―第六章:一緒に―




時は、十年ほど前に遡る。





埼玉に、とある士族の家族があった。父と、母と、幼い兄妹と何人かの使用人とで、慎ましくも平穏な生活を送っていた。
その家で、一番年下のその少女こそ、だった。
「ねぇねぇ、母様、兄様、おはじきで遊ぼうよぉ」
六歳になったばかりのは、にこにこと良く笑う少女だった。反面、利発で芯も通っており、時折大人びた表情も見せる。
優しく真っ直ぐな子に育ったのは、良い環境と温かい家庭があったからだろう。
「いいわよ、。遊びましょうか」
「本当にはおはじきが好きだなぁ」
母と兄の一良が自分の遊びに付き合ってくれることになり、は嬉しくて笑みを深くする。
まだ子どもだったにとって、それは世界のすべてだった。安心できる自分の家と、大切な家族と。手伝いや習い事やこうした遊びをして、一日を過ごすのはとても好きだった。
幸せの意味も、その重さも、幼すぎてそれには何も気付けない。けれどにとっては、間違いなく幸せな毎日であることに違いなかった。
今日は何をして遊ぼうか。何をしようか。父様、母様、兄様と、何をお話しようか。
そんな他愛無い事でも、の小さな心は充分に満たされていたのだ。そしてだからこそ、明日への不安など何もなかったのに。
―――歯車が狂い出したのは、その日の夕刻からだった。
「反逆者?」
父の話を聞いて、母が眉を潜めた。ああ、と父が頷く。
「明治政府の反逆者が、この辺りに逃げ込んだそうだ」
詳しい経緯は父と母は小声で話していたので、には分からなかった。けれど温和な父の、いつになく険しい顔を見て、子ども心にこれは只事じゃないと悟る。
「危険人物を野放しにしておくわけにもいくまい。少し辺りを見回ってくる」
「あなた、私も一緒に・・・・・」
駆け寄ろうとした母を、その肩を押さえて父は制した。
「駄目だ。お前はここにいなさい。一良とを、守って欲しい」
母の目にうっすらと涙が浮かんだ。は父に歩み寄り、言った。
「父様、行っちゃうの?」
「ああ。でも心配しなくていい。すぐに戻ってくるからな」
父は屈んでじっとの顔を見ると、目を細めた。そうしての頭をよしよしと撫でる。父のその大きな手は、いつもを安心させてくれた。
「うん、行ってらっしゃい」
父の言葉を信じ、はにっこりと笑った。父も笑みを返し、すっと立ち上がると刀を帯びた。父は幕末の頃、なかなかに腕の立つ剣客だったらしい。
「ご武運を・・・!」
母もそう言って父を見送った。夕暮れの中を歩いていく父の姿が小さくなっていき、やがて見えなくなった。
母は子ども達に見えないよう涙を拭うと、明るく言った。
「遅くなっちゃったけど、夕餉の支度をしましょうか。父様が帰ってきた時、すぐに食べられるようにね」
「うん!」
二人の子ども達は無垢に頷く。ところが―――。
父は、帰ってこなかった。
「父様、遅いね・・・・・」
の目の前には、すっかり冷えてしまった夕餉があった。あれから、どのくらいの時が経っただろうか。父が去っていった時の茜色の空は、今や黒い闇と、それを照らす満月の空へと変わっていた。
母の顔も同じように曇り、やがて何かを決意したかのように立ち上がった。
「母様?」
「父様の身に、何かがあったのかもしれない。だから母様は、父様の所へ行って参ります。一良、、あなた達はここにいて」
「母様、おれも行きます! おれも、父様に剣を習っているから平気です!」
一良も勇ましく立ち上がり、父と同じように腰に刀を差した。それを見て、も母へと詰め寄る。
「母様、兄様、私も行く! 一人で待っているのなんて嫌だよ!」
けれど。
母は一良とを、ぎゅっと抱きしめただけだった。
「母様・・・・?」
いつも母の抱擁は、に温もりを与えてくれた。ずっとこの腕の中にいたいという、安らぎも感じていた。
でも今の抱擁は。温もりだけではない、何か、もっと別の感情が―――。
「一良、、あなた達はここにいて。いいわね」
母の声は、涙声だったが凛としていた。反論を許さない鋭さを持っていた。
二人が硬直して動けずにいると、母はすっと腕を解いた。やっと普段の優しい笑みを浮かべて、一良とを覗き込んだ。
「帰ってくるから。だから、ここで待っていてね」
本当は、本当は一緒に行きたかったけれど。
もうそれを言ってはいけないような気がして、はようやく、小さく頷いた。
母はほっとしたように笑った。そう、これでいい。この子達を巻き込むわけには行かない―――・・・・。
最後に柔らかな笑みを残して、母は部屋を出た。障子戸が閉まった音が酷く冷たく感じられた。映っていた母の影もすぐに遠去かっていく。
一良とは、しばらくの間何も言えず茫然としていた。が、やがて一良がすっと立ち上がる。
「兄様?」
「やっぱり、おれも行く。父様と母様が心配だ。は、ここに残って、」
「私だけ残るなんて嫌。兄様が行くなら私も行く。私だって、父様と母様が心配だもの」
一良の言葉を遮っては言った。父と母が行き、そして兄も行き、もし誰も帰ってこなかったら。考えるだけでも怖い。だったら、自分も行きたい。
―――ねぇ、明日も一緒に遊ぼうよ。明後日も、その次も、その次の次も。
父様と、母様と、兄様、そして私で―――
「分かった。おれから離れるなよ」
「うん!」
二人は使用人達に見つからないように、そっと家を抜け出した。幸い今日は満月の夜だったので、提灯がなくても何とか道が見える。とはいえ、見知った道が闇の中ではいつもと違って見え、不気味さを感じはしたが。
近所を一回りしたが、父も母も、その反逆者とやらも見当たらない。範囲を広げて探していくうちに、二人が良く遊んでいる裏山に出た。道のない道を歩いていくうちに、いつしかは、一良とはぐれてしまっていた。
「・・・・兄様?」
呼んでみても、返事は帰って来ない。月明かりがあるとは言っても、夜の山の中、木に遮られて辺りはやはり薄暗い。
不安のあまり涙が出そうになったが、は何とか泣くのを堪え、大きな声で家族の名を呼んだ。
「父様、母様、兄様―――っ!!」
のその声に答えるようにして、兄の声が遠くから聞こえてきた。
ただしそれは、悲鳴だった。
「・・・・っ!?」
胸騒ぎがして、は声の聞こえた方に駆け出した。低い木の枝や鋭い葉がの手や足に小さな切り傷を作ったが、そんなのを気にしている場合ではなかったし、気にもならなかった。
ただひたすらには走った。息を切らしながら走り続けて、そうして森が開けた先に見たものは。
一面の、赤い色―――・・・・。
「とお・・・さま? かあさま、にいさま・・・・・・」
は茫然とその場に立ち尽くした。目の前の現実が衝撃的過ぎて、小さなにはすぐに認識できない。そして恐らく、認識したくもないのだろう。
みんな死んでいた。
温厚な父も、優しい母も、頼れる兄も。首や胸からおびただしい血を流し、無念そうに目を見開いて、或いは悔しそうに強く瞳を閉じて。
ふらふらと、は家族に近付いた。着物が血に濡れるのもお構い無しに、母の側に膝をついた。
「ねぇ母様、お家に帰ろうよ。お腹すいたよ・・・・・」
母は、首と胴が離れていた。
「父様、早くしないと夕餉が冷めちゃうよ・・・・?」
父は、全身血まみれだった。刀を強く掴んだままだった。
「兄様、今日も寝る前にお話聞かせてよ・・・・・」
兄は、まだ温かかった。けれど決して動くことはなかった。
呼びかけても、揺すっても、何も言わない、何も答えてくれない。いつものように微笑みを向けてくれない家族達―――。
「父様、母様・・・・・・兄様ぁ・・・・・・」
はようやく認識した。
もう、父も母も兄も、この世にはいないということ。二度と帰って来ないということ。
二度と・・・・逢えないということ。
―――ねぇ、明日も一緒に遊ぼうよ。明後日も、その次も、その次の次も。
父様と、母様と、兄様、そして私で。みんなで、家に帰ろうよ―――
ささやかな願いが、音を立てて壊れた瞬間だった。
それまでののすべてが、崩れ落ちた瞬間だった。
「いやぁぁぁああぁああぁぁっ!!!」
は頭を抱えて泣き崩れた。
どうして、どうしてどうしてこんなことに。
父様。母様。兄様。一緒に毎日、楽しく過ごしていければ良かった。それなのにどうしてこんなことに。父様。母様。兄様。もうこの世にはいないなんて。とっても優しかったのに、大好きだったのに。
もうこの世にはいない。もう、この世にはいない。死んだ。みんな死んじゃった。
どうして死んでしまったの?
どうして死ななければいけなかったの? どうして―――
殺されなければ、ならなかったの?
「・・・・・・っ」
ある感情が、の中に湧き上がる。子ども故の純粋さが生む、だからこそ深く、暗く、醜い―――憎悪。
先程目に飛びこんできた赤い風景の先に、立ち去る長身の人影がいたのを、は確かに見たのだ。
あれが、両親の仇。あれが・・・・・自分からすべてを奪った者。
「許さない、絶対に・・・・・あいつは私が殺してやる!!」
無垢だった瞳に涙と怒りと、憎しみの感情が浮かぶ。子どもとは思えないほどの冷たく、激しい表情。
「父様、母様、兄様。私が、仇を取るから」
は一良の腰に刺さったままの刀をすっと抜き取った。初めて手にする刀はとても重く、満足に振り回せそうもなかったが、それでも、これさえあれば。あいつを、殺すことができる。
冷笑を浮かべ歩き出そうとしたは、けれど一度、振り返った。
「・・・・行ってくるね」
物言わぬ家族に向けた笑み。それはかつてが家族と幸せであった頃のような、満面の笑顔だった。
そうして再び柄を強く握り締める。足早に歩き出す。
その時には、憎悪に満ちた顔。必ず、この手であいつを―――。
その思いが通じたのか、裏山の麓、森の終わりで月明かりが降り注ぐ中、はついに家族の仇と対峙した。
全身を包帯で纏った長身の男。は知る由もなかったが、それは元人斬り、危険人物ゆえ明治政府に暗殺されかけ、それでもまだ生きていた「反逆者」、志々雄真実だった。
「あんたが・・・・私の家族を・・・・・!」
はぎゅっと刀を持つ手を握り直した。もう重さは感じなくなっていた。憎しみのあまり、感覚が麻痺しているのかもしれない。
志々雄は何も言わずにを見下ろしている。
「殺してやるッ!!」
は刀を振り上げて志々雄に向かっていった。だが、初めて刀を持った、しかも幼い少女の一撃をかわすなど、志々雄には造作のないことだった。ほんの少し体を傾けただけでの狙いは逸れ、後ろの藪へ突っ込んだ。
「ち・・・・っくしょう!」
それまでの彼女なら決して言わない言葉を吐いて、は身を起こし体勢を立て直した。
多分、敵わないだろう。それでも、せめて一矢でも報いたい。家族の苦しみを、少しでもこいつに―――!
「やぁっ!」
は無我夢中で刀を振り回す。志々雄は腰の刀を抜くまでもなく、ひょいひょいとの刀身を避けていた。そうしてとっさに足を出す。志々雄に向かっていたは、その足に躓いて簡単に転んでしまった。
「・・・・っく」
は歯を食いしばり、地を手で押して身を起こす。
悔しい。父様も勝てなかった奴を、私が殺すのはやっぱり無理なのか。でも。
決めたんだ。家族の仇は私が取るって。もう、私しかいないんだから。絶対に、諦めない。
大事な家族をみんな殺したこいつを、決して許しはしない。
絶対に、絶対に、私が仇を討つ!
「・・・・許さないんだから・・・・・」
よろけながらもは立ち上がった。昏い瞳でじっと志々雄を見据える。怒りと、悲しみと、憎しみが入り混じった表情・・・・。
そんなを見て、志々雄が初めて口を開いた。
「気に入ったぜ」
え、と思う間もなく、志々雄がの方に歩み寄ってきた。彼の言葉の意味を掴みかねたが、はこの好機を見逃さず、斬りかかっていった。だが、いとも容易くその手は志々雄に掴まれる。
「女のガキの癖に、なかなか根性座ってるじゃねぇか。気に入ったぜ」
「は・・・・放せっ!」
はその手を振りほどこうとするが、志々雄はびくともしない。抜け出そうともがくの手を、志々雄はニッと笑って不意に放した。
体勢を崩して尻餅をつく。その痛みに顔を顰めていると、志々雄の声が上から降ってきた。
「ついて来るか?」
見上げると、月を背後に志々雄が立っていた。ふと、今まで感じていなかった圧倒的な威圧感を感じ、はその場から動けなくなっていた。
初めて僅かな怯えの表情を見せたを見て、志々雄は不敵に笑った。
「俺について来るか? そうすれば、いつでも家族の仇が討てるぜ」
「だ・・・・誰が、あんたなんかに!!」
志々雄の言葉にハッと我に返って、は威勢良く言葉を返した。
いくら仇を取るためとはいえ、こんな奴と一緒に行きたくはない。こんな奴に気に入られたくもない。けれど―――。
もし断ったら? そうしたら父達のように自分も殺されるのだろうか。
もし志々雄についていったら。そうしたら、いつか仇を討てる時が来るだろうか。でも。
がそんなことを子どもの思考なりに必死で考えていると、すっと奥から出てきた影があった。志々雄の仲間か、と思って警戒したは、月明かりに照らされたその姿を見て少なからず驚く。
何故なら、それは自分と大して歳の変わらない、男の子だったので。
「・・・・・・・」
は驚きのあまり、ぽかんと口を開けたままその男の子を見た。散切り頭に、女の子のようにも見える可愛らしい顔立ち。そしてその顔に、穏やかな笑みを浮かべている。
「宗次郎」
と、志々雄がその子を呼んだ。それがその男の子の名前のようだ。
宗次郎はすたすたとの前まで歩いてきて、しゃがみ込んだ。が茫然と宗次郎を見ていると、彼はと目線を合わせて、にっこりと微笑んだ。
「一緒に、行こうよ」
手を差し出してきた。小さい手。よくよく見れば、傷だらけの手だった。
は宗次郎の顔に視線を戻した。家族を思い起こさせる、柔らかな笑み。
もう家族達がその笑みを浮かべてくれることは無いけれど、それでも、何時間か前の幸せだったあの頃に戻れたような気がして。
どうしてこの子は、血まみれの私に微笑みかけてくれるんだろう。
「一緒に行こうよ」
もう一度、宗次郎は言った。それは限りなく無垢な笑みだった。
全部、失くしたと思っていた。それで空っぽになった心に、その笑顔はすうっと入り込んできた。
憎悪に飲まれていたに与えられた、たった一つの笑顔。
―――気が付いたら、は宗次郎のその手を取っていた。
「僕は瀬田宗次郎。よろしくね」
「あ・・・・私は、・・・・」
にこにこと無邪気に笑う宗次郎に、は戸惑いながらも言葉を返す。
志々雄はそんな二人を見て満足そうに笑む。
「決まりだな、。俺は志々雄真実。いつでも、敵討ちを仕掛けてきな」
踵を返し、志々雄は足早に歩いていく。手を繋いだまま、宗次郎とは志々雄を追いかけた。
は前を歩く志々雄に憎しみの目線を向ける。けれどふと宗次郎の顔を見ると、その思いも一瞬、霧散してしまう。
がそれまでのすべてを失った日。
それは、志々雄と宗次郎との、出逢いの日でもあった。
















「本当に、一緒に行かなくて良かったんですか?」
志々雄の館を抜けた後、合流地点へと向かう途中、不意に宗次郎がそんなことをに尋ねてきた。一呼吸分だけ間を置いて、は答えた。
「操ちゃんや緋村さんと、一緒に行って欲しかったの?」
「まさか。だってさんは行かないだろうな、とは思ってたし、それに、僕も行って欲しくないし」
宗次郎はにっこりと笑う。見せかけだけの笑顔だと今は知ってはいても、それでも、にとってはそれは間違いなく本当の・・・・・。
「・・・・・どうしたんですか?」
俯いて足を止めたを、不思議そうに見る宗次郎。そっと近付くと、は頭を傾け、宗次郎の肩にことん、と置いた。
「どうしたんですか?」
同じように宗次郎は尋ねる。ほんの少しだけ困ったように笑って、の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「・・・・行かないよ」
掠れ声では答えた。え、と宗次郎が聞き返すと、は顔を上げ、微笑を浮かべた。どこか泣き出しそうな顔にも見える、けれどはっきりと喜びの色も見える、そんな不思議な切ない笑顔だった。
「私はどこにも行かない。私が・・・・・私が一緒に行くって決めたのは、あなただから」
は宗次郎の右手を、両手でぎゅっと包み込むように握り締めた。
痛いくらいに強く・・・・・強く。











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