例えばそれは、有り得るはずの無いことだけれど。










―仮想の追憶―







一時の、安息と言うよりも逃げに近い眠りの中にいる幼い宗次郎を叩き起こすのは、大抵養父か義兄の役目だった。
「いつまで寝てやがるんだ! いい加減起きろ!」
気だるさと、頭の中でもやもやと回る眠気を持て余しながら、それでも宗次郎はゆっくりと身を起こす。そうでないと、また痛い目に合うのは分かりきっているからだ。
覚醒したての宗次郎の前にいるのは、義兄の二人。長男は不機嫌そうなしかめっ面で、次男は人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている。
もうすっかり癖になってしまった、身を守るための笑顔を自然に作って、宗次郎は答える。
「おはようございます」
「さっさと布団仕舞って来い。今日も仕事は山ほどあるんだからな!」
「そうそう。今日は確か、掃除と洗濯とお勝手仕事と・・・・あぁ、飯の買い物もあったなぁ」
「さっさとしやがれ!」
怒声に追い立てられ、宗次郎は笑顔のまま手早く仕事へと向かう。
広い屋敷をたった一人で掃除するのも、傷だらけの手で冷たい水で洗濯するのも、自分の口には入らない食事を作るのも、もうすっかり慣れてしまった。いや、慣れざるを得なかった。庇護してくれた優しい母は、もうとうにこの世の人ではなくなっていた。幼い宗次郎には、いくら酷い環境でも、この家以外に住むべき場所が無いのだ。他の場所で生きていく術も分からなかった。
義理の家族達が酷いことをするのは当然だと、宗次郎は思っていた。何故なら自分は、この家の本当の子ではないから。
所詮自分は他人に過ぎない、体良く使われる奉公人と同じでも仕方がない、と諦めに近い思いも抱いていた。宗次郎が何かしらの失敗をした時、よく家族達が口にする言葉も『置いてやってるだけでもありがたいと思え!』。その言葉通り、家があって、一応屋根の下で暮らせるだけでも僥倖だと。
殴られても蹴られても、酷い仕打ちを受けても、自分が我慢すればそれで全て丸く収まる。
身を持ってそれを学んでいた宗次郎は、だからもうこの家に来たばかりの頃のように、怒ったり泣いたりしなくなった。ただ笑うだけになっていた。無駄な抵抗は何もしない。
それが自分と、この生活を守る方法だと、知ったから。
「えーと、後は買い物か」
家の仕事を一通り済ませた宗次郎は、養母の元へ向かった。何を買ってくるのかを聞き、「盗むんじゃないよ」と念を押されながら金を受け取り、宗次郎は街へと出た。草鞋など与えて貰えないから、裸足のままで。
裸足で道を歩くのもその度に痛みが走るのも、もう気にならなくなっていた。継ぎだらけの粗末な着物で草鞋も履いておらず、顔や体のそこかしこに傷があり、『米問屋は妾の子をこき使っている』―――という噂を知りながらも、自分に何もしてはくれない街の人達の同情や哀れみの視線にも。
(まぁ、仕方ないよね)
妾の子どもなんて、元々歓迎される存在ではないし、養父の米問屋はこの辺一帯ではかなりの力を持つ大店だ。彼の荒い性格を知っている者ならば、余計な揉め事を避けたいと思っていても無理も無い。
宗次郎は幼いながらも漠然とそう感じていた。子どもとは、大人が思う以上に敏感なものだ。
そういった街の人達には大した希望も持たず、視線も気にせず宗次郎はただ自分の役割を果たすべく目的の店に向かう。幾ばくかの野菜と、養父の愛飲する酒を手に入れた宗次郎は、すぐさま踵を返した。
買う物を買ったからには家に戻らなければならない。戻ったところでまた新しい仕事を押し付けられるのは分かりきっていることだが、帰りが遅いと養父に殴られるのだって目に見えている。
(それにしても、おなか空いたなぁ)
今日もろくに朝食を取らないまま仕事へと駆り出されたから、おなかの中がきゅうきゅう言っている。空腹のまま働くのも良くあることなので慣れっこではあったが、それでも年齢的には育ち盛りの宗次郎が、朝から何も食べないまま活動するのは正直辛かった。
(帰ったらお昼ご飯食べられるかなぁ・・・)
それも義母の機嫌次第だろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、宗次郎は曲がり角へと差し掛かった。考え事をしていたのと、空腹でぼーっとしていたのとで、角の先を見るのを忘れていた。
出会い頭に誰かとぶつかる。
「わっ・・・!?」
その拍子で宗次郎は転びかけ、手にしていた荷物を取り落としそうになる。
瞬間、酒の徳利が落ちて割れる―――割れたら養父にまた殴られる―――と宗次郎は思った。自分の心配よりも先に。
宗次郎と荷物とが、地面につきそうになったその時。
「・・・大丈夫で、ござるか?」
咄嗟に伸びてきた手が、宗次郎と荷物とを支えた。意外なことに驚きながらも、すみません、と小さい声を上げ、その手の持ち主を見る。
左頬に十字傷を持った、赤い着物と白い袴姿の青年だった。赤みを帯びた長い髪を首の後ろで束ね、腰には刀を帯びている。
穏やかな顔立ちをしたその人は、柔らかい表情で宗次郎を見ていた。
(・・・お侍さん?)
反射的に宗次郎は思った。
新時代を迎え士農工商の身分制度は廃されたが、それでも明治になって間もない今、未だ武士の立場が一番強いという意識が抜けていない者も多い。
まずいことをしたかも、と宗次郎は慌てて身を引いた。荷物を抱え直し、深く頭を下げる。
「すみません! ぼーっとしててぶつかっちゃって・・・」
「いや、拙者もお主に気付けなかった。すまなかったでござるな」
けれどそうした宗次郎に、その青年は屈んで笑いかけた。気さくな物言いに、宗次郎はきょとんとして顔を上げる。と、その人は宗次郎の頭をぽん、と軽く叩いた。
「お使いか? 偉いでござるな」
「・・・偉い?」
宗次郎は思わず聞き返す。そんな風に言われたことは一度も無かった。
買い物に行かされるのはしょっちゅうだったが、義理の家族達はそれは当然だといった風で、宗次郎を褒めたり労ったりすることなど無かった。
それなのにこの人は、『偉い』と言ってくれた。
「お主、怪我してるでござるな。今ぶつかった時にできたものではないようだが・・・? 草鞋も履いてないようでござるし」
「えーと・・・さっき転んじゃったんです。草鞋も、それで駄目になっちゃって・・・」
怪我にも気付いてくれた。裸足であることも気にかけてくれた。
いつも体に傷があるのも、それを皆見て見ぬ振りをしているのも当たり前になっていて、だからこそそれに気がついてくれたこの人の言葉が、優しさに慣れていない宗次郎にはとても、とても有り難かった。
それでも本当のことは言えるはずも無く、宗次郎は嘘を吐いた。青年は、何事かを考えるような顔をしていたが、やがて笑顔で「そうか」と頷いた。
「それじゃあ、僕はこれで・・・」
「帰り道、気をつけるでござるよ」
ぺこりと頭を下げてさっていく宗次郎を、青年は笑って見送ってくれた。宗次郎の背中が見えなくなるまで。
それだけのことでも、宗次郎の気分は久方ぶりに弾んでいた。ずっと忘れていた心からの微笑みも、自然と浮かんでいた。
(・・・・優しい人、だったなぁ・・・・)
他人とまともに話すなんて、本当に久し振りだった。まして、温かい言葉を向けて貰うことも。
今日初めて会った人だし、言葉に神奈川の訛りも無かったから、この辺りの人ではないのだろう。なら、引っ越してきたのか、この街に用があって来たのか。
優しげな青年の顔立ちに、亡き母の面影が重なる。懐かしい感情を抱いて、宗次郎は帰宅した。青年から貰った温もりも、ずっと胸の奥に灯ったままだった。
宗次郎がこんなうきうきした気分になるのは、本当に久し振りだった。
だがその温かさは、一気にかき消されることとなる。
帰って昼食を取ってすぐ、養父から百俵の米俵を西の倉に移すよう命じられたのだ。それも今日中にと。
八歳の子どもに一人で米俵を百俵も移動しろ、とは酷な話だ。だが養父は宗次郎の身を気遣うような男ではない。
宗次郎も必死に頑張った。重さに耐え、一歩一歩、ゆっくりと歩いて運んでいく。
けれどそれでも、たった一人でできる仕事ではなかった。刻限を過ぎても、数俵しか運べなかった。
宗次郎は途方に暮れたが、それでも終わらなかったものは仕方ない。びくびくしながら、酒を飲んでいる養父のところへ報告しに行った。
「すみません・・・・全部はできませんでした」
「あァ? ッのガキがぁ!!」
素直に謝った宗次郎を、養父は容赦なく蹴り飛ばした。投げ出された体は戸を壊し、中庭の上を転がった。
あちこちを打ち付けて体中が痛い。その痛みに耐えながら身を起こした宗次郎に、養父は更に怒声を浴びせる。
「できねェじゃねェだろ。やれっつったらやりゃいいんだよ!!」
やるだけやった宗次郎には、あまりにも無慈悲な仕打ちだった。
いつものことだ、と諦観した思いを抱きつつ、宗次郎は顔を上げる。傷だらけの顔に浮かぶのは、無邪気な微笑だった。
その態度にカッとなった養父は手にしていた徳利を投げつけた。徳利は宗次郎の頭に当たり、粉々に割れた。宗次郎の髪の毛の中からも、ぼたぼたと血が零れ落ちた。
だがそんな宗次郎にはお構い無しで、養父は仕事を命じる。終わらせるまでは屋敷に入れないと、無情にも。他の家族達も、誰も庇ったりはしてくれなかった。
宗次郎は無言で立ち上がった。義理の家族達に背を向け、寒空の下、力無く歩いていく。
痛い。
痛い。
頭の怪我も痛いけれど、心も、痛かった。
(やれって言われたことを、やらなかった僕がいけないんだもの。・・・仕方ないよね)
けれど自分にそう言い聞かせ、宗次郎は痛みから目を背けた。
殴られるのはいつものことだし、もう慣れてるから平気。
我慢すれば済むこと。耐えていればいいこと。
笑ってさえいれば―――。
静かに見下ろしている満月の下、宗次郎は黙々と米俵を運ぶ。一つ運ぶごとに疲労は増し、宗次郎の小さな背や腰に重みは圧し掛かってくる。
そうして何俵か運んだ頃、とりあえずこのくらいにしようと宗次郎は倉の戸を閉めた。先程の徳利を投げられてついた傷を洗おうと井戸へと向かう。
水の入った釣瓶を引き上げ、懐に入れていた手拭いを浸して傷のところに押し当てる。傷の痛みと水の冷たさとで、宗次郎は小さく声を漏らした。
切ない色を瞳に宿して、じっと手拭いを押し当てていたその時だった。
キィン、という金属音が辺りに響いた。ビクッとして体が飛び上がる。宗次郎がそっと音が聞こえた方を見遣ると、再び金属音と、今度はぎゃあっという人の叫び声。
(・・・・何だろう?)
この倉の向こうだろうか。
怖くはあったが好奇心もあって、宗次郎は思わず駆け出していた。音のする方へ向かっていくと、またも人の叫び声が上がる。倉と倉の間を通り抜け、突き当りでそうっと顔を覗かせると、刀を振り上げている無頼風の男と、長い髪の剣客が対峙していた。周りにも数人、男が倒れている。
長い髪の剣客の顔は見えなかったが、その姿には見覚えがあった。
もしやあれは、昼間会った青年ではないだろうか。
宗次郎がそう思った時、無頼風の男が刀を青年に振り下ろした。刀が青年の体を斬り裂くかに見えたその刹那、けれどその青年の姿が消えたように宗次郎には見えた。素早く男の後ろに回りこんでいた青年は刀を一閃させ、その一撃で呆気なく男は倒れた。
まるで風のようだと、宗次郎は思った。
「・・・・そこに誰かいるのか?」
昼間とは違う、鋭さを含んだ静かな声に宗次郎は身を縮こませる。振り向いた青年は宗次郎の姿を認めると、ほんの少し目を丸くした。
「お主は、昼間の・・・・」
「こ、こんばんは」
怯えたような笑顔を浮かべる宗次郎に、青年もふっと警戒を解く。
「怖がらせてしまったようでござるな。すまぬ」
青年は刀を鞘に納め、宗次郎の側に近付いてきた。
浮かぶ表情は昼間見たような、穏やかなもの。
「驚いたでござるな。ここはお主の家か?」
「え、ええ、まぁ・・・・」
「こんな夜更けに子どもが一人で出歩いては、危ないでござるよ」
気遣ってくれる青年の言葉をまた嬉しく思いながら、宗次郎は疑問を口にする。
「あの、その人達は・・・?」
「ああ、盗賊でござるよ。この家に盗みに入ろうとしているのを見かけてな。追いかけてきたのでござるよ」
青年は説明しながら倒れている男達を見遣った。男達のぐったりとしたままぴくりとも動かないその様子を見て、宗次郎の表情に僅かに怯えがよぎる。
「こ、殺しちゃったの?」
不安げに尋ねてくる宗次郎に、青年はやんわりと笑んで言葉を返した。
「いや、生きているでござるよ」
「そう・・・・」
その答えに宗次郎はどこかほっとしていた。どうしてだか、自分でも良く分からなかったけれど。
刀と刀の闘いを見るのは初めてだったが、この人が凄く強い人だということは分かった。刀で斬った・・・・ように宗次郎の目には映ったが、それなのに死んでいないなんてどういうことだろう。話だけは以前聞いたことがある、峰打ちというものだろうか?
「さて、拙者はこの者達を街に連れて帰るでござるよ。未遂ゆえ警察に突き出したりはせぬが、盗賊がこの家にいるままでは、お主や家族も安心できぬでござろうしな。お主も、家族には秘密にするでござるよ。余計な心配は無用でござるからな」
家族―――。
その言葉が宗次郎の胸に引っかかった。
そう、家族、確かに家族だ。ただし頭に『義理の』が付くが。
そして全然、自分に家族らしいことなんてしてくれないけれど。
「・・・・どうした?」
「え、な、何でもないです」
沈んだ表情を隠すように、宗次郎はすぐさま笑みを浮かべた。この人に話せるはずもない。話してどうなることでもない。
だから言わない。言えなかった。
その代わり、違う言葉を言う。
「あの・・・・色々ありがとうございました」
「いや、気にするなでござるよ。・・・・お主、名前は?」
「宗次郎です」
答えると、青年は穏やかに笑んで、昼間のように宗次郎の頭をぽんと叩いた。
「拙者は緋村剣心。今旅をしているが、しばしこの街に留まるゆえ、お主とはまた会うやもしれぬな」
その仕草に安堵を覚える。
こうやって誰かにそっと触れてもらうのなんて、いつ以来だろう。
「では、またな。もう夜も遅い、早く休むでござるよ、宗次郎」
名前を呼んでもらえて嬉しいと感じるのもいつ以来だろう。
華奢な体で器用に男達を担いだ剣心を見送っても、宗次郎はしばしその場に立ち尽くしたままだった。
穏やかな優しさと、相反する剣の鋭さを持つ、不思議な人。
(緋村さん、か・・・・。優しいな・・・・でも)
暗闇を照らす満月を見上げて、ただ思う。
(凄く、強い人・・・・・)