―第七章―
赤べこで剣心の見知る、正真正銘の“瀬田宗次郎”と再会した時、剣心は首筋を冷たい手で撫でられるような感覚を覚えた。
動揺する剣心には一向に構わずに、その宗次郎は立て板に水といった様子で朗らかに話し掛けてきた。かつて殺意を剥き出しにして斬りかかってきたことなど、微塵も匂わせない。もっとも、過去のあれこれも何も無かった様子でにこにことやたら社交的なのも、彼らしいといえば彼らしいのだけど…。
そういった具合に、再会した宗次郎の雰囲気は確かにかつて新月村や京都で相対した時のそれで、間違いなく瀬田宗次郎本人だった。…ならば、ここしばらく接してきた、幼い“瀬田宗次郎”は一体?
その謎を深く追及する間も無く、幼い宗次郎は店を飛び出してしまった。いや、宗次郎の態度からするに、逃げ出した、と表現した方が正しいか。
逃亡の末に幼い宗次郎は倒れ、剣心達は気を失った彼を神谷家まで連れ帰ってきた。青年の宗次郎も一緒である。
小国診療所から玄斎を呼び近所に預けていた剣路も引き取って、今は母屋の一室にて、布団に寝せた宗次郎を一同は心配顔で見下ろしている。
事態がひとまず落ち着いたところで、剣心は薫達に青年の瀬田宗次郎について説明した。この青年こそ、志々雄一派・十本刀の筆頭剣客で、以前に闘ったこともある相手であると。
宗次郎の素性を知り、薫も弥彦も驚いていた。当の宗次郎はそんな驚愕もやはりどこ吹く風、何を考えているのかまるで読めない、といった微笑で、布団に横たわる幼い宗次郎を見ていた。
「そうか…瀬田宗次郎って名前、何か聞き覚えがあると思ったら、十本刀のこいつと同じ名前だったんだな。知ってて黙ってるなんて、剣心も人が悪ィぜ」
「すまぬな。隠すつもりではなかったのでござるが、小さい宗次郎とこの宗次郎の関係性が、今ひとつよく分からなかったでござった故」
非難の苦笑を向ける弥彦に、剣心も小さく笑って答える。それから剣心は今度は、青年の宗次郎を静かに見据えた。
「…それで、宗次郎。お主とこの子は、一体どういった関係なのでござる。名が同じな上に顔立ちも良く似ている、まさか全くの他人ということはあるまい」
幼い宗次郎の事情は、簡潔に青年の宗次郎に伝えてはいた。けれどここまで相似点がありながら、まるで分からないと宗次郎は言う。
「僕が聞きたいくらいですよ。緋村さんに久し振りに会ったと思ったら、こんなややこしい事態になってるなんて」
そう口にしながらも、宗次郎はのんびりと茶を啜る(一応客人だから、と薫が用意したものだ)。「他人事みてーだなぁ…」と弥彦が呆れた風に呟いた。
「僕はこの子に会ったことがないし、当然知ってる筈もない。もうずっと昔に身寄りも亡くなってるから、親戚だとも思えません。……ただ、」
「ただ、何だよ」
湯呑みを受け皿に置いた後に淡々と語った宗次郎の言葉尻を弥彦は捕らえる。
「気になることがあるとすれば…、確かにこの子、小さい時の僕に何だか似てる気がするんですよね」
「……え?」
「何となく、ですけど…」
「それって…どういうこと?」
「さぁ…。だから不思議なんです」
聞き返す薫に宗次郎は曖昧に笑む。皆、幼い宗次郎と青年の宗次郎とを思わず見比べた。部屋にしんと沈黙が落ち、障子戸の向こうから聞こえる鳥の声だけが静寂を遮る。
しばらく何かを考えていた様子だった玄斎が、ここで緩やかに口を開いた。
「…もしかしたら、“生霊”というやつかもしれぬな」
「…“いきすだま”?」
眉を潜めおうむ返しをする剣心に、玄斎は頷く。
「離魂病とも言われておってな。その人間とそっくりな者がもう一人現れるんじゃ。離魂病で現れた者は厳密には人ではないが、元々の人物の魂が分かれることにより生じた存在だから、姿形は瓜二つらしい。俄には信じられぬ症状じゃが…」
“生霊(いきすだま)”―――とは現代で言う、ドッペルゲンガーのことである。原理は未だはっきりと解明されていないが、その現象事態は古くから世界各地で発生しており、日本の江戸時代の文献には“離魂病”の他に“影患い”とも記されている。
玄斎の説明を、一同は狐につままれるといった顔で聞いていた。
「じゃ…じゃあ、宗君とこの宗次郎君は、同一人物ってこと…?」
「そうなるの。年齢が異なる生霊とは珍しいが…」
「いやまさか…そんなことって、マジにあるのかよ…」
「……」
薫も弥彦も動揺を隠せない。剣心もまだうまく飲み込みきれないという様子で口を引き結んでいる。
当の宗次郎も、今一つピンときていない風である。
「離魂病は自覚症状は無いというからな。彼自身が分かっていないのも、無理からぬ話じゃろうて」
「けど…本当にそんなことって…」
薫が心配顔で布団の宗次郎を見る。今まで慣れ親しんできた宗次郎が幻のような存在だと、簡単には受け止められない、といった心境だろう。もっとも、それは剣心や弥彦とて同じだったが。自然、双方の宗次郎を見比べる。
「…この子って、」
それまで黙っていた青年の宗次郎が、不意に涼やかな声を発した。
「誰かに追われて逃げていたところを助けた、って言ってましたよね」
「ええ…そうよ。それも、嵐の後だったから、びしょ濡れで、傷だらけで…」
「……」
確認するように言った宗次郎は、薫の答えに一度目を伏せる。それからゆるりと瞼を上げて、この場に似つかわしくない柔らかな微笑を浮かべ次にこう紡いだ。
「…前髪を掻き上げたところ」
「?」
「その子の前髪を掻き上げたところに、大きめの傷があったり…しませんでした?」
「そういえば…」
不意の宗次郎の言葉に、玄斎は思い出した様子で幼い宗次郎の前髪を掻き上げる。皆で覗き込むと、髪の生え際には確かに大きな傷痕があった。
一同は驚愕し青年の宗次郎に視線を戻す。宗次郎は続けた。
「背中側、右の腰あたりにも大きな傷痕。左腕の内側に細長い火傷痕が三本」
宗次郎が言う度に、玄斎はその箇所を確認した。幼い宗次郎の身体の傷は、宗次郎が言うそれと皆一致していた。
この宗次郎は、幼い宗次郎には初めて会った筈なのに…。知らず、冷や汗が流れ、一同は戦慄する。そして、更に驚くことに。
「参ったなぁ……まさか、本当に?」
自分で言っておきながら半信半疑といった様子だった宗次郎が、右手ですっと前髪を掻き上げた。…幼い宗次郎と同じ場所に、同じような古傷がある。
「…っ!」
「これは、不機嫌だった義理の父親に徳利をぶつけられてついた傷です。腰の傷は、逆上した義理の兄に刀の鞘で同じところばかり手酷くやられたもの。腕の火傷はもう一人の義理の兄が面白がって、煙管を押しあてたものです。そちらも見せましょうか?
この子がもし、本当に僕自身だっていうなら、傷の理由やその時の状況を訊いてみれば多分、同じ答えを言うと思いますよ」
内容の割に明るく、しかし抑揚の無い声で宗次郎は述べた。着物をはだけ、シャツの釦に指をかけた宗次郎を、剣心は「…もういい、宗次郎」と制した。
背筋が凍るような感覚と、痛いほどの沈黙がその場を支配する。今まで幼い宗次郎が断片的に見せていた境遇や、心の痛みの理由の一端を、垣間見たような気がしたからだ。幼い宗次郎に敢えて確認しなくても、恐らくはこの青年と元々は一人の存在…それを一同は、感じ取っていた。過去に宗次郎と闘った剣心は、尚更だった。
笑顔以外が乏しかった表情。強さ弱さに拘っていたこと。幼い宗次郎がこの宗次郎の化身だというなら、すべて納得がいく。
「でも…一体どうしたら一人に戻れるんでしょう?」
装いを直した宗次郎は、一同に構わずのんびりと疑問を口にする。
確かに、こんな現象が起きた理由も分からなければ、治める方法も分からない。
「さての…。儂もそこまで詳しくは…。自然に戻った例もあるらしいが。ただ、離魂病がずっと続くのは危ないらしい」
「…どーいうことだよ?」
玄斎に弥彦が聞き返す。
「要は魂が分かれている状態じゃからな。二人の不完全な人間が存在しているということになる。互いに徐々に消耗し、やがては力尽きる…ということじゃろう」
「そんな…!」
薫が悲痛な声を上げ、口を押さえる。急変した事態に、剣心も弥彦も驚きを隠せない。宗次郎は「それは困るなぁ」と、大して困った風でなく頭を掻いた。
「…自分のことなのに冷静だなオイ」
「あははははっ」
弥彦に突っ込まれ、宗次郎は明るい笑い声を上げる。目を細めて笑うその顔は、当然のように幼い宗次郎と瓜二つで、一同は改めて複雑に思うしかない。
「ん…」
…と、ここで幼い宗次郎がぼんやりと瞼を上げた。二、三瞬きをし、寝返りを打って体の正面を一同の方に向ける。
目は開いたもののまだボーッとしている幼い宗次郎に、薫は優しく「宗君、大丈夫?」と声をかける。剣心や弥彦、玄斎も彼を覗き込むが、青年の宗次郎もいることに気付いた幼い宗次郎は、表情を途端に凍りつかせた。そして怯えるように、ガバッと起き上がる。
「ッ、嫌だ!」
掛け布団を剥ぎ取ると、慌てて立ち上がり障子戸を勢いよく開け、基本行儀のいい宗次郎にしては珍しく戸を閉めることもしないで、裸足のまま庭に下り駆けていってしまう。
「あいつ、また逃げやがった!」
弥彦が苦く言いすぐさま追いかけようとするが、剣心はそれを押し止める。
「…拙者が、宗次郎と話してみるでござる」
鋭くも真剣な眼差しと声とで、剣心はそう告げた。
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