―第二十三章:ハーメルンの赤い魔女―
「サイザー様……しっかり…」
傷ついたオカリナが懸命に呼び掛けているのは、やはり血に塗れたサイザーだった。
オカリナからサイザーの話を聞いた、あの後―――勇者一行は、彼女の案内で魔族に捕らえられたサイザーのところへ急いだ。
処刑場は、激しく雨が降っていた。
サイザーは超獣王ギータに今まさに処刑されんというところだったが、間一髪間に合った。魔族達を蹴散らす、勇者達の猛攻…しかしギータは十字架に張り付けにされたサイザーを盾にそれを止めた。実に卑怯な、しかし効果的な手段である。
にたりと笑むギータの姿に、エルは遠い怒りを呼び起こされてもいた。エルからしてみれば、ギータもまた憎い仇敵。十五年前の闘いでこの獣は、リュートに対し酷い行為を働いたのだ。喉を貫き、足や両の瞳を切り裂き―――真実の鏡を通してみたあの光景がエルの脳裏にまざまざと蘇り、またそれが虜囚の身のサイザーと重なって、はらわたの煮えくりかえりそうな思いだった。できれば、今すぐにでもギータをぶちのめしたい、けれど人質のサイザーがいるとあってはそれも叶わず、尚更エルを苛立たせた。
卑劣な手段に唇を噛み締めるのはエルだけではなく、勇者一行達もまた、しかしそんな膠着状態をもう一人の勇者が突如として破った。愛の勇者ライエル。ハーメル一行とは離れて行動していた筈の彼は、サイザーの危機を精霊によって知り、ここに駆け付けたのだという。
久々の出番でギャグをすべて見せるという一幕もあったものの、彼は火の鳥の精霊を操りギータへと闘いを挑んだ。剣士ゆえに接近戦を得意とするギータに押されつつあったライエルだったが、超獣王の奥の手を見て、彼は怒りを爆発させた。ギータは斬った相手の血を舐めると、その者の力を自分の物へと変えることができる。先日の戦いでさんざん苦しめられたドラムの竜、そしてサイザーの羽をギータはその身から生やした。そういった芸当は、流石に超獣王とでも言うべきか。しかしそれがライエルの逆鱗に触れた。
「彼女はいつも…悲しい瞳をしていた」
俯いたライエルは静かに語った。サイザーの秘めた胸の内を。心を痛め、悲しみにくれ、孤独に苛まれ、すべてを恨んだサイザーのことを。
勇者と名乗りはするが、ライエルの本質は精霊使い。同じ精霊使い同士、精霊を介しライエルはサイザーのことを知った。
しかし彼がこんなにもサイザーのことで胸を痛めるのは、それだけだからじゃないような気がエルにはしていた。もっと他に何か、ライエルとサイザーには接点があるような。勿論それはエルは知らない。けれどハーメルのマリオネット演奏の力を借りたとはいえ、ピアノの演奏で敵を倒すことを主とするライエルが、素手でギータを圧倒したのだ。それ程、彼がサイザーのことを思っているということだろう。そしてきっと、必死にバイオリンを奏でていた、ハーメルも。
しかし一瞬の隙をついたギータは反撃を図った。再びサイザーを人質にし、撤退しようとしたのだ。
それを阻止したのはオカリナだった。振り下ろされるギータの剣とサイザーとの間に割って入り、身を呈して彼女を庇ったのだ。
そして話は、冒頭のシーンへと戻る。
胸からおびただしい程の血を流し、固く瞼を閉じるサイザーの姿は、世に聞く妖鳳王とはまるで違っていた。その手で多くの人間を殺め、ついぞ前にスラーをほぼ単独で陥落させたとは到底思えない―――ただの、か弱い一人の少女だった。
(……っ)
確かに失われた血は多いが、回復魔法を施せば彼女はきっと救えるだろう。痛みに耐えるサイザーとオカリナには少し申し訳なかったが、エルはギータの方に歩み寄った。ハーメル一行も同様だった。皆怒りを宿す目でギータを囲み、それに気圧されたギータは情けなく後退する。
「よくも今まで散々勝手なこと…してくれたな…」
「ひっ…!」
中でも一番怒りに燃えているのは、ハーメルとライエルだろう。二人は最前列でギータを見下ろしている。
「まったくよね。こいつは昔っから卑怯な手ばっかり使って」
「こ、これはこれはスフォルツェンドの戦乙女殿」
口を挟んだエルに気付いたのだろう、ギータがわざとらしくへりくだったような態度を見せる。
先日のスフォルツェンドの戦いでは実際に顔を合せなかったから、この犬の王とは十五年振りの再会だった。
それでも、どんなに月日がたっても覚えている。こいつが、リュートに対してした仕打ちを。想い人の体をあんなに無残に切り裂かれて、激昂しない者などいようか。
エルは自然、二ィ〜っと黒い笑みを浮かべていた。
「久し振りね。あんたがあの時してくれたあ〜んなことやこ〜んなこと、私は片時たりとも忘れたことは無かったけど」
エルが上に向けた掌に、一瞬にして膨大な法力が集まる。それを悟って、ギータはまたひっと息を呑んだ。
本当は、今すぐにでもこれをこいつにぶつけたい。
けれどエルはその欲求を何とか抑えた。今この場においては、自分の長年の恨みより、ハーメルやライエルの怒りの方がきっと勝っているだろうからだ。
「ま、ここは現在の勇者達にお任せするわ」
「ひいいいっ」
だからエルはハーメル達に譲った。ハーメル達がギータをぶちのめしたら今度こそ、この法力の塊を遠慮なくぶつけてとどめをさす。そのつもりだった。ひとまずサイザーの治癒の為にエルはそちらに行こうとして―――
しかし追い詰められたギータは、意外な、しかし彼の性格を思えばごく当然の行動をとった。
「フッハハハハ、それ以上近づいてはいけませんよぉ、近付くと―――」
静かに歩み寄るハーメルに対し、掌を見せて制すると、こんなことを言ったのだ。
「あなたの母親を―――水晶ごと、真っ二つにしますよ!!」
そしてギータが指し示したのは、大きな水晶の中に閉じ込められた美しい女性。青みがかった水晶越しに見えるその女性は瞳を閉じ、静かな表情を湛えている。そしてその顔はそう、サイザーに良く似ていた。
「な…」
皆一様に息を呑んでいた。ギータの言葉が本当ならば、その水晶の中に封じられているこの女性はハーメルとサイザーの母親で、そして『パンドラの箱』の名の由来の、パンドラその人―――。
オカリナから話は聞いてはいたが、水晶に閉じ込められているという彼女を実際に前にし一同は戦慄する。
何故彼女がここに。しかしそんな疑問より先に、エルはギータのやり口に大いに不満の声を上げた。
「あんたね、まだ性懲りもなくそんな汚い真似を、」
言い切る前に突風が走り抜けた。エルの長い髪が巻き上げられる。
風の出元はハーメルだった。そう、思えば水晶漬けにされた母親を前にして、一番激昂するのはこの青年だった。けれど様子があまりにもおかしい。
魔の気に満ち満ちていた。獣のような唸り声を上げながら、目の色を変えたハーメルはギータに向かっていった。ギータが恐れおののくような様子で、「ケストラー様」という声を上げた。
「駄目だ…! ハーメル!」
ライエルが止めるのにも構わず、ハーメルはギータを蹴り飛ばした。勢いで被っていた黒い帽子が落ち、そうして見えたものに、エルやクラーリィ、コルネットといったスフォルツェンド陣は驚愕した。ハーメルの頭には、一本の角が生えていた。
ライエルとフルートは既にそれは知っていたものの、だからこそ却って焦っているようだった。
「な、何…?」
思わずそんな声がエルの口から漏れた。
ギータに馬乗りになったハーメルは、容赦なく彼を殴り飛ばしている。しかしそれは、一方的で暴力的で、ともすれば残虐に見える程の所業。助けを請うギータの声に耳も貸さず見開いた目でギータを殴り続ける様は、エルですらぞっとしてしまう。
時には大ボケをかましつつ、しかし先の大戦で勇者としての力を遺憾なく見せてくれたハーメルの姿とは、あまりにも異なる。
反撃も許されずぼっこぼこにされるギータの姿に、いくらか溜飲が下がったのも確かだったけど、けれど血走ったハーメルの目にはまったく理性が感じられず―――。
「いかん! パンドラ様に会ったことで、逆上して魔族の血がまた、目覚めてしまった!!」
「えっ…!?」
重々しいオーボウの言葉が示すのはつまり、勇者ハーメルは魔族の血を受け継いでいるということで、そしてその魔の力が暴走してしまったが故に、ハーメルはこうも豹変してしまったということか。
エルの隣でフルートもまた呆然としていた。フルートは以前の旅路の中で、そのハーメル後の暴走に触れたことがある。あの時はそれが恐ろしくて、何もできなくて…そしてそれがまた、目の前で繰り返されようとしている。
怒りに我を忘れたハーメルは、標的をギータからパンドラの水晶に移した。オーボウの、ライエルの、そしてフルートの制止の声が響くが、ハーメルの動きは止まりそうもない。
「やめて! ハーメル!!」
自らの母親を自らの手で砕こうとしている。それを止めるべくフルートの悲痛な叫びが辺りに木霊したが、ハーメルがその拳を退いたのは、
「やめて…兄さん」
水晶の母を庇って両手を広げたサイザーの姿がそこにあったからだった。
いつの間に、意識を取り戻したのだろう…いずれにせよ、サイザーは大怪我を負った体で無防備に、魔の血に支配されたハーメルの前にその身を投げ出している。
一同に緊張が走る。けれどサイザーの捨て身の甲斐あってかハーメルは自我を取り戻し、振りあげていた拳を下ろした。即座にサイザーが、傍らにあった鎌を振りかざし、刃をハーメルの首に当てた。
「…!」
皆、息を呑む。魔の兄妹が生み出す緊迫感、何より二人の因縁に誰も何も、手出しも口出しもできない。ただ見守るだけだ。
「正直、お前が憎い…殺したい程な…」
先程までの弱々しい顔とはうって変わり、憎しみに満ちた表情を浮かべたサイザーは浅い呼吸を繰り返しながらハーメルに語りかけた。
「お前は母に選ばれ、想われ…のうのうと生き…私は捨てられ、憎まれ…血みどろの中を突き進んだ。同じ兄妹でな、苦しんでいるのは私だけだ…」
辺りはしんと静まり返り、雨の音だけがどこまでも響く。それでもサイザーのその正直な告白は、ハーメルから離れて後ろにいる、エル達の方にまでしっかと聞こえてきた。
ハーメルは何も言わない。ただ、無言で妹の声に耳を傾けている。
「だが、違ってた…な。お前も戦っているんだろう。その呪われた“大魔王の血”と。
放っておけば殺戮や破壊へ走るその血の暴走を抑えるために、人間界で苦しんできたんだろう? ケストラーの血は特別だからな…。お前の方に“魔王の血”がすべて受け継がれたという話は…本当だったらしいな…」
それは、初めてその事実を知ったエル達には、この上もない衝撃だった。
話の流れで、ハーメルがただの人間ではないことは分かった。しかし、まさか魔族すべてを束ねる大魔王の血が勇者に流れているだなどと、想像の遥か上をいっていた。
(そうか、だからさっきギータは…)
それでエルは、先程のギータの発言に納得がいった。ギータはきっと、暴走するハーメルに、大魔王の力の片鱗を見たのだ。
しかし本当にハーメルがケストラーの血を受け継ぐとあらば…フルートやライエルら、ハーメルと長く行動を共にしてきた彼らは、それ相応の苦労をしたのだろう。
そして本当に、数奇で皮肉な運命だった。同じ父と母から生まれた兄妹なのに、片方は魔族で、片方は天使。魔の血をひく兄は人間の中で育ち、天使の血をひく妹は魔族の中で育ったのだ。大魔王の血を持ちながらもサイザーは何故天使なのだろう、という疑問は残るが、エルはこの二人の運命の悪戯に、胸の奥がぎゅっとつまった。
そして否が応でもリュートのことを思い出してしまう。リュートとフルートもまた、魔族によって引き離されてしまった兄妹であるからだ。
「初めてそれを見た時は笑ったぞ。だが…お前も苦しんでたんだな……私と同じように……
フフフフ…ハハハハハ……」
力無い、自嘲の笑い声がサイザーから吐き捨てられた。
彼女は、魔族達の中で苦しみながら生きてきた。それは兄妹の内で自分だけだと、ずっと思っていた。しかしそうではないと、兄のハーメルもまた苦難の歩みをしてきたのだと気が付いてしまった。魔の血に支配される兄を見て、我も忘れて母親に殴りかかる姿を見て、苦しんできたのは、自分だけではないのだと。
(…サイザー…)
エルはきゅっと手を握りしめた。母親の水晶にもたれて座り俯く彼女は、痛ましいより痛々しい。怨み、つらみ、憎しみ、誤解、渇望…そういったものが彼女の中にぐるぐると渦を巻き、殺戮へと走らせた、たとえきっかけは、ベースにそう仕向けられたのだとしても。そしてやっとそれが解れようとしているのだ、長らく憎んできた兄と向き合うことで。
「サ…サイザー。あっ、あのな…」
同じ血をひく兄だからこそ、だからその彼もたくさん思うところがあったのだろう。
すっかり普段通りの表情に戻ったハーメルは、帽子を被り直しながらサイザーに何事かを話しかけようとした。
その時、邪魔が入った。
「!!」
轟音、そして巨大な竜巻。絶え間ない地響きに、一同は立っているのもやっとだ。
「なっ、何だ…!?」
見上げてみれば、薄暗い空の真ん中に、巨大な魔法陣が出現していた。竜巻はその中心から生み出され、凄い音を立てながら、魔族達を吸い上げていく。
(ベース…!?)
エルは歯噛みする。数万もの超獣軍を戦車もろとも荒っぽいやり方とはいえ回収する、そんな真似ができるのはあの冥法王しか思いつかない。
第一次スフォルツェンド大戦の時と酷似していた。魔族達が撤収するならそれはそれで結構だが、長年の仇をはいそうですかと逃がしてなどやらない。
「ただじゃ逃がさないわよ、ギータ!」
エルは空へと昇っていくギータに狙いを定めて、法力弾を放つ。
「がっ!!」
「よっし、命中!」
法力はギータを巻き込んで爆発した。その全身は焦げたようになっているが、あのくらいでは大したダメージにはならないだろう。それでも、十五年前にリュートが受けた痛みの何分の一かでも返せただけでも、上出来だった。
しかし反撃はそこまでだった。もう射程距離の外にギータは出てしまったし、竜巻の風圧も一気に増した。凄まじい風圧に誰も身動きが取れない。
(覚えてなさい! いつか必ず、リュートを傷つけられた恨みを晴らしてやるから…!)
エルも追撃は諦め、恐らくは北の都へと帰っていくギータを見送るしかなかった。
そうして成す術もなく魔族達が魔法陣に吸い込まれていくのを見上げていた一行の前で、パンドラの箱と鍵、そしてパンドラの水晶までもがふわりと浮きあがる。
「まずい…みんな魔族に持ってかれるぞ!!」
「「母さん!!」」
ハーメルとサイザーの叫び声が重なった。母親は魔族に持って行かせまいと、サイザーは地を蹴る。ギータに斬り落とされた翼の付け根から一気に血が噴き出すが、それでもサイザーは氷柱の母親に向けて手を伸ばしながら跳躍した。
「か、母さ…」
求めてくる娘の手を、母親は残酷な方法で跳ねのけた。パンドラを覆っていた水晶から数本の鋭い刃が伸び、サイザーに襲いかかり、傷だらけのその体を更に貫いた。
「あ…」
「…!!」
余りの出来事に誰もが絶句した。エルは痛い程に拳を握りしめた。こんな小細工は、やはりあいつか。
(…っ、ベース…!)
仇敵が重ねた非道にエルは怒りを募らせる。
どこまで、どこまで人を傷つけ、苦しめたら気が済むのか、あの男は!
「…フン」
母親を取り戻すことは叶わなかったが、それでもサイザーは最後の力で、パンドラの箱にはめられたままの十字架を強く握りしめた。十字架は箱から外れ、サイザーの手の中に残る。
そうして満足そうに微笑むと、サイザーは兄であるハーメルの腕の中にゆっくりと落ちた。
パンドラの水晶は竜巻に呑まれて上昇していった。そして魔法陣にすっかり吸い込まれ、消えていく。魔の兄妹は悔しげに母親を見送るしかなかった。
エルもまた、その魔法陣がゆっくりと消えていくのを、忌々しげに見つめることしかできなかった。ベースへの怒りが増したのは確かだが、それ以上に今は、サイザーの身が心配だ。
「サイザー!!」
「サイザー様、しっかり!!」
「ひ、ひどい…」
ハーメルやオカリナ達に囲まれ、血塗れの体を瓦礫の上に横たえているサイザーは、まさに生きているのが不思議なくらいの重傷だった。ギータからやられた分に加え、今しがたベースから加えられた粛清…それにより体中に大きな穴が開き、どこもかしこも赤い。
「フフフ……私にふさわしい最期だ…」
「…喋らない方がいいわ。怪我に障る」
口の端から血を流しながら語るサイザーの傍らにエルは膝をついた。そのまま胸元に手を翳し、回復魔法をかけ始める。温かな光がエルの掌から漏れ、サイザーの体を少しずつ癒していく。しかし。
(傷は治せても、流れた血は取り戻せない…果たして、間に合うかどうか…)
傷が深すぎる。幾ら回復魔法だとて、瞬時に全身の傷を治せるようなものではない。エルが傷を治すそばから、別の傷からまた血が流れ出す。
エルが己に魔法をかけるのをぼんやりと見ながら、やはりサイザーは自身の死がすぐそばまで来ていることを悟っているのだろう、こんな風に言葉を連ねていった。
「今まで…たくさんの人間を消してきた。スラーもそうだ…。町も焼いた。国も…」
「サイザー! 喋んじゃねぇ! 治るもんも治らねェだろ!」
エルの魔法での回復が出血に追いつかないことを見て取ったハーメルが声を荒げる。サイザーは兄の言葉に構わず続けた。
「天使の翼はもがれ…赤い魔女は自らの血で真っ赤だ…。そして…捨てられた母に撃たれ、この有様だ…」
「ばっ、馬鹿…サイザーそれは…」
「いいのだ。私など…死ねば…いいのだ」
か細い声でサイザーは言い切った。回復魔法を施しているエルは、サイザーの思いが嫌でも伝わってきた。
(この子…本当にこのまま死ぬ気だわ)
罪を重ね続けた己への罰として…誤解とはいえ歪んだ道を歩み続けた己を蔑んで。
自分には生きる価値など無いと、母親に愛されてなどいないと。
本当は想われたかった、愛されたかった…!
そんな、飢えた感情に溢れているというのに。
「馬鹿ヤロー!」
そんな、自暴自棄に陥った妹を叱咤したのは、やはり兄であるハーメルだった。
「いいか! 良く聞けサイザー! お前は…母さんに捨てられたんじゃない! 魔族にさらわれたんだよ! それはベースがお前を騙そうとしてやった策略だ!!」
サイザーの目に薄く光が戻った。それを見て、ハーメルは更に呼びかける。妹の頬に触れながら。
「おふくろはいつも悔いてたよ! 魔族から救えなくって申し訳ないって…! いつもオレに言ってたぞ! 無事に生きているのか…どうしてるのかってサイザーのことが気掛かりだって、いつもお前のことを思ってたぞ!」
それはきっと、そんな母の姿を間近で見ていたハーメルしか言えなかった言葉。いつになく必死なハーメルだから、やはりその言葉は真実なのだろう。
エルの中にも、サイザーの思考が流れてきた。冷たい水晶の前で、決して答えてはくれない母親に、どうしようもない思いを抱いていた幼い頃…。悔しくて、悲しくて切なくて、でも、母さんも、私のことを想っていてくれたのだと言うのか…?
行き違ってしまったが故に生まれた誤解。それはホルンとフルートの間に初め存在していたものと、少し似ていた。
「そうだよ! 君は魔族に操られてただけじゃないか! 大丈夫、まだやり直せるよ!」
「そ、そうよ…しっかり…」
「サイザー様!!」
少なくとも、ここにいる皆はサイザーの死を望んでなどいない。友人であるスラー聖鬼軍をその手で奪われたエルさえも、このままサイザーを死なせてはいけないと、そう思っているのに。サイザーに過去を悔いる気持ちがあるのなら、尚更…けれど掌から伝わってくるサイザーの思いに、エルは愕然とする。
サイザーはまだ、死ぬ気でいる。
「フフフ…ありがとう。嘘でも嬉しいぞ…。これで安心して、死ねる…」
そして、それはもう満足そうな表情で笑ってみせたのだ。
「…っ、ヤケになる気持ちは分からなくもないわ。でも、気をしっかり持ちなさい…! 今ここであなたが死んでも、何にもならないわ!」
我慢できずにエルもまた叱責した。肉体そのものの生命活動が衰えている今、生きる気力まで萎えてしまっては、回復魔法の癒しのエネルギーもその体にうまく行きわたらない。エルがこうして回復していてもまだ、サイザーは激しく咳き込み、口から血を吐き出す。
(このまま、じゃ)
やはり間に合わないのか。
眉根を歪めるエルの手の隣に、すっと翳された両手があった。
フルートだった。
どこか虚ろな目をしながら、それでもその両の掌からは淡い温かな光が漏れていた。傷ついた者の体を癒す、スフォルツェンド王家の女にしか扱えない特殊な魔法…そう、回復魔法。
「…フルート」
魔法修業中だったフルートが、この土壇場で回復魔法を取得したことに、一同は驚かずはいられない。隣で同じように回復魔法を使っていたエルも同様だった。
フルートは慣れぬ魔法に汗をかきながらも、懸命にサイザーを癒そうとしていた。フルートが切なげな顔をしているのは、エルと同じように、サイザーの痛みが伝わっているからだろう。
(…フルートの、サイザーを想う優しさ、慈愛の心が、癒しの力を呼び起こしたんだわ…)
フルートの成長に、エルは小さく微笑んだ。回復魔法を会得する方法は、理屈ではない。相手を救いたいと願う心、相手を理解したいと思う心、傷つき倒れた者に手を差し伸べるという思いやり…そういったものが膨らんで初めて、己の内から癒しの力が湧き出してくる。無論、前提としてスフォルツェンド王家の血がなせる技…しかしこの場においては、理由はきっとそれだけではない。
フルートの回復魔法が、サイザーの傷を少しずつ癒していく。その回復量の高さに、エルは素直に驚く。エルの回復魔法より、フルートのそれの方がサイザーの傷を治すのがずっと早いのだ。流石はホルン様直系の血筋と言うべきか。或いは、兄のリュートがそうであったように、フルートも法力のポテンシャルは計り知れぬものがあるのかもしれない。
その代償として、己の命を削ってしまうこととなるが、それでも、フルートのこの性格なら、この先もきっとそれを厭わずに回復魔法を使って、勇者一行の大きな力となっていくのだろう。
血を多く流したせいか、サイザーはいつの間にか気を失ってしまっていた。しかし顔色は先程までよりずっといい。回復魔法がしっかりと効いて来ているのだ。二人掛けでかけているから、というより、フルートの魔法の力が単独でもずっと強力だからだと思われた。
「…後は、任せるわね」
この分なら、もう心配ないだろう。
そう判断して、エルはサイザーから離れた。友人を奪われた憎しみが心中に入り混じっているエルがするより、純粋にサイザーを助けたいと願うフルートが回復した方が、多分いい。
エルが身を引いたことに、クラーリィが何事かを言いた気な顔をした。
「…エル様」
「見てたら分かるでしょ、クラーリィ。私の回復魔法より、あの子の魔法の方がずっと上手だわ」
単に、初めてで加減がうまくいかないせいもあるかもしれないが、それでもフルートの魔法はサイザーの傷を見る見るうちに治していく。
「流石は、ホルン様のご息女、といったところかしら。それ抜きにしても、あの子がサイザーを癒してやった方がいいと思うの…」
予感でしかないが。体だけでなく心にも深手を負っているサイザーは、フルートのあの明るさ、前向きさに今後も救われるような、そんな気がする。
「それに、他にも怪我人はいるしね」
エルはくるりと振り向いて、オカリナに歩み寄った。彼女もまたギータの剣をその身で受け止めたことで、肩や腕に大きな切り傷がある。
「…サイザー様は、助かるのですね」
「…ええ、きっと」
「良かった…!」
呆気に取られたような表情のまま主君を見守っていたオカリナは、エルの断言に心底ほっとしたような顔になって、大きな瞳に涙を滲ませた。
サイザーが無事に助かりそうなことに胸を撫で下ろしながら、一行はフルートが彼女を懸命に治しているのを、静かに見ているのだった。
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数年越しに書いた続きです。長年ほったらかしておいてごめん…>ハーメルン勢
ふと書きたくなって、久し振りにハーメルンを読み返したらやっぱり面白くて、このエルの物語も何とか完結させてあげないとなーと再度一念発起。
熱が再燃してる間にどんどん進めていきたいです。
2012,11,7
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