―第九章―
その日は、月夜だった。
ごくごく弱い月の光が降り注ぐ中、青年の宗次郎は一人縁側に座っていた。障子戸に背中を預け、片膝を立ててそれを両手で支えるような姿勢で。浴衣姿でぼんやりと、ただ月を見上げる。
冴え冴えとする孤独な横顔。…と、何かの気配に気が付いたのか、宗次郎はクスッと笑った。
「そんなところで隠れてないで、もう少しこっちに来たらどうです?」
廊下の先の暗がりに、軽く投げ掛ける。数秒の間があって、そこから幼い宗次郎がおずおずと現れた。姿は見せても、幼い宗次郎は青年のすぐ近くまでは寄って来ず、六尺程の距離を開けた場所にちょこん、と正座した。
「あはは。本当に昔の僕みたいだ。でも、ちょっと意外です。あなたの方から来るなんて」
「ん…」
青年の宗次郎の言葉に、幼い宗次郎は曖昧に声を零した。
昼間の騒動の後、状況が状況なので、青年の宗次郎はひとまず客人として神谷家に寝泊まりすることとなった。以前からそちらの宗次郎を知る剣心はともかく、初対面である筈の薫や弥彦も、“元志々雄一派の大悪人”という肩書きに構わず、ごく平然と宗次郎に接していた。それは彼らの性質がそうさせるのだろうが、幼い宗次郎にすっかり慣れ親しんでいるから、という要素も無論大きいに違いない。
玄斎はまたも帰ってしまったが、残りの面子での夕餉中、志々雄の組織が瓦解した後は何をしていたかとか、どこに立ち寄ったとか、そういったことを青年宗次郎は話した。その時も、幼い宗次郎は彼から離れたところで、顔色を伺うように縮こまっていた。
そんな調子だったから、彼から接触してきたのは宗次郎は意外だったのだ。もう一人の自分にまたもにこっと微笑み、宗次郎は顔を月の方向に戻す。今宵の月は、剣の切っ先が描く軌跡のような細い三日月だった。
「志々雄さんと出会ったのは、満月の日でしたね」
「…うん」
懐かしむ眼差しで、宗次郎は言った。幼い宗次郎も頷いた。あの鮮烈な出会いは、忘れもしない満月の夜だった。
「色々、ありましたけど。あの人のお陰で僕が生きられたのは、嘘じゃないんです」
「…分かってる」
夜の闇に浮かぶ言葉を、幼い宗次郎は肯定する。弱肉強食。あの脇差し。志々雄真実という計り知れない強大な存在。今の宗次郎を構成するのに、良くも悪くも欠かせない要素。
「緋村さん達を好ましく思うのとはまた別に、志々雄さんも好きなんだっていう気持ちも」
「……」
主語をつけずに紡がれた言葉に、幼子は何も言わなかった。
りぃりぃと、秋の虫の声がする。微かな夜風が肌を撫でる。
少々の静けさの後。二人の沈黙を打ち破ったのは、青年の方の宗次郎だった。
「あなたは、傷だらけで逃げていたところを、緋村さん達に助けて貰ったんですよね」
少年は肯定の意で頷く。
「なら、…あなたは“あの時”に、ちゃんと誰かに守って貰えたんだ」
「……」
「それって、ちょっと、羨ましいや」
昼間見せたような羨望を、青年は再び口にする。素直に。簡潔に。表情は、いつもの微笑みであっても。
こちらは青年の宗次郎と会ってからほとんど、笑むことをしていなかった少年は、ここで少々前進した。二人の距離が少しだけ近付く。
「だけど、志々雄さんのことは、今でも凄く好きなんです。志々雄さんや由美さんと、一緒に行動するのも楽しかった。あの人は強くて、壮大で…紛れもなく僕の、憧れだった」
「…うん。志々雄さん、最初は怖い人だなって思ったけど、僕を殺さないでくれて、話を聞いてくれて。ちゃんと話を聞いてくれただけでも、凄く嬉しかった」
「そうだね。僕の言葉に耳を傾けてくれる人は、あの家にはいなかったから。ちゃんと目を向けてくれる人も」
「作ったお握りを、何の文句もなく食べてくれたのも嬉しかった」
「あはは、本当にね。あの人達は僕が料理を作った時は、文句しか言わなかったからね」
「虫の居所が悪いと殴られてたし」
「そうそう。それで散らかったお膳は、結局僕が片付ける羽目になるんですよね。…ふふっ、何だか不思議だなぁ。自分自身とこんな話をするなんて」
思い出を語り合ううちに、二人の距離は更に縮まる。少年は近寄り、青年もまた姿勢を崩し、彼の方へと身を乗り出す。
「志々雄さんと話をするのは楽しかった。大きくなってもそれは同じで…、志々雄さんの言う通りにしていれば、間違いないって思ってた。…緋村さんとの闘いに負けてなければ、それは今でも続いてたんだろうな」
青年の宗次郎がそう言う頃には、二人は手を伸ばせば触れ合える位置にいた。けれど伸ばすことはなく、膝の上に静かに置いて、互いの心の内をただ晒け出す。
「…所詮、この世は弱肉強食」
「強ければ生き、弱ければ死ぬ」
少年が呟いた志々雄の真実を、青年はそっと引き継ぐ。
幼い宗次郎は一旦俯いて、自分の手と膝に視線を落とした。それから意を決したように顔を上げ、自分自身と対峙する。
「志々雄さんの、その言葉のお陰で生きられた。……だけど僕は、本当は、殺したりなんてしたくなかった」
「…うん」
京都での剣心との闘いの時、感情の壁を破るように鋭くせり上がった本音が、もう一人の自分を通して今再び言葉となる。幼い宗次郎は哀しみと悔いとを笑みで隠すことなくそのまま表情にし、今の、長年の己の思いを、一つ一つ吐き出していく。
「志々雄さんの強さには憧れたけど、僕は、誰かを傷つけるような強さは、欲しくなかった」
「うん」
「…殺したく、なかった」
「…うん」
「僕は、弱いままでもただ普通に…普通に、生きていたかっただけなんだ」
「……うん」
「だから、ここでそんな風な生き方ができて、嬉しかったんだ…!」
身体を小刻みに震わせ、涙声で言い募る紛れもない自分自身に、青年の宗次郎は思わず手を伸ばした。剣心や薫のように慣れてはいない、不器用な抱擁。それでも、泣き濡れる幼子を、過去の自分を宗次郎は抱き締めた。心の深いところに仕舞っていた思いを、自分の代わりに吐露してくれた存在を。
「そうだね。…そうだったよね。あなたは、いや、僕は本当は、そんな風に思っていた筈なんだ…。
そんな大切なことを、僕はずっと忘れてた。思い出さないようにしていたんだ。……ごめんね」
伝えるように独り言のように唄うように自分の内に語りかけるように。それを言った青年の宗次郎は、幼い宗次郎の黒髪に頬を寄せた。小さくて、弱くて、何もできなかった頃の自分に。自分には無かった幸せを、この地で、確かに享受した自分に。
「やっぱり、あなたが羨ましいな。その大切なことを、忘れずにいられたんだ。…戻りたくないのだって、仕方ないよね。僕だって、あなたの方だったら、留まることを望んだかもしれない」
「…でも、やり直さなくちゃいけない。あの闘いの時の緋村さんの言葉も嬉しかったから。負けて、何が正しいのかも見えなくなっちゃったから。だから僕は、流浪れ始めたんでしょう?」
幼い宗次郎がようやく笑み、掌を青年の頬に当てる。掌とその感触は確かで、温かく、青年も笑った。
「…僕にも、できるかな? もう沢山の人を殺しちゃったし、まだ答えは見つからないけど…、あなたが、僕が本当に望んでいたような生き方を探るくらいなら」
「さぁ…、やってみなくちゃ分からないんじゃない? そうでなくても、分からないことや知らないことが僕には多過ぎるんだ。答えが本当に見つかるのかさえもさ」
「あはは、厳しいなぁ」
小さな手の甲に己の掌を重ね、宗次郎は眉尻を下げる。くすくすという二人分の笑い声が、夜の涼しい空気に溶けていった。認め合ってみれば、もう一人の自分の存在がこんなにも慕わしい。当然だ、矛盾する思いも、相反する感情も、どちらも元々、自身の中にあったものなのだから。
「…何にせよ、あなたがいないと僕の答え探しは続けられませんよ。どうか戻ってきてくれます? あなたは戻りたくないんでしょうけど」
「……多分、大丈夫」
青年の宗次郎が真剣に言った台詞への返答ははっきりしたものではなく、むしろ噛み合わなかった。それで宗次郎は少年からひとまず身を離して、「ん?」と首を傾げてみる。
「僕が知らなかったこと、ここでたくさん教わったから。…だから多分、大丈夫。答え探しも、戻るのも」
幼い宗次郎には、昼間にはあった怯えや恐怖はもう無かった。ここにずっといたい気持ちはあっても、納得したのだろう、色々なことに。
時に目を背けたくなる生き方も、他でもない自分自身が歩いてきた道。それを見つめ直す理由。その必要性。そうしたことも、思い出したのかもしれない。本当の自分に触れたことで。
幼い自分の決断に、じゃあ、と青年は破顔して、でも、そういえばどうすれば生霊って元の魂とくっつくんだろう、と不可解に思う。と、幼い宗次郎が「ただ、一つお願いがあるんですが」と、かつて青年宗次郎が由美との別れの際に交わした会話と似た調子で言った。
「いいよ。一人に戻っても。…ただ、もう少し。あと一日だけ、僕に下さい」
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