母屋の裏手側、米蔵が立ち並ぶ辺り。
実に二十年弱ぶりに、宗次郎はそこに再び立つこととなった。
自身の背が伸びたからだろうか、建物が何だか小さく思える。かつてはもっと重苦しく、自分の前に立ちはだかっていた。しっかりとした造りの米蔵も、敷石の敷き詰められた庭も、あの頃とそう相違なく、またあの惨劇の痕跡すら見当たらない。
血塗れの骸はいずこへか葬られ、六つの死体の代わりには、小さな地蔵菩薩があるだけだ。
しかし十九年前のあの嵐の夜に、宗次郎は確かに、ここで初めての人殺しをした。
いざ舞い戻って見ればもっと心乱れるだろうと思ったのに、むしろ凪のように落ち着いているのが、自分でも不思議である。
だからなのか、この時ばかりは笑みの引っ込んだ顔で、宗次郎はその地蔵に近付いていく。一歩一歩歩くたびに、敷石同士の擦れ合う音がなる。昔と違って草鞋を履いているのに、裸足で歩いているような冷たい砂利の感覚が足裏に蘇ってくる。
ここには死体があった。この手で殺した者達の。血も流れた。色も臭いももう無いけれど、深く深く地に染み込んでいる筈だ。
目を閉じ、合掌する造りの地蔵は、穏やかな慈愛の表情を湛えている。そんなもの、ここにいた頃は、宗次郎は誰にも向けられたことが無かった。あったのは侮蔑と憎しみの入り混じった表情だけ、その彼らの御霊が安らぐようにこの地蔵は祀られているのだ。
腰を落とし屈んで、松から貰った線香を供え、宗次郎はその地蔵に向けて両手を合わせる。まだ形だけ。
(……多分、志々雄さんといたままだったら、もうここには二度と来なかったと思います)
胸の内のもやもやを少しずつ形にするように、宗次郎は声に出さないままで彼らに、或いは自分自身へと語りかける。
(だって、戻る必要なんてどこにもありませんでしたからね。所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。あなた達も実際、僕より強い立場だったから、好き勝手にできたんでしょう。でも、僕はそんなあなた達より強くなった。だから、殺して、生き延びられた)
子どもの頃の宗次郎にとって、義理の家族達は恐怖の対象だった。自分よりもずっとずっと体の大きな人間達が、手加減なしに暴力を振るうのだ。宗次郎が失敗をした時ばかりではない、時には理由もなく気まぐれに小突かれることもあった。だからこそ彼らの一挙一動に怯えた。彼らが手や足をちょっと上に持ち上げただけでも幼い宗次郎はびくっと身を竦ませ、それを見て彼らはまた嘲笑う。
本家筋でもない妾の子、とそうした蔑みから来ているのだと思っていた。しかし志々雄から弱肉強食の理念を受け取り、その認識はひっくり返った。義理の家族達が宗次郎に散々好き放題にしたのは、当時の自分が彼らよりずっと弱い存在だったから。そして彼らは実際、強い立場にいた。単純な力も、宗次郎より強かった。
それを覆すのにはどうしたらいいか。志々雄が示してくれたのは、それまで思いも寄らないことだった。苛められるのは、生まれのせいではなく弱いからだと。ならば強くなればいいと。
初めは、迷った。けれどあの極限の状況下で、宗次郎はその理念を取った。そうしなければ生きられなかった。そうしてまで生きることを選んだ。
そしてその迷ったことすらも、いつしか忘れた。
(でも―――)
多分、忘れたままだった、あの赤い髪をした剣客と闘わなければ。
所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。
あの臨死の間際に、宗次郎は彼らの立場を上回った。強かった。たとえそれが刹那的なものでも。
だから自分は生き延びて、彼らは死んだ。弱いことは悪。弱いことは罪。強いことは正しい。強いことだけが正義……。
弱い者は死に、強い者だけが生き残る。それは真理だった。ずっとそれが現実だった。
僕は強いから正しいと、正しいから生きてこられたのだと。弱い者は死んで当然、なら、あの時僕が殺したあの人達は、僕より弱いから死んだんだ。僕は間違ったことはしていない、そう信じ込もうとしていた。
志々雄の真実に基づくのなら、強さ故にしたことは正しいと。ただその事実のみを受け入れて、死んで当然の彼らの事など思い出しもせずに長いこと生きてきた。歩く時に踏み潰した小虫の事を、人々が省みることの無いように……。
強者である筈なのに、弱者の為に剣を振るう緋村剣心の生き方は、志々雄の真実とは対極に位置するものだった。憎むべき敵に、情けをかける姿まで目の当たりにした。理解できなかった。そんな生き方が、そんな考え方が。彼と闘っているうちに、どうしようもなく心がささくれ立った。どうしてこんなにイライラするのか、自分自身でもその理由がよく分からなかった。それでも、兎角イライラした。
自分自身の正しさを証明するためにその起点を深く深く手繰って、だからこそ思い出してしまった、本当に色々なことを。
初めて殺めた者達のことも。
(確かに、僕はあなた達のこと、好きでも何でもありませんでした。だけど、殺す程、憎んでたわけでもない……)
どんなに助けを求めても、誰も何もしてくれなかった。
助けて、守ってくれなかった、だから自分でどうにかするしかなかった。それが宗次郎にとっての現実で、真実だった。
本当は誰かに助けて欲しかった、という不満は考えないようにしていたのに、本当のところは胸の奥深い場所で、ずっと燻っていたらしい。戯言をかざす剣客にそれをぶつけたことで、自分自身でも気付いていなかったことに、気が付いてしまった。
(今だったら、同じ目に遭っても、他の方法で切り抜けられるかもしれない。でも、あの時はあれしか、道が無かったんです)
多くの人々の死の上に、私達の生は成り立っているのです―――
先程の松の言葉が思い出される。
ああ、まさしくそうだった。
彼らを殺すことで、自分に害を為そうとする者達を排除することで、宗次郎は生きられた。志々雄につき従いながら、彼の命じるままに人を殺めることで生きてこられた。大勢の人々の命を踏み台にして、宗次郎は今、生きている。
旅の途中、そのことを責められたこともある。今更、怖い、とも思う。たくさんの人々を殺してきた自分が、何故今もこうして生きているのか。償いのように、人助けをしたこともある。けれどだからと言って、自身で殺めてきた人達が戻ってくるわけでもない。
人を傷つけたくなかった。殺したりなんかしたくなかった! だって、殴られると痛いんだ。虐げられると苦しいんだ。だから、他の誰かにそんな真似をしたりなんか、僕は本当は、したくなかった……!
心の奥底のそんな叫びは、弱肉強食という現実の前に封殺された。強い者が弱い者を良いように扱う。強者は弱者の命をどうとでもできる。そんな暴虐から逃れる為にはやはり、宗次郎自身強くなるしかなかったのだ。本当は誰も傷つけたくない、そんなささやかな思いすらも、死の恐怖の前にぱんと弾けた。死にたくない、という生への渇望が、宗次郎に人を殺めることを選ばせた。
死なずに済むには、それしかなかった。そしてそれを受け入れて、何ともない、といった顔で長いこと生きてきたのに、表情と心とを完璧な笑顔で塗り潰したずっとずっと深い所では、宗次郎自身が気付かず内に、どうしようもない程にひび割れていたのだ。強ければ生き、弱ければ死ぬ。それを信じることで、そして強者として実行することで、ただ気にしないようにしていただけ。喜も怒も哀も、自分自身の思考すらあの日全部置き去りにして、もう本当の自分との矛盾とか、良心の呵責だとか、そういったことに振り回されることの無いように。しかしそれは却って、見えないところの傷をどこまでも広げていく行為に過ぎなかった。
『もしそれが手遅れでなくば、今からでもやり直しは効かぬのか』
それに歯止めをかけたのは、優しくも厳しい、元伝説の人斬りだった。
やり直しだなんて、考えたことも無かった。今更引き返せる筈もない。もうこの手はとうに血塗れだ。今更、まっさらな手になど戻せるわけがない。今になってそんなこと言われても、何もかも遅すぎる!
……けれど、やり直すことを提示してくれたのも、彼が初めての存在だった。
この家にいた頃は、宗次郎は生き方を選べなかった。義理の両親達の顔色を伺いながら、毎日をやり過ごすだけだった。
志々雄の元にいた頃もそうだった。選び取った弱肉強食の道以外は、歩くことはできなかった。その道を進むことにしたのは紛れもない自分、そしてそれが正しい道だと思ったから、現に正しかったから、宗次郎はその道を脇目もふらず一心に、進み続けた。なのに……、
強い者が弱い者を守る、そんなことを言う癖に守ってもくれなかった剣客は、そんな風にも言ってくれたのだ。やり直しだなんて、考えたことも無かった。誰も、そんなことを言ってくれなかった。信じる志々雄だって、弱肉強食は正しい、正義だ、と。
―――だけど、それがもし、すべて何もかもが間違いだったなら―――
もう自分で自分の生き方を左右できるのだ、と、緋村剣心との闘いで敗れてやっと、気付いた。気付かされた。その位にもう、自分は大きくなっていた。あの頃のような子どもではない。ただ強者に泣かされるだけの弱者ではない。もう取り返しのつかぬ程の強者になって、けれどだからこそ、もう誰に脅かされることも無く、この足で、歩いていくことができるようになっていた。
そこまで自分を導いてくれた志々雄には、やはり感謝の念のようなものも覚えるが―――、
しかしやはり、それと自分が人を殺めたこととは、今この時は少し離して考えるべきことなのだろう。
あの時は、ああする以外に道は無かった。けれどこの手が彼らの命を奪ってしまったこと、それそのものはやはり罪だった。
本当は誰も殺したりなどしたくなかった、それは自分への悔いだ。あの時の涙だってそうだった。自分自身に向けてのもの。決して、彼らに対して、ではない。彼らの死を悲しんだわけではない。それでも、やはり、本当は………
殺したく、無かった。
(……ごめんなさい……)
ぎゅっと目を閉じ、心中で謝る。合わせた指先が震えた。
彼らのことは、好きでも何でもなかった。どちらかといえば、嫌いだった。
いつも酒を飲み、暴力を振るう義父。まるで面倒を見てくれず仕事ばかり言いつける義母。乱暴で粗雑で、底意地の悪い義理の兄弟達。
でも、どんなに折り合いが悪くても、家族だから。元はといえば、この家の本当の子じゃない僕が悪いから。意地悪をされるのも暴力を振るわれるのも仕方ないんだ、余所者なのに紛れこんだ僕が悪いんだから。
そういった事情も呑み込んで、自分を納得させるしかなかった。それで何とか、笑顔で自分を騙し騙し、うまくやってきたのに、志々雄の来訪と共に見事に亀裂は入ってしまった。
確かに彼らは嫌いだった。それでも、殺してやりたい、とそこまでのどす黒い憎しみを抱いていたわけではなかった。むしろ、仕方がない、と、己の境遇を受け入れていたのに、それなのに殺してしまった。
いっそ、憎んでいたらもっと楽だったのかもしれない。大嫌いで、自分を蔑ろにして狼藉を働く彼らをどこまでも憎んで恨んで、その末に殺すことを選んだのだとしたら、それは己の納得済みの殺しで、その方が、きっと。
それでも、宗次郎はそうではなかったから。
(あの時は、仕方、なかった。だけど、やっぱり……殺してしまったことについては、謝ります……)
この手で命を奪ってしまったこと、その一点のみに宗次郎は詫びる。
彼らもあの時はまさか、自分達の行為がそこまで宗次郎を追い詰めてしまったと、気付きはしなかっただろう。気付く前に、斬り捨ててしまった。
ある意味、彼らは自分に対して殺すよりも酷い仕打ちをしたのだ、と、宗次郎が思えたのなら、やはりもっと、心に負荷はかからなかっただろう。
自分自身では気が付いていない、この笑顔の本当の訳も、心が動かない本当の理由も。
それでも、だからこそ宗次郎は流浪の中で改めて悩み、苦しみ、こうして葛藤する。
ゆるり、とようやく顔を上げる。多分、神妙な顔つきをしているかもしれないが、それも自分では分からない。
宗次郎はこれまた重い動作で立ち上がって、静かに地蔵を見下ろした。これで気持ちの整理が付いたのか、付かなかったのか、やはりそれも良く分からなかった。
「……あなたは、お優しい方ですね」
空気と同じような存在感でずっと背後にそっと控えていた松が、そんな風に声をかけてきた。どこか疲れ切ったような顔で、宗次郎は振り向く。
「多少のご縁があったとはいえ、見ず知らずの方々に対し、そんなに長く悼むのですもの」
「そんな、……僕は、優しく……なんか」
自嘲も交えて、呟く。老婆は感慨を受けているようなたおやかな笑みだが、宗次郎が手を合わせたのは、そんな高尚な理由じゃない。
「こんなの……単なる自己満足です」
或いは、偽善か。
いくら手を合わせたところで、彼らが蘇る筈もない。そもそもここにだって、単に自分の心の中で折り合いを付ける為だけに、訪れたのだ。
温かい言葉が却って息苦しく、宗次郎は俯く。旅の中で触れたこういった無償の優しさに、どこまでも焦がれる一方で、どうしようもなく押し潰されてしまいそうな時もあった。
ここで過ごしていた頃の、ささやかな願望を思い出す。大それたことを望んでいたわけじゃない。ただ、毎日を無事に何とか、やり過ごせれば良かった。暴力がなければ、もっと良かった。自分はこの家の子じゃないから仕方ないんだ。この環境で生きていくしかないんだ、だってそれが当たり前だから。あの人達をどうにかしたいとか、そういった思いは無かった。強くなんかならなくても、だからこそ誰かを傷つけずに済むのなら―――。
志々雄にようやく自身の存在価値を見出して貰って、それで良かった。強くなれば褒めて貰えた。認めて貰えた。由美だとか、方治だとか、十本刀の皆だとか、ある種似た者同士の同胞も集って、少なくともここにいた頃のような孤独さは無かった。それで十分、楽しく過ごしていた筈だった。なのに……、
誰かに優しくして貰うと、心の中の違う部分が酷く満たされるような心地がするのだ。そんなもの、と嘲笑いたくなるような自分もどこかにいるのに、それでもその温かさは快い。―――ここにいた頃に、欲しかった。
もっと早くに、こうした心優しい人と出逢っていたら。何より、生まれ育った境遇が異なっていたなら、きっと、もっと違う人生に…―――、
しかしそれこそ、今更言っても詮無いことだ。
「…お婆ちゃん!」
ざくざくと敷石を踏みしめる音がする。
見れば例の姉妹が、両手いっぱいに菜の花を抱えてこちらに走って来るところだった。鮮やかな黄色が眩しく、晴れている筈なのにどこか垂れ込めている重い空気を払拭する。
あらあら、と松は破顔した。
「この子達は、ここで過去にあった事件のことは、何も知らないのです」
松が宗次郎にそっとそう説明している間に、姉妹は地蔵の側に来て、花を供える為の竹筒に菜の花を活けている。
邪魔にならないように少し移動しつつ、宗次郎は二人の方を見遣る。子ども達は花を挿し終えると、ちょこんと屈んだ姿勢のまま、それぞれが小さな両手を合わせた。
「いつかは知る時が来るとは思いますが、今はそれでいいと思っています。ただそれでもこの子達はこうして、時折花を捧げてくれているのです」
そう語る松の面に浮かぶのは、孫達を温かく見守る眼差しだった。
所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。しかし旅に出てからは、宗次郎は違う現実も知ってしまった。弱いながらも、肩を寄せ合って暮らす人々の姿。弱くとも必死に生きている者達の姿。
松達もまたそうだろう。闘う為の力、という点においては、彼女らは宗次郎よりもずっと劣る。弱い存在、という括りに入る人達だ。今ここに刀が一振りあったとしたら、三人を一息で斬ることも、宗次郎には造作も無いことだ。
けれど、宗次郎は多分、もうそれをしない。したくは無い。様々なことがある世の中で、誰もが己の生を懸命に生きているだけに過ぎないのだと、何となく、そんなことが分かるようになってきた。
それにもう、“人を殺さなくて済む”程の強さを、宗次郎は手に入れている。大勢の人をこの手で殺めたことで、皮肉にも。そして旅の中で、誰かを喪うことの苦しさも、経験したからこそ。
「それはきっと、お松さんやこの家の人達が供養しているのを見ているからでしょう」
自分に優しさがあるかどうかなんて、分からない。恐らく、無いと思う。
けれど人の優しさは素晴らしいものだ、いつしかそんな風にも思えるようにもなっていた。自分に無いからそう思うのか、それとも。
今はまだ、この子ども達による供養は、大人の姿を真似したものだろう。しかし周りの大人達が立派な立ち居振る舞いをしているからこそ、知らず知らずのうちにそれを模倣する。
この子達がいつかあの惨劇を知った時、彼女らも松と同じように胸を痛め、また花を捧げてくれるだろうか。いっそ、今この場で自分がその犯人だと告げたら、松や姉妹らは一体どんな反応をするだろう。
そんなことをふと考えて、まぁでも、まず信じちゃくれないか、と宗次郎はすぐに思い直す。
「やっぱり、優しいのはあなた達です」
久し振りにいつもの声色に戻った。
今ここで暮らす子ども達が、恐らくは自分のようにはならなくて済みそうなことに、宗次郎は自分でも良くは分からないが、どこかほっとする。周りの大人達の温かい庇護がある限り、この子達は真っ直ぐに育っていくことだろう、自分とは違って―――けれど、それが人の本来あるべき姿であり、そしてそれでいいんじゃないかな、と思う。
もうこの家は、泣きながら笑っていた宗次郎の住処ではない。この子達が育まれていく居場所なのだ。
宗次郎はやっと屈託なく笑って、思わず二人の子どもの頭にぽん、と掌を置く。子ども達はびっくりしたような顔でこちらを見上げると、慌てて松の方へ駆けて行ってその背後に隠れた。そうして、驚いたような照れ臭い顔で、こちらをちらちらと伺っているのだ。あはは、と宗次郎は明るい笑い声を上げる。
「さてと。僕の用件も済みましたから、そろそろお暇させて頂きます」
「あら、せっかくですから、母屋の方に上がって頂こうかと思っていましたのに」
「いえいえ。流石にそこまで図々しいことはできませんよ。それに、」
どこまでも親切な松の厚意をやんわりと断って、
「……やっぱり、何だかんだで気も済んだみたいですから」
もう一度、宗次郎は地蔵を振り向く。やはりにこっと微笑んで、心の中で彼らに言葉を手向ける。
(多分、僕はもうここには来ないと思います。
もう僕の家ってわけでもないし、それに僕に両手を合わせられたところで、やっぱりあなた達は嬉しくなんかないでしょう?
僕よりずっと優しい人達が、素直に悼んでくれているようですから、あなた達にとっても、その方がいいと思います)
これまた一方的な別れだったが、いっそ宗次郎らしいかもしれなかった。
そしてその心優しい者達を見て、笑みを深める。
ふと思った。自分のように温かさに恵まれることのなかった者に、手を差し伸べること。優しさを向けること。そうして不幸を減らすことは、もしかしたら、一つの償いになるかもしれない、と。この場所で温かい人達に触れたからこそ、湧き上がった気持ち。けれど、まぁ、果たしてそれが宗次郎に実現できるかどうかは、また別の話だったけれども。優しさという概念は分かる、けれど自分の内にそれがあるとは露とも思えないし、どうやったら人に優しくできるのか、それは分からない。
(でも、あと一つだけ言えることは、僕は多分、自分ではもう誰も殺さないってこと……。今更、こんなことあなた達に言っても仕方ないでしょうけど)
この先、剣腕を使う機会はまたあるかもしれない。しかし、もう誰かの命を奪うことはしない。
今まで殺めてきた命へのせめてもの償いと、そして人の生と死についてこの長い道のりの中でようやく知ることができたから。
誰も斬らない。そう、たとえ刀を手にしたとしても。
ただそれだけは、或いは自身へに向けての誓いのように、宗次郎は思う。彼らへの餞のように、初めて自分の手を血に染めさせてくれた彼らに。
確かに、そんなこと彼らに言っても仕方がないかもしれないけれど、しかしここでは、答えに繋がる一つの欠片を、手に入れることができたような気もする。たくさんのものを失くしたこの場所で、掬い上げることができた一欠片。
「色々とありがとうございました。……それじゃあ、僕はこれで」
頭を下げて、宗次郎はあっさりとお暇を告げる。くるりと地蔵に背を向けた様は、志々雄の誘いに即刻頷いてその場を後にした時と同じくらいの鮮やかさだった。戸惑っている松や幼い姉妹達に構わず、宗次郎はやはりすたすたと歩き出してしまう。
宗次郎は気付いていなかったが、その足取りはここに訪れた時よりも随分と軽かった。
「どこへ行かれるのかは存じませんが、お気を付けて…!」
背後から松のそんな声が届く。ややあって、さようなら、また来てね、と、幼い声が続く。
また来るかなぁ。
宗次郎は思わず小さく噴き出した。もう来ないつもりだけれど、それでも存外、いつか気が変わって、再びここを訪れる日もあるだろうか。
そしてまた、これからはどこへ行こうか。
「う〜ん、いい空」
宗次郎は顔に掌を翳して空を仰ぎ見た。
太陽は晴れ晴れと、空を明るい青で照らしている。どこまでもどこまでも続く、澄み切った空。あの日あの時ここで見上げていた、重苦しい鈍色ではない。また新しい何かを予感させるような、無限の広がりの蒼穹だった。
流浪の予定はあと一年。答えまでは、もう少し。
さぁ、次はどこへ行こうか。
宗次郎はもう一度そう心の中で呟くと、肩の荷物を担ぎ直したのだった。
了
『宗次郎が再び義実家を訪ねて、色んな物と向き合う話』…でした。
難しいテーマだけど挑戦してみたくてしばらく温めてて…でもやっぱり書いてみるとテーマが重過ぎて、うまく纏まってるのかどうか、自分でも良く分かりません…orz
あ、瀬田の名字に関しては自己解釈含みます。そして後出しですが、北海道編がやっていたら、という前提です。
米問屋一家事件のあの後は、廃墟になってるとか、朽ち果てて野山の一部になってるとか、色々考えられますが、ここは敢えてその後誰か住んでいたパターン、で書いてみました。
宗次郎は再び義実家を訪れるかどうか? その命題もなかなか難しいですが、宗次郎が答えを見つける為には、やっぱり過去のあの出来事と向き合うことも必要なんじゃないかな、と。
やっぱり難しいテーマなので、正直、私なんぞに捌き切れているかどうか微妙なところです(なのでちょこちょこ訂正入れるかもしれない…)。
感想・ご意見など頂けると幸いです。
2013,11,1
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