―第二章:紅い月―
東海道の沼津宿から少し離れたところに、新月村という小さな村落があった。
”あった”、というのは、その村の存在が過去のものだったからだ。少なくとも、政府にとっては。
そして今、志々雄達はその村に立ち寄っていた。彼の館には温泉があり、志々雄は由美を伴って半年振りの湯治を楽しんでいる。
「湯加減どうですか、志々雄さん」
「ああ、いいぜ。やっぱり火傷にはここの湯が効くな」
戸の向こうからは志々雄の上機嫌そうな声が響いてくる。宗次郎とは脱衣所の壁に寄りかかって控えている。
「宗次郎、俺が上がったらお前も入るといい」
「はい」
当然ながら一番風呂は志々雄の特権だ。宗次郎がその次を許されるのは、流石に古くから側近を務めているからだろう。
宗次郎は頷いた後、に笑顔を向けて。
「さんも、一緒に入ります?」
「ばっ、馬鹿! な、何言ってんの!」
にこやかに爆弾発言。悪気無く言っているから、余計に性質が悪い。
それを分かっていてもの顔はかあっと赤く染まり、動揺を隠せない。
「わ、私は後で入るからいいよ!」
「え、どうして? 前は良く一緒に入ってたじゃないですかぁ」
「・・・・・っ!! 小さい頃の話でしょ、それはっ!!」
ああもう。は内心頭を抱える。
確かに昔はそうだったかもしれないが、今は二人ともお年頃なんだから、その辺をちょっと考えていただきたい。まぁ宗次郎にはピンと来ないかもしれないけど。でもほらやっぱり・・・・ねぇ?
「とーにーかーくっ! 私は後でいいからっ!」
考えても埒が明かなさそうだったので、は半ば無理矢理その話題を打ち切った。宗次郎が心なしか残念そうな顔をしていたと思ったのは・・・・多分気のせいだろう、うん。
「私、村を散歩してくる」
言った時には、もうの背は壁から離れていた。宗次郎は壁に寄りかかる姿勢を変えずに。
「散歩? 何でまた」
「うーん、何となく。後は、久しぶりにこの村に来たんだし、様子を見にね」
実際、様子など大して変わりはしていないだろう。志々雄の領地となったこの村からは活気が消え、陰鬱な空気が立ち込め廃れていくばかりだ。
ただ、何となく、本当に何となくだが、ある予感がする。
「そうですか。いってらっしゃい。早めに戻ってきて下さいね」
「うん、行ってくる」
宗次郎のにこにこ笑顔に見送られ、はその場を後にした。
勿論、も宗次郎に微笑みを返すのを忘れずに。
が予想した通り、村の様子は半年前に来た時とほとんど何も変わってはいなかった。まったく手入れがされておらず、廃村に近い。
そんなことを考えながら歩いていくと、どこからか嗅ぎ慣れた匂いが漂ってきた。
これは、そう・・・・・血の匂い。
がその方向へ即座に駆けて行くと、志々雄配下の雑兵が大勢屯していた。その中央に、この村の統括者尖角もいる。
そしてその前には、全身を斬り刻まれて殺されたこの村の夫婦が、縄で括られて吊るされていた。
「・・・・何やってんの、あんた」
眉根を寄せては尖角を睨みつける。あんた呼ばわりされた尖角はゆっくりと振り向いた。
「ああ、小娘か」
尖角は怒るでもなくそうを呼ぶ。この二人はいつもこんな感じだった。
志々雄を殺そうとしているを、尖角は良く思っていなかった。地位的には自分より上であっても、元々一派の中で特異な立場にいる彼女を敬う気持ちなんかさらさら無い。いくら側近でも所詮は小娘、と尖角は彼女のことをそう思っているので呼び名もそのままだ。
もまた尖角のやり方に嫌気が差しているし、現に嫌いだった。なのでどう呼ぼうがどう呼ばれようが、そんなことは別にどうでも良かった。
それはともかく。
「それは一体どういうことなの、って訊いてんの」
の言葉が示唆するのは、吊るされている夫婦の死体についてだった。まだ殺されたばかりなのだろう、流れ出た血は絶え間なくぽたり、ぽたりと地に落ちていく。
「こいつらの息子達がこの村から逃亡を企てた。だから処刑した」
「そう。―――で? 何で死体を吊したりするの? 殺しただけじゃ飽き足らないの?」
答えた尖角に、は冷たい瞳で言い放つ。
脳裏を赤い色が掠める。思い出すのは、『あの日』のこと。
「見せしめさ。刃向かえばこうなるってことが分かってりゃ、誰も逃げ出そうとはしねぇだろ?」
雑兵の隊長格の男がそう言った。そんなことも分かんねぇのかよ、と嘲笑交じりの声が雑兵達の中に起こる。尖角と同じく、雑兵の中にはを軽視する者は多い。
はふうと溜息を吐いた。雑兵達に嘲られたことに対して、ではない。彼らはを見下していたが、勿論彼女は尖角達が行った行為の意味は分かっていた。だがそのやり方に納得が行かなかった。だから訊いた。だから溜息を吐いた。
は吊るされた二人の死体を見た。血まみれの体は、尖角の惨たらしい殺し方を物語っている。
「この二人を降ろして。こんな風に惨殺したんだから、見せしめとしてはそれで十分でしょ」
けれども尖角は、鼻でふんと笑っただけだった。
「小娘の言うことなんざ聞けねぇな。それに見せしめってのは、惨ければ惨いほど効果があるんだからこれでいいのさ」
「・・・・・反吐が出るわ」
吐き捨てるようには言った。その時の彼女の氷のような怒りの視線に尖角は一瞬たじろいだが、誤魔化すようにまたふんと笑った。それから雑兵達を連れて引き上げていく。
だけがその場に残った。しんと静まり返った村には、ほとんど人の気配が無い。きっと村人達は志々雄や尖角達を恐れて、家で息を潜めてじっとしているのだろう。同じ村の者が殺されても、誰も助けに行くことなく。
はもう一度溜息を吐いた。二人の死体を目の前にしてじっと考える。
(さぁ、どうしようか)
こんなやり方気に入らない。何より、この二人は息子達が逃亡したことを罪に問われ処刑された。つまり、子どもがいるのだ。その子どもがこれを見たら―――・・・・。
「・・・・・やっぱり、降ろそう」
尖角なんか怖くない。何を言われようと何をされようと知ったことか。返り討ちにしてやる。
は二人を吊るしている縄に手を伸ばしかけた。その時、気配を感じて振り返る。
単身痩躯に赤い髪、そして左頬に十字傷がある剣客が、そこに、いた。
(緋村、抜刀斎・・・・?)
聞いていた特徴がぴたりと一致している。間違いない。でもどうしてこんなところに。流石に驚いてほんの少し目を見開く。
驚いたのはだけではない。その抜刀斎―――剣心もまた、吊るされた二人の死体とその前にいたを見て、訝しげな目線を向けた。
「お主―――」
「親父ッ! おふくろ!」
剣心の言葉は少年の叫びに遮られた。驚いたと剣心がその方向を見ると、短髪の少年が涙を流して咆哮していた。信じられないものを見た、といった風に目を見開き、泣き叫んでいる。
(そうか、あの子がこの人達の・・・・・)
の勘は当たっていた。そう、その少年こそがこの吊るされた二人の息子、栄次だった。
「うああああああああああっ!!」
栄次の悲痛な叫び声は止まらない。その声を聞きつけて、先程の雑兵達がすぐさま駆けつけてきた。
「貴様、他所者だな。他所者は生かして帰さん!」
雑兵達は剣心の背に槍の穂先を一斉に向けた。剣心は動じない。
静かな剣気と怒りが彼から立ち昇っていることに、は気付いた。
「何故この人達を殺した」
冷静な声だが怒りが滲み出ている。愚かな雑兵の隊長はそれに気付かず、自慢気に言った。
「そいつらの息子達はこの村から逃亡を企てた。そいつらはその責めを負って尖角様が処刑した。もっとも、吊るしたのは我々だがな」
「つまり、見せしめか」
剣心の瞳が鋭さを増す。雑兵達は剣心の背中側にいるので、見ることは叶わないが。
「ここは偉大なる志々雄様が政府のブタ共から勝ち取った領村! ここでの生殺与奪の権利は、すべて志々雄様、もしくは村の統括を担う尖角様にある!! 尖角様の命により、他所者には死あるのみ!!」
大層な御託を並べて、雑兵の隊長は槍を構える。剣心の隣にいるにもちらっと目をやった。
「おい小娘、邪魔をするなよ!」
「邪魔? しないわよ。あんた達のも・・・・この人のもね」
はすっと後ろに下がった。尖角達のやり方を思えば、こいつらを二、三発殴り飛ばしてやりたいところだったが、今この場には以上に怒り心頭の者がいる。
「他所者には死あるのみ! 覚悟!」
向かって行った隊長は、剣心の視線に凍りついた。
「覚悟するのは、お前達だ」
次の瞬間、隊長の体は逆刃刀の一撃を食らって吹っ飛んでいた。驚きに目を見開く雑兵達に、剣心ははっきりと言い放った。
「普段なら『怪我したくない者は下がれ』と言うところだが、今この場ではそうはいかん・・・・・。
一人残らず叩き伏せる!!」
その言葉通り、剣心は雑兵達を叩き伏せていった。激しい気迫と洗練された剣技は、流石は人斬り抜刀斎といったところだったろうか。
剣心がすべての雑兵達を倒したのに、数分もかからなかった。最後の一人を倒した時も、息一つ切らさずにいた。
(へぇ、やるじゃない)
は思った。
勿論こんな雑魚相手では、彼の強さの真価は図れないだろうし、まだまだ実力も未知数だ。それでも、強い。けれど。
(でも、)
無意識のうちに、は不敵な笑みを浮かべる。
(でも宗だって、こんなこと朝飯前よ)
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