Departure





ふつりと糸の切れた凧のように、宗次郎があてもなくあちこちを渡り歩き始めてからもう九年が経った。
流れ出した当初よりは声も幾分か低くなり、背も幾許か伸び、大人らしい逞しさが少しは身についたんじゃないかなぁ、と、自分では思う。
長い旅路の中で、様々なものを見た。
それは例えば、市井で地道な生活を続ける人々だったり、社会の底辺を這いつくばるようにしてそれでも懸命に生き延びようとする人々だったり、どうしようもない飢えや病の前に呆気なく息絶えていく人々だったり、素性も知れない自分に優しい手を差し伸べてくれた人々であったり……細かく上げていけばきりは無いが、どれも共通するのは押し並べてこの世にいる、或いはこの世にいた“人の姿”だ。
思えば、旅に出る前は、人の中に生きながら人々の生の営みというものを、ほとんど知らなかったような気がする。
物心つくかつかないかの頃に母親と死に別れ、義理の家族達の元に引き取られてからは、都合よくこき使われるだけの毎日。殴られ、蹴られ、蔑まれるのも日常茶飯事で、自分自身の身と、恐らくは心とを守るために、笑って受け流す術を身に付けた。満足に食事も与えて貰えず、夜に家屋の外に追い出され寒空の下で眠ったことも一度や二度ではない。
志々雄と出会い、自らの手であの家族達をこの世から消し去ってからは、そんな暮らしは一変した。とにかく、志々雄の言う通りに動いていればよかった。剣術の稽古や、時には盗み、殺し、そういったこともきちんとこなせば、志々雄はちゃんと褒めてくれ、宗次郎の行為を肯定してくれた。「それでいい」と。「強ければ生き、弱ければ死ぬ」、折に触れて言われ、実際、その時はそれが正しいのだと信じていた。
僕は強くなったから生き延びた。強くならなければ生きられなかった。
だから強いのは正しい。それを教えてくれた志々雄さんは正しい、と、心から思った。
志々雄と放浪を始めたばかりの頃こそ野宿でようやく夜露を凌ぐ日々も多かったが、組織が形になってからは、三食欠かさず食べられたし、温かい寝床で眠れるようになった。義理の家族の元で散々やらされていた洗濯や掃除、炊事といったものを自分自身でやる必要も無くなった。
家、仮初めの家族、そういったものを破壊して初めて、却って人並みの暮らしを送れるようになっていたのは確かだ。しかし、いざ実際、志々雄の元を離れて、自分自身の足で歩き出して踏み入れた人々の生活の場、改めて見たそれらは、今まで目にしたことはあった筈なのにまるで初めて触れたような、そんな印象を宗次郎に抱かせた。
そして宗次郎は、初めて自由だった。
義理の家族の元にいた頃は、自由は無かった。志々雄の元にいた頃は、任務という名の人殺し、そういった制約付きの自由だった。
旅に出てからはそういったものに一切合切、縛られることは無くなったのだ。まぁ、答え探し、という目的はあるし、警察の目を気にすることもあったけれど……それでも初めて得た伸び伸びとした日々の中で、宗次郎はそれこそ思うままに、行動することができた。誰に言われるわけでもなく、自分自身で、不慣れながらも考えて。そうして気ままな一人旅だからこそ、旅先で多くの人々の暮らしに間近で関わることとなった。
百姓は手間暇をかけて作物を育て、その実りに感謝しながら有り難く食べ物を食す。そうした作物は市場にも出回り、これまた生活の為に商人は声を張り上げてそれを売り、市井の人々が買い、また食卓に上がる。
作物に限らず、身につけている着物とか、草鞋とか、普段使う道具だとかにしても、種々の職人の手により作られ、こうして人々の暮らしの役に立つ。そんなごくごく当たり前の、生活とか、人間社会の成り立ちとか、そういったものも知っていた筈なのにまるで知らずにいたのだ。
強い者、弱い者、普通の者、裏の世界に生きる者、優しい者、意地悪な者、男、女、老人、子ども……。
それこそ色んな人達が市井には混ざり合っている。そんな簡単で、当たり前なことを、宗次郎は旅の中で改めて思い知らされた。強ければ生き、弱ければ死ぬ、と志々雄は言った。弱者は強者の糧となるべき、だとも。しかし、気付いてしまった。名もなき弱者達は、確かに強者の生活の礎を築いているのかもしれない。しかし彼らによる些細な積み重ねがなければ、そもそも普通の暮らしとか、町だとか国だとかそうした単位すら、成り立たないのではないのかと。そして現に市井の中には、弱くともしかし確実に、生きている人間達はいるじゃないか、と。
強い者が弱い者を守る為に力を使う。緋村剣心のそういった理屈も、おぼろげだが、少しは飲み込めるような、そんな気もした。あの闘いの時にはまったく受け入れたくなかったその考え方を、幾らかは許容できる自分が今ここにいるのだから、実に不思議なものである。北の大地での旅の途中、偶然に彼と再会し縁あって共闘するに至ったことも、これまた不思議だとしか言いようがない。多分、京都での闘いで彼に敗れていなかったら、恐らくは起こらなかった事象であろう。
九年という長い道程の中で、この腕の中で看取った人もいた。数え切れない程、顔も覚えていない程に人をこの手で殺めておきながら、それでも本当の人の死というものを、その時まで真に分かっていなかったような気もする。胸の奥を抉るような、どうしようもない悔いや、悲しみというものも―――寧ろ多くの人々に、それを振りまく立場であったというのに。
旅路の中で、期せずして刀を振るうことになったことは、実はそれなりにある。ただ過去の自分と異なるのは、たとえ真剣を用いていても、相手を殺すことは無かったという、その点だ。強ければ生き、弱ければ死ぬ、せっかく旅に出たのに志々雄のその論理を実践しては、これまでと何ら変わりがない。それでは答えを出すことはできないと思ったし、それに何より、緋村剣心とのあの闘いの中で、本当は誰も傷つけずに生きたかったのだと、心のずっとずっと奥にしまいこんでいたその願望を思い起こされたからでもあった。
剣は凶器。使いようによっては簡単に、相手の命を奪うことができる道具。
しかし使い道を変えれば、確かに、誰かの命を守ることができた。宗次郎は守ろうと思って刀を振るったわけではない、それでも、誰かの命を助けることに刀を使えた、そういった経験もこの旅路の中で確かに、幾度もあったのだ。
散々人を殺しておいて今更、という気持ちが無かったわけでもない。しかしそういった出来事は、今までとは違う生き方を歩めるかもしれないという、そんな道を宗次郎に暗示してもいた。
ようやく、宗次郎だけの答えというものが、心の中で形になりかけていた。しかしそれは酷くあやふやで、指でつついたらまた脆く崩れてしまいそうなくらい、不確かなもの。
あの義理の家族達の元で、志々雄の元で、何より初めて“瀬田宗次郎という一人の人間として”自分自身で考え歩く旅の中で、色々なことに直面してきた。崩れた組木細工を、もう一度一つ一つ組み上げるようにして進んできた道……しかしまだ、もう少し何かが足りないような、そんな気もする。
この九年で、日本全国はほとんど流れた。無論、未踏の地も数知れないけれど、それでも単純に府や県で言えば、その大体は訪れた筈だ。
良くも悪くも因縁の地・京都にも、何度か舞い戻っている。崩壊したあのアジトにさえ、菊の花を手向けに足を踏み入れているくらいだ。宗次郎は志々雄の死を人から伝聞したのみで、実際に目にしたわけではない。その死を受け入れていながら、まだどこかで生きているんじゃないか、どこかそんな気にもなってしまうのは、やはり宗次郎がそれだけ長い時間を彼と共に過ごしていたからだろう。由美や方治も、もうこの世にはいないという。
そういったことに対してもやもやしながらも、あまり後ろ髪が引かれていないのも、宗次郎らしいといえば、らしいのかもしれない。人に然程執着しないのは、情に疎い心もさることながら、宗次郎が幼い頃に辿って来た過酷な道のりのせいでもあるのだろう。ただ、長い旅の中で、森の奥深くで一人ぽつんと野宿する時だとか、逆に大勢の人の輪の中にいる時だとか、そういった時に不思議と志々雄や彼らのことがふと思い出されて、尚更妙な気分になった。あの時志々雄さんはこんなことを言ってたな、とか、由美さんや方治さんはあんな風だったな、とか。それでまた彼らがこの世にいないことを思い起こし、胸の奥が緩やかにざわつくのだ。
それでも、だからこそアジトに再訪することはできた。北海道の件も一枚噛んでいるとはいえ、かつては敵だった緋村剣心の現在の居住地である神谷道場に、世話になったことすらもある。そういった場所さえ、訪れたこともあるのに……、
「……やっぱり、もう一度あそこに行ってみるしかないのかな」
自分を納得させるように、呟く。
ある意味、何もかもの始まりの場であり、だからこそ長いこと足を向けるのを避けていた場所が、たった一つある。
旅のどこかで行った方がいいのかな、とどこか他人事のように思いつつも、それでもこれまで行かずにいたのは、恐らくは宗次郎の深層意識の中で、怖い、という気持ちがあるからかもしれない。
もう恐怖の対象だった彼らはいない。自分自身がこの手で殺めた。しかし、だからこそ訪れるのが怖いのか。理由ははっきりとはしない。
それでもやはりあの場所は、もう一度、自分自身の中で決着を付けるという意味でも、訪れなくてはいけないのだろう。目安まであと一年。それにしては行くのが遅いような、いや、却って今だからこそようやく踏ん切りがついたのか。いずれにしても。
心の中のもやもやに関わらず、未だ浮かべる表情のほとんどが笑みである宗次郎は、やはり笑顔のまま、両側を木々に覆われた峠道を人里の方に向けて歩を再開した。









決意を固めてから、それでも時折葛藤しつつ、その目的地へと向けて足を進め続けて約一カ月。
あの出来事のあった秋ではなく、新芽や小さな花が息吹く春の暦にこの地に赴くことになったのは、せめてもの抵抗か、或いは既視感を無意識に避ける為だったか。天気すらも真逆で、今日は実に春らしい暖かな陽気だった。
政府の反逆者に一家全員皆殺し―――と世間的にはなっているであろう家屋敷だ。その後は誰も寄りつかず朽ち果てた廃屋と化しているか、或いはとっくに取り壊されて更地になっているか、その辺りだろうと宗次郎は踏んでいた。けれど長い時を経て再び訪ねたその場所は、宗次郎の予想とは大幅に違っていた。
自身の曖昧な記憶を頼りに、それから人づてに聞きまわって所在地を特定してようやく辿り着いた、米問屋の屋敷。宗次郎にはまったく良い思い出はなく、むしろ思い起こしたくもない場所だが、やはり目を背けたままでは答えには辿り着けない―――そうした迷いの末にやっと、この場所へと戻ってきた。
まだ、廃墟や野山の一部になっていれば良かったかもしれない、しかし、宗次郎の目の前にあったのは、自身が過ごした頃と、自身が去っていった頃とほとんど変わらぬ、あの屋敷の姿だったのだ。
少なからず、驚く。
「……」
思わず無言のまま、宗次郎は表門へと続く長い石段を登る。子どもの時、裸足で上り下りしていた頃はとてつもなく長く感じていたものだ。剣の稽古や旅路で更に鍛えた足で登ると、ずっと短いように思える。当時とは違った意味で足取りは重かったが。
階段を一歩一歩登りながら、あの頃のことを思い出す。いつ殴られるかと、義父や義兄の顔色を伺いながら、びくびくと過ごしていた日々。酷い怪我をしても誰も気にも留めてくれず、一人痛みに耐えるしかなかった。繰り返される冷たい仕打ちに、心はいつしか麻痺していた。これが僕にとって当たり前だと、仕方ないのだと。顔に笑顔を貼りつけて、危うく乗り越えるしかなかった毎日……。
志々雄が来るまではそう、そんな暮らしを送っていたのだ。この家で。色んなものをあの雨の中でめちゃくちゃに壊した筈なのに、それなのに家そのものはどうして今もなお存在しているのだろう。
心の中はぐらぐらと揺れ動いているのに、頭の方は変に冷静だった。思考は冷え切っていて、だからかもしれない、取り乱しもせずに、宗次郎があの頃と同じままの敷地の中を進んでいけたのは。
流石に二十年近くの年月を風雨に晒されて、漆喰の塀の罅割れや瓦の劣化といったものはそこそこ進行している、それでも家屋敷そのものは、五体無事だった。
明治維新の後に米と金の価値が切り替わるまでは、多くの米俵を抱える米問屋という人種は、かなりの権力を持っていた。この広大な敷地もその表れだ。血生臭い事件が起こったからとはいえ、やたらにしっかりした造りの屋敷だから、取り壊すまでには至らなかったのだろうか。
そういった理由で家屋敷が残っているのは、まぁいい。しかしこれまた宗次郎が予想外だったのは、あれだけの惨劇があった屋敷に、何事も無かったかのように、違う人々が住んでいたことだ。
「お姉ちゃん、待ってぇ〜」
階段を登り切り、表門を潜るかどうかの場所で、そんな舌ったらずな声を聞いた。
相変わらず玉砂利の敷き詰められた庭先で、二人の女の子が追いかけっこを楽しんでいた。片や五歳ほど、片や三歳ほどだろうか。紅色や桃色といった華やかな可愛らしい着物を纏い、それこそ無邪気に笑って庭中を駆け回っている。重い米俵を運ばされたり、義父や義兄に殴り飛ばされたりと、宗次郎には碌な思い出も無いその場所で……。
しばらくきゃあきゃあと走り回っていた姉妹と思しきその少女達は、ようやく宗次郎が見ていることに気が付いたのだろう、二人身を寄せ合うと、警戒するような視線をこちらに向けてきた。くたびれた旅姿の見知らぬ若者が突如ふらりと現れたのだ、無理も無かろう。
「あぁ、いきなりごめんね。驚いちゃった?」
宗次郎はにっこりと笑いかけてみせる。二人はまだ警戒の姿勢を崩さないが、ほんの少し、表情のぎこちなさは解けたようだった。
「大きな家だね。ここ、君達のお家?」
それなりに白々しいがそんな風に聞いてみると、姉らしき方が小さくこくりと頷いた。
あれだけの惨劇の場所に、よくもまぁ。そんな気持ちも無くは無い。善悪も人の薄汚さも世の中の何もかもを知らなさそうなこの幸せそうな少女達は、宗次郎がここでどんな目に遭いながら過ごしていたのかも、きっと何も知りはしないのだろう。よくよく見れば身に纏う着物や帯、下駄といったものも高級そうで、何不自由ない生活を送っているのであろうことも伺える。そういった姿に嫉妬を覚える程、宗次郎はもう子どもではないが、正直複雑な気分になってしまったのは確かだ。
「ええと、僕、ちょっと用があって来たんだけど……今、誰かお家の人はいるかな?」
「……」
姉の方がまた無言のままで頷いた。多分母屋の方かな、と宗次郎が見当を付けた辺りで、その廊下の奥から盆を手にした初老の女性が姿を現した。身につけている常磐色の着物は、これまた上質そうなものだ。
「あら……お客様?」
「わーい、おやつおやつー!」
すると、それまでだんまりを決め込んでいた少女達は途端に元気になって、その女性の元へと駆けていく。女性の盆の上の皿に並んだ饅頭にさっと手を伸ばし、「これ、はしたない!」と叱られている。
「どうも、見苦しい所をお見せ致しました」
「いいえ、お構いなく。僕も急にお邪魔しちゃいましたし」
頭を下げる女性は物腰も丁寧で、品の良さを漂わせている。女性が盆を傍らに置くと、少女達は縁側へと腰かけて、その上の饅頭を改めて手に取ると美味しそうに齧りついている。「どうですか、お一つ」と女性が宗次郎にも親切に勧めてくるものだから、「わぁ、いいんですか?」と素直に頂くことにした。そうでなくとも甘味は好物だ。
三人と幾らかの間を開けて、宗次郎もまた縁側に腰を下ろす。肩に下げていた荷物は、足元に置いた。
それから女性の手から饅頭を受け取って、早速一口ぱくつく。
「うん、美味しいですね」
口の中に広がる上品な甘みに宗次郎は舌鼓を打つ。知らず知らずのうちに緊張していたのであろう体の強張りが、すっと解れるようだ。
宗次郎が饅頭をもぐもぐと咀嚼している間に、女性は一旦奥へと下がり、今度は湯呑みを手にして戻ってきた。既に盆の上には急須と三つの湯呑みがある、だから恐らくは宗次郎の分なのだろう。
縁側に正座の形で腰を下ろした女性は、宗次郎が見当を付けた通りに茶を注いでくれた。
「どうぞ。粗茶ですが」
「何だかすみません、いきなり訪ねて来ちゃったのに色々と御馳走になっちゃって」
早々に湯呑みを受け取って、ちっとも申し訳なさそうに宗次郎は朗らかに笑う。女性も穏やかな微笑みを湛えると、いいえ、と言った。
「元より、然程客人が来ることのない家ですから。ささやかですがおもてなしをしたくなっただけです。ひとえに私の都合ですから、あまり気になさらないで下さいな」
目尻の皺を更に深める女性は、口調もこれまた丁寧なものだった。結い上げた白い髪や、顔立ちといったものを、宗次郎は熱い茶を飲みながらこっそりと観察する。少なくとも自分の中には、この女性と会った記憶は無い。一体どんな所縁で、この家に住むことになったのか。
半分ほど飲み終えた湯呑みを脇に置き、宗次郎は改まるような笑顔を向ける。
「あの、名乗りもしないまま失礼しました。僕は瀬田といいます」
色々と懸念して、宗次郎は名字だけを名乗った。
実はこの瀬田という名字は、母方に由来するものなのだ。戸籍上、宗次郎はあの米問屋一家の養子となっているが、対外的に、同じ名字を名乗ることは許されなかった。引き取ったのは世間体を慮ったからで、真実我が子にしたつもりは無い―――つまりはそういうことだ。
宗次郎の方にもまた、あれだけの事態を引き起こした末に尚、彼らと同じ名字を名乗るつもりは無かった。志々雄と行動を共にするにしても、全滅した米問屋一家の名字を名乗るよりは瀬田の方が都合が良かった。件の事件の下手人は、恐らくは警察では志々雄だということになっているであろうから、そうであれば宗次郎が本名を名乗ることでどこからその繋がりが漏れるかも分からない、機が熟すまでは秘密裏に国盗りへの事を運ばなければならない、志々雄の方でのそうした理由もあって、ずっと瀬田宗次郎で通してきた。そしてそれは今でも変わらないし、ひょっとしたら元の戸籍の方はもう、存在していないのかもしれない。
しかしそうしたものへの感傷は露知らず、宗次郎がただ名字だけ告げたのは、一家全滅の事件以降は行方不明だが、米問屋一家には養子がいてその少年の名は宗次郎―――とでもいったことをこの老婆がもし知っていたなら何かと面倒だ、色々と探りを入れるには、まだ余計なことは言わない方がいい、単にそういった思惑によるものだった。
愛想良くぺこりと頭を下げた宗次郎に、女性も穏やかに目を細める。先程もそうだったが、こういった時の笑顔は便利だ。相手の警戒心を緩ませる。無論、宗次郎は意識してやっているわけではないのだが。自然と笑みを浮かべてしまうのは、長年の習い性だ。
「これはどうもご丁寧に。生憎、今主人は出かけておりまして、私が留守を預かっております。松と申します。こちらは孫で…」
紹介するまでは至らずに、当の孫達は既にまた庭先で遊び始めている。大人二人の固い会話は、彼女らには退屈なのだろう。肩を竦めて、松は孫達に声をかける。
「咲、タツ。怪我などせぬように遊びなさいね」
は〜いと生返事をしながら、幼子達はもう己の遊びに夢中だ。松は笑って小さく溜め息を吐くと、きちんとした正座の姿勢を宗次郎の方へと向ける。
「それで、瀬田さんと仰いましたか。本日はどのようなご用件で」
「うーん、何から言えばいいかなぁ」
実は人が住んでいる、というのはちょっぴり想定外だったのだ。改まって聞かれると、何と言えばいいか、何を話したらいいか。
誤魔化すように耳の上あたりの髪を掻き、しかし、まぁいいか、と宗次郎は開き直る。こうなったら、気になることを一つ一つ聞いていくだけだ。
「実は僕、小さい頃この辺りに住んでたんですよ」
「まぁ、そうでしたの」
「もう二十年近く前の話になりますけど…」
「あら…そうでしたの。ごめんなさい、私、もっとお若い方かと…」
「あははっ、よく言われます」
申し訳なさそうに口元に手を当てる松に、宗次郎は明るく笑い声を上げる。どうにも、自分は実年齢よりも若く、というより幼く見られがちらしい。顔そのものの造りもそうなのだろうが、齢二十七になったのにもかかわらず大凡飄々と笑っているから、尚更そう見られてしまうのだろう。
しかし宗次郎は笑い声を引っ込めて、些か真剣な笑みになっていよいよ本題に入る。
「それで…ですね。その頃、この辺りで何か大きい事件がありませんでした?」
「事件?」
「ええ。……はっきり言ってしまえば、この家で」
それを言った途端、松の表情がさっと強張った。少なくとも何かは知っている。そうでなくてはできない反応だ。
「僕も人伝で聞いた話ですから、どこまで本当かどうか良くは分かりませんけど…。昔、この辺りに明治政府の反逆者が逃げ込んだそうですね。警察はその行方を追ったけど捕まえられなくて、そして、その末に事件が起きた。この家にかつて住んでいた米問屋一家が、皆殺しにされてしまったんです」
事実と、推量とを交えて宗次郎は語った。まさか当時八歳だった少年が下手人とは誰も思うまい。あの一家惨殺事件は、恐らくは志々雄の仕業ということで片付けられてしまった筈……宗次郎のことに関しては、同じように殺されたと思われているか、行方不明扱いか、それとも存在そのものが忘れられているか、いずれかだろう。
この老婆も、まさか目の前にいる青年がその事件を引き起こした張本人だとは、夢にも思わないだろう。そしてその当の本人は、素知らぬ顔で「物騒ですよねぇ」と苦笑めいたものすら浮かべているのだ。
「そんな事件の後だから、この家には誰も住んでいないんじゃないかなぁ、なんて思ってたんですけど、現にあなた達がいたものですから、びっくりしました」
「……概ね、あなたの仰る通りですわ」
あっけらかんと述べる宗次郎とは対照的に、松は重々しく口を開く。
「私も、実際にその事件を知っているわけではないのです。ただ、人から聞いただけ……それでも、痛ましい話だとは思います」
「そんな場所に、どうして住もうと思ったんです? 普通の人なら、そんな事件のあった場所なんて避けちゃいそうな気もしますけど。あ、もしかして御親戚か何か?」
「いえ…血縁関係は何も。ただご縁があって、この家に住まわせて頂くことになっただけですわ」
「だったら……尚更どうして、こんな所に……」
こんな、には恐らく、色々な意味が含まれていた。
そして事件について知っていながらも、この家で平素な日々を送っているのであろう松達のことがただただ不思議だった。
「すぐそこに、死体があったかもしれないんですよ。敷地内のあちこちに、血溜まりができていたかもしれないんですよ」
知らず知らず、宗次郎は早い口調で言い募る。
それこそ稲光のように宗次郎の脳裏に浮かぶのは、無論あの夜の光景だ。無造作に転がる生首、白目を剥いて絶命している死体、強い雨に洗い流されても尚主張する赤い色。
それを引き起こしたのはまだ小さかった自分の手が必死に握り締めていた脇差で、それからもやはり血が滴っていた。
その光景を知らない癖に。
僕がどんな思いでそうしたのかも、知らない癖に……!
ちかちかする頭の奥で、そんな叫び声が上がるような気もした。実際に口に出すまでにはまだ、至らない。
しかしその光景は確かに、ここにはあった。実際の現場はまだ遠い、しかしそれでも、この場所にある。
松には無論、宗次郎の憤りもその理由も、分かる筈もない。しかし興奮しかけている宗次郎の前でゆっくりと、松は口を開いたのだ。
「……死人が誰も出ていない家など、この世にありますでしょうか」
今にも立ち上がりそうだった宗次郎は、その答えに拍子抜けした。自分で問いかけておいて、しかし落ち着いた声が返って来たことに、呆気にとられたのかもしれなかった。
黙りこくってしまった宗次郎に、松は淡々と述べる。
「病にしても、怪我にしても、年老いた末に冥土からのお迎えがきたにしても……どの家でも必ず、死ぬ者はおります。この家では、気の毒なことですが、それが他者によってもたらされたものであったということ…。形は違えど、けれど死という事実そのものは同じです」
どこか悟りきったような口調は、宗次郎よりもずっと長い時を生きてきた女性ならではのものだろう。しかし、正論といえば、正論だった。確かにそうかも、と頷きたい一方で、そんな考え方は綺麗事だ、と反論したい自分もいた。宗次郎はそんなどっちつかずの心境のまま、口を挟まずに松の話の続きに耳を傾けた。
「そしてそれは、この国そのものに対しても同じこと…。先の戊辰の戦、徳川の泰平の世に至るまでの戦国の頃の戦、その遥か昔にも各地で多くの戦いがあり、折々に大勢の人が亡くなっています。この国は戦いに溢れていた……どこで誰が倒れていてもおかしくはありません。むしろ、一度でも血に染まらなかった人里というものが、この国にあるのでしょうか」
これまた、随分と視野の広い話だった。しかし確かにこの国が国として治まるまでは、必ずと言っていい程に人々の間で諍いが起きた。日本だけに限った話ではない、長い歴史の中で人々を一つに取り纏めたのは、大抵が武力だ。力を持った者が頂点に立ち、国を一つに統べる。だからこそ志々雄も、この国の覇権を握ろうとしたのではなかったか。
それ故に誰かの血が流れるのは当然、いや必然とも言える。弱肉強食の名の下に、宗次郎はそれを良しとしていた。この老婆はそうした死を受け入れている、けれど恐らく、自分とは受け止め方が違う。もっと、こう、死者に対する敬意だとか、尊厳だとか、そういったものが含まれている。自分には未だ、あまり理解できないもの。
「多くの人々の死の上に、私達の生は成り立っているのです」
小柄な老婆が発したその言葉は、ごく静かなのにそれでも凛とした響きを含んでいた。
人の死の上に、生が成り立つ―――。
胸の内で繰り返す。
他ならぬ宗次郎自身の人生が、そうだった。義理の家族達を殺めて生き延びた。自分より弱い人間達を、散々斬り殺して生きてきた。強ければ生き、弱ければ死ぬ。その摂理にも似ていた、しかし、―――
やはり、何かが違うように宗次郎には思えた。
ぼんやりと驚いたままの宗次郎に、松は沈痛そうな面持ちで更に続けた。
「だから…この家での出来事に関しても……本当に惨い事件だとは思います。実際、この家もなかなか引き取り手が見つからなかったそうです。それでも、だからと言ってそれを気味悪がっていては、その事件で亡くなった方達は浮かばれませんわ」
「…浮かばれない?」
「ええ」
久し振りの宗次郎の声に、松は頷いた。
「事件の後、その場所にはお地蔵様が建てられました。長い間顧みられることも無かったようですが、私どもがこちらに来てからは、身勝手ではありますが、折につけて供養させて頂いています。その位しか私達にはできませんが、せめて……。そうでなくては、安らかに眠ることも叶わないでしょう」
あんなに狼藉を働いた者達の為に、冥福を捧げる人間がいる―――。
その不思議を、思う。この老婆が米問屋一家の悪行を知ったら、それでも供養を続けてくれるだろうか?
そんな薄暗い考えがちらりと頭を過らなくもない。けれど……
今、ようやく来たのかもしれない。あの出来事と、宗次郎が真っ向から向き合うべき時が。
「…あの、」
少しの迷いと、決意との入り混じった頼りなげな声が宗次郎の口から漏れた。「はい?」と松が聞き返し、宗次郎はやはり、緩やかな笑みのままで答える。
「僕も、供養させて頂いてもいいですか? せっかくの、ご縁なので―――」











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