―第八章―
幼い宗次郎は神谷家の中庭で、一人立ち竦んでいた。その後ろ姿はいつも以上に小さく見える。
「宗次郎」
剣心は背後からそっと名を呼び、宗次郎に近付いた。宗次郎は逃げなかったが、振り向くこともしない。
それで剣心は宗次郎の正面に回る。「どうしたでござる? 皆心配しているでござるよ」と、安心させるように微笑んでいつもの調子で話し掛けてみれば、俯き加減の宗次郎はぽつりと、けれどはっきり「戻りたくない」と言った。
「あの人に会って、全部思い出しました。…僕は、あの人の中から逃げ出してきたんだ」
宗次郎は硬い表情のまま、静かに語り出す。あの人、とは確認するまでもなく、青年の宗次郎のことだろう。己が彼の生霊だと…魂の一部に過ぎないとどの程度まで認識しているかは分からないが、この宗次郎は、彼から抜け出た、という自覚はあるらしい。
「…戻りたくない、でござるか」
摩訶不思議な状況ではあるが、剣心はその気持ちを肯定するように言う。宗次郎は俯いていた顔を上げると、悲痛に叫んだ。
「あの人の中に戻ったら…僕はまた、“人殺しの僕”に戻っちゃう…。そんなの、そんなの嫌だ!」
宗次郎はぎゅっと手を握り締めた。表情を尚のこと歪ませて、訴える瞳で更に続ける。
「楽しかったのに…ここでの毎日は、本当に楽しかったのに…! 僕を殴る人もいなくて、みんな親切で優しくて、友達だってできて、夜安心して眠ることができて…それが嬉しくて、幸せだった! ……だけど、あの人の中に戻ったら、それもみんな、全部またなくなっちゃう……!
だって本当は、本当の僕は、殺されそうになったあの雨の日に誰も助けてくれなくて、だから殺さなくちゃ生きられなくて、それでその後も悪いことをたくさん、たくさんして…それが本来の……本当の、僕で……」
言いながら、宗次郎は泣いていた。ぼたぼたと大粒の涙を零し、己の中で荒ぶる感情をそのまま剥き出しにしていた。
真っ赤な顔をぐしゃぐしゃにして泣く宗次郎の背を、剣心は無言で抱き寄せた。剣心に縋りつくように、その着物を強く掴んだ宗次郎は、剣心の腹辺りに顔を埋めながら幼子の駄々そのままに「嫌だ…。戻りたくない、戻りたくない……!」と繰り返した。
その小さな体を抱き締めながら、剣心は唇を噛む。今までこの宗次郎が言っていたことが、剣心の脳裏に燐光のように灯っては消えていた。
『こんな風に誰かにご飯を作って貰うことなんて、もう長いことなかったから』
『遊ぶって…どうやって…』
『だって泣くと、煩いとか、生意気とか言われて、もっと殴られるから…ッ』
『強くならなくちゃいけないのかな』
『弱いのは悪いことじゃない…?』
『…助けて!』
(…つくづく悔やまれるでござるな。本当の…本来のこの子を救うことができなかったことが)
結局自分は、宗次郎を助けることなどできなかった。『あの時、守ってくれなかった』と本当の宗次郎は言っていた。今、目の前にいるのは、“あの時に守って貰えた”宗次郎なのだ。
しかしそれは刹那の儚い幻。決して事実たり得ない。本当のこの少年に、剣心は手を差し伸べられなかった。だからこそ、あの闘いで、今眼前で宗次郎は苦しみ、その慟哭が胸に刺さる。
恐らく、元来の宗次郎は、このように繊細で心優しい子どもだったのだろう。しかし彼の境遇が、彼を襲った災難が、そのまま育っていくことを許さなかった。これもまた推察だが、きっと宗次郎が酷く拘っていた言葉、『強ければ生き、弱ければ死ぬ』、それを痛感する状況まで追い込まれ、結果彼はそれを実践し、ようやく生き延びられた。
元が繊細故にその事実が耐え難く。表情を、感情を、彼自身の心そのものをも殺して。
「すまぬな……。本当の“あの時”に、守ってやれなくて」
剣心は宗次郎を抱き締める腕に力を込めて、沈痛に告げた。今更言ったところで詮無く、言ってもどうしようもないことだったが、言わずにはいられなかった。
どんな理由かは分からないが幼き日の宗次郎を殺そうとしたのは、彼を長年虐げてきた者達だろうか。助けて、と、必死に誰かの救済を求めていたであろう彼に、剣心がその時に手を伸ばすことができていれば、この手が届いていれば、宗次郎が苦しむことも、その幼き手が血に塗れることもなかったかもしれない。
自分でなくても、心優しい誰かが彼を守っていたのなら、志々雄と共に弱肉強食の名の下に剣を振るい、悪事に手を染めるのとはまったく違う生き方を、宗次郎はできた筈。
それが叶わなかったから。宗次郎の心の奥の無念や痛みが、今になってこうして、形となっている。
悔恨に、剣心は表情を歪める。腹辺りの着物が、宗次郎の痛みと悲しみの涙で生暖かく濡れていく。
嗚咽を上げる宗次郎の髪を撫でながら、剣心は息をすうっと吸い込んだ。過ぎ去ってしまった彼の遠い過去には、最早何もできない。けれど、今と未来に向けた言葉を、かけることならばできる。
むしろ、それしかできないから…、京都でのあの闘いの時と同じように、剣心は直向きに宗次郎に語りかける。
「…苦しかったでござるな、宗次郎…。…それでも人は、その苦しみと向き合い、生きていかねばならないこともある…。
拙者もかつて、多くの罪を犯した。大勢の者を殺めた。取り返しのつかないことをしてきたと、気付いた時には遅かった。
失われたものは、もうどうしても取り戻せない…。ただ、だからこそその苦しみに、己の犯してきた罪の深さを思う。せめて、もう二度と同じ過ちは繰り返すまいと…。そうして生きていくしかないのでござる。償う術を探し続けながら」
最後に宗次郎をぎゅっと抱き締めて、剣心はその腕を解いた。泣き腫らした顔をしている宗次郎と向き合うように屈んで、目を合わせる。宗次郎は涙で濡れた瞳を、しかと剣心に向けていた。
剣心は薄く微笑む。
「宗次郎。ここでの生活は楽しかったでござるか?」
「…うん」
こくん、と宗次郎は頷いた。それで剣心は笑みを深め、柔らかさを取り戻した声で続けた。
「ならばきっと、今のお主にとってはそれが真実…。たとえお主が、瀬田宗次郎という人間の一欠片だとしても…、お主がここで感じたものもまた確かに本物であると、拙者は思うでござるよ」
「……」
「本来のお主を守ることは、拙者にはできなかった…。せめてお主だけでも、この日々が楽しかったというのなら…それは拙者達にとっても、幸いでござる」
今度は力無く笑む剣心を、宗次郎はすんと鼻を鳴らし見つめ返す。
こんなことを言っても、何の慰めにも解決にもならなくても。辛くとも現実を受け入れろと、むしろ酷な真似を彼にしているのだとしても。剣心は思ったことを、ただ真っ直ぐに宗次郎に伝えた。
宗次郎はまだしゃくり上げてはいるが、徐々に涙は止まってきたらしい。着物の袖口で目元を拭い、気弱そうな表情で、やはり剣心を見返していた。
「随分緋村さん達と仲良くなったんですね。そっちの僕は」
「!」
清涼な声にハッとする。剣心と宗次郎が揃ってそちらを見れば、今までの二人のやり取りを母屋の陰から伺っていたのであろう青年の宗次郎と、薫達がいた。
気遣わしげな顔をしている薫達に構うことなく、青年の宗次郎はすいと剣心達の元へ歩み寄った。幼い宗次郎はびくっと震え、立ち上がった剣心の着物を掴んで、もう一人の自分を怖々見上げていた。
青年の宗次郎は、相も変わらず微笑を携えている。
「大人しく僕の中に戻ってくる気は、」
「…ッ!」
「…やっぱり、無いみたいですね」
幼い宗次郎の反応を見て、青年の宗次郎は肩を竦める。「…宗次郎」と、剣心が今度は青年の方に対しそう呼びかけた。青年の宗次郎は返事をせず、自分の用を続ける。
「でも、このままじゃ二人共死ぬんでしょう? それは僕、困ります。僕はまだ、探しものの途中ですから」
言って、青年の宗次郎は己の懐を探った。その右手が取り出したものは短刀で、左手でその鞘を外したことに一同は身を堅くする。
「宗次郎、何を、」
「一つ、思いついたんですけど。その子を殺せば、その子は僕に戻ってくるんじゃないですか?」
「…!?」
にこやかに、さらりと不穏なことを言い放った宗次郎に、一同に緊張が走る。「いきなり何言ってんだテメェ!」と弥彦が突っ掛かるも、宗次郎はやはり笑顔で受け流す。
「よく分からないんですけど、その子って僕の魂の一部が、形になったようなものなんでしょ? …なら斬って、その形を無くせば、必然的に僕に戻ってくるんじゃないですか?」
宗次郎は仮説を述べ、幼い宗次郎と剣心に一歩近付く。
「これは山で捕った獣とかを捌くのに使っている物ですけど…、君一人を殺すくらいなら、これで十分です」
短刀を掲げ、宗次郎はニコッと笑う。殺気は無くも、そこにある殺意にひやりとした雰囲気が漂う。明るく、無邪気だから際立つ『天剣の宗次郎』の恐ろしさ。
「待って…きっと、何か他に方法がある筈よ!」
「どんな方法です? だってその子は、僕に戻ってくるつもりはまるで無いようですよ。じゃあ、僕が何とかするしかないじゃないですか」
「冷静になるでござる宗次郎…。この子を殺めても、お主の離魂病が治まるとは限らぬ。むしろ、魂の半分を消すのと同じ行為なのではないか?」
「どの道、このままだったら二人共死ぬんです。なら、一つの可能性に賭けてみてもいいじゃないですか。あなたが言ったんですよ。『真実の答えは、自分の人生の中から見い出せ』って。僕はまだ、その答えを見つけてないんですから」
薫と剣心の説得にも、宗次郎は耳を貸さない。短くも鋭い刃を示しながら、じりじりと幼い宗次郎へと近付いていく。
剣心の背後に隠れる宗次郎は、怯えきった表情だった。それは殺されそうになる恐怖を知る顔。相対する青年の宗次郎は真逆の、どこまでも穏やかな笑みを面に乗せている。
「僕は死ぬのは御免です。だからあなたが消えて下さい」
その口調もまたやんわりと、しかし彼の殺意に変化は見られなかった。
堪らず、薫と弥彦は飛び出す。弥彦は青年の宗次郎に立ち塞がり、薫は幼い宗次郎を守るように剣路ごと抱き締める。
「とにかく駄目! この子を殺すなんて!」
「そうだぜ! いくらテメェがもう一人の宗次郎だとしても、そんな身勝手認められっか!」
薫は青年の宗次郎がしようとする行為を強く跳ね除け、弥彦も鋭く叱り飛ばす。尚も微笑を湛える宗次郎を、剣心も牽制の双眸で見据えていた。その右手は、宗次郎の行動次第ではすぐに攻撃を仕掛けられる位置にまで、いつしか動いていた。
双方は、そのまましばし対峙する。間近な死の恐怖に震える宗次郎を、皆一丸となって守っていた。この子は簡単には渡さない、そうした強く固い意志の下。幼い宗次郎も、薫の腕にギュッとしがみつくようにしている。
…そんな光景に、殺意を抱いていた筈の当の青年が、唐突に敵意を崩し「あははははっ」と笑った。
「嫌だなぁ、皆さん、怖い顔しちゃって。冗談に決まってるじゃないですかぁ」
「へ?」
何事も無かったようにひらひらと左手を振る宗次郎に、弥彦が間の抜けた声を漏らす。
宗次郎はあっさりと短刀を納刀し、懐に戻した。拍子抜け、といった一同に、宗次郎は言う。
「そういう方法もありかなって思ったのは確かですけど…そんなことしたら緋村さんが言うように、僕を半分消すのと同じじゃないですか、ねぇ。ちょっと意地の悪いお芝居でしたね…すみません」
まだ何とも言えない空気が漂うも、にこにこ顔の宗次郎からは確かに殺意は失せたようである。「…拙者達を試したのでござるか?」と右手を引っ込め、苦笑する剣心に「まぁ、そんなところです」と返し、宗次郎は薫に抱かれたままの幼い自分自身を見下ろした。
戸惑いの混じる怖々した顔と、静かな笑みと。表情こそ違えどよく似た顔がかち合う。
「あなた、幸せ者ですね」
守られている自分に、宗次郎は羨望の滲む響きでそう告げた。
それで小さな宗次郎がぽかんと薄く口を開けても、青年はにこっと微笑むだけだった。
「宗次郎…」
「あーあ、色んなことがあったから喉渇いちゃったなぁ。改めてお茶にしません?」
名を呼ぶ剣心の声には特に反応を返さず、宗次郎は無邪気に提案する。そのままくるりと背を向けて、母屋へとすたすた歩いていく後ろ姿を、一同は戸惑った風に見つめていた。
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