュートの下に駆け付けたあの時、既に手遅れだった。けれど己にもっと力があったなら、もしかしたら悲劇は回避できていたかもしれない。そしてそれ故に、リュートはずっと、冥法王の手の中で苦しんで来た筈なのだ。
きっと、この冷徹な表情の向こう側で…そしてそんなリュートとは正反対に、ベースは愉悦の笑みを浮かべていた。
「フフ…そしてこの傀儡を取り戻すためにこの十五年間を過ごしてきたと? 人としてのあるべき道を踏み外してまで…健気なことよ。いや、それも無駄となった今となっては、まったくもって滑稽だ。そなたはただ寿命を無為に擦り減らしただけで終わったのだ、実に哀れだな、ハハハハハ!」
「……ッ! 寄生してるだけの分際で、偉そうに吠えるな!!」
ことごとくこちらの神経を逆なでしてくるベースの発言に、エルは怒気を込めた声で叫ぶように言う。
悔しかった。エルが封じられて手も足もでないのをいいことに好き放題言っている、そしてこちらの反応を楽しんでいる。それを分かっていても、言い返さずにはいられなかった。今ベースが自由に魔力を使えるのは、リュートという“聖杯”あってのことだろうに。
そしてリュートはやはり表情に何の変化も見せず、冷ややかな目をしているだけ。
「さて、と。いつまでもそなたの相手をしているわけにはいかないのでな。何しろ…すべては手中だ」
ベースはエルのそばから離れると、再び勇者一行に向き直った。ベースからは、そのままそっくり勇者一行やヴォーカル達を見下ろすような形になっている。
「すべては…我が魔族の手の中に、収まっている!」
そう宣言するや否や、フルートの姿が不意にリュート・ベースの背後に出現した。エルのみならず、サイザーやオカリナらも驚く。
「なっ…」
「フルートぉ!」
「フルートさん、いつの間に!」
恐らく、ベースは転移魔法の応用でフルートを己のそばへと呼び寄せたのだろう。けれどそんなことは分からないフルート当人が一番驚いている。冷や汗を浮かべ、ただただ驚愕して目を見開いていた。
「この隙を待っていたのだ。ヴォーカルが王女を襲い、宝石を探し出し、オル・ゴールを使い人間共をけしかけ…そして…」
(ま、まさか…)
エルの中に嫌な予感が一気に噴き出した。まさかその為に北の都からわざわざベース自らが赴いたというのか。ヴォーカルやオル・ゴールだけに任せておくのではなく、ケストラーを解き放つ為の、“それ”をより確実に行う為に…。
「や、やめなさい!!」
「フッ、フルート!!」
「ちくしょう、フルート姉ちゃんとエル姉ちゃんを放せー!!」
サイザーが鎌を手に羽ばたきかけ、トロンも剣を振りかざし跳躍しようとする。しかしリュートの掌から放たれた衝撃波で、あっさりとその身を瓦礫に沈めた。苦しげな呻きが二人の口から漏れる。
「サイザー! トロン!」
フルートが悲痛な声を上げる。リュート・ベースはそんなフルートに正対した。
本能的な怖れを感じてか、フルートが恐怖に顔を歪ませた。何らかの魔法で動きを封じられているのだろう、フルートは自らその場から逃げ出すことも叶わないようだった。
そして同じく動くのを止められているエルは、リュートがフルートに左手を翳しながら近付いて行くのを、すぐ側で見ているしかなかった。それでも拘束から逃れようと身をよじりながら…けれどやはり、叫ぶくらいしかできなかった。
「ベースッ!」
「そして…魂を手に入れる…!」
フルートの内にある聖なる魂を狙い、リュート・ベースが怯えるフルートに一歩一歩近付いていく。
「やめなさい、ベース!」
エルの制止の声に構わず、また一歩近付く。
「やめろ、ベース!」
手がフルートに伸びる。
とうとうこらえ切れなくなって、エルは“彼”に向かって声の限りに叫んでいた。
「やめて、リュート!!
だって…、その子は、あなたのっ……
妹なのよ―――!!」
(えっ・・・・・・?)
フルートがそう疑問符を浮かべた次の瞬間、魔力を帯びたリュートの左手が彼女の体を貫いていた。
朦朧とする意識の中、フルートは自分の胸元に手を沈めた青年の顔を、ぼんやりと見返していた。しかしそこで彼女の意識は途絶え、その体をリュートの腕の中にどさりと投げ出す。そうしてまた次の一瞬で、彼女の淡く光り輝く魂は、リュートの手によって奪われていた。
丸みを帯びたそれがリュートの指でつままれているのを見て、エルの足ががくがくと震えた。鎖で拘束されていなかったら、きっと力無くその場に座り込んでいただろう…それ程に、ただただ戦慄した。
(止められなかった……私はまた、止められなかった……!!)
十五年前のあの時と同じく、目の前で起こっている悲劇を止めることができなかった。
この思いも、声も彼には届かなかった。
よりにもよって、兄であるリュートの手で、フルートの魂を奪わせてしまった…!
自分自身への悔しさとベースへの怒りで、頭の中が真っ白になりそうだった。そしてそのベースは、エルの先程の発言を受けて、こんなことをのたまわったのだ。にやり、と嫌味に笑んで、己の傀儡であるリュートを見上げて。
「妹か…そうだな、妹だ……。長い間離れ離れだった兄妹が、久方振りに会えたわけだ。喜ぶがいいリュートよ、実に感動的な再会ではないか! 己が手で大切な妹の魂を手にすることができたのだからな! ハハハハハハ…!」
「こ…の、下衆っ…!!」
真っ先に浮かんだ悪態を、エルはそのままベースに向かって叩きつけた。この男はどれだけ…人の心を玩べば気が済むのか。
こんな形の再会を、リュートが望む筈もない。まして、自らの手でフルートを傷つけてしまうなんて…。それをリュート自身が操られた心の奥底で感じているとしたら、どれ程悲しみ、苦しむであろうか。
そしてそうして手に入れたその魂を、リュート・ベースは軽々しくヴォーカルに向けて放り投げて渡した。
「試してみろ…ヴォーカル。斬れるのか…な」
不穏な空気が両者の間に漂った。けれどヴォーカルはベースのその言葉に不思議と素直に従い、例の“何でも斬れる剣”の宝石の部分にフルートの魂を押し込んだ。
その途端迸る、凄まじい程の力の波動。
その場にいる誰もが驚き、そしてヴォーカルはその剣を振り上げると、そのまま後方に振り下ろした。剣から放たれた力が、ダル・セーニョの大地を瓦礫の山ごと真っ二つにした。底が見えぬ程の深い深い亀裂が、たった一撃で生まれてしまった。その威力に、勇者一行のみならず、遠く離れたところで水晶越しに成り行きを見守っているスフォルツェンド陣営も驚愕する。
「ハハハ、こいつはスゲーや! スゲー斬れ味だ。こいつなら斬れそうだぜ、なぁベース!」
剣の威力を誰よりも実感したヴォーカルが満足げな表情を浮かべる。それから、側に近付いていたベースをじろりと見た。
「貸しなよ…パンドラの箱…。持ってきてるんだろ? なあ…出せよ…」
ヴォーカルには、何か確信があるようだった。
パンドラの箱は人間達にとっても魔族達にとっても最重要アイテムであることに間違いは無いが、確かに、ベースの性格を思えば、今この場にそれを持って来ていても不思議ではない。そうでなければ、わざわざベース自身が出向いてきた理由がない…そうとでも思ったのだろう。
神妙な顔をしたベースは、リュートの纏う軍服の懐から小さな箱を取り出した。紛れもなく、パンドラの箱だった。
それを目にするや否や、ヴォーカルは躊躇いなく剣を振り下ろした。パンドラの箱に向けて鋭く、しかしそれは、まるでベースやフルートごと箱が斬れてしまっても構わない、そういった一撃のようにも見えた。
誰にも止める間の無かった一閃。
再び直線に抉られるダル・セーニョの大地…箱もまた斬れてしまったのではないかと、誰もが恐る恐るヴォーカルとベースを見る。しかしリュートが手にしたパンドラの箱は傷一つないまま剣を受け止め、むしろその刀身の方にこそ、ヒビが入っている有様だった。
リュート・ベースもフルートも、不思議と無傷のようだった。リュートはベースに操られている筈なのに…高く箱を掲げ、ヴォーカルの一撃を受け止めた様は、図らずもフルートを守っているかのようにエルの目には映った。
伝説の話通りに聖なる魂を用いたのにこの結果。何でも斬れる、という剣のその話が偽りだったのか、それともパンドラの箱が剣を上回る強度だったのか、いずれにしても、箱が開き大魔王ケストラーが解放されることは無かった。ベースはそれでも冷静だったが、ヴォーカルはそうもいかなかった。
「なっ、何でぇ…斬れてねーじゃねーか! ちきしょう!! 地面ばかり裂けやがってよ、肝心の箱がぶった斬れねーんじゃしょーがねーだろ!!
何が伝説の剣だ、聖なる魂だ…ふざけやがって!!」
その怒りのあまりの激しさに、空気が震えた。
激昂したヴォーカルは、その荒れ狂う感情の矛先をフルートの魂へと向けた。右手で握り締めたそれを、力任せに振り上げる。
「こんな魂…ぶっ潰してやるぜェ!」
「!! 駄目っ…!!」
未だ封じられたままのエルは、そんな制止の声を上げるしかできない。あの魂を握り潰されでもしたら、フルートは本当に死んでしまう。
けれどその危機の刹那、ヴォーカルの背後に現れた影があった。身軽な動きでフルートの魂と、ベースに囚われたままだった彼女の体を取り戻すと、これまた素早く後退した。
予期せぬ乱入者に一同は呆気に取られる。そうして無事にフルートの魂と身柄を取り戻したその影の主は、高らかに宣言したのだった。
「フルートお姉さまの命は…このコルネットが守ってみせますわ! 絶対!!」











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ヴォーカル編での、エルにとっての山場。やっとこの章が書けました。
エルの性格なら、ベースが出てくるのを見るや否や、後先考えず飛び出していくだろうな、と。
エルの認識では、兄ベース=リュートなので、兄べはリュート表記です。
ちなみに、ベース=生首、兄べ&ベース=リュート・ベース表記です。ややこしい…。
2014,5,31
初稿:2014,5,6






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