―第十章―
午後の神谷道場内に、今日も門下生達の熱気が立ち込める。
気合いの声。竹刀同士が打ち合う音。力強く床を蹴る足音。いつものように耳に届くそれらの音に、宗次郎は微笑んだ。
「ありがとうございましたッ!」
稽古終了の刻限を迎えると、由太郎を始め門下生達は荷物を持ち、道場を後にしていく。道場の周囲を掃き掃除していた宗次郎は動きを止め、箒の柄を握る体勢で去り行く門下生の列にぺこりと頭を下げた。
「おーっし、お待たせ。入っていいぜ」
「はい」
道場内からひょいと顔だけ出した弥彦の言に従って、宗次郎は箒を道場の外側の壁に立て掛けると、草鞋を脱いで建物内に上がる。門下生達がそうするのを見てきていたので、一礼してから道場に入った。
道場内には弥彦だけでなく、まだ防具を身に付けたままの央太の姿もあった。宗次郎が来たことに気が付くと、央太は嬉しそうに笑った。
「あっ、宗次郎君!」
「こんにちは、央太君」
「嬉しいなぁ。宗次郎君と一緒に稽古ができるなんて」
わくわくした風な央太に、宗次郎も笑って応える。
今日は通常の稽古の後、宗次郎は弥彦に剣の指南を受ける約束をしていた。央太には、その件は今日彼が来てすぐに伝えていた。元々宗次郎と剣術をやりたがっていた央太は一も二もなく喜び、通常稽古後も居残り宗次郎の相手をすることを快く了承してくれた。
「よし。それじゃ始めるとすっか。礼!」
「よろしくお願いします」
正面に立つ弥彦の掛け声に、少し離れて並んで立つ宗次郎と央太はお辞儀をする。
「ほら、これがお前の分の竹刀だ」
「はい」
「まずは全身から余計な力を抜く。足を少し開いて立って、竹刀を構えるんだ。背筋は伸ばす。竹刀の持ち方はこう…右手を鍔のすぐ下に、左手は柄尻に…そうそう、そんな感じだ」
一振りの竹刀を手にした宗次郎に、弥彦は新入りの門下生を指導するのと同じ具合に、剣術の初歩を教えていく。立ち方や構え方、竹刀の持ち方、扱い方。腹から声を出すこと。基本の素振りの仕方。
全部一から、丁寧に。剣をまるで知らない人間に、初めての剣術を伝えるように。
「…うわぁ、宗次郎君、巧いね!」
弥彦が宗次郎に剣術の基本を叩き込むのを終える頃には、央太は宗次郎の太刀筋に目を見張るようになっていた。今日初めて竹刀を手にしたとは思えぬ程に、宗次郎の振るう竹刀の軌跡は綺麗で、滑らかだった。
流石に試合うまではいかなかったものの、宗次郎もまた防具をつけて、央太と打ち合ったり、飛び込み面の稽古をしたりした。指導をみるみるうちに吸収していく宗次郎に、央太は舌を巻く他無かった。
「凄かったね、宗次郎君! あんなに凄いなら、宗次郎君が正式に門下生になったら、僕、すぐに抜かされちゃいそう」
基礎とはいっても濃厚な、白熱した稽古を終えると、道場の縁側に座った宗次郎と央太は、弥彦が用意した水を飲む。稽古と興奮とで頬を赤く染める央太の褒め言葉に、宗次郎はやはりいつものごとく笑むばかりだった。「ああ、お前見込みあるぜ」と散切り頭をぽんと叩く傍らの弥彦にも、宗次郎はニコッとした顔を向けた。
「央太君も凄いよ。剣の筋にブレが無いもの。…それに、剣が巧くなりたい、強くなりたい、ってしっかりした目標がある。だから、央太君はもっと、強くなれると思うよ」
そう言った宗次郎に、央太は照れ臭そうにした。照れ隠しに鼻の頭を掻いて、湯呑みの水を一気に飲む。
「ありがとう。宗次郎君にそう言って貰えて嬉しいな。ね、稽古、楽しかったでしょ?」
「うん」
宗次郎が頷いたことに、央太は表情と声をますます明るくさせる。
「初めての宗次郎君の稽古だからかな、若先生も何だか楽しそうだったなぁ。…あ、そうだ、僕この後、まだ少し時間あるんだ。宗次郎君、今日も一緒に遊べる?」
「うん。…けど央太君、実はそのことなんだけど…」
「?」
「実は…僕が央太君と遊べるの、今日が最後なんだ」
「…えっ?」
輝いていた央太の顔が、驚きに曇る。縁側から立ち上がって数歩歩き、宗次郎は振り返る。
「しばらくの間、縁あってここでお世話になってたけど、僕が帰るべき場所を、思い出したから」
「…宗次郎君の本当の家に、帰るってこと?」
「まぁ…そんなところ」
突然の別れを飲み込み切れずに困惑する央太と向き合う宗次郎の髪が、秋風に揺れる。風は庭に残る落ち葉も、その場から離れた場所へと運んでいった。
「また…神谷道場に来ることはある?」
「さぁ…、分からないや」
「宗次郎君と会えるのは、これきりかも知れないってこと?」
「もしかしたら、そうなっちゃうかもしれないね」
怖々と質問を重ねる央太に、宗次郎は穏やかに答えていく。
再会の展望が見えない返答に央太は元気を失っていくが、弥彦は気休めを言うことはしない。友との別れに気落ちする央太の肩に触れ、まだ小さな体を支えるだけだ。
「…こいつが帰るのは、うんと遠いとこなんだ。辛いのは分かるけど、そこは納得してやれ。
けど、一日でも何でも、宗次郎は俺の門弟で、お前の弟弟子だぜ。…なっ」
自身の寂しさも誤魔化すように、弥彦は央太の肩を抱く手にぐっと力を込める。
寂しそうにしていた央太は、ややあって「急にいなくなっちゃうなんて。昔、僕の村を救ってくれたあの人みたい」と独り言を言うと、寂しさを振り払うみたいにして、無理矢理に笑った。
「でも、今日はあと少しは遊べるんでしょ?」
「うん」
「なら遊ぼう! 僕、竹トンボ持ってきてるんだ」
「うん、遊ぼう。僕も自分の持ってくるね」
「怪我とかしねーように、気を付けて遊べよー」
連れ立って中庭に遊びに行く二人を見送って、その姿が消えたところで弥彦は溜め息を吐く。腰に手を当て、先程の宗次郎との稽古内容を振り返り、もう一つ溜め息。
(あれだけの剣の才能がありながら…、実際のあいつがやってきたのは、何十何百の人殺し、か)
弥彦の胸中が苦く冷たいもので満ちる。昨夜の二人の宗次郎の話を、実は弥彦は聞いていた。弥彦だけではない。どちらの宗次郎のことも心配する剣心と薫も、陰で密かに月夜のやり取りを見守っていたのだ。
幼い宗次郎が神谷家で暮らす中で見せた、辛い過去の片鱗。昨夜の二人の話。そして剣心から改めて聞いた、新月村や京都での宗次郎との闘い―――。
感情が欠落する、という状態にまで追い込まれた、本来の幼い宗次郎を弥彦は思う。今し方、無邪気に駆けていった彼とは違って、遊ぶ機会も友もなかったのであろう“瀬田宗次郎”を。
以前、宗次郎は『僕は守る強さなんて知らない』と言っていた。それはそうだろう。事実、彼は誰かに守られることを知らなかった。守られたことなどなかった。本来の心に背いてまでも、人を殺して生き延びるしか、道が示されていなかった。もし彼に違う道を選ぶ余地があったなら、あの剣才も恐らく違った風に使われていたものを。
先程まで弥彦が、本当は剣に精通する宗次郎に剣術を教えたのは今更も今更だったが、それは宗次郎が、そして弥彦自身が望んだことだった。
今までの日常の延長のような形で、剣を最初から学ぶこと。今日が幼い宗次郎には最後の一日だから。最後に、消える前に、幼心が密かに抱いた願望を、と。殺人剣とは異なる、それよりはずっと甘い一つの剣術の在り方を。
かつての宗次郎が剣術に純粋に抱いた憧れを、弥彦は叶えたに過ぎなかった。そして幼いながらも宗次郎が見せた確かな剣の才に―――行く末はあの十本刀の筆頭となるのだからそこは当たり前なのだけれど―――、それがやがて血に塗れ闇を行くものと化してしまったことを、弥彦は惜しみ、悔しく思う。
(…あんな風に、肝心な時に助けてやれねぇ奴が、この日本には山程いるんだ)
分かっていても厳しい現実を、弥彦は噛み締める。剣心がそうして生きてきたように、人の力なんて案外ちっぽけで、目に映る範囲の人々くらいしか守れないものだ。それもまた悔しいことに。
(だったら、その範囲が少しでも広がるように。少しでも、多くの奴らを助けてやれるように。俺はもっと、もっと強くなってやる…!)
悔しさを原動力に変えて、弥彦は心中で誓う。
それが弥彦にできるせめてものことで、それはあの宗次郎に報いることにも繋がるのだろう。きっと。
喉を震わす痛みをぐっと堪え、弥彦は空を仰いだ。
この夜の夕餉も、和やかで賑やかなものだった。剣心が腕を振るった御膳の美味しさに舌鼓を打ち、皆の談笑も広がる温かな食事となった。
その後で風呂に入り、さっぱりした宗次郎は、剣心と薫の元を訪れていた。室内には剣路もいる。
夫妻の前に正座をした宗次郎は、畳に指先を揃えてついて丁寧に頭を下げる。
「今まで、お世話になりました。本当にありがとうございました」
「…やーね、宗君、そんな改まって。お世話になったのはお互い様よ。宗君には家のこと色々手伝って貰っちゃったし、何より、宗君と過ごせて楽しかったし」
別離の切なさを打ち消すように、薫は敢えて明るく笑う。実際には、声が少々震えてしまっていたが。
「うむ。拙者も楽しかったでござるよ。ありがとう、宗次郎」
そう剣心も同調し、「そんなに畏まらなくてもいいでござるよ」と宗次郎に続ける。
今の宗次郎は、二人に初めて出会った時と同じ、元々の彼の着物を着ていた。初日に着替えた後もきちんと取ってあったのだ。ツギハギだらけの着物ではあるが、洗濯したことにより汚れは落ち、小綺麗になっていた。また、そんな粗末な着物であっても、顔立ちの良い宗次郎には不思議と似合っていた。
「……」
「……」
最後の時も近いのに、却ってそうであるからか何を言ったらいいのかを上手く掴めず「あの…」「えっと…」と埒の明かない会話をする薫と宗次郎。
不思議と、そわそわと、或いはもじもじと、といった様子を見せる宗次郎を、剣心は「これこれ、宗次郎。言いたいことがあれば素直に言うように教えたでござろう」とやんわりと嗜める。
「そうなんですけど…こればっかりは流石に言い辛いなぁ」
困った風に笑う宗次郎は、ちらっと薫を見た。それから、薫の膝に乗って母に甘えている剣路も。
そこでようやく、薫は宗次郎がしたいことを察して、「剣路、ごめんね。今度はお父さんに抱っこして貰ってね」と、膝の上の剣路をひょいと剣心に手渡した。そうして薫は着物の皺を伸ばすと、軽く腕を広げて宗次郎を呼ぶ。
「宗君、いらっしゃい」
優しく招いた薫に宗次郎ははにかむ。また少しもじもじした後で、薫の傍に向かった。
薫に背中を預けるようにして、宗次郎はその膝の上に座った。最後の最後でようやく子どもらしい甘えを見せた宗次郎の胸の辺りに薫は腕を回し、包み込む。
自身にかかる少年の体重が宗次郎の安堵の表れのごとく増したので、薫は泣きたい気持ちと温かな気持ちとが同居するような思いで抱き締めた。
「あは…、何だか気持ちいいや。ありがとうございます、薫さん」
「…ううん。抱っこくらい、言ってくれたらすぐしてあげたのに」
「だって恥ずかしいし、剣路君にも悪いし」
「うー!」
「…ほら、ヤキモチ妬いて怒ってるじゃないですか」
「おろ…。剣路、どうか母さんの膝を、もう少し宗次郎に貸してやって欲しいでござる」
剣路が薫を恋しがって暴れるので、剣心は高い高いをしたりして何とか宥めている。
そうした光景をふふっと眺めていた宗次郎は、頬を緩めると薫に今度はこうねだった。
「あの、薫さん。唄を唄って欲しいです」
「唄…?」
「唄なら何でも。…あぁ、でも、せっかくなら子守唄がいいかなぁ」
「分かったわ。…でも私、そんなに上手く唄えないかもよ?」
「それでいいですよ。…昔、母がまだいた頃、時々こうして、僕に唄を唄ってくれたんです。もうその顔も唄声も、何も思い出せないですけど…」
「……」
遠くを見るような宗次郎の眼差しは、生憎と背後の薫には見えなかった。けれど宗次郎の望郷に、薫は唄うことで応えた。
いつもは剣路に唄っている子守唄。今はずっと昔に母を亡くし、心も見失った迷い子に、安らぎを与える為の唄。
勝手に唇や喉が震えて、唄声は安定しなかったが、宗次郎はうっとりと目を閉じて、薫の子守唄に聴き入っていた。母の声にやはり安心するのか、剣心の腕の中の剣路も、いつしか大人しくなっていた。
唄いながら、薫は宗次郎を包む腕に力を込める。こんなこと、とても簡単にできるのに、…こんなことを簡単に受けられなかった、本来の宗次郎の境遇を思った。不条理に傷つけられてきた幼子を思った。誰かに必死に救いを求めていたのに、その時に救われることのなかった彼の心が、痛ましかった。その末に彼が歩んだ道は、血みどろだった。
どうしてこんな簡単なことを、彼の母以外、誰も彼にしてあげなかったのか。
「―――私、もっと早く宗君に会いたかったわ…」
唄を終えると、薫はぽつりと言った。…その言葉に、宗次郎は何も言わず、微笑んだ。
そうしてむくりと起き上がり薫の膝から下りると、剣心に頭を下げる。
「緋村さんも。本当に色々、ありがとうございました」
「いや…、拙者はお主に大したことはしておらぬ故」
謙遜する風な剣心に、宗次郎は首を左右に振る。
「そんなことないです。有り難かったです、あなたの優しさや厳しさ。そのお陰で、僕は歩き出せたんですから」
佇まいを直した宗次郎は一歩下がって夫妻に改めて礼をする。その後、頭を上げた宗次郎の顔は、満面の笑みで飾られているのであった。
「皆さんと会えて、良かったです」
その感謝に、夫妻の心中が嬉しさのせいだけでなく打ち震える。
宗次郎は「元気でね」と、剣路の頭も優しく撫でた。それから「それじゃあ、お休みなさい」と普段、寝所に下がる時と同じ調子で宗次郎は言い、そのままあっさりと退室していった。
とん、と障子戸が閉まり軽い足音が遠ざかっていく。剣心から己の元に返された剣路をきつく抱き締めると、薫の肩が背が大きく震え出す。
「……っ、―――…ッ…!」
単純な別れの辛さとどうしようもない遣る瀬無さに、薫はひたすらに涙を流した。
声を押し殺して咽び泣く妻の隣に腰を下ろし、悲しみに揺れる肩を剣心はそっと抱く。そんなことしかできなかった。
沈痛な面持ちで薫を見つめ、次に宗次郎が去っていった障子戸に目線を移して、剣心は誰にともなく言った。
「…そうでござるな。拙者ももっと早く、ずっと昔に彼に会えていたなら……」
秋の夜の静けさに、その声は淡く儚く溶けていった。
「…皆さんと、最後のお別れは済みました?」
「うん」
母屋からの灯りはあれど、闇も立ち込める神谷家の中庭で二人の宗次郎は向き合っていた。揃って微笑を湛える彼らの顔は、心無しか清々しいものだった。
「本当に…お人好しというか何というか。あなたはともかく、僕まで二晩も泊めて貰っちゃって。まぁ、その代わりに今日は家事を色々としましたけど。僕が元々は敵だったってこと、あの人達忘れてません?」
「あははっ。…でもそんな人達だから、ここにいて楽しかった」
幼い宗次郎は、寂寥感にか口を噤む。けれどりぃりぃと鈴虫だけが声を響かせる多少の時を経て、明るく微笑む。そこに迷いは見られない。
す、と掌を差し出してきたので、己の手も差し出す前に青年の宗次郎は言う。
「あとは、やり残したことはないですか?」
「正直に言うとあるんだ。他にも色々、してみたいことはあった。でも、もういいんだ」
「…へぇ。どうしてです?」
緩く首を傾ける青年に、少年は試すように笑った。
「あとはあなたが、答え探しの中で、答えを見つけた後で叶えて下さい。…“僕”はもう、大丈夫。あとはあなたに、任せますから」
その“僕”はどちらの宗次郎を指しているのだろう、と青年が考える間も無く、きゅっと手を繋がれる。見下ろした先のもう一人の自分は、己もまたよく称される、何を考えているのか分からない、といった笑みでいた。
「…責任重大だなぁ」
青年の宗次郎が呟くと、輪郭がぼやけ始めた幼い宗次郎は、もう一度にっこり笑った。
笑ったまま、彼の姿は次第に透けて薄くなって。青年に吸い込まれるようにして、ついには消えた。不可解な現象が収まる瞬間は、げに呆気無く。後には答えを求めさすらう一人の流浪人の姿があるばかりである。
こうして、ある傷ついた心の一欠片が、ささやかな救いと幸福を得て元の場所へと還っていった。
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