少年は、幸せではなかったから幸せを望み、
少女は、幸せであったから幸せを望んだ。
―第二十一章:Departure―
「元気にしてた?」
「ええ、まぁ。さんは?」
「うん、私も元気だよ」
「それは良かった」
他愛が無い、というよりはとりとめも無いといった風に会話しながら宗次郎とは歩いていく。
人気の無い郊外の道。民家も少なく、土を均しただけの簡素な道には、雑草がたくましく伸びている。
さらり。柔らかい風が流れた。
「・・・・宗は、どうしてあそこに?」
ふと会話が途切れ、はとても気になっていたことをようやく尋ねた。何故ああも頃合を見計らったかのように宗次郎はあの場所にいたのか。
宗次郎はふわりと笑って、こう答えた。
「さんに会いたかったから」
臆面も無くそう言ってのける。彼の背後に広がる限りなく蒼い空が、一層その笑顔を際立たせる。
の胸はぐっと切なくなった。
立ち止まった二人の影は、持ち主が動くのを待っているかのように、ただ静かに地面に張り付いている。
「あの時、あのまま別れて、それからしばらく一人でいてみて。それも悪くなかったけど、何かが足りないような気がして」
ほんの少し目を伏せて、独り言のように宗次郎は言った。
一旦言葉を切ると、今度はしっかりとを見据える。
「それはさんだったんだって、気付いたんです」
さんはまだ京都にいると思って、だからこの数日探し回っていたと宗次郎は続けた。
宗次郎の、その思いや行動はとても嬉しいのに。
どうして、たまらなく苦しいのだろう。
「さん、緋村さんとの闘いの後、言ってましたよね。『今まで見ようとしなかったことに、気付かされた』って。僕もそんな感じです。ずっと見ないようにしてたけど、気付いちゃった。僕は・・・・本当はあの時、誰も殺したりなんかしたくなかったんだって」
だからこそ、それを考えないようにしてきた。心が壊れてしまわぬように、知らず知らずのうちに感情を閉じ込めて。
傷付かないように、いつだって笑顔を浮かべて。
「緋村さんは、罪を償いながら自分の真実を見い出せ、なんて言ってたけど、どうやって償っていけばいいのか、どうやって見い出せばいいのか、なんて全然分からなくて。それでも、志々雄さんも緋村さんも、自分の真実を見つけるまでに十年はかかってるから、僕もそのくらいは流浪れてみようって、決めました」
「そっか・・・・・」
は小さく笑みを浮かべた。
剣心の生き方をなぞるわけではない、それでも宗次郎は、今まで見ようとしなかったものを見るため、知らなかったことを知るために流浪れていく。色んな所へ行って、たくさんの人と関わって、多くの物を見聞きして、そうしていつか、見知らぬ本当の自分に会えるように。
淋しいけれど、宗次郎自身が決めたことだ。笑顔で見送ってあげたいと、思う。
ふと、宗次郎がこう切り出した。
「憶えてますか? 十年前のあの時、初めて逢った日のこと」
「勿論、憶えてるよ」
忘れるはずが無い。
全てを失くした絶望の中、たった一つの希望があったあの時を。
血だらけだった自分に、優しく微笑みかけてくれた小さな男の子を。
「あの時、さんに一緒に行こうって言ったのは、多分、血塗れだったさんの姿が自分と重なったからだと思うんです。僕と同じ歳くらいの女の子が、理由は違っても、同じ血の臭いがしたから」
風がまた二人の側を通り抜けた。の長い黒髪が靡く。宗次郎の短い髪もさらりと揺れ、彼の表情を見えにくくした。
それでも、彼は微笑っているのだろう。
「でも、今は違う」
宗次郎は真っ直ぐな瞳をに向けた。穏やかな笑みを浮かべながら、それでも真摯に。
「さんだから、一緒に行きたいんです」
共にいた十年の月日。
相手を掛け替えが無いと思っていたのは、だけではなかった。
相手に救われていたのもきっと、だけではなかった。
「一緒に、行こうよ」
宗次郎はそう言ってに手を差し出した。十年前と同じように。
あの時は小さくて傷だらけだった手。一緒に過ごすうちに段々大きくなって、自分に温もりを与えてくれた手。
は小さく息を呑む。唇が無意識に震えた。切なげに視界が歪む。
あの時―――
あの時は、その手を取った。その言葉に頷いた。
けれど、今は―――・・・・・。
「・・・・・ごめん」
は詫びるように微笑った。宗次郎のその気持ちは、たまらなく嬉しかった。宗次郎にそう言ってもらえて、共に行きたくないはずが無かった。
それでも。
一緒に行くわけには、行かなかった。自身のためにも、宗次郎のためにも。
宗次郎に本当に、申し訳ないと思いながらも。
「やっぱり。さんなら、そう言うと思ってた」
諦めが付いたかのように宗次郎は笑った。差し出した手を緩やかに下ろす。の胸にちくんと痛みが走った。
「それじゃあ・・・・・」
宗次郎は荷物の紐に手をかけ、しっかりと背負い直す。もう行ってしまう気だろうか。あの闘いの終焉の日、一度別れて違う道を進むことを決め、確信は無かったが、それでもまた宗次郎に逢えるという予感はあった。
けれど、このままここで別れてしまったら、もう二度と彼に逢えないような気がする。
これで終いにしてしまったら、この後どんなに渇望しても、彼とはすれ違い続けるような―――・・・・。
宗次郎と離れて、もまた彼に、たくさん言いたいことがあったのを思い出す。
このまま、伝えたいことを伝えないままお別れなんて嫌だった。
決して、あなたを厭うわけではないと。
「・・・・宗!」
自然と彼の名が口から飛び出した。踵を返しかけた宗次郎が、足を止めて再びに向き直る。
は胸の苦しみを押さえるかのように、胸元の着物をぎゅっと握り締めていた。
「宗がせっかく言ってくれたことだけど、私、宗とは一緒に行けない。
私は、宗の苦しみを分かってなかった。だから、これからは、それを分かるようになりたい。今まで宗に助けられてばかりだったから、今度は、私が宗を助けられるようになりたい。
今まで一緒だったから、一緒には行けない・・・・けど」
一緒には行けないけれど。あなたへの想いは、変わらないから。
だからこそあなたに伝えたい。
「これだけは、知ってて欲しい。ずっと自分のことしか考えてなかったけど」
自分の幸せしか考えてなかったけれど。それでも。
「それでも、私は―――宗のことが好きだった」
真っ直ぐに宗次郎を見据えて、微笑んで。
鼻の奥が泣き出す寸前のように痛んだけれど、涙を流したりはしなかった。
ただただ胸がいっぱいになる。
宗次郎のその笑顔を、どれだけ恋しいと思ったか。
傍に居られて、どれだけ至福を感じていたか。
何気ない言葉や仕草が、どれだけ―――嬉しかったか。
「宗の傍に居られて・・・・・私は本当に、幸せだった・・・・・」
出逢えたことを、後悔なんてしていない。その笑顔は、私に力を与えてくれた。その笑顔が、何よりも愛おしかった。
宗次郎に逢えて本当に良かった。
宗次郎と共に過ごした時間は、確かに、幸せだったから。
だから。
「ありがとう・・・・・」
堪えきれず、は泣き出した。俯いて宗次郎の顔を見ないまま、ただただしゃくりあげる。
ぼたぼたと零れ落ちた涙が、地についた側から地面に黒く染みを作っていく。
嗚咽を上げ続けるの肩に、そっと宗次郎の手が置かれた。が泣き顔をゆっくりと上げると。
今までに見たこともないような、宗次郎の優しい微笑みがそこにあった。
「僕は、幸せってどんなものか良く分からないけど、それでも、」
宗次郎は目を細めてにこっと笑う。それは、喜怒哀楽の、楽の感情というより―――
喜の感情の笑顔のように、には思えた。
「さんが、僕と一緒に居た時を幸せだったと言うのなら。僕自身も多分、そうだったんじゃないかと思うんです」
宗次郎はふわりとを抱き寄せた。大事なものを包み込むかのように、その手がの背に回される。
「僕も、さんに逢えて良かった・・・・・」
心を表に、言葉に出すことに不器用な宗次郎が、精一杯伝えようとした想い。
触れ合ったところから伝わってくる温かさに、もおずおずと手を伸ばした。そうして宗次郎の背中を、縋るように抱きしめた。
それは、互いに相手を限りなく慈しむような、とても優しい抱擁だった。
「・・・・ねぇ、宗。私達、今は違う道を行くけど、罪を償って、自分の真実を見い出したら、そうしたらその時は、」
すぐ傍にある宗次郎の耳に、囁くようには言った。耳をくすぐる吐息に、小さく笑みを浮かべながら、宗次郎は穏やかに「何ですか?」と聞き返す。
は笑顔を浮かべた。そうしてはっきりと言葉を紡ぐ。
「その時は・・・・また、一緒に生きよう」
「ええ、きっと、いつか・・・・・」
いつになるかは分からない、それでも、また共に生きていくこと。
それは確かな、二人の約束。
互いを求める手が、名残惜しそうに強く相手を抱きしめる。この温もりを忘れてしまわぬように。相手の存在を強く確かめるように。
この腕の中に居られる幸福を、しっかりと胸に刻み込んで。
―――どれ程の時間、そうしていただろうか。
「それじゃ・・・・」
どちらともなく体を離し、一歩ずつ後ろに下がる。向き合わせた顔は互いに笑顔で。心残りなど全くないような、前向きな表情。
宗次郎はにこっと笑った。もまたにこっと笑う。
これでしばしのお別れ。けれど、悲しい別れではない。
むしろこれは、二人の旅立ちだから。
「さん、お元気で」
「うん。宗も、また会う日まで、元気でね」
そうして背を向け合って、二人は別々の道を歩き出す。
真実なんてまだ見えない。先のことなんて分からない。次に逢えるのがいつなのかさえ知らない。
それでも今は確かに、未来へと向けて進んで行ける。
あなたが、その強さをくれた。
(またね、宗・・・・・)
心の中で、その人の名を呼んで。は真っ直ぐに前を見据えて歩んでいく。今度彼に逢った時は、彼をしっかりと、支えてあげられるように。
宗次郎もきっと、本当の自分と答えを探しに、どこまでも、どこへでも、まるで風のように流浪れていくのだろう。
宗次郎とは長く逢えない。けれどそれは、永遠とは違う。
別れでは決してない。何故なら、これは、再会へ向けての。
二人の、新たな始まりだから―――・・・・。
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