―第六章―
明くる日の昼間、剣心、薫、弥彦、そして宗次郎の四人は赤べこを訪れていた。
三年前の人誅騒ぎの時に破壊された牛鍋屋・赤べこはすっかり再建され、連日多くの客が入り賑わっていた。今日は牛鍋を食べたことがない…正確には牛鍋が何かすら知らなかった宗次郎にその味を教えたい、ということで、こうして出向いているというわけだ。ちなみに、鍋に触ったら危ないので、剣路は近所の家で預かって貰っている。
ちょうど食事時で人の出入りが絶えない、お馴染みの暖簾と提灯とが掲げられた店先を見上げて、宗次郎が感嘆の溜め息を吐く。
「牛の肉なんて本当に食べられるのかなぁ」
そこには未知の食べ物に対する不安と興味とがある。弥彦は宗次郎の頭をぐりぐりと撫でながら言った。
「大丈夫だって! 美味いし、精もつくぞ」
「そうよ。今日はいっぱい食べてね」
薫もにこにこと笑う。家庭の味もいいが、こうした余所の美味しい味も宗次郎に教えてあげたい、と単純に思うのだ。既に店内からは、美味しそうな匂いが漂っている。
引き戸を開けて一行は店内に入った。今日も客席はいっぱいだ。仕事を中断し訪れたらしき職人達、談笑する婦人達に家族連れ。客層は様々だが、それだけこの赤べこが多くの人に親しまれている場所だということが分かる。
薫達に気付いた店員達の「いらっしゃいませぇ」という明るい声が、方々からかかる。
「こんにちは。皆さんでお食事ですか? ……あら、この子は?」
可憐な笑顔で一行に話しかけてきたのは、すっかり赤べこの看板娘となった燕だ。すらりとした着物姿にエプロンがよく似合う。顔立ちも大人びて更に綺麗になり、何でも近頃は、彼女目当てに通う男性客も多いらしい。面白くない、と弥彦が愚痴を漏らしたのを聞いた時、薫は思わず笑ってしまい怒られた。
その燕が目に留めているのは、無論新顔の宗次郎である。宗次郎は小さくお辞儀をした。
「初めまして。宗次郎といいます」
「こちらこそ。初めてまして」
「こいつは三条燕。赤べこ屋の店員で、俺達のダチっつーか仲間っつーか…うん、仲間だ」
宗次郎にそう燕を紹介した弥彦に、薫は含み笑いを漏らした。
「あら弥彦、燕ちゃんとの間柄はそれでいいの?」
「うるせー! 何が言いたいんだてめー!」
薫が入れた茶々に弥彦が真っ赤になって怒って、それを見た剣心が「まぁまぁ」と諫める。
弥彦の剣幕に宗次郎がやや引いていたのもあり、薫はそれ以上は野暮なことは言わなかったが、早く認めちゃえばいいのに…と弥彦の煮え切らなさに内心溜め息を吐く。弥彦が長年燕一筋であることは態度や言動から明らかなのだが、どうにも恋愛沙汰となると気恥ずかしくて堪らないらしい。
あまりからかわないようにしよう、とは思いつつ、素直じゃない弥彦をついつい茶化したくなってしまう。気恥ずかしそうな燕の姿も可愛いので、余計にだ。この辺りは既婚者の余裕だろうか。
「この子は今うちで預かっている子でござる。そんなわけで燕殿、牛鍋四人前を頼むでござるよ」
剣心がそう話を進め、「あと飯と漬物も頼むな」と弥彦が付け足す。それで燕も「はい、ただ今」とにっこりと笑って承り、四人を席へと案内した。
四人は店の中程の衝立に囲まれた座敷席に上がり、牛鍋が来るのを待つ。初めての牛鍋屋が何かと珍しいようで、宗次郎は落ち着きなく周りをきょろきょろと見ている。
「賑やかですねぇ。ここ、いつもこんなに混んでるんですか?」
「そうね。赤べこは美味しくて人気があるお店だから」
「拙者達の牛鍋もじきに来るでござろう。遠慮せず、たくさん食べるでござるよ宗次郎」
「そーだな、やっぱり男はたくさん食わねーとな! 体も丈夫になるぞ。お前、細っこいし。たらふく食って頑丈になれよ!」
「もー弥彦は…。でも、宗君にいっぱい食べて欲しいっていうのはホントだからね!」
一同でわいわい話をしながら待っていると、しばらくして四人前の牛鍋が届いた。鉄鍋の中には醤油や砂糖で煮込まれた牛肉の他、根菜や葉物野菜でいっぱいだ。立ち昇る熱気と香りに、宗次郎が目も口も丸くしてうわぁと小さく歓声を上げている。その反応だけで薫は既に嬉しかった。
「熱いから気を付けてね」
流石に手をかけ過ぎかな、とも思いつつ、何と言っても宗次郎は初めての牛鍋なので、薫は取り皿に牛肉や葱を取ってやり、鍋を挟んで向かい側にいる宗次郎に手渡す。受け取った宗次郎は不思議そうに、興味深そうに皿の中を見つめている。
「さぁ、食べましょう」
「んー! うめーッ!」
「…行儀悪いわねェ弥彦ったら」
挨拶も碌にしないまま、既に自分の分の肉を皿に山盛りにして食べている弥彦に、薫は溜息を吐く。まぁ仕方ない。年頃の男子は往々にして食欲旺盛なものだ。申し訳無いが今日は留守番の剣路も、年頃になれば今の弥彦のようによく食べるようになるのだろう。
「はい。じゃあ頂きます」
弥彦とは正反対に行儀のいい宗次郎は、小さめの牛肉におずおずと箸を付けた。冷ます為に幾度か息を吹きかけ、そのまま口に入れると恐る恐る、といった風に噛んでいる。
薫は固唾を呑むような気持ちで見守っていた。初日のお粥の時より変に緊張した。
「ど、どう…?」
「凄く…おいしい、です」
またも大勝利だった。にこやかな表情に戻った宗次郎が次々に具材を食べているのを見て、薫はまた嬉しく、ほっとした。
気に入って貰えたようで良かった。美味しい食べ物を皆で囲んで食べるのは、何と言っても楽しい。剣心もどこか安堵したような穏やかな笑みだ。弥彦もにかっと笑っている。
「だろ〜!? ほら、どんどん食えよ!」
「あ、はい。食べてます」
「とか言いながら弥彦、あんた肉ばっか食べてんじゃないわよ! 宗君の分が無くなっちゃうでしょ!」
「うっせーなぁ…ちゃんと残してあるって」
「肉もいいけど、野菜もしっかり煮込んであっておいしいですね」
「そうなんだよ、赤べこの味は最高だろ? 気に入って貰えたんなら良かったぜ」
「ああ。宗次郎の口に合ったようで何よりでござる」
四人の明るい声は、周囲の客の賑やかさと混ざり合っていく。牛鍋の美味しさそのものだけでなく、皆で同じ物を食べること、美味しさを共有することが、尚楽しさを膨らませ、心を繋ぐ。
話が弾むのに比例するごとく、牛鍋の量も段々少なくなる。肉や野菜が姿を消し、煮汁だけが残った辺りで、近くで給仕をしていた燕が四人の席へとやって来た。
「ふふ、いつもながら皆さんいい食べっぷりですね。どうでした? お味の方は」
「はい、僕は初めて食べましたけど、とってもおいしかったです」
「お気に召して頂けて良かったです」
牛鍋をたくさん食べた宗次郎は満足そうだ。社交辞令無しの宗次郎の素直な感想に、燕も目を細める。燕のその笑顔は可愛いの一言で、彼女目当ての客が増えたのもまさに納得である。
と、ここで薫はあることに気付く。
「そういえば、妙さんは?」
中心となってこの店を普段切り盛りしているのは、旧知の彼女だ。剣心一行が訪れるとほぼ必ずと言っていい程顔を見せるのに、今日はまだ一度も見かけてはいなかった。
薫の疑問に、燕は何故か小さく苦笑する。
「皆さんが来る少し前に、一人の男の方が来店なさったんです。その方が結構美形で、妙さんご機嫌で…その方の近くで、お仕事してるのかもしれません」
「へぇ…」
その説明に、薫は感嘆した風な相槌を打つ。確かに妙はそういう人に弱いので、成程納得、というところだ。
「多分、その奥の方に…」
燕が店の奥を差し示し、薫達はそこを覗き込むように腰を浮かしかける。その時「御馳走様でしたー」という客の声に続いて「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしてます〜」といつもより明るい妙の声が一行に届き、間も無く一人の客が座敷席の横を通りかかった。
薫達が身を乗り出していることに気付いてか、その客がふと足を止め、顔をこちらに向けた。噂の美形の客とは、この青年のことなのだろう。すらりとした体躯、爽やかな水色の着物での書生姿。そして燕や妙の評価に違わず、実に柔和で整った顔立ち。
その青年は、薫達を眺めきょとんとしていた表情を、ぱっと綻ばせた。
「あれぇ、緋村さん。奇遇ですねぇ」
「…!」
知り合いなの、と薫は隣に座る剣心を見た。剣心は顔を強張らせ、その青年を凝視しているようだった。
「…なーんて。ここ、緋村さんの行きつけの牛鍋屋ですよね。せっかく近くまで来たから一度食べてみようかなぁ、って寄ってみたんです。まさか、こんなうまい具合に緋村さんと再会するとは思いませんけど。あはは、本当にお久しぶりです。あれ、よく見たら髪、切っちゃったんですね」
青年は親しげに、和やかに剣心に話しかけてきた。青年の底抜けの明るさとは反対に、剣心の緊張は深まっている様子だった。
剣心を知るこの青年は誰だろう、とその正体を不思議に思いながら、薫はあることに気付く。
(この人……何だか……)
宗君に似ている―――。
ほとんど直感的な思いに、薫は今度は宗次郎を見遣った。剣心以上に強張った、いや、何かを怖れるような表情で、青ざめていた。
「おい、剣心こいつ誰…」
「…あれ、その子…」
弥彦の疑問と、宗次郎に視線を向けた青年の声とが重なった。すると宗次郎はみるみるうちに目元と口元を歪め、
「……ッ!」
やおら立ち上がると、青年を突き飛ばすようにして座敷を下り、草鞋も履かないまま店の外へと飛び出していった。
「えっ、ちょっと!」
薫も慌てて立ち上がる。宗次郎が一体どうして突然そのような行動を取ったのかは分からずとも、放っておくわけにはいかなかった。おろおろする燕に「燕ちゃん、これお勘定! お釣りはいらないわ!」と財布ごと押し付けると、薫は急いで下駄を履いた。
「宗君を追いかけるわよ、剣心、弥彦!」
返事を待たずに、薫もまた店外へと飛び出していく。その行動力に圧倒されつつも剣心、弥彦の男性陣も素早く草鞋を履いていると「あの子、どうしちゃったんでしょうねぇ」と件の客だけがのんびりと呟く。
「…まさか、お前あいつの追手じゃねェだろうな」
「追手? 何のことですか?」
眦を吊り上げて怪しむ弥彦に、青年はぽかんと首を傾げる。
「…いや、恐らくそれは違うでござろう」
剣心が弥彦の疑念を否定し、やはり緊迫感を帯びた表情をその青年に向ける。
「説明は後でする。何はともあれ、お主も一緒に来て貰うでござるよ。……宗次郎」
「…宗、次郎―――?」
剣心が固く重く呼んだ青年の名に、弥彦は訝しげな声を上げた。
(…いたっ!)
雑踏の彼方に、宗次郎が駆けていくのを見つけた。行き交う人々をうまく避けながら、薫はその後ろ姿を追う。
息が切れそうになる程に薫も走っているのだが、人混みもあってか宗次郎になかなか追いつけない。宗次郎は通りを滅茶苦茶に抜けていて、見失わないようにするのがやっとだ。
(っていうか、宗君、足速っ…!)
無我夢中で走っているというのもあるだろうが、宗次郎は速かった。その意外な脚力に感心しながら、それにしても何故宗次郎が突然このような行動をするに至ったのか、薫は気にかかる。
と、不意に周囲がどよめく。周りの人達がそうしているように上を見上げてみれば、民家や店の屋根を伝って走る剣心と弥彦の姿。驚くことに、赤べこにいたあの青年も剣心達に負けない身体能力で、屋根の上を走っているではないか。
「剣心! 弥彦!」
「先に行ってるぜ!」
弥彦が一歩先へ行く。剣心達が来てくれたことに安心し、しかしあの青年は何者、と正体が引っ掛かる。
(…でもまずは、やっぱり宗君よね)
思い直し、走り続けるうちに道の人気もまばらになってきた。宗次郎の走りも次第にゆっくりになり、街の外れの橋辺りで、薫はやっと宗次郎に追いつく。弥彦や剣心、例の青年はその行く手を塞ぐように、既に橋の向こう側に立っている。
「はぁ…やっと追いついたぜ。オメー、案外足速ぇのな」
「……」
弥彦が肩で息を一つすると、立ち止まった宗次郎は荒い呼吸を繰り返しながら、未だ青ざめた顔で弥彦を見る。苦しそうに、胸の辺りを押さえていた。
「宗君…ひとまず家に帰りましょう。食べてすぐに全力疾走したから、辛いでしょ?」
「……」
薫は宗次郎にそっと近付く。宗次郎の顔がそれで薫に向き、血の気の失せたそこから今度は意識ごとかき消えた。気を失い、膝から崩おれた宗次郎を薫と弥彦が慌てて支える。
「宗君!?」
「おい、宗次郎!」
「大丈夫!? しっかりして!」
二人が呼びかけるも、宗次郎には何の反応も無い。剣心も険しい眼差しで駆け寄った。
ぐったりした宗次郎を弥彦が抱き上げると、薫は心配そうにその前髪を指先で払う。黒髪や額は汗で濡れていた。
「一体どうしたのかしら、宗君…」
こんなに血相を変えた宗次郎は、初めて会ったあの日以来かもしれない。苦しげに眉根を寄せて目を伏せる宗次郎に、薫の胸は痛む。
「…とにかく、一度家に戻ろう」
ぽん、と剣心の掌が薫の肩を優しく叩く。薫は頷き、弥彦も同意した。
例の青年は静かに一同に近付き、真顔で無言で、宗次郎を見下ろすのみだった。
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