次の日、深夜にそんな盗賊騒ぎがあったなんて露ほども知らぬ養父は、引き続き宗次郎に米俵の移動を命じた。言われずとも元よりそのつもりだった宗次郎は素直に米俵を運び始める。
どこかで働いているんだか働いていないんだかいつも良く分からない養兄達は、煙管を片手に呑気に世間話をしている。宗次郎が懸命に米俵を運んでいるその傍らで。
「オイ宗次郎、まだ終わらねェのか? ノロマな奴だな全く」
「まぁそう言うなよ兄さん。重〜い米俵を背負ってるんだ、動きがとろくなるのも仕方ないさ」
たまに声をかけるかと思えば、そんな冷やかしの言葉。相手にしたところでまた何かを言われるのは分かっているから、ただ宗次郎は笑って受け流す。
もう、こんな心無い言葉にも慣れた。
「けど、お前がずっとそれやってるとさァ、他の仕事がどんどん溜まってくんだよねェ」
自分が手伝う気はさらさら無い次男はニヤニヤと笑って宗次郎を見下している。この家では面倒な仕事は全部宗次郎に任せてしまうのがもう決まりきっているからだ。それこそ、この次男が昨晩言っていた、『給金払わずに一生コキ使える奉公人』のごとく。
宗次郎は笑う。笑ってしまえば、何を言われても気にならない。心が軽くなる。だから。
例え、それが誤魔化しだとしても。
「なァ、宗次郎。運んでるとこ悪いんだけどさァ、タバコ買ってきてくれない? 丁度切れちゃってさ」
「は、はい」
次男にそう呼び止められ、宗次郎は米俵をそっと脇に下ろす。次男は相変わらず質の悪い笑みを浮かべていた。
「そうそう、それと親父の酒も。昨日お前にぶつけたせいで一つ駄目になっちゃったからさ」
「・・・・行ってきます」
余計な仕事を頼まれては、米俵を運ぶ作業が更に遅れる。次男はそれも分かっていて宗次郎を買物に行かせるのだろう―――その意地の悪さに不満を覚えながらも、逆らわないことが懸命だと悟っている宗次郎は笑って頷く。どんなに不服でも、それが一番いい選択だと分かっているから。
内心溜息を吐きつつ、宗次郎は次男から金を受け取って力無く歩き出す。
とぼとぼと街へと歩きながら、宗次郎はふとあることを思い出す。
『お使いか? 偉いでござるな』
そう言ってくれたあの人に初めて出会ったのも、昨日買い物に出たからだった。
まさか夜に、あんな再会をするとは思いも寄らなかった。
(強い人、だったなぁ・・・・)
剣を知らない宗次郎でも、そのくらい分かる。あの速さ、あの身のこなし、あの刀の捌き方は只者じゃない。
凄く、強い人。それに。
(・・・・優しかったな)
両親を失くした自分に、ただ一人と言っていい程、優しくしてくれた人。
(また、会えるかな)
しばらくはこの街に留まると言っていたから、偶然会うということはあるかもしれない。
けれど、今望むように都合良く、出会えるはずが―――・・・・
「宗次郎」
「・・・・緋村さん」
無い、と思っていたのに。
声をかけられ、顔を上げる。目が合って、その名が口をついて出た。
道の途中の茶店で、外の椅子に腰をかけていたのは、紛れも無く緋村剣心その人だった。一服していたようで、傍らには飲みかけの茶や皿に乗った串団子がある。
「今日も買い物か? 家族の手伝いとは感心でござるな」
「・・・・・・」
宗次郎は曖昧に笑う。進んで手伝っているわけではないのだが、そう言われたことが何だかこそばゆかったので。
「ここの団子は美味しいでごさるよ。一つ食べるでござるか?」
「えっ? いや、そんな、大丈夫です」
本当は、昨日から満足に食べていないのでお腹がぺこぺこだったが、貰うのも何だか悪いし、それに帰りが遅いとまた米俵を運ぶのが遅れてしまうという懸念もあったので。せっかくの剣心の厚意を断ってしまうのも気が引けたが。
「そんなに拙者のことは気にしなくてもいいでござるよ。一つくらい、」
「いえ、本当に大丈・・・・」
言いかけた宗次郎のお腹がぐうっと鳴った。
そのタイミングの良さに二人とも目を丸くして固まってしまったが、やがて宗次郎が恥ずかしそうに俯く。
「ご、ごめんなさい」
「いや、何、お主が謝ることでもない。それより、お腹が空いているんならなおのこと食べていくでござるよ。遠慮はいらぬから」
「・・・・じゃあ、頂きます・・・・」
それでも遠慮がちに頷いて、宗次郎は剣心から少し間を開けて椅子に腰掛けた。義理の家族達のことが頭の片隅でちらついたが、空腹には勝てず、剣心の厚意も断りきれなかったので。多分、断りたくない気持ちもあったから。
「ほら、宗次郎」
「あ、ありがとうございます」
おずおずと受け取った団子は、宗次郎が久しぶりに手にする甘味だった。そっとかじると、甘い味が口の中いっぱいに広がった。
「おいしい・・・・!」
感嘆のあまり声を漏らす。普段ろくな物を食べさせて貰っていない宗次郎には、この団子はこの上なく美味しいもののように思えた。
夢中で串一本分の団子を平らげてしまった。
「な、美味しいでござろう?」
隣では剣心がにこにこと笑っている。そうして、今度は団子を皿ごと宗次郎に差し出した。
「実は拙者、多く頼みすぎて食べ切れなくてな。良かったらお主が食べるでござるよ」
「え、そんな、悪いですよ」
子どもには、大人の僅かな仕草でもその人の本心を感じ取れる鋭さがある。まして育った環境が環境の宗次郎なら尚更で、剣心の嘘をあっさりと見抜いていた。自分にもっと食べさせるためにこんな嘘を吐いている、と。
分かりながらも断って、それでも。
そんな風に言ってくれたのが嬉しかった。
「いいからいいから」
「・・・・・・・」
笑顔で薦めてくれる剣心に、宗次郎は申し訳なさそうに頷いて団子を受け取った。それでも美味しいものは美味しいから、宗次郎はまたもあっという間に団子を食べ終えた。
こんな風に、誰かと美味しいものを食べるのも、久し振りな気がする。
「・・・・・あの」
「ん?」
串を皿の上に戻しながら、宗次郎はぽつりと言った。
「ありがとうございます。その、こんな僕に、優しくしてくれて・・・・」
宗次郎は目線を落とした。草鞋を履いていない足は汚れに塗れている。手も傷だらけだ。こうして太陽の下で自分の姿を改めて見ると、着物も体もぼろぼろだなぁ、と思う。
こんな、いかにも何かあります、といった風の自分に、わざわざ構ってくれるなんて。
「・・・・怪我、してるでござるな」
「え?」
剣心の声が低くなった。え、と思ってそちらに顔を向けると、剣心は刀を振るっていた時とも違う真剣な表情をしていた。懐から手拭いを取り出し、細く裂いている。
「昨日の夜は気付かなかったが、頭を怪我をしているでござるな」
「・・・・・・」
宗次郎は黙って剣心を見ていた。昨日のその怪我は水で冷やしたものの、ろくに手当てもしていなかったから、動いているうちにじんわりと血がたれてきていた。その怪我を覆うように、剣心は細くした手拭いを包帯代わりに宗次郎の頭に巻いていった。
自分ですら放っておいた傷を手当てしてくれた剣心を、宗次郎はぽかんと見上げることしかできなかった。
「この怪我も、その体中の傷も、ただ転んでできた傷というわけではないはずだ。宗次郎が話したくないのは分かるが、良かったら話してくれぬか?」
「・・・・・・」
宗次郎はまた押し黙ることしかできなかった。
怪我の理由を話すのは簡単だ。義理の家族達が自分を蔑んで殴ったり蹴ったりしてできたものだと。
けれど、話したところでどうなる?
剣心が自分の身を心配してくれているのは分かる、けれど、話したところでどうしようもない。家族達は自分が本当の家の子でないから苛めるのだ。いくら強い剣客でも、どうこうできる問題ではない。
他人に言っても仕方の無いことなのに―――
「・・・・どうして笑うのでござろうな」
「え?」
剣心に指摘されて、宗次郎は自分が笑っていることに気付く。今、笑っているという自覚は無かった。痛い時、悔しい時、悲しい時は意識して、或いは無意識のうちに笑っていた。
けれど今は、どうして笑っていたんだろう。
「大人になったら、感情を殺して我慢せねばならない時もある。けれど、だからこそ子どものうちは、怒ったり泣いたり笑ったり、色んな感情を素直に表に出していいと、拙者は思うでござるよ。困っている時は、正直にそう言ってくれればいい。今の宗次郎のように、笑って誤魔化さなくとも」
「・・・・だって」
他人に言っても仕方の無いことなのに。
ぽつりぽつりと、宗次郎は吐き出していた。
「だって、僕が言いたいことを言ったら、みんな生意気だのうるさいだのって言うんです。だったら、最初から言わない方がいいじゃないですか」
「・・・・・・」
幼い身でありながら悟りきった口調に、剣心はしばし無言だった。そうしてしばし間を置いて、剣心は静かに尋ねる。
「・・・・みんな、とは誰のことでござる?」
「家族達。といっても義理のだけど・・・・。笑ってさえいれば、殴るのも蹴るのも、すぐに呆れて終わりにする。この頭の怪我だって、笑ってたからこれだけで済んだんだ」
今までに誰にも打ち明けていなかった反動だろうか、宗次郎は自分でも驚く程この身に起きたことを剣心に話していた。もっとも、全てではなかったけれど。
「どんなに痛くても、悔しくても、笑ってさえいれば・・・・」
それは幼い宗次郎が自分の身を守るために生み出した術だった。
笑うことで、心の奥に押し込めた傷が、本人も知らないうちに痛んでも。
「宗次郎、」
「でも、僕が悪いからいけないんだ。僕はあの家の本当の子じゃないから、邪魔者にされても仕方ないよね。でも僕には、あの家しかいる場所がないから・・・・」
言いかけた剣心に、宗次郎はそれでも笑って独り言のように言葉を返した。
やっぱり、話してどうなることでもなかった。この人にいくら話しても、変わらない。仕方ないことだから。
それでも多分、誰かに聞いて欲しかった。
聞いて貰えて、嬉しかった。
「それじゃあ、まだ買い物が残ってるから・・・・さよなら、緋村さん」
宗次郎は立ち上がるとぺこっと頭を下げた。そのまま足早に立ち去ろうとする。と、剣心の声が宗次郎を呼び止めた。
「宗次郎」
そう名を呼ぶ剣心の瞳は、いつになく真摯な色を浮かべていた。見たこともない強い視線に、宗次郎も目を逸らせない。
「生まれは、自分でどうこうできることではない。誰もが自分で選ぶことができぬもの。・・・・お主が、悪いわけではないでござる」
「―――っ・・・・」
宗次郎は息を呑んだ。
今まで、ずっと自分が悪いんだと思っていた。自分だけがあの家の本当の子どもではないからと。周りから望まれて受けた生ではないからと。謂れなき暴力を受けても仕方がないと。
諦めて、自分でも受け入れていたのに。
なのにこの人は、それを違うと言う。
言ったところで、宗次郎の出自が変わるわけではないけれど―――それでも宗次郎にとっては衝撃的で、多分、嬉しかった。
もう一度頭を下げて、宗次郎はその場から走り去った。後ろは振り向かなかった。振り向いて、もう一度あの人の姿を見てしまったら、帰りたくないと、未練が残ってしまうことは分かっていたから。
この生活から抜け出したい思いが無いわけではない。けれど自分では何もできない。あの家族達が心変わりするはずも無い。だから心の奥底では、きっと誰かに助けられることを望んでいる。誰でもいいから、第三者に、できれば、自分が心を許した人に。そう、例えば彼のような。
優しくしてくれた唯一の大人の人。それでも、所詮は他人。ずっと頼れるはずもない。頼っていいはずもない。
だから、諦めなければならない。どんなに誰かに助けて欲しくても、結局、自分はあの家から逃げ出す勇気が無いから。たった一人で、まだ幼い自分の力で、生きていく勇気など自分には―――。
「・・・・早く帰らなくちゃ」
半ば呆然としたまま買い物を済ませ、宗次郎はぽつりと呟く。
早く帰らなくては。あの家へ。
待っているのが謂われ無き暴力だとしても、行くべき場所はそこしかない。笑って我慢していれば済むことだから、宗次郎は辛さや苦しみを受け流すようにただ微笑む。胸の痛みも早く去ればいいと、そう思いながら。
夕暮れが空に差し始める頃、そうして家にとぼとぼと戻った宗次郎が門をくぐりながら小さく「ただいま」と言うと、丁度庭にいた長女が近付いてきた。年頃の割りに優しさなど欠片も無い長女は、宗次郎を見てくすくすと笑っている。
「遅かったわねぇ、宗次郎」
「・・・すみません」
素直に謝った宗次郎の言葉など知らん振りで、長女は話を続けた。
「ま、あんたが遅くなっても私はどうでもいいんだけどォ、父さん達カンカンよ?」
「え?」
宗次郎の顔から思わず笑みが失せ、対照的に長女は鼻持ちならない笑みを一層深くする。
「あんた、町で流浪人なんかと仲良くしてたんだって? 父さんのお客さんで見てた人がいて、教えてくれたのよ。それ聞いて父さんも母さんも怒っちゃってさァ。『得体の奴とつるむなんて、とんだ恥さらしだ!』って」
「そんな・・・・」
酷い言われように宗次郎はうろたえた。流浪人、とは確か当ての無い旅の剣客のことだったろうか。世間的にはあまりよく思われていないのかもしれない。だから養父達は怒っているのだろうが、それでも、
(あの人は優しい人なのに。こんな僕にさえ、優しくしてくれたのに・・・・!)
その思いは言葉にならなかった。流浪人だろうと何だろうと、剣心はこんな名ばかりの家族よりずっと温かく接してくれた。
それが宗次郎にとってどれだけ有り難かったか―――それなのに、養父達はそんな宗次郎の気持ちなど考えもせず、世間体を、いや、自分達の身のことばかりを考えている。
もっとも、彼らは今までに一度も、宗次郎の本当の気持ちなんて考えたことなどありはしなかった。
「宗次郎!」
怒声が響き、宗次郎はビクッと震えてその方向を見る。見れば養父を中心として、養兄や養母が回りを取り巻いている。
「てめえ、素性の知れねぇ流浪人なんぞと仲良くして、わしの店の評判を落としやがって!」
怒りをあらわにした養父は宗次郎を怒鳴りつけるなりその胸倉を片手で掴み、もう片方の手で顔を思い切り殴り飛ばした。反動で宗次郎の小さな体はごろごろと砂利の上を転がった。痛みに呻く間も無く、今度は長男の方が宗次郎の胸倉を掴み上げた。
「なぁ、宗次郎。俺達はお前なんかをわざわざ家に置いてやってんだぞ。それなのに・・・・恩を仇で返すような真似しやがって!」
長男は宗次郎の体を力任せに投げ捨てた。砂利に全身を打ちつけ、宗次郎の体のあちこちがずきずきと痛む。あまりにも痛くて、すぐには笑えなかった。
(どうして・・・・? 僕や緋村さんは、何か悪い事したの・・・・?)
―――ずっと酷い仕打ちを受け続けて、それで誰かに優しさを求めることは罪なのか。
「米問屋は客商売なんだぜ? いくら養子でもそこの子が流浪人なんかに施されてるトコ見られたら、ウチの店の信用が失くなっちゃうだろ? とんでもないことしてくれたなァ、宗次郎」
「ホントよねぇ。ヘラヘラして愛想良くして、私達の知らないトコでもそうやって食べ物恵んで貰ってたのかしら」
「まるでウチが何も食べさせてないみたいじゃない! この家に置いてやってるだけでも有り難いと思えって、いつも言ってるでしょうに!」
次男と長女、養母の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
自分の実情なんてこの町の誰でも知っている、それでも養父を恐れて誰も何も言えなくて、それなのに今更評判を落とすも信用を失くすも何も。宗次郎が冷静で、思考回路が大人のそれであったなら、多分そんな風に思っただろう。
けれど生憎、今の宗次郎はそうではない。そんな、あんまりだ、と思いながらも何も言えずに、痛みに耐えながら身を起こし、落胆の色をその瞳に浮かべるだけ。
「今日という今日は勘弁ならねェ!」
「ああ、ブチのめしてやる!」
養父と長男は怒りが収まらぬ顔のまま、じりじりと宗次郎に詰め寄ってくる。長男の方は鞘に納まったままの刀まで取り出した。他の家族達はその場から一歩も動かずにやにやと笑っているだけで、それが更に宗次郎の恐怖を煽る。
ただでさえ痛くてたまらないのに、もっと痛い目に合わされるのか。
(誰か・・・・助けて・・・・)
震えながら宗次郎はそう思った。殴られるのも痛いのにも慣れて、あの笑顔を浮かべることを覚えてからは、誰かに助けを求めることなんて無かった。誰も守ってはくれないから、己の笑顔で自分自身を守ることしかできなかった。
でも、本当は―――
(誰でもいい、誰か・・・・)
ずっとずっと、願っていた。母が無条件で子どもを守るように。
誰かに、そうやって守って欲しいと。
(誰か助けて・・・・!)
祈るように、心の中で叫んだ。
目を瞑り、ぐっと拳を握り締める。瞼の奥に浮かんだのは、優しくも強い、あの人の姿だった。
あの人が今、守ってくれたなら。
(―――緋村さん!)
やがて来るであろう痛みに耐えられるように歯を食いしばりながら、宗次郎は心の中で必死にその名を呼んだ。
迫ってくる養父と長男の暴力、けれどそれは、宗次郎には届かなかった。
その代わり、目を閉じたままの宗次郎が肌で感じたのは、一陣の風。
「・・・・え?」
恐る恐る、そうっと目を開ける。
目の前には赤みを帯びた足袋を履いた足があり、白い袴が揺れていた。まさか、という、信じられない思いと期待とが交錯しながらも、宗次郎はゆっくりとその後姿を見上げていった。赤い着物、首の後ろで結わえた長い髪、そして。
目に入ったその横顔、左頬に大きな十字傷を持ったその彼は。
「緋村さん・・・・」
「宗次郎、すまぬな、遅くなって」
鋭い表情をふっと緩め、剣心は穏やかな顔を宗次郎に向けた。
剣心は宗次郎を庇うようにその前に立っている。それに気付いて、宗次郎は思った。
(本当に、助けに来てくれた・・・・?)
「何だてめぇは!」
淡い嬉しさは、養父の怒鳴り声で弾け飛んだ。身をすくめる宗次郎を見遣って、剣心は今度は養父と長男に目を向けた。
「もしかして、宗次郎がつるんでた流浪人ってのはてめぇか? 余計な真似しやがって!」
「余計な、とはどういうことでござる? 空腹の幼い子どもの腹を満たしたことか、それともその子を理不尽な暴力から守ったことか。こんな幼子を痛めつけて、お主達は何も感じぬのか」
それは宗次郎に向けた視線とは、全く違ったもの。
限りなく鋭く、そして冷たい瞳。
「うるせぇ、てめえはすっこんでやがれ! 宗次郎はウチが育ててやってるんだ、コイツをどうしようと俺達の勝手だろう!」
凄味を帯びた剣心の視線にも怯まず、養父は怒りのままに暴言を吐く。
身勝手な物言いに剣心の瞳が更に鋭さを増した。彼が纏う空気は静かで穏やかで、それでいて身を切り裂くような鋭利さがある。
「確かに、お主達は宗次郎の養い親だ。だが、大人の都合で宗次郎を見下し、酷い仕打ちをするお主らの行動は、『子どもを育てる』ことだとは到底呼べぬ!」
「うるせぇ! 流浪人風情が偉そうな口きいてんじゃねぇ!」
剣心の言葉に苛立ち、長男が刀を抜き放つ。勢いに任せて突進してくる長男を、剣心は身を僅かに傾けただけで難なくかわしていた。驚いた長男が振り向ききるその前に、首に手刀を叩き込んだ。
「がはっ・・・」
「この野郎!」
長男が呆気なくやられたことに激昂し、今度は養父が剣心に踊りかかった。けれど、宗次郎にとっては限りない恐怖の対象であった養父も、剣心の前ではただの乱暴な一般人でしかなかった。刀を抜くまでも無く、剣心がすっと足を突き出しただけで、それに躓いて転倒してしまった。
宗次郎だけでなく、次男達も呆気に取られた顔で剣心を見ている。長男と養父も身を起こし、剣心を悔しそうに睨んでいた。こんな瘠身の流浪人に、いいようにあしらわれるなんて、と。けれど、剣心が鋭い眼光で義理の家族達を睨みつけると、皆ビクッと一様に震え上がった。
「お主達は所詮、力が無い者にしか力を振るうことしかできない・・・・今まで宗次郎に対してそうであったようにな。何なら拙者が、お主達がしてきたことをその身に味合わせてやっても良いが・・・・?」
穏やかな彼とは別人とも思える程の冷たい眼差しとその声色。すうっと抜刀しかけた剣心に、義理の家族達はさあっと青くなった。素手ですら手も足も出なかったのに、刀を出されたら一体自分達はどうなるのか。
「た、助けてくれよォ! お、俺達だけが悪いわけじゃねぇって! 元はといえば、宗次郎の母親がウチの先代に手ェ出すから・・・・!」
「そ、そうよ! それでその親が死んで一人になった宗次郎を、ウチはわざわざ引き取って育ててやったのよ!」
「だから、許して頂戴よォ!」
次男と養母、長女が必死になって剣心に許しを請う。だが、それでも剣心は顔色一つ変えない。
「この期に及んで自分達の身のことしか考えるとは、救えぬな」
むしろ、柄を握る手に力を込め一気に刀を引き抜く。鈍色の刀身が煌めくと、家族達はひいっと情けない声を上げた。
「た、助け・・・・」
「そう言った宗次郎を、お主達は助けたことがあったのか?」
取り付く島も無い剣心に、家族達はガタガタと震えることしかできない。剣心の醸し出す只ならぬ雰囲気に推されて、逃げることも敵わない。
剣心はゆっくりと、刀を振り上げた。
「覚悟するでござるよ」
言い知れぬ恐怖に、家族達は身を縮こませた。
斬られる―――そう、思った瞬間、意外にもそれを止めたのは。
剣心の着物をぐっと掴み、引っ張った宗次郎だった。
「もう、いいです。緋村さん、もう止めて下さい・・・・」
「・・・・宗次郎」
宗次郎に振り向き、剣心はその手を止める。家族達もぽかんとした顔で宗次郎を見ていた。
震える手で、剣心の着物を引っ張りながら、宗次郎は力無くも淡い微笑を浮かべていた。
「僕はこの人達に酷いこといっぱいされたけど、でも、やり返したいなんて、思ってないから・・・・」
痛かった、辛かった、苦しかった、悔しかった。
家族と呼べぬ家族達に、酷いことをされ続けた。
それでも、宗次郎が望んでいたのは、仕返しなどではなくて。
「・・・・この者達を許すと言うのか。優しいでござるな、宗次郎は・・・・」
剣心もふっと頬を緩める。振り上げていた手を下ろし、刀を鞘に納めた。それを見て、宗次郎もほっとした顔になる。
宗次郎の頭をぽんぽんと軽く叩いて安心させると、剣心は家族達を再び冷たい目で見据えた。放心していた家族達は、それでまたビクッと緊張する。
「幼子にした惨い仕打ちを拙者は許す気は無いが、宗次郎がこう言っていることだし、今日のところは見逃すでござるよ。だが、次の時は・・・・」
最後まで言わない辺りが余計恐ろしく、家族達はこくこくと首を縦に振った。確かに約束をしたのを見届けてから、剣心はくるりと振り向く。これだけ脅かしておけば十分だろう。
そうして屈んで、宗次郎と目を合わせた。
「宗次郎、お主の心根は立派でござるよ。これからも元気でな」
「・・・・・緋村さんは?」
唐突に訪れた別れの予感に、宗次郎は不安げな表情になる。剣心は申し訳なさそうに笑いながら、こう答えた。
「拙者は流浪人。また、流浪れるでござる」
「・・・・・・」
そんな風に微笑まれては、宗次郎も何も言えなかった。
そうだ、分かってたはずなのに。
この人は流浪人。いつまでもここに留まってくれる人じゃない。
いつかは去っていく人。そうなんだって、分かってたはずなのに。
手を伸ばせなかった。遠去っていく後姿を見送るしかなかった。だけど、本当は彼に、
―――行って欲しくない。
「・・・・行っちまえよ」
そんな宗次郎の心を見透かしたわけではないのだろうが、長男の不機嫌そうな声が聞こえ、宗次郎は思わず振り返る。剣心への怯えと、恐怖がまだ残る顔で、家族達は一様に宗次郎を毒づいた。
「全く、とんだ疫病神だよ、あんたは・・・」
「ああ、さっきの優男はただモンじゃねぇ。あんな奴をウチに寄こすなんて」
「あんな奴の方が良いなら、とっとと行っちまえ!」
あれだけ剣心に脅されても尚、家族達は自分達のことしか考えていないのだろう。結局は、宗次郎のことなど思いやってはくれないのだろう―――けれど。
その方が、宗次郎にとっては都合が良かった。
「ありがとうございます。これで心置きなく、この家を出て行けます」
満面の作り笑顔を浮かべて、宗次郎は頭を下げた。そのまま振り向きもせずに駆けていく。彼が去っていった方へ。
裸足で砂利道を走っても、その痛みは気にならなかった。早く、彼に追いつきたかった。懸命に走っていたので、途中すれ違った人達にすら(それは実は先日剣心が捕らえた盗賊達が性懲りもせずに米問屋を狙いに行ったのだけれど)、気がつかなかった。
息が上がる。それでも宗次郎は走り続けた。その甲斐あって、ようやく。
赤く長い髪の、その後姿に追いついた。
「・・・・緋村さん!」
「そ、宗次郎?」
流石の剣心もぎょっとして振り返る。どうして先程別れたはずの彼がここにと。
「あの家、追い出されちゃったんです。だから、緋村さんのこと追いかけてきちゃいました」
宗次郎はにこにこと、天真爛漫、その言葉そのままに笑った。
剣心は呆気に取られたが、すぐに表情を緩めた。
「懲りないでござるなぁ、あの者達も」
「そうですね。でも、もういいんです」
宗次郎はあっけらかんとそう答えた。
未練は無い。情も無い。全く恨んでいないといえば嘘になるけれど、すっぱりと関係を断ち切って出てきた以上、何の感慨も沸かなかった。仮初めの、家族達には。
もう、どうでも良かった。何故なら。
「なら、宗次郎。ついてくるでござるか?」
「うん!」
自分を守ってくれる人を見つけたから。
宗次郎は本当に無邪気に笑って、剣心の誘いに頷いた。聞かれなくても、ついていくつもりだった。
「ねぇ、緋村さん」
「ん?」
「僕・・・・強くなりたいな」
「・・・そうでござるな」
刀を腰に帯びた青年と、笑顔を絶やさない少年の姿が、夜の闇へと次第に消えていった。
遠ざかっていく二つの足音だけが、ただ、辺りに静かに響く。
「お主なら、きっと強くなれるでござるよ―――・・・・・」
宗次郎は、ゆるりと瞼を上げた。
目に映ったのは一面の漆黒。目を二、三度瞬いて、ぼんやりと見えてきた景色に、自分が旅の途中で森で野宿していたことを思い出す。
「・・・・・夢?」
ぼんやりと呟く。
幼い頃の自分を見ていた。酷く生々しく、それでいて決して本当のことではない過去を。
遠い昔に、志々雄ではなく、剣心と出逢った過去を。
「何で、こんな夢なんか・・・・」
それに気付き、宗次郎はほんの少し自嘲したように笑う。
過去は変えられない。あの時出逢ったのは志々雄で、剣心ではない。そんなことあるはずは無いのに。
どうしてこんな、やり直そうとしている今を―――それこそ彼を真似るわけではないけれど彼と同じように流浪れてみようと決めた自分を―――全部元から覆すような、夢を。
もう一度目を瞬いて、宗次郎は二人の人を思い浮かべる。
志々雄真実。弱肉強食の理念を掲げ、自分を強くしてくれた人。
緋村剣心。心の奥底に封じていた自分に気付き、やり直すきっかけをくれた人。
「どうして、こんな夢を見たんでしょうね。志々雄さん。・・・・・緋村さん」
遠くにいる人達に、答えの返ってこない問いかけをする。或いはそれは、自分自身にも。
―――あの人の存在を否定するわけじゃない。あの人がいたから、僕は生きてこられた。
でも。
『あの時あなたは、僕を守ってくれなかったじゃないですか』
その言葉を投げつけたあの人に、もしも先に出逢っていたなら・・・・・守ってくれていたなら。
こんな風に、なったのだろうか。
「・・・・まぁ、考えても仕方ないか」
所詮は夢。一時の幻に過ぎない。
きっと深い意味なんてないと、宗次郎は自分を納得させる。
―――夢は、目覚めれば消えてしまう儚いもの。
だからこそ人は、夢を見る。
「夢、か・・・・・」
その中で抱いた思いの名残を感じて、宗次郎はもう一度呟く。
漠然とした何かを感じながら、宗次郎は小さく欠伸をこぼし、もう一度眠りの世界に落ちていった。胸の奥をよぎる淋しさは気にしないことにした。
幼い宗次郎が志々雄ではなく、剣心と出逢った過去。有り得るはずの無いことだけれど。
例えるのなら、それは仮想の追憶と、呼べるかもしれなかった。
<了>
宗次郎が志々雄ではなく剣心と出逢ってたら・・・って、宗次郎ファンの方なら一度は考えてみたことがあるんじゃないかな、と思います。
私も色々と考えたことがあって、様々なパターンがあったりするんですが、その中の一つを書いてみました。まぁ、夢オチではありますが。
それにしても、宗次郎の義理の家族達は本当に性根が卑しい人達ばっかですね。自分で書いててむかついてました(苦笑)
仕事柄、よく感じることですが、やっぱり子どもにとって育つ環境や家族の存在ってとっても大きいんですよ。
作中でもあった通り、宗次郎の人生を元から覆してしまう妄想ではあるけれど、それでも宗次郎が剣心と先に出逢ってたら、実際どんな風なのでしょうね。少なくとも誰かを殺すことは無かったんじゃないかな・・・。
志々雄と出逢い、志々雄についていった宗次郎はもちろん好きだけど、こんなのもありかなと思って書いてみました。
2006年4月23日
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