―第十七章:Teardrop―
崩れたは、子どものように泣きじゃくった。
嗚咽を上げて涙を流すに、誰も何も言えなかった。由美は憐憫の表情を浮かべ、左之助は複雑そうな顔をして立ち尽くしている。
剣心もまた泣き崩れるを、声も無く見守るしかなかった。
のしゃくりあげた泣き声だけが場を支配する中、すっと一つの影が動く。
宗次郎だった。
「さん」
の前に回り、宗次郎は屈み込んだ。
宗次郎に気付きながらも、は顔を上げられない。ただ、嗚咽が少し、小さくなった。
「宗・・・・・」
それしか言えない。
何を言ったら良いのか分からない。
宗次郎に対して、申しわけない気持ちと後ろめたい気持ちでいっぱいで、その顔もまともに見られない。
俯いたままのに、宗次郎は静かに声をかけた。
「お疲れ様です。あとは僕が闘いますから、さんはゆっくり休んでて下さい」
からはその時の宗次郎の顔は見えなかったが、きっと、笑っていることだろう。
目を伏せたままのに、宗次郎は独り言のように呟く。
「・・・・いけないね、緋村さんは。さんをこんなに苦しめて・・・・」
「―――っ!?」
それでようやく、は顔を上げた。目の前には、やっぱり宗次郎の笑顔があった。
ただし穏やかな微笑みを湛えた口からは、さらりと冷たい言葉が紡ぎ出される。
「安心して下さい。さんを苦しめてる緋村さんは、僕が殺すから」
「・・・・え?」
宗次郎は唖然としているの涙をその手で拭った。そうしてにっこりと笑う。
それは確かにいつもの宗次郎の笑顔だったのだが、彼の纏う雰囲気は、まるで。
(宗・・・・顔は笑ってるけど、怒ってる・・・?)
はそんな気がした。どうしてそう感じたのかは、も良く分からない。
ただ、宗次郎が顔に浮かべているのはやっぱり柔らかな微笑なのに、それを見たの背に悪寒めいたものが走った。
「宗、緋村さんは悪くないよ・・・・。私は・・・・今まで見ようとしなかったことに、気付かされただけで・・・・」
目線を僅かに宗次郎から逸らして、しどろもどろには言った。
そう、剣心に非は無い。がずっと逃げ続けていた事実をはっきりと突きつけただけに過ぎない。そしてそれはを苦しめたいからではなく、救いたい一心からで。
剣心の真剣な眼差しにもそれが分かったから、そう言ったのに。
その言葉を聞いて、宗次郎は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。恐ろしい程、無邪気に。
「あはははっ。さん、何言ってるんですか? 緋村さんを庇う気?
・・・・やっぱり、緋村さんのせいで混乱してるんですね。何だか・・・・許せないなぁ」
宗次郎は軽やかな身のこなしで立ち上がった。そのまますうっと動いて剣心に向き直る。
「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。さんの代わりに、僕が緋村さんを殺します」
目を細めて宗次郎は微笑った。は立ち上がれないまま、どこか冷たい感じもするその笑顔を見上げる。
剣心もその場から少し後退し、宗次郎の真正面に来るように移動した。無言で宗次郎を見据えている。
「・・・・緋村さん!」
彼の名が思わずの口をついて出た。自らを呼び止める声に剣心も振り向く。
は少し、戸惑いながら、
「緋村さん・・・・あなたにこんな図々しいことお願いできる立場じゃないのは分かってる。でも、お願い。宗を・・・・宗を殺さないで・・・・!」
不殺を誓う剣心に、この頼みは少し見当違いだったかもしれない。現に、自身がほとんど剣心の刀をその身に受けることなく闘いが終わってしまっている。
けれど、宗次郎が剣心と本気で闘う気でいるのは間違いない。剣心も奥義を会得し、新月村で闘った時以上の強さであろう。
そうした二人の死闘の末に剣心が人斬り抜刀斎に立ち戻り、もし宗次郎を殺めてしまったら・・・・。
それがは恐ろしかった。
自分の幸せを失いたくないだけだと、はっきり自覚した今、宗次郎が死んでしまうことは、自分が死んでしまうことよりもよほど恐怖だった。
大事な人を亡くした痛みは知っている。どうして死んでしまったのと、死んだ人を思わず責めずにいられなかったり、どうして死ななければいけなかったのかと、やり場の無い悲しみを抱えたり。どんなに逢いたいと焦がれても、決して逢うことの叶わぬその苦しさも。
のそんな心境を察したのか、剣心は淡い笑みを浮かべて、こう答えた。
「元より、そのつもりでござるよ」
それを聞いて、も少なからず安堵を覚える。
二人のやりとりを黙って聞いていた宗次郎は、にこっと笑いながら鞘に左手をかける。
「あくまでも不殺を貫くってわけですか。でも、そんなんじゃ僕は斃せませんよ」
「誰が何と言おうと、拙者は不殺の信念を曲げるつもりは無い。殿、危ないから下がっているでござるよ」
一触即発の空気が、辺りにピリッと張り詰める。
は緩慢な動作で立ち上がり、剣心の言葉通り下がろうとする。二人の闘いは間も無く始まる、がここにいても邪魔になるだけだ。
「宗・・・・・」
宗次郎の隣を通り過ぎる時、は小さく彼の名を呼んだ。
剣心と闘う前の自分だったら、「負けないで」とか「頑張って」とか、そういった言葉をかけたのだろう。
けれど正直、宗次郎に言うべき言葉が見つからなかった。本心を吐露した今、宗次郎に勝って欲しいのか負けて欲しいのか、それすらも分からないから。
何も言えない。ただ、今は二人の闘いを見守ることしかできない。
は宗次郎の顔を見ないようにして、小走りでその場を去った。そうして無間乃間の入り口付近に立つ、由美と左之助の元に向かう。
「・・・・・」
「ごめんね、由美姐さん」
気まずそうに、は謝った。何に対して謝ったのか、自身よく分からない。
剣心との闘いに敗れたことだろうか、それともずっと嘘を吐き続けてきたことだろうか。
唇を噛み締めるに、由美はただ笑みを浮かべて首を振った。
「謝ることじゃないわ。あんたも色々、辛かったのね」
剣心との戦闘で縺れたの髪を、由美は優しく梳いてくれた。由美の白い手からは、ふわっと白粉の甘い匂いがした。
亡き母を思い出すような、懐かしい匂いだった。
「安慈もそうだったけどよ、人には色々事情があるモンだな。それよか嬢ちゃん、いよいよ始まるぜ。剣心とあいつの闘いがよ」
「!」
左之助が指し示した方を見ると、宗次郎と剣心の二人が、抜刀の構えを取り踏み出そうとしたところだった。
次の瞬間、神速の抜刀術がぶつかり合う。刀と刀が交わる、金属音が鋭く鳴り響いた。
(宗・・・・・!)
は胸元で拳をぎゅっと握り締めた。
祈るように、二人の闘いを見守るしかなかった。
「あの時あなたは、僕を守ってくれなかったじゃないですか。
あなたが正しいと言うのなら、何で守ってくれなかったんです」
宗次郎のそんな声を、は初めて聞いた。
「あの時、誰も僕を守ってくれなかった。
守ってくれたのは志々雄さんが教えてくれた真実と、ただ一振りの脇差・・・・」
宗次郎のそんな過去を、は初めて知った。
「何が正しいかなんてもういい! 次の一撃で、今度こそあなたを殺す!」
宗次郎のそんな表情を、は初めて見た。
宗次郎がの本当の心を知らなかったのと同様に、
もまた宗次郎の本当の心を知らなかったのだと。
初めて、気が付いた。
天翔龍閃と瞬天殺、神速と縮地の刹那の勝負。
互いに全力を出し合って―――競り負けたのは、宗次郎の方だった。
「宗ッ!」
斬り上げられた宗次郎が畳へと投げ出される。
それを目にした途端、から血の気が引いた。反射的に駆け出していた。
体を畳に強かに打ち付けて動けずにいる宗次郎の側に屈み込む。
「宗・・・・大丈夫!?」
剣心の奥義を喰らったのだ、大丈夫なわけがない。頭ではそう思いながらも、は訊かずにはおれなかった。
とりあえず、浅い呼吸を繰り返す宗次郎が生きていることに安堵しながら、は膝枕のように宗次郎を抱え上げた。
天翔龍閃を受けた衝撃で、宗次郎の顔や体のあちこちから血が滲み出ている。着物もぼろぼろだ。愛刀の菊一文字に至っては、競り合いに負け砕けてしまっている。
宗次郎は目を閉じて、それでも口元には笑みを浮かべていた。それはまるで、幼子が眠っているかのようで。
由美も心配そうな顔をして、二人の側に立っている。
「・・・宗次郎は?」
背後で剣心の声がした。それを聞いて、宗次郎の唇がゆっくりと動くのが分かった。
「新・・・月村の時とは・・・・全く逆の、結果になっちゃいましたね・・・・」
瞬天殺を繰り出す直前の、あの鋭い怒りの表情はもう無い。今浮かんでいるのは、あの、無邪気な微笑み。
「不殺を貫かれたままで、これ程の強さを会得できるなんてなぁ・・・・。何か、ちょっと、ずるいや」
「ずるい? 宗、あなた・・・・」
直感的には思う。
もしかしたら宗次郎は、本当は誰も殺さずに強くなりたかったのではないのかと。
「間違って組み上げた組木細工を正しく組むには、一度、全部壊さないと、できないんですよ、由美さん。ねぇ、さん、そうでしょう?」
「・・・・・・・」
何を思いながらそう言ったんだろうか。宗次郎はにこっと笑った。
そうして、未だ手にしたままの、折れた菊一文字に目線を移す。
「間違っていたんですね、僕は・・・・。答えは、この勝負が出してくれた・・・・」
宗次郎はゆっくりと身を起こす。は宗次郎の背を支えて、それを手伝った。
宗次郎は剣心を見て、確かめるように訊いた。
「正しいのは緋村さんの方だった。そうですよね・・・・?」
「・・・・いや」
縋るような宗次郎の言葉を、けれど剣心は即座に否定した。
「勝負に勝った方、つまり強い方がすべて正しいというのは、それは志々雄の方が正しいということでござる。一度や二度の闘いで真実の答えが出るくらいなら、誰も生き方を間違ったりはせん。人の人生は、そんなに簡単なものではござらんよ」
宗次郎はほんの少し目を見開いた。
今までそんな風に言われたことなど無かった。
弱肉強食の考え方がすべてで、身を持ってそれを知り、信じていたから、他のことなど考えたことが無かった。
だから勝った剣心の方が正しいのだと、そう思ったのに。剣心はそうでは無いと言う。勝ち負けで決められる程、人生は簡単でないと言う。
「真実の答えは、お主自身が今まで犯した罪を償いながら、勝負ではなく自分の人生の中から見い出すでござるよ」
真に宗次郎を思っての言葉。天翔龍閃を繰り出す前に言ったように、剣心は本気で諭してくれている。
嬉しかった。それはだけではなかった。
剣心の言葉を受けて、多分自然に宗次郎は微笑んだ。
「あなたが、そうしてきたように・・・?」
剣心も力強い笑みを浮かべて頷く。宗次郎はふっと瞼を閉じた。
「厳しい人だなァ、緋村さんは・・・・」
そのまま、ぽてっとの膝の上に頭を乗せる。刀を手放し、髪にその手を埋める。
「簡単に答えを出させてくれないなんて、志々雄さんよりずっと厳しいや・・・・」
宗次郎のもう片方の手を握り締めながら、はあることに気が付いた。
宗次郎は、笑いながらも、涙を流していた。
剣心との闘いで起きた宗次郎の精神崩壊。それは、壊れたというよりもむしろ、今までずっと不自然だった感情の封印を、解き放っただけなのかもしれない。
が自分や周りに嘘を吐き続けていたのと同じく、宗次郎も感情を押し込めて自分を偽ってきた。
それが今、久方ぶりに自然体になった。そういうことなのかもしれない。
「うん、そうだね・・・・」
言いながら、もぼろぼろ泣いていた。つい先程、剣心との闘いが終焉を迎えた時も大泣きしたが、それでも涙が溢れた。
張り詰めていたものが決壊し、それは宗次郎の言葉を借りれば、まさに『間違って組み上げた組木細工を正しく組むには、一度、全部壊さないとできない』といったところだろうか。
でも、一度壊せば、またいくらでも組み直せる。
歪んだ道を歩きだしたらもう引き返すことはできないと、ずっとそう思っていたが。
そうではないと、剣心が気付かせてくれた。
「宗次郎、殿」
剣心の穏やかな声に二人は顔を上げる。
剣心の顔に浮かぶのは、宗次郎とを思いやった、柔らかな笑み。
はそれに、ふと、家族の面影を重ねた。
「お主達はまだ若い。これからいくらでもやり直せる。罪を償って、生き方を見つけて、そうしていつか―――二人で、幸せになるでござるよ」
はこくりと頷いた。宗次郎の頭をそっと抱きしめ、頬を寄せる。
口元に笑みを浮かべながらも、二人は泣いていた。
零れ落ちた涙は、ただただ、温かかった。
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