―第二十六章:いつくしみ深き―
フルートの、ハーメルを信じるという心が、大魔王の血と肉に勝った。
しかしその代償は、あまりにも大きかった。
半壊したスラー城の一角で、胸元を大量の血で染めたフルートは最早、虫の息だった。
ハーメルは今までに浮かべたことも無いような真剣な表情で、フルートをただただ強く抱き締めている。
ハーメルは結局、魔族として覚醒するに至った。数度に渡るオル・ゴールの巧みな挑発、人間達をも利用して追い詰められたこと、そして何よりも心の支えであったフルートとの別離……ハーメルの人間としての心は徐々に擦り切れ、魔族としての殺戮と破壊の本性が剥き出しになった。
一度魔族と化してしまえば、そこにハーメルの理性は無い。魔の衝動のままに見境なく暴れるだけだ。目につくものすべてを破壊し、人の命を奪いにかかる。実の妹であるサイザーも、親友であるライエルも、ハーメルに容赦なく痛めつけられた。
ライエルがどんなに声を張り上げ、自身の身を呈して止めに行っても、異形の者となったハーメルには届かなかった。大きく迫り出した三本の角、背には巨大な魔族の翼、肌の色は褐色に変化し、手足の先には同じ色をした長い鉤爪。スフォルツェンド戦でドラムに一瞬だけ見せたものとは比べ物にならない程禍々しい、魔王の子としてのハーメルの姿だった。目は血を求めて爛々と光り、そこに人としての心は微塵も感じられない……ハーメルを良く知った仲間達ですら、あまりの威圧感に身動きができなくなる程だ。
スラー城にいた人々は、化け物だと口々に叫んで逃げ惑う。無理もない。どこからどう見ても、今のハーメルの姿は化け物そのものだからだ。
紆余曲折を経て後から合流したトロンもハーメルに必死で語りかけるが効果は無い。無残に甚振られただけに終わった。トロンもあわやという時、ちょうど駆け付けたのがフルートだった。
「ハ…メ……」
久し振りに目にしたハーメルの姿に、フルートは声も出ない。良く見知っていた彼とはあまりにも違い過ぎる。禍々しい。恐ろしい。あのハーメルが、と、信じたくない気持ちもある。この変貌がただただ、怖い…。勝手に足が竦み、フルートは立っているのもやっとだった。
しかしその時、ハーメルは意外な行動に出た。突如、己の角の一つを引き抜いたのだ。
血が吹き出るのにも構わず、ハーメルは次に翼の一つを引きちぎりにかかる。魔族と化していても痛みはある、現にハーメルは激しい痛みにのたうち回っている。何故ハーメルがそんなことをするのか、誰も理解できなかった。しかし動きを止めたハーメルは、切なげな瞳でフルートに訴えたのだ。来るな、と。
「あの姿を、見せたくないんだ。魔族の姿を、醜く変わってしまった姿を…フルートちゃんには、フルートちゃんだけには本当に…見せたくないんだ…ハーちゃん……」
それは奇跡と言っても良かった。大魔王の血と肉に支配されたハーメルが意識を取り戻すなど。
ハーメルの行動と、ライエルの言葉にフルートはやっと悟った。今までそうやって私を遠ざけていたのは、魔王の血で私を傷つけたくなかったのだというハーメルの優しさなのだ、と。言葉が足りなくて、不器用で、振り回されもした…けれどそこにあったのは、確かに、優しさだった。
ハーメルが再び人間に戻る糸口が見えたかと思われた。けれどそこで邪魔が入った。オル・ゴールのではなく、よりにもよって人間達の手で。
背後からボーガンの矢で容赦なく穿たれたハーメルは、再び魔の血に支配された。こうなれば目の前にいるフルートは、もうフルートではなく単なる獲物の一人だ。
ハーメルの尖った爪がフルートの胸を貫いた。鮮血と、フルートの帽子と、以前彼に買って貰った人形が散った。
オル・ゴールの策略とはいえ、フルートがよりに寄ってハーメルに殺されてしまうという悲劇に、ライエルらも立ち尽くした。それもハーメルが人の心を取り戻しかけた矢先に……もう声も出ない。
けれどそれでも、フルートはまだ生きていた。重傷を負った体で尚、立ち上がったのだ。髪紐が解け、長い髪がふわりと揺れる。
「駄目よ…ハーメル……」
まるで母親が幼子を窘めるように。
優しく微笑んで、フルートはハーメルに語りかけた。口の端から血を流し、手足に充分に力が入らないながらも、ハーメルの魔族の手を己の両手で包み込む。その掌から温かな光が生まれる。相手の苦しみを理解し、相手に生きる力を沸き立たせ、素直に相手を思いやり、信じる―――回復魔法。フルートの、ハーメルを思う直向きな心が、ハーメルを魔族から人間へと引き戻していく……。
まさかの事態に慌てふためいたのは、今度はオル・ゴールの方だった。サイザー、ライエル、トロンの怒りの猛攻の前に、オル・ゴールは体をズタズタに切り裂かれた。しかしここでオーボウが看破する。オル・ゴールの本体は仮面の方で、肉体は仮初めのものだと。オル・ゴールはベースに助けを求めて、逃亡した。そして、その場に残ったのは……力尽き、倒れたフルートと、彼女を抱きしめてうなだれるハーメルの姿だった。
信じるということが、大魔王の血と肉に勝った。しかし、その代わりにフルートの命はもう助からないということ、それは誰の目にも明らかだった。
「ちきしょう! 何でだよ! 何でなんだよー! こんなのってあるかよ! ちきしょうー!!」
皆の思いを代弁したトロンの慟哭が響き渡る。
せっかく大魔王の血に勝っても、これでは。こんなのはあまりにも、あまりにも…!
けれどこの悲劇的結末に救いの手を差し伸べたのは、フルートの母、ホルンだった。
「フルート…良く頑張ったわね。こんなに傷つきながら…苦しんで…良く耐えましたね…御苦労様。母さん…嬉しいわ……」
転移魔法でクラーリィ・エルと共に場に現れたホルンは、ハーメルからフルートを受け取ると、己が胸に愛娘を抱き締めた。ハーメルを癒した光が、今度はフルートを包んでいく。少しずつフルートの傷が癒え、血の気が失せていた顔にも赤みが戻ってくる。
フルートは助かるのだ、と、安堵の気持ちが皆の胸を満たしていく。
水晶越し、とはいえ、ホルンらスフォルツェンド陣営も、一連の流れを見ていた。
何も手を出せないことをもどかしく思いながらも、ハーメルが魔の血に堕ち、そしてフルートに救われるまでを。
フルートの健気さ、直向きさ、己が傷ついてもそれでもハーメルを想い、信じるその様……それを目の当たりにして、エルもまた胸がぐっと詰まる思いだった。
(…リュート。ベースと一緒に、見てる?)
オル・ゴールは撤退の時にベースの名を口にしていた。彼の上官であり魔界軍最高幹部であるベースも間違いなく、この奇跡を目にしていた筈。もっとも、冥法王にとっては悪夢以外の何物でもないだろうが。
(あなたの妹は、大魔王の血と肉に打ち勝ったのよ……!)
祈るように、その功績を伝えるように、エルは声に出さずに強く思う。それがどれだけ難しいことかは、水晶で見ているだけでも良く分かった。リュートもまたそれを見ていたのだとしたら、封じられた心の奥できっと、フルートの成長を喜んでいるだろうし、誇らしく思っていることだろう。
エルやクラーリィらが仮に、あの場にいたところで何ができただろうか。恐らくは何もできなかったに違いない。ハーメルに容易に組み伏されてしまっていただろう。戦う術を持つ者達ですらあの圧倒的な力の前では敵わないのに、フルートはそれでも、真っ向から立ち向かった。そして勝った。すべてはフルートのハーメルを想う心が、そしてハーメルがフルートを想う心が生み出した奇跡だ。
その代償として、フルートは深く傷ついた。今こそ手を差し伸べる時、とホルンはようやく腰を上げた。それはどれだけ辛い決断であったことか。
ホルンは意識の無い娘に詫びながら、やはり己が命を削って回復魔法をかけ続ける。
「良く耐えましたね…立派だったわよ、フルート…。本当だったらこんなになる前に助けてあげたかったのだけど…ごめんね、フルート……」
これでは母親失格だ、とホルンは悲しく微笑んで言う。けれどフルートを優しく抱き締めて治癒を施す姿は、悲しくも温かい、母親の姿である。
敢えて手を出さず我が子の成長を見守ることで、苦しい思いをすることもある、それもまた親の悲しい性だ。自分自身が傷つくよりも辛いものが、そこにはきっとあったことだろう。それを分かっているからこそ、傍に控えるクラーリィも沈痛な面持ちだ。
長い間回復魔法をかけ続けているホルンは、脂汗を流し浅い呼吸を繰り返している。フルートの大きな傷はほとんど治ったのを見て取ったエルは、ここで前に進み出た。
「ホルン様、変わります。後は私が…」
ホルンの負担を減らしたい、エルはその一心だ。しかしホルンはやはり微笑んで静かに首を横に振った。
「いいのです、エル。どうか最後まで私にさせて下さい」
「でっ、ですが…」
「あなたが私の体を気遣ってくれているのは分かります。でも、エル、あなたも自分の身を労りなさい…。あなた自身の寿命も、相当に擦り減っているのだから…」
「……」
エルは口を噤んだ。
そう、今まさにこの時も。
若い肉体を維持するために、残り分の寿命を使っているのだ。回復魔法を使用していなくても、エルの残り時間は常に摩耗している。
不老の法、禁呪を用いた見返りとして。
ハーメル達はそのことをまだ知らないから、単に、エルも回復魔法の使用のし過ぎで寿命が短くなっていると、そういった意味で取った。やはり何とも業の深い力。己の命を捧げて他者を癒すとは―――。
フルートも、エルも、そしてこの人類の女王も…。
「あなたを含めた私の子達が、今まで傷ついてきたことを思えば…私の苦しみなど、取るに足りないことです」
ホルンは憂いを含んだ微笑である。ホルンが常々悔いていたことを、エルは知っている。
人類の守護神という重荷を背負わせ、常に戦場へと赴かせざるを得なかった息子。
我儘で手放し、母に捨てられた子、と思い込ませてしまった娘。
目の前で想い人を奪われ、その喪失の痛みにずっと耐えている養女。
その苦しみの原因が自分にはある、と、ホルンはいつも自らを責めていたのだ。三人とも、ホルンのせいだとは誰も思ってはいない、それでも、彼女は。
でも、だからこそエルは、そんなホルンの苦しみを少しでも手助けしたかったのに、それすらも負担にしかならないのか。
「やらせて下さい。母親として…」
そう言われてしまったからには、エルは退くしかなかった。ホルンは己がどんなに苦しくても、自らの手で娘を癒すことを望んでいる。それは娘に敢えて苦難の道を歩ませたことへの償いの気持ちも、あるのかもしれない。
ホルンは湿った咳を繰り返した。口の端から一筋の赤いものが流れ落ちる。その色に一同は目を見張った。
「私がこの子に魔法をかけてあげられるのは…これが最後、とは言いませんが、もう、そう幾度もないでしょうし、ね…」
その言葉が意味するものに、ハーメル達は衝撃を受ける。元よりホルンの体の具合が思わしくないことは分かっていたが、まさかそれ程とは、と。
そうしてホルンはフルートの傷の治療を終えると、再びハーメルへとフルートを渡す。
すっかり普段の姿に戻ったハーメルは、フルートを横抱きに抱え上げて、顔を伏せる。
「あの…ホルン様。オレは、オレは…その……」
「良いのです、勇者ハーメル」
ハーメルに何も言わせないままで、ホルンはまた慈母の笑みを浮かべている。
「あなたがフルートを傷つけてしまったこと…それは決してあなたの本意ではないでしょう。あなたもまた苦しんでいたということ…フルートに魔族としての自分を見せまいと、懸命に魔の血に抗っていたこと…フルートもきっと、それを分かっています」
真っ直ぐに勇者を見つめながらホルンは語る。温かく真摯な眼差しは、やはりフルートに似ていた。
「オル・ゴールは退きました。けれど、魔族達が次にどんな手を打ってくるかは未知数です。ですから、勇者ハーメル。
…くれぐれも気を付けて。それから…フルートを、よろしくお願い致します」
実の娘を傷つけた者を責めるでもなく、温かく理解し、ましてや頭を下げる姿に、一同は深く感じ入らずにはいられない。ハーメルですら、帽子を目深に被って小さく頭を下げたのだ。
ホルンは次にスコア国王や親衛隊に向き直り、今回の騒動のこと、城や町に被害が出てしまったことについて詫びを述べる。
そうしている間に、エルはそっとハーメルに抱き上げられているフルートに歩み寄った。
フルートは瞳を固く閉ざしたままだが、胸の辺りは微かに、上下している。しっかりと息がある。
同じ寝顔でも、十五年前のあの頃とは確かに大きく違うこと……それを新たに感じながら、エルも自然笑みを唇に乗せてフルートに語りかける。
「本当に良く、頑張ったわね。どうやら私の従姉妹は、私が思っていた以上に凄い力を持っているみたいだわ」
エルはフルートの茶色の柔らかな髪をそっと撫でる。まだこの子が赤ん坊の頃は、よくしてやっていた仕草だった。慈しむ、親愛の証。掌一つで覆える程だった頭が、すっかり大きくなった。今の少女としての顔立ちにも、あの頃の面影がどこか、感じられる。
どれだけ傷ついても、この子は立ち上がった。その凄さを思い起こす。
「流石はホルン様のご息女で、……あの人の妹だわ」
後半は、自分自身にしか分からない程に、小声で。
十五年前のスフォルツェンドでの闘いの折、ベースはフルートをも殺めようとした。魔人と同じ血を引く者、生かしておけば脅威になるかもしれない、と。今にして思えば、ベースのその危惧は正しかったとも言える。アクシデントとはいえ一介の村娘になって、そのマークから外れたのは不幸中の幸いだったかもしれない。オル・ゴールもまたフルートがパーティ内で一番手強いと踏んで、抹殺にかかった。魔族にとっては時に、戦闘力の高さよりもその心の強さが脅威となる時がある。
リュートとフルートを比べるつもりはない。ただ、彼が偉大な英雄であったように、その妹もまた素晴らしい力を持っている……単に、そう思ったのだ。そういった意味では、やはりリュートの予言は当たっていたのかもしれない。
けれど何よりも、この度のことはハーメルのことを心から好きでなければ、できないことだ。彼女の芯の強さ……今回はそれを、目の当たりにした。サイザーの時と同じように、いや、それ以上に。法力の強さ、魔法の有無を抜きにしても、フルート自身が秘める力を。
「さぁ、エル、クラーリィ、スフォルツェンドに戻りましょう」
「はい、ホルン様」
向き直ったホルンに、エルとクラーリィは頭を下げた。自分達が今回できるのはここまでだ。ハーメルやフルートのことは心配だが、後は勇者一行内で少しずつ歩み寄っていくことだろう。長い時間回復魔法を使って体の衰弱も著しいホルンを休ませねばならないし、スコアの復興の援助についての算段も、改めて整えなければならない。
このたび改めて思い知ったのは、勇者ハーメルの背負うものの重さだ。大魔王ケストラーの血を引く実の息子。徹底的に破壊を殺戮を求める魔族としての本性の恐ろしさ。それを知るからこそ、彼が敢えて自分から人を遠ざけようとしていたことも。
時に馬鹿もする。途轍もなくしょーもないこともする。それでも彼という人をすべてひっくるめて、仲間として向き合おうとする。魔の血を持つということですら受け入れ、乗り越え、進んでいく……現代の勇者達のその強さを改めて知った。
リュートも人類の守護神というとてつもなく重いものを両肩に背負って戦っていたが、ハーメルもまた別の重いものを背負っている。ただ、彼は一人ではない。フルートがいる。オーボウがいる。ライエルやサイザー、トロンといった仲間がいる。
もう自分を孤独だ、と思うこともないだろう。今回の一件があれば尚更。だからきっとこの先も彼は、いや彼らは困難な道のりの中でも、きっと前を向いて進んでいける。
傷の癒えたフルートを囲み温かな表情を浮かべる彼らに、エルはそんな風に思った。
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タイトルは讃美歌の一つから。
オル・ゴール編のあれこれを文で説明しようとすると、案外難しかったの巻。
今後もエルが直接絡まないところはこんな風にサクッと進める予定…なんですが、どの辺りまですっ飛ばしたらいいのか迷うところ。
でも、一次ならともかく下敷き(それも原作本編という流れの)ある二次なら、ストーリーが大きく改変してるとこだけでもいっかなー☆ …なーんて。
だって正直、先、長いし…(苦笑)
…すみません、その辺りのどこら辺を書いてどこら辺をはしょるかという塩梅、何とか探っていきたいです。
さてさて、よーやっと次はヴォーカル編! 果たしてここまで付いて来て下さる有り難い読者様がどのくらいいらっしゃるかは分かりませんが、ヴォーカル編では書きたいこと色々ありますので、頑張って進めていこうと思います。
初稿:2013,9,14
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