―第五章―
宗次郎が変わった。
具体的に何がどう、とは弥彦はうまく言い表せないが、それでも彼は何となく変わった、とこの所思う。
強いて言えば、相変わらずのにこにこ笑顔がより自然になったというか、普通の笑顔になったというか。何を持ってして普通の笑顔、というのかも弥彦には的確に表現できなかったが、それでも最近の宗次郎はごく普通の子どもらしさが出てきた、ように思える。
宗次郎の、剣心や薫に対する距離感も変わった気がする。当初あった他人行儀感が薄れ、ごく普通に接している、そういった風に変化している。宗次郎の口調は丁寧なままだが、よそよそしさが無くなってきたというか、一線引いていた線が無くなったというか。
まぁそういったことも含めて、有り体に言えば彼がようやくこの神谷道場という場所に馴染んだ、というところだろう。
天気のいい秋の日の午後。今、宗次郎は神谷家の中庭で、稽古後の央太と例の竹トンボで楽しそうに遊びに興じている。それは、何の後ろめたい所もないその辺の子どもの姿とまるで同じだ。
(新しい剣心組の一人…ってのも悪くねェな)
弥彦は心中でうんうんと頷く。
かつて自分が子どもだった頃(今でもまだ完全な大人ではないが)、この神谷道場に集っていた面々と賑やかに、和気藹々と過ごしていた日々を思い出す。剣心に薫、左之助、恵、燕、時には蒼紫に操…何かと事件もあったけれど、それでも大人数で楽しくワイワイとやっていた頃を。
剣路が仲間入りして、由太郎もドイツから戻ってきて、門弟も増えてあの頃より多くの人間がこの道場を出入りするようになった。違った風に賑やかにはなった。しかしやはり、弥彦にとっては剣心組というのはなかなかに特別な枠組みなのだ。そしてその一員に宗次郎だったら入れてもいいと、そんな風にすら思い始めてもいた。
相変わらず道場の様子を伺いにくることからするに、宗次郎は剣術にまるで興味がないというわけでもないようだし、行くあても戻る場所もないというのならしばらくはまだ神谷家に住まわせて、いっそ内弟子にでもしてしまえばいいんじゃないか。
弥彦にはそういった考えも浮かびつつあった。何かしら目標でもできれば、毎日の生活の中にもっと張り合いも出るだろうし。この辺りは弥彦自身の経験則にもよる。単純に、弥彦が先輩分として宗次郎に色々なことを教えたり、鍛えたりしたいだけなのかもしれない。
もっともこれは弥彦が勝手に思っているだけで、大切なのは宗次郎自身の意志ではあるが。
「ねぇ、宗次郎君は神谷活心流に入門しないの?」
ふと、央太がこんなことを言い出した。何やら会話の流れでそうなったらしい。
思いがけず自分の内にあった考えと重なったので、弥彦はおっ、と目を見張る。
「よく道場見に来てるし、本当はやってみたいんじゃないのかな、って思って」
宗次郎はきょとんとした後、自信のなさそうな笑みを浮かべた。
「僕は…剣術は……」
「宗次郎君も一緒なら、きっと稽古ももっと楽しくなるんだけどなぁ」
央太は期待を込めた眼差しで宗次郎を見つめている。
央太の気持ちは、何となく分かる。彼の稽古ぶりを見るに、今でも十分稽古は楽しいのだろうが、友人が共に学んでくれればもっと楽しくなる、もっともっとやる気が出る…きっと、そうした心持ちなのだろう。由太郎と切磋琢磨した日々を思い返してみれば、弥彦は彼の心境は十分に理解できた。
央太の熱心な勧誘に関わらず、宗次郎は曖昧な笑顔のままだ。
「…楽しい?」
「あ、まぁ楽しいことばかりでもないけど……稽古で苦労することも多いし」
聞き返した宗次郎に、央太は慌てて訂正を加える。けれど、でも、とキラキラした表情で続けた。
「でも、若先生も薫先生も一生懸命教えてくれるし、やっぱり稽古は楽しいし。それに、強くなれるのが嬉しいんだ。僕はもっと剣術がうまくなりたい。もっともっと強くなりたい。そう思って、ここに通ってるから。門弟の皆さんもいい人達ばかりだし、そこに宗次郎君も入ってくれたら、きっともっと楽しくなると思うんだ!」
央太は屈託の無い表情で熱弁を振るう。彼が遣り甲斐を持って稽古に取り組んでいることが改めて分かり、弥彦は素直に嬉しくなる。そして自分が水を向けるよりも央太がこうして率直に誘った方が、その提案を宗次郎は受け入れやすいかもしれない。
「ま、無理にとは言わねェがよ。けど、お前がちょっとでも剣に興味あるんなら、一度試しにやってみるか?」
そう思った上で弥彦は助け船を出す。央太は師範代の言葉にうんうん頷いて、
「ねっ、若先生もこう言ってくれてるし、良かったら一緒にやろうよ!」
と目を輝かせて宗次郎の返答を待つ。
しかしそんな央太とは正反対に、宗次郎の表情はみるみるうちに曇る。珍しい反応に弥彦がいぶかしんでいると、宗次郎はとうとう俯いてしまった。
「……僕は、いい」
「え、どうして」
沈んだ宗次郎の一言に対し、央太は素直に聞き返す。
しばらくの沈黙の後に、宗次郎は消え入りそうな声で一言こう、呟いた。
「……怖い……」
その反応に弥彦は内心しまった、と思う。
玄斎の見立てでは、宗次郎は常日頃から誰かに暴力を振るわれ続けていた、という。活かす剣の神谷活心流と言えど、剣を振るう姿は武術の一種に変わりなく、そしてそれは見方を変えれば人を傷つけるものの類でしかない。
誰かからの暴力に日ごろ晒されてきた宗次郎からしてみれば、剣を単に怖いもの、と認識していても不思議ではなかった。
(そーいや前に誘った時もびくついてたもんな…)
一度はそうした考えもあったのに、宗次郎が変わらずしょっちゅう稽古の様子を見に来ていたことで、すっかり飛んでしまっていた。この分ならもう大丈夫なんじゃないかと、そうした弥彦の気の緩みも恐らくはあった。短慮だったかもしれない。
事情を知らない央太は宗次郎の言葉の意味をそのまま受け取り、すかさずこう補っていた。
「そっかぁ…そうだよね、いきなり剣を習うのは怖いよね。僕も最初は怖かったよ、打ち込まれるの。時には怪我もするし。でもそれは仕方ないし、段々慣れたよ」
「……違う……それもあるけど、もっと怖いのは……そっちじゃ、なくて……」
俯いたままそう語った宗次郎の姿が、ほんの一瞬ぼやっと霞んだ。まるで陽炎のように宗次郎の輪郭が揺らめく。
「……!?」
弥彦と央太は仰天して思わず顔を見合わせた。
(何だ今の…宗次郎の姿が一瞬、揺らいだみたいな…?)
びっくり顔の央太からするに、彼も同じものを目にしたらしい。
何かの見間違いかと弥彦はよくよく目を凝らして宗次郎を見る。……いつもの宗次郎だ。
(…気のせい、だよな)
目にゴミでも入ったのだろう。きっとそれで視界が歪んだのだ、多分。
央太は何度も目を擦って、宗次郎をまじまじと見ている。
「…どうしたの?」
やっと顔を上げて首を傾げた宗次郎は、自身に起こった異変に気付く風でもなく、ごくごく普段通りの彼だった。だから弥彦はまだ狐につままれたような気分のまま、気のせいだ、うんきっと何かの見間違いだ、と自分に言い聞かせた。
「あ、いや、何でもねーよ。な、央太」
同意を求めると、央太もまだどこか腑に落ちない表情のままうんうんと頷いていた。
今一つ納得がいかないのは確かだが、弥彦はひとまず先程の話題にケリを付けることにする。
「それよりさ…その、お前の気持ちも考えないで誘っちまって悪かったな。まぁお前も訳ありだしな」
弥彦は気まずさを誤魔化すかのように頭を掻いた。
弥彦は本来、訳もなくビクビクオドオドしているような人種はいけ好かない。何をそう怯えてんだと苛立たしいし、もっとしゃんとしろよと発破をかけたくなる。
この宗次郎に対しても、男なんだしもっと堂々としろよ、強くなろうとしろよ、そうした思いは確かにある。しかし彼の事情をよくよく鑑みると、そしてこの反応を見てしまうと、強く言えなくなってしまった。まぁ、昔だったら間違いなく問答無用で怒鳴りつけていただろうが。
「単にお前と一緒に剣をやりたいって思った央太に悪気はねェし、俺も、お前にその気があるんだったら門下生になっちまえばいいんじゃないかって思ったのは本当だ。けど、お前が剣を怖いって思うなら、やっぱり無理には勧めねェよ」
とここでそれぞれの思いを弥彦は肯定し、
「ただ、剣は怖いだけのものじゃねェ」
それだけは、弥彦はきっぱりと言い切った。
目を丸くしてこちらを見上げてくる宗次郎の目を真正面からしっかり見つめ返して、弥彦は続けた。
「剣は凶器。剣術は殺人術。どんな綺麗事やお題目を口にしてもそれが真実―――」
いつだったか、剣心から教わった言葉を弥彦は口にした。元はといえば、それは剣心が比古清十郎から受けた教えだという。
そしてそれは間違いなく剣というものの本来の姿だ、と今は弥彦は思う。刀は人を斬る為に生まれた道具で、剣術はそれを有効に使用する為に生まれたもの。
「それでもな、使い所を間違わなければ、誰かを助けることができる。活かすことができるんだ。同じ剣で」
弥彦は剣心と出逢った頃のことを思い出していた。弥彦が身を寄せていた先のヤクザも刀や他の得物を用いていたが、それはまさに暴力の為だった。彼らは力で相手を屈服させる為にそれを用いる。弥彦自身がその対象となったことも多々ある。
しかしそんな環境から抜け出せたのは剣心の力の、刀のお陰でもあった。彼らを易々と上回る力。誰かを確実に殺せる能力はあるのに、けれど剣心はもうそれをしようとしない。人斬りであった自らを律し不殺を掲げ、不当な暴力に対抗する為に剣心は刀を振るい、己が傷つきながらも目の前の人達を守ろうとする。弥彦が知る限り、私利私欲の為に剣心が刀を振るったことは一度もない。
そうして弥彦はその剣心の側で、彼が刀で多くの人を救う様を目の当たりにしてきた。そんな彼が憧れであり、目標だった。昔も今も、それは変わらない。
「大切なのは使い方なんだよ。お前の周りにいたのは、悪い方向に剣を使ってる人間ばっかりだったのかもしれねェ。けどな、この道場ではそうならないような剣をみんな学んでるんだ。
だから、お前も大変だったのは分かるけど、もう無闇やたらに剣を怖がるな。男なんだし、もっと強くならねェと。心も、体もな」
弥彦は宗次郎の頭の上に掌をぽんと乗せた。宗次郎は不安そうな眼差しで弥彦を見つめ返している。
「……強く、なんて……」
「ん? 今何か言ったか?」
宗次郎が小さく言った言葉を聞き取れなくて、弥彦はそのまま聞き返す。宗次郎からは珍しく笑みが消えていた。
「……どうしても、強くならなくちゃ駄目ですか?」
揺れるような問いかけに、弥彦は一瞬口籠った。
けれど気を取り直すと、力強く宗次郎に言う。
「強くなれば、色んなもんを守れる」
「守る……?」
宗次郎には明らかに困惑の色があった。
流石に噛み砕いて言い過ぎだったか。
しかし、宗次郎はとことん気弱なんだな、と弥彦は思ってしまう。虐げられていた頃の弥彦は、そんな自分が惨めで、とにかく悔しくて、だから強くなりたかった。どんな困難でも自分自身で跳ね返せる、そんな強さが欲しかった。
同じような苦難の中にあっても、宗次郎にはそうした気持ちは無いのか。負けっぱなしでもいい、そんな性根がやはり弥彦にはじれったく思える。
「僕は……僕は、守る強さなんて知らない」
声量は小さかったが、それは弥彦が初めて耳にした宗次郎の冷たい声だった。
表情としては無表情に近いが、小さな怒りのようなものが透けて見えて、その奇妙さに弥彦は思わずたじろぐ。
「それに……強くなんかならなくていい……このままでいいんだ……!」
今度はどこか悲痛な声で言い張った宗次郎は、そのまま弥彦に背を向けて走り去ってしまう。宗次郎がここまで自己主張をするのは珍しい、と呆気にとられるのと同時に、どうしてこんなに拒否反応を起こしているのだろう、という感想が弥彦には浮かぶ。
まるで小さい子どもが駄々をこねているような…実際宗次郎は子どもではあるが。
「どうしたんだろう、宗次郎君…」
央太が心配そうな顔で呟く。
弥彦は宗次郎の消えた方向を見ながら、ぐっと拳を握り締める他なかった。
「おろ、どうしたのでござるか宗次郎」
神谷家の裏手で風呂用の薪を割っていた剣心は、宗次郎がこちらにやってくるのに気付き、声をかけた。確か庭の方で弥彦や央太と遊んでいたと思ったが。
宗次郎は剣心の姿を見ると小走りだった足を緩めて立ち止まり、しばし逡巡した様子の後に近付いてきた。
何だか顔色が悪い気がする。
「何かあったのでござるか?」
重ねて聞くと、宗次郎はへらりと笑った。普段の屈託の無い笑みではなく、どこか迷いのあるような、困ったような。
「いえ、何でも…」
「何でもないという顔ではないでござるな。前に言ったでござろう。己の感情を我慢することは無いと。何か心に引っかかることがあるのなら拙者が聞く故、遠慮なく話すでござる」
向き合ってそう諭すと、宗次郎は少し目線を泳がせた後、口を開いた。
「…さっき弥彦さんと央太君に、剣術を試しにやってみないかって誘われました」
「神谷活心流をでござるか」
『宗君、時々道場の様子見に来るのよね。声かけようとするといなくなっちゃうんだけど』。以前、薫がそんな風に言っていたことを剣心は思い出す。
「弥彦さん、僕に、男なんだし強くなれ、って」
「弥彦らしい言い分でござるな」
「剣は怖いだけのものじゃない、って。本当は、僕、剣術に興味がないわけじゃないんです。
でも、……強くなるのは」
宗次郎はそこで語るのを止めた。剣心は黙って待っていたが、続きはなかなか出てこなかった。
宗次郎はまるで今にでも消えてしまいそうな、儚げな表情を浮かべていた。これまでに見たことの無かった顔だ。酷く頼りなくて、不安で、どこか悲哀の色が滲む。小さい宗次郎の姿が、より小さく見える。
「……強くならなくちゃいけないのかな」
独り言のように、或いは問いかけるようにやっと宗次郎が言った。
剣心はしばし考える。強くあれ、という弥彦の言い分は分かる。しかし宗次郎の話や反応からするに、彼は強さというものに拘りというか、抵抗のようなものがあるようにも思える。今の呟きも裏返せば、強くなどなりたくない、と、そんな意味でも取れる。それは彼が今まで置かれていた状況のせいなのだろうか。
『強ければ生き、弱ければ死ぬ』
頑なにそう言い張っていた青年の宗次郎を思い出す。彼もまた強さというものに酷く執着した人間だった。実際に強かったが、しかし心の奥底には悔いや迷いがちらついて見えた。
強さを求めるのは悪いことだとは思わない。生きていく上でごく当然の欲求だ。剣心自身、自分の無力さを呪ったこともあったし、だからこそ強くなろうとした。今目の前にあるものを守る為に。
その反面、得た強さで多くの人間を屠って来たことも確かだ。飛天御剣流ならば、時代の苦難にあえぐ人達を救うことができると、幕末の動乱に身を投じた。
しかしそれは幼さからくる驕りだった。実際はただ人を斬るばかりで、人々の幸せを守っているという実感は無かった。罪を重ねて重ねて、巴と出逢ってようやく幸せの形が見えて、彼女を失くして、そしてそれを他者から奪っていたということに気が付いた。
あの青年もいつか、己の犯した罪の重さに苦しむ日が来るのだろうか…。
そんなことを踏まえると、この少年に一も二も無く強くなれとは言えない。生きるのに強さは必要かもしれない、しかし武力としての強さがなくても生きていく道は幾らでもある。この新時代では特に、そう感じる。
そしてただ単純に、人から長い間傷つけられてきたこの子には、そんな大人にはなって欲しくないと、そうした思いもある。
「強くならなくてはいけないかどうか、か。難しいでござるな」
「……」
「強いというのは、悪いことだとは言わぬ。ただ、大切なのはその強さを持って何をするか、でござる。人を傷つけることができる。けれど自身や誰かを守る為に使うこともできる」
「…さっき、弥彦さんにも同じようなことを言われました」
「そうでござるか。弥彦も伝えたかったのでござろう。強さ、と一言で言っても、そこにはたくさんの意味があることを」
剣心は仄かに笑むと宗次郎の手を取った。己の両手にすっぽりと収まってしまう、まだまだ小さな手。
いつぞや新月村で栄次にそうした時のように、剣心は宗次郎に語りかける。
「そう、強さには様々なものがある。単純な力の強さ、心の強さ、立場の強さ、権力の強さ。お主にとっての強さとは、お主を虐げてきた者達の中にしかなかったのかもしれない。だから、お主が強くなることに抵抗があるという気持ちは理解できるでござる。
けれどそうした者達に対して反発する気持ちがあるのなら、そうした大人にはなるな。苦しい状況の中でたった一人で耐えて生きてきた、それを思えば、お主の心の芯は十分に強い。敢えて力としての強さを追い求めなくてもいい」
「…だったら」
じっと聞いていた宗次郎が、ここで口を挟んだ。
「だったら、弱いことは? 弱いのは、悪いことじゃない…?」
宗次郎の大きな瞳が不安げに揺れている。
強くなることには抵抗があって、それでも弱いままでいることにも自信がない。
「初めから強い者など、誰もおらぬでござるよ」
その戸惑いを、剣心はやんわりと肯定する。
剣心自身は、弱いことは悪だとは思わない。かつて対峙した志々雄真実は弱者は糧だと言い切っていたが、剣心にはそんな考え方は納得できなかった。たとえそれが揺るがぬ摂理だとしても。
人間が一所に集まり、寄り添い、暮らしていくという世の中で、集団であるうちはどうしても、その中で強弱の差が出てきてしまう。強者は弱者から搾取をして栄える、という事実が過去から長らく続いているものだとしても、それでもだからと言って弱者を謂われなく虐げて良い筈がない。むしろ誰もが対等で、上下の隔たり無く笑って暮らせる世にする為、そんな新時代を作る為に奔走する人達の為に剣心は手を貸し、人を斬ってきたのだ。
誰しも初めは、弱い。生きていくという過程の中で、少しずつ種々の強さを得ていく。それでもその発展途上の中にいる弱き者達が、安心して暮らせるように。だからこれからも剣心は、信念を共に人生を闘っていく。
「お主はまだまだこれからでござる。これからどんどん、成長していくのでござるよ。今はまだこの手は小さく、か弱い。それはごく当たり前のことだ」
剣心は宗次郎の手を包む己の掌に力を込めた。この手には、たくさんの可能性がある。色々なことができる手だ。それこそ、人を傷つけることも、癒すことも、守ることも。
そして、できることならば。
「ただ、お主は優しい。できることなら……この手は誰も傷つけることなく大きくなって欲しい。……と、拙者は、思うでござるよ」
剣心は微笑んだ。
自分勝手な願いだった。
しかしそれは、人を傷つける痛みをよく知っているからだった。人を傷つけたことで苦しんだ、この子によく似た青年を知っているからだった。
彼とこの子がよく似ていても、この子には、あの宗次郎のように平気で誰かを殺めるような人間にはなって欲しくは無い。平然と人を斬り殺しながら、実は生き方に悩んで迷って苦しんでいた彼のようになって欲しくは無い。
似ているから、と、重ねているのは自分でも分かっていた。救い切れなかった、彼に対するその思いが、この宗次郎に対して影響していることは否めない。
それでもこの子の手が誰かの血で染まらぬことを、剣心は祈らずに、願わずにはいられなかったのだ。
「もっとも、あくまでもこれは拙者の意見でござる。弥彦達にしても、お主を思っての言葉でござろう…。いずれにしても、どうありたいか、どうなりたいか。すべてはお主の心次第でござるよ」
「僕の心次第…」
ぼんやりと繰り返す宗次郎に、剣心はしっかりと頷いて見せる。
そう、この子はまだ幼い。人生はまだまだこれからなのだ。この先の道をどうとでも選べることができる。願わくは平穏な道を、しかし何と言っても重要なのはこの子の心だ。
すべてはこの子が決めること、けれどより良い方向へと導く手助けならばしてやりたいと剣心は思う。そしてそれはきっと、弥彦も同じだったのだろうから。
「―――ところで、いつになったら出てくるのでござる、弥彦?」
手を離し、目線をちらりと家屋の陰に走らせると、それに気が付いた宗次郎も驚いたようにそちらを見る。
ややあって、ばつの悪そうな顔をした弥彦が央太を伴って姿を現した。弥彦は隠れていたつもりのようだが、剣心はとっくの昔に見抜いていた。
「へへ、気配消したつもりだったけどやっぱ気付かれてたか」
「立ち聞きとはあまり感心しないでござるよ」
「好きで立ち聞きしたんじゃねーよ! 何か話してっから入るに入れなかっただけだ。これでもいつ出て行こうか見計らってたんだぜ。
それにしても、俺はまだまだ未熟だな…当分剣心を越えられそうもないぜ。悔しいぜ、くそー」
「ぶつぶつ言ってないで、言いたいことがあるなら、宗次郎に直接言えばいいでござろう」
剣心はしれっと言う。弥彦は剣心と話をしているが、意識は宗次郎へと向いている。きっと弥彦は宗次郎にまだ何か伝えたいことがあるのだろう。
「分ーってるよ、んなこと!」
開き直ったかのように胸を張る弥彦は、ずい、と宗次郎の顔を覗き込む。
「な、何ですか?」
少し身を退いた宗次郎の頭を、弥彦はやや乱暴にぐりぐりと撫でた。
「な、何ですか!?」
突然の弥彦の行為に、宗次郎が困惑して同じ台詞を繰り返す。央太は弥彦の隣でおろおろしている。
「いや、悪かったなーって思って」
大して悪びれた風でもなく、弥彦がさらりと謝る。
「お前の深い事情も知らねェのに、勝手なことばっか言ってさ。けど、勝手ついでにも一つ言わせてくれ」
弥彦は小さく咳払いをして、改めて宗次郎を真正面から見据える。その両肩に掌を置き、力強い笑みを浮かべて。
「お前が守る強さってのを知らないっていうなら、俺達が守ってやる!」
ぽかんとしている宗次郎に、弥彦は続けてもう一言。
「たとえこの先何があっても、俺達はお前の味方だからな」
その声には頼もしさが満ちていた。どこまでも真っ直ぐな弥彦に、剣心は知らず知らずのうちに頬を緩める。
宗次郎と弥彦との間で、具体的にどんなやり取りがあったのかは分からない。
けれど自分の言動を反省しながら、それでも真っ向から思ったことをぶつける、その瑞々しい姿が剣心にはどこか眩しかった。ともすれば青臭い正義感めいた言葉、しかしそこには新たな世代の力強い息吹がある。
少し向こう見ずではあるかもしれない、それでも懸命に誰かと向き合い、叱咤し、寄り添おうとする様は実に弥彦らしく、また宗次郎にとってもそういった存在はきっと必要なのだと思えた。
様々な性質、様々な考え方、様々な人々のそういった個々の価値観に触れる中で人はたくさんのことを学んでいく。皆が皆同じような人達の中で過ごしていたなら、きっと刺激も成長もない。
自分も含め、薫や弥彦、玄斎に央太…色々な人の言葉が、宗次郎にいい方向に響いていることを願う。そしてこの真っ直ぐな言葉と真っ直ぐな瞳は、きっと弥彦にしかできない。
「強いとか弱いとか、そーいうの難しいかもしれねェけど。お前がいつかは分かるように、俺はお前の力になるから」
宗次郎はまだ要領を得ないような顔で弥彦を見上げているが、央太が「僕も! だって僕達、友達だし!」と同意の声を上げた。それで宗次郎は弥彦と央太との顔を交互に見て、最後に剣心の方をちらりと見る。
「……だそうでござるよ。勿論拙者も、及ばずながらお主の力になるでござるよ」
弥彦と入れ替わるようにして、剣心は宗次郎の頭に掌を置いた。
ここまで来て、ようやく宗次郎の顔に笑みが戻った。年相応の無邪気な、ただ、はっきりとした嬉しさの表れた笑い方だった。
どこか照れ臭そうに、ころころとした笑い声が漏れる。宗次郎は大抵笑っているけれど、こうした笑い方は初めて見たかもしれない。宗次郎は何も言わずにただただ笑っているが、今はこの笑顔に十分、心は表れていた。
弥彦もきっと宗次郎のそんな反応が嬉しかったのだろう。剣心の手の横から己の手を伸ばすと、またぐしゃぐしゃに宗次郎の髪を掻き回す。宗次郎は不服そうに身を竦めるが、それでもどこか嬉しそうだった。
「わっ! …もう、何するんですか、さっきから」
「まーいいじゃねェか。よっし、気を取り直してまた遊ぼうぜ!」
「うん、遊ぼう遊ぼう」
「何だったら今日も出かけるか?」
「あ、若先生、それはいいですね!」
「あのー、僕の髪、ぐしゃぐしゃなんですけど」
「いーだろその位。こーして手で梳かせば直るって」
「…何だか梳かし方も乱暴だなぁ、弥彦さんは」
「気にすんなって。それより、どこに行くかな」
「もし出かけるなら、日が暮れる前には帰ってくるでござるよ。あまり遅いと薫殿が心配するでござるからな」
「分ーってるって。こないだ懲りたぜ」
「それじゃあ早く行こう、若先生、宗次郎君!」
わいわいと弥彦達は盛り上がる。
散々撫で回されてぐしゃぐしゃになった髪を自分で梳かしながら宗次郎は「もう」と小さく頬を膨らます。けれど、その仕草すらやはりどことなく、嬉しそうだった。
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