―第十九章:落陽ー
「これで良かったんだよ。これで・・・・・」
そう言ったの背中を、剣心は無言で見つめていた。
彼女がどういった気持ちでここに駆けつけてきたのかは剣心は分からなかった。けれど、殺すことはできなかったが志々雄は彼女にとって家族の仇であったし、ただ望んでいたのは今の幸せを失くさないことだと気付いた彼女が、蒼紫のように先に進むために、ケリをつけるためにここに来たのかもしれない、とも思った。
のその小さな肩は震えてはいなかった。その表情も見えなかった。
見えなかった、が、不意には振り向いた。その顔は泣いてはいなかった。
ただ、力無い笑顔だった。
「殿―――」
「・・・・勝ったな」
呼びかけようとしたその声は、肩をぽんと叩く左之助に遮られた。いつの間にか、斎藤や蒼紫も剣心の側に集まってきている。
左之助の言葉に剣心は目を伏せた。
「いや・・・・」
「負けていない! 負ける訳がない!! 志々雄様が負けるはずはないィ〜〜〜!!!」
方治の絶叫が、突如その場に響き渡った。彼は両目から涙を流し、咆哮していた。
こんなに取り乱した方治を、は見たことが無かった。
「方治さ・・・・」
「うわああああ!!」
言いかけたを無視して、方治はダッと立ち上がると剣心を突き飛ばしてその場を去った。勢いのままに、剣心はその場に崩れ落ちる。倒れた剣心は口から激しく血を吐き、脇腹の傷口からも大量の血が流れ出していた。出血で気を失ったのか、剣心はぴくりとも動かない。
「剣心!!」
「緋村さん!?」
思わずは剣心に駆け寄って膝をついた。新しい血の臭いがの鼻腔を刺激する。
こんなに血が流れていては命に関わるだろう。いや、そもそも志々雄と死闘を繰り広げる前に、蒼紫や宗次郎、とも闘い、その度に怪我も負っていたのだ。今まで動いていたことすら、信じられない位だ。
血の気の失った顔をしている剣心を前に、どうしようかとが逡巡していると、闘場の入り口の方から轟音が響いてきた。見れば、恐らくはさっき走り去った方治が、アジト内部に繋がる鉄の扉を閉めようとしているのだと分かった。
「ちっ!」
左之助は舌打ちをして剣心を担ぎ上げた。剣心の左腕を己の肩に回し、引きずるように連れて行く。
「おい、嬢ちゃん! あんたも行くんだろ」
「え、あ、うん」
左之助は足早に歩きながら問いかけ、も頷くと腰を浮かしかけた。が、ふと、剣心が取り落とした由美の懐中時計が目に入る。はそれを拾って懐に入れると、すぐに左之助を追いかけた。斎藤と蒼紫も急いだが、無情にも扉は堅く閉ざされてしまっていた。
「畜生!! あの三角マユゲ!!」
左之助はガンガンと拳を扉にぶつける。が、そんなことでは勿論その鉄の扉はびくともしない。
それでも二重の極みが使えない今、苛立ちも手伝い、左之助にはそうするしか術がなかった。
「嬢ちゃん、こっちからは開けられねぇのか!?」
「無理。扉を開ける装置も制御室も、全部向こう側だよ・・・・」
さらりと答えながら、も内心焦っていた。いくら何でも、の力ではこの厚い鉄の扉を破れない。闘場の場所が断崖絶壁の中腹である以上、この扉以外からの脱出は不可能。
剣心の命も勿論気がかりだったが、それともう一つ。
外で待っている宗次郎と、このままでは会えない・・・・!
「・・・もう、方治さんてば!」
志々雄に心酔していた方治の気持ちは分からなくもない。だからといって、敵を丸ごと(しかもも一緒に)閉じ込めてしまうというのはあんまりではなかろうか。もっとも、今の方治には志々雄以外は頭に無いかもしれないが。
「どけ」
静かな声が背後から聞こえ、と左之助は振り向く。見れば斎藤が刀を左手に持ち、牙突の構えをしているではないか。
「ちょっと待て、お前の傷だって浅くは・・・・」
左之助の言葉に構わず、斎藤は牙突を繰り出した。ほぼ同時に響く激突音。鋭い一閃は頑丈な鉄の扉を粉々に砕いてみせた。鉄の破片がぱらぱらと舞う。斎藤にとっては鉄など硝子と大して変わらないのではないか、と思わせる程、見事な一撃だった。
「凄い・・・・」
初めて見る牙突の威力に、も思わず感嘆の声を漏らす。斎藤はや左之助に背を向け、血が吹き出た太腿を手で押さえつけると、溜息混じりにこう言った。
「フン。お前等とはくぐった修羅場の数が違うんだ」
新撰組三番隊組長として、激動の幕末を駆け抜けた者だからこそ言える台詞だろう。流石は斎藤一といったところか。
何はともあれ、これで脱出への道は開けた。左之助はさっそくそちらに向かおうとしたが、
「!?」
闘場全体を突然の大揺れが襲う。揺れに足止めされ動けない左之助や達の前で、篝火や闘場が崩れ、爆発し始めた。熱風が達の方に吹き荒れる。
篝火は石油を燃やしていたもの。このままでは大爆発は必至―――!
「もう、方治さんてば!!」
いくら何でもここまでするか。率直にはそう思った。
恐らく志々雄の敗北を認めたくない方治が、剣心達を殺すために制御装置を壊しているのだろう。いや、闘場が爆発すれば、恐らくはアジト全体にも燃え移るに違いない。
敵も味方も何もかも、方治は葬り去るつもりなのだ。
(宗・・・・!)
それに気付いた時、真っ先に浮かんだのは彼の姿。
時間的に、宗次郎はもうアジトの外に出ているはずだった。きちんと出ていれば、の話だが。万一内部に残っていて、巻き込まれたり何かしていたら。
考えている余裕は無かった。不意に下から爆風が吹き上がり、左之助、剣心、蒼紫、の四人と斎藤一人とを分断するように道が砕かれた。斎藤が跳躍してこちら側に移るには、絶望的な距離。足元に広がるのは、深さの見えぬ奈落の底。
「さ・・・・斎藤!!」
「やれやれ・・・・」
声を荒げる左之助とは対照的に、斎藤はあくまでも冷静で、おまけにタバコまで吸い始めた。崩れ落ちる瓦礫の中に、彼の何事にも怯まない笑みが見える。不思議と落ち着き払った様子に、も思わず声を上げる。
「ちょっと、タバコなんか吸ってる場合!?」
にも拘らず、斎藤は口の端から長々と煙を吐き出した。むしろ余裕も感じさせるその表情に、左之助は何かを悟ったのか、身を乗り出して叫んだ。
「てめえ、また勝ち逃げかよ!! 俺との勝負はどーすんだコラァ!! 答えろ、斎藤!!」
「今し方言ったばかりだ。お前等とはくぐった修羅場の数が違うんだよ。阿呆が」
その名を声の限り呼ぶ左之助に構わず、斎藤は踵を返して闘場の奥、爆炎の中に消えていった。いくら呼びかけても返事も無く、還っても来ない。
「ち・・・・っくしょう!」
心底悔しそうに左之助は呻く。は何も言えずそんな彼を見ていたが、爆裂音が更に周囲に響き渡る。
「・・・・ちっ!」
それで左之助も気持ちを切り換えた。ぐずぐずしていたら自分達の身まで危ない。
「くそっ、とりあえずは脱出しねーとな。嬢ちゃん、道案内頼むぜ!」
「言われなくてもそのつもり。最短経路を行けば、そんなに時間はかからずに外に出られるよ」
「よし、急ごう」
蒼紫も頷き、は皆を先導するように走り出した。志々雄の部屋まで行き、宗次郎の部屋まで直結の通路を急ぐ。もう、ここにまで火は迫っていた。
炎のはぜる音に追いかけられながら急いで駆け抜けていく。ふと、左之助はあることに気が付いた。
「あーっ!! あの由美とかいう女、何で俺達より早いのかと思ったら、ここの道使ったんだな!? 宗次郎も嬢ちゃんも、この先は道案内はいらないとかいけしゃーしゃーと抜かしやがって・・・・!!」
「あーもう、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 大体、あなた達が進んだ道だってちゃんと志々雄サンの部屋まで繋がってたんだから、嘘じゃないわよっ!」
言い返しながら走っていくと、程無くして宗次郎の部屋に出た。当然といえば当然かもしれないが、そこには誰もいなかった。剣心との激闘の跡が残る畳が広がっているだけ。
ちゃんと外に出たんだ、と、は少なからず安堵する。
「おい、宗次郎は―――」
「先に外に出てるはずよ。私達も急ぎましょ」
左之助の疑問には即座に言葉を返すと、今度は無間乃間を出て、廊下を走り始めた。隠し通路をいくつも抜け、火の粉の舞う中を駆ける。
何とか、アジト中に炎が広がりきる前に脱出できた。アジトの全体を見渡せる安全な丘の上まで左之助達を案内して、ようやく振り向く。黒煙がもうもうと、山の中から立ち上っていた。
「・・・・ここまでくればもう大丈夫よね。私はここで失礼するわ」
「どこに行くんでェ?」
尋ねる左之助の声には振り向く。彼の傍らには、未だ意識を失ったままの剣心の姿があった。
「緋村さん、早めに手当てしてあげてね。それから、私が行くのは勿論、宗の所よ。約束してるから」
にっこりとは笑む。すすで汚れた顔でも、血に濡れた着物を纏っていても、それは、あどけない少女の姿だった。
そうして今度は、つかつかと蒼紫に歩み寄る。
「四乃森さん」
「・・・・何だ?」
長身を見上げて、は目を細めて笑んだ。ほんの少し切なそうに。ほんの少し、申し訳なさそうに。
「もし操ちゃんに会ったら、私がごめんねって言ってたって、伝えてくれる?」
「・・・・操?」
の口から操の名が出たことに、蒼紫も意外そうな顔をする。蒼紫はと操の接点を全く知らないのだ。無理も無い。
それでもはそれ以上何も言わずに、左之助と蒼紫に、軽く会釈をした。
「じゃあ、私はこれで。・・・・緋村さんによろしくね」
それだけを告げ、返事を聞かずには身を翻しその場を去った。彼らには彼らの帰る場所がある。これ以上の野暮は避けたかった。
宗次郎はこの丘にはいなかった。ブーツで草の中を駆けるのはなかなか酷だったが、それでもは走り回って宗次郎を探した。恐らく彼のことだから、さっきの自分達のように、アジトが見える場所にいるだろう。
は辺りを探し回った。その甲斐あってか、少し先の草原に、見覚えのある巨体が見えた。あれは安慈だ。その足元には方治らしき人影も横たわっている。
そうしてその向こう、の側に背を向けて、ぼんやりとアジトを見つめているのは。
「宗っ!!」
「・・・・さん!」
駆け寄りながらその名を呼ぶ。振り向いた宗次郎は、の姿を認めると、満面の笑みになった。
勢いでぶつかりそうになったを、宗次郎はそっと抱きとめる。
「良かったぁ、無事で・・・・。ここでずっと待ってたら、アジトが爆発するんだもの、びっくりしちゃいましたよ」
「うん・・・・心配かけちゃってごめんね」
微笑むを見て宗次郎も破顔する。と、何やら懐を探り始めた。そうして手拭いを取り出すと、宗次郎はそっとの顔を拭く。
白い手拭いにどんどん広がっていく黒い色を見て、はいかに自分の顔が汚れていたのかを悟る。状況が状況だったから仕方がないとはいえ。
「うわぁ・・・私、凄い顔してたんだ?」
「でも、綺麗になりましたよ」
宗次郎はにこやかに笑って、再び懐に手拭いを仕舞う。
そうして今度は、ふと真剣な顔になって。
「・・・・志々雄さんとは、ケリをつけてきたんですか?」
「うん。さよならしてきた。由美姐さんとも・・・・・」
の表情が僅かに陰る。それで宗次郎も何かに気付いたらしい。再びアジトの方へと視線を戻した。もその隣に立ち、昇り続ける黒煙をじっと見つめる。
そういえば、この爆発を引き起こした張本人である方治は、何故ここにいるのだろう。話からすると、宗次郎は爆発が起こった時には既に外に出ていたらしいから、方治を助けたのは彼ではない。となると。
「・・・・むう・・・・」
呻き声を上げて方治が覚醒する。ガバッと身を起こすと、絶望に染まった顔で安慈を睨み付けた。
「安慈・・・・お前が助けたのか・・・・」
安慈は何も答えず、ただじっとかつてのアジトを凝視していた。
「何故助けた!! 何故、私を志々雄様と一緒に死なせてくれなかった!」
「やっぱり、志々雄さんは死んだんですか」
方治の方に振り向かないまま、宗次郎はぽつりとそう言った。
「由美さんと、一緒に・・・・・」
宗次郎は寂しそうに瞼を伏せた。
何も言えず、はただ唇をきゅっと噛み締めて、宗次郎のその横顔を見ていた。
どんな気持ちでいるのだろう。別れを決意したとはいえ、それでも親しい人達の死は、哀しい出来事であることに違いは無い。家族との温もりや繋がりを、持てなかった彼なら尚更―――・・・・。
宗次郎はしばらく目を閉じて何事かを考えていたが、やがてゆっくりと瞼を上げた。そうして、ゆるりと振り返る。
「・・・・それじゃ、僕はお先に失礼します」
「何処へ行く?」
安慈の問いに宗次郎は足を止めた。振り向かないままの背中を風が揺らし、彼の短い黒髪や着物がさらりと靡いた。
「さあ・・・・けど、本当のことを自分自身で確かめるため、行きます」
にっこりと笑って宗次郎は振り向いた。先程までの暗い表情は、もう窺えない。
剣心との闘いの後、志々雄に別れを告げた後。その時、涙を流していた時も、笑顔だった。感情を取り戻しても、それでも彼は最後にはいつも笑みを浮かべるのだろうか。
「さんは、どうします?」
ふと投げられた問いかけに、はすぐに答えを返せなかった。気まずそうに目線を逸らす。やり場の無い手がぎゅっと握り締められた。
宗次郎と一緒に行きたい気持ちはあった。
それでも。
それでも、はこう答えた。
「私は・・・・私も自分で、自分の生き方を見つけたい。だから宗と一緒に行きたいけど・・・・・私は行けない。自分の足で探してみたいの。だから・・・・」
宗次郎と一緒に行きたい気持ちはあった。それでも。
自分自身で、歩いてみたい、と。
「・・・・そうですか。それじゃあ、ここでお別れですね」
残念そうに、諦めたかのように、宗次郎は小さく笑みを浮かべた。意外な程に呆気無く、二人の別離に納得したように見えた。
ただ、ぽつりと言葉を漏らす。
「何となく、さんならそう言う気がしてました」
「・・・・・・・・」
再び風が吹き、二人の間を通り抜ける。木の葉が舞い、夕暮れの涼しい空気が二人の頬を撫ぜた。
空や雲を染め上げる紅い色は、限りなく優しい。
「・・・・宗、私は・・・・・」
言いかけて、はそのまま口を噤む。結んだ唇で、精一杯、笑みを形どった。
お互いに、違う新しい道へと踏み出す。先は見えなくても、そこにある確かな何かを求めて。依存し合うのではなく、一人で立って、歩いて行けるように・・・・・・。
ここでお別れ。なら、最後はせめて、笑顔で、と。
「ううん。何でもない。・・・・元気でね」
「ええ、さんも。じゃあ、またどこかで」
宗次郎も、自分一人で行こうと思ったのだろうか。いつもの穏やかな笑顔でそれだけを告げて、宗次郎は去っていった。振り向きもせず、ただ真っ直ぐに前を見据えて。
夕暮れの中に、その背中が遠くなる。もう一度風が吹く。
覚悟はしていても、それでも寂しかった。けれど、これがお互いのためなんだと自分に言い聞かせる。
は、追いかけたりは、しなかった。
「・・・・私は罪を償うため、これから警察に出頭する」
宗次郎の姿が見えなくなった頃、安慈ははっきりとそう言った。はそれを彼らしいと思ったけれど、彼女もまた、頷いた。
「私も、行く」
多くの者を手にかけた罪は消えないけれど、少しでも償うことができるなら。
が宗次郎と一緒に行かない理由は、ここにもあった。
己の新しい生き方を見つけるのはいい。ただ、剣心も言っていたように、自分の犯した罪も償っていきたい。自分の我侭のために、他の人達を犠牲にしてきたのなら尚更。
何を以って贖罪とするのかはまだ見えない、それでも、何かをしていけたら。
強い意思を込めた瞳に、安慈もまた、頷いた。
「・・・・私も出頭しよう。だが罪を償うためではない」
方治は奥歯を噛み締め、再び悔し涙を浮かべながら思いを吐き出した。
法廷の場でこの度の闘いの闘いのすべてを語ると。そして弱肉強食の政策を政府の馬鹿共に諭すと。
「志々雄様と・・・・この国のために・・・・・!」
方治の、心の底からの叫びだった。
方治は最後まで、いや、今この時も志々雄の忠実な臣下だった。例えもう主君がいなくても、彼と日本を憂える方治の思いは紛れも泣く本物で。
方治はそれから声を上げて泣いた。志々雄が死んで一番哀しかったのは、無念だったのは、宗次郎でもでもなく、方治かもしれないと。
はそう思った。
かつてアジトだった黒煙は、そんな嘆きも知らず、茜差す空に吸い込まれていくだけだった。
第二十章へ
戻る