「似ている? と、宇水がですか? 志々雄様を殺そうとしている、という点で?」
「ああ。そして結局、殺せずにここまできているところもな」
志々雄はグラスに並々と注がれたワインを煽った。そうして酷く可笑しそうにくくっと笑う。
「では、も宇水同様、志々雄様への復讐心を餌に体良く利用していると・・・・?」
確かめるように方治が問うと、志々雄はふっと口の端を吊り上げた。
「宇水はそうだな。あんな奴でも何かと使えるからな、利用してただけだ。けど、はな・・・・」
志々雄は不敵な笑みを深くする。
「ただ利用してるだけじゃ、ねぇんだよ」
言葉の本意を掴みかねて、方治が僅かに首を傾げる。
志々雄は一人、何故か満足そうな笑みを浮かべると、また、ワインを煽った。
―第十六章:今、そこにある幸せ―
「志々雄を殺す気が、無いのではござらんか?」
穿つような剣心の問いかけに、の体は震えた。
足元がふらつくような感じがして今にも倒れてしまいそうなのに、そうはならずに、ただ呆然と突っ立っていた。
「あ・・・・私、私は・・・・・」
戦慄く唇で、は言葉を搾り出した。何かを言いたいのに、それ以上言葉が出てこない。
表情が消えたを、剣心は真正面から見据えている。真っ直ぐな視線から、は目を逸らせない。
自分の、見られたくない心の奥底まで見透かすような、そんな瞳。
これ以上、そんな瞳を見ていたくはないのに、まるで頭の中が痺れてしまったように何も考えられない。
「私は・・・・」
頼りなく、もう一度呟く。
その刹那、耳に入ってきたのは、
「さん」
どこまでも穏やかで優しい響きの、宗次郎の声。
「・・・・・宗・・・・・」
それでようやく、もぎこちなく振り向いた。
目に入ったのは、不思議そうに首を傾げながらも、それでもあどけなく笑う宗次郎の姿。
―――ああ、この笑顔。
この笑顔に、私はどれだけ救われてきたか。
「大丈夫・・・・・。私は、大丈夫よ」
いつもと変わらぬ宗次郎に、も震える唇を、どうにか笑みの形にした。
それを見て、宗次郎も安心したのか、更に笑みを零す。
「ええ。さんならきっと大丈夫」
そんな宗次郎に、は今度は、自然に笑みを深めた。
体の麻痺が解け、手足に感覚が戻ってくるようだった。単純かもしれない、と自分でも思うが、どうして宗次郎がいるだけで、こんなにも心強いのだろう。
顔だけでなく、今度は体全体で振り向いたに、宗次郎はにっこりと笑って。
「緋村さんに何か言われたからって、気にしないで下さいよ。弱い者を守るために剣を振るう、だなんて、あの人の言ってることもしていることも、間違ってるんだから」
それは確かに、に向けた言葉だった。
けれどは何故だか、それは彼女にだけではなく、宗次郎が彼自身にも言っているように思えた。
「宗・・・・?」
はそれが気にかかって眉根を寄せた。
しかし宗次郎に違和感を感じたのはその時だけで、次の瞬間には宗次郎はあっけらかんと笑っていた。
「ね、だから元気出して、さん」
闘いの場に相応しくない無邪気な言葉に、も幾らか拍子抜けする。
しかしだからこそ、いつもの自分を取り戻すことができた。宗次郎を見つめ、ゆっくりと頷く。
「・・・・ありがと、宗」
微笑んで礼を言うと、は再び剣心に向き直った。
鋭い目を剣心に向けながら、背後にいる宗次郎を思う。
―――この笑顔のためにも、私は負けるわけにはいかない。
「私に志々雄サンを殺す気が無いですって?」
はん、と笑っては言った。
先程、剣心にそれを指摘された時とはうって変わった、開き直った態度。
それを訝しく思ったのか、剣心が眉を顰める。
「・・・・・あなたに何が分かるって言うのよ」
の柄を握り締める手に力が篭もる。
声と表情に滲んだ憎悪は志々雄に向けられたものか。
それとも、剣心に向けられたものか。
「十年前、私は家族を志々雄サンに殺された。父様も、母様も、兄様も、みんな、ね。
私はあの日、全部失くした。優しい家族も、平凡な暮らしも、それまでの幸せも・・・・・・まだ子どもだった私にとっての全部を!
だから私は・・・・その仇を討つために、この十年、ずっと志々雄サン達といたんじゃない!」
悲しみと、怒りと、憎しみと、或いは名前のつけられない感情のままに。
はその言葉を剣心にぶつけた。
八つ当たりに近かったかもしれない、それでももう一度、言わずにはいられなかった。
「あなたに、何が分かるって言うのよ・・・・!」
唇を噛み締め、は強く思う。
知った風な口を利いて欲しくなかった。この十年、自分がどんな思いでいたか、知らないくせに、と。
すべてを失くして、でもいつしか新しいものを手に入れて、それで私がどんな思いでいたか知りもしないくせに。
知らないはずなのに、どうしてこの人は。
知られたくないところを、突いてくるんだろう。
「志々雄サンは私からすべてを奪った。許せるはず、ないじゃない・・・・!」
怒りと共に吐き出された言葉。
それを言った時のの顔が、剣心には、今にも泣き出しそうな顔に見えた。
「殿、」
「うるさい! もうこれ以上何も言うな!」
剣心の言葉をは遮った。
刀を構え、ギッと剣心を鋭く睨みつける。その瞳に浮かぶ色は、はっきりとした殺意。
憎しみと悲しみと、そして何より強い怒りが入り乱れた、剣心を排除しようとする感情。
「その減らず口もここまでよ!」
叫ぶように言い放ちながらは剣心に突進する。
何か言いた気な剣心に構わず、は袈裟懸けに斬りつけた。
―――これ以上、これ以上何も言われたくない。
この人に、これ以上何か言われたら、私は―――・・・・!
「くっ!」
渾身の一撃を、剣心は逆刃刀の鍔元で受け止めた。鍔競り合いの鈍い金属音が響く。
瞬時の判断では刀を引き、今度は素早く逆胴から斬りつけた。本来なら、刀の鞘が邪魔をして致命傷を与えにくい箇所、裏を返せば攻撃を受ける側としては多少なりとも油断が生ずる箇所。
流石の剣心もの意外な攻撃に反応が遅れた。刃が剣心の脇腹を斬り裂き、鮮血が迸る。ただし剣心も咄嗟に身を引いたため、深手には到らなかったが。
それでもよろめきかけた剣心に、はすぐに刀を返して斬りかかる。の顔に勝利を確信した笑みが浮かんだ。
「これで終わりよッ!」
ありったけの力を込めた斬撃が剣心に迫る。けれど剣心は踏み止まり、即座に体勢を立て直しての刀を思いっきり弾いた。キン、という鋭い音を立て、の刀は手から離れて飛んでいく。程なくして、刃が畳に刺さる小気味良い音が辺りに響いた。
「・・・・くっ!」
は舌打ちして、愛刀を取りにいこうと身を翻した。
その時、
「やめるでござるよ」
背後から、剣心の凛とした声が響いてきた。
「もう、やめるでござる」
再び剣心は言った。
思わず足が止まり、はその場に立ち尽くす。
「・・・・・殿は、家族が大切だったのでござろうな」
「えっ?」
唐突とも思える、剣心のその意外な一言に、は振り向いた。
剣心は相変わらず、静かに、穏やかに、を見据えている。
「失って、その生き方を変えてしまう程に・・・・」
「・・・・そうよ。大切だった・・・・」
優しくて温かかった家族達。大好きで、傍にいてくれるのが当たり前で、だからこそ、失くした時初めて、その存在がいかに大切だったのかを思い知らされた。
もういない人達だから、語る時は過去形で。
その切なさを感じつつ、はぽつりと、言葉を返した。
「だから、志々雄サンは許せないのよ・・・・!」
自分の大事な存在を理不尽に奪われて、憎くないはずがあろうか。
ぎゅっと、剣心の返り血のついた手を握り締める。
あの日。あの日もこの手は、こんな風に家族の血に濡れた。あの日以降も、自分が殺した人の血で濡れた。
「そうでござるか。その憎しみに偽りはなかろう・・・・。だが、拙者には、先程も言ったことだが、もうお主には志々雄を殺す気が無いように思えてならぬ・・・・」
「・・・・・・・・」
は小さく息を吸って後ずさった。刀が離れてその代わりを探すかのような右手が、不安げに胸元の着物を握り締める。
「殿は、志々雄にすべてを奪われたと言った。それからの、お主が志々雄達と共にいた十年、何があったのかは拙者には分からぬ・・・・ただ、」
剣心はごく静かに、続けた。
問いかけるというよりは、確かめるように。
「ずっと志々雄の側にいて、親しき者もできて・・・・いつしかそこが、お主の居場所になっていたのではござらんか?」
「・・・・・やめて・・・・・・」
無意識に、その言葉がの口からすべり出た。
「新しい居場所にいるために、”志々雄を殺す”というのを理由にして・・・・」
「やめて! 聞きたくない、これ以上・・・・」
は目を閉じて頭を振った。
何人をも拒絶するような声だった。それでも。
それでも、剣心は続けた。
「殿は自分の居場所を守ってきたのではないか? ”志々雄を殺す”というのを理由に志々雄の側にい続け、剣を振るって、多くの者を傷付けてまで。そうして、それを、
・・・・本当は、ずっと悔いてきたのではないか?」
は色を失った顔に、今度は愕然とした表情を浮かべた。
全身から力が抜け、その場にへたり込む。
虚空をぼんやりと見つめているに、剣心は更に、こう告げた。
「そうでなくては・・・・『死んだ者が望むのは仇討ちではなく、生きている者の幸福だと言うなら、自分は間違ってなどいない』と・・・・あんな風に苦しそうに、言わぬでござるよ・・・・・」
「あ・・・・・・」
の口からようやく声が漏れた。
操から告げられた剣心の言葉。否定しながらも、何度も口にしたその言葉。
間違っていないと突っ撥ねていた、確かに間違ってもいなかった。
けれどそれでも、苦しかったのも本当で。
は今まで見ないようにしていた感情で胸がいっぱいになって、喉と鼻の奥がつんと痛んだ。
次の瞬間、目頭が熱くなり、ぼろっと涙が零れ落ちた。唇が震え、閉じ切れなかったそこから自嘲気味の笑みが漏れる。
「・・・・・何で、あなたには分かっちゃうんだろう・・・・・」
自分でも気付いていた。
十年という月日。
志々雄に対する憎しみは消えない。それでも、ずっと志々雄と接してきて、彼を憎み切れなくなっていた。家族を奪った志々雄を許せない気持ちは色褪せない、けれど、彼は決してその家族の代わりではないのに、それでもいつもの側にいた。
志々雄自身が、の成長を愉しみにしていた節もあった。ある時は師のように、ある時は、そう、まるで親のように。
十年もの間側にいて、志々雄はの近しい人になっていた。同じ空間で、気が置けない会話をして、共に過ごしているうちに。
自分でも、気付いていた。
志々雄に向ける感情は、憎悪や憤怒や嫌悪だけではなく、
いつしか家族に向けるような、思慕の情も入り混じっていたことに。
「そう、いつの間にか、ここが私の居場所になってた・・・・・」
志々雄がいて、由美がいて、十本刀のみんながいて。
何より、自分にとって掛け替えのない、宗次郎がいる―――・・・・。
「・・・・本当は、分かってる。分かってたよ・・・・」
自分には志々雄を殺せないこと。なのに家族の仇討ちを理由に、ずっと彼の元にいたこと。
自分の立場を、居場所を守るために、多くの人を傷付け、見殺しにして、命を奪ってきたこと。
そうしてそれに気付きながらも、本当は人も殺したくないと思いながらも、現実との矛盾に自らが苦しまないよう、あえてそのことを考えないようにしてきたことも。
「宗がいて、志々雄サンがいて、由美姐さんがいて、みんながいて・・・・・」
宗次郎と、大切な人達と、もう離れたくなかった。
傍にいた人達との絆を繋ぐのは、刀しか無かった。
多くの犠牲の上に自分の居場所があると、知っていても。それでも。
「私はただ、今、そこにある幸せを、失くしたくなかっただけなんだ―――・・・・・」
自分の幸せのために他者の幸せを踏みにじってきたこと。
本当は分かってた。
すべてを失くした痛みを知っているから、もう何も失いたくなかったのだということも。
本当は、分かっていた。
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