―第四章―
朝餉の時、薫が宗次郎に対し些かぎこちない態度でいるのが気になった。
無論、薫の方は周囲にそれと分からないように振る舞っているのであろうが、それなりに連れ添った仲だ、剣心はすぐにその違和感を感じ取ってしまった。
宗次郎の方はというと、平素のにこにこ顔で弥彦や自分、薫とも当り障りないの会話をしている。…これまたいつも通りだ。
(…何かあったのでござろうか)
左手にある椀を傾け、味噌汁を啜りながら剣心は思案する。
昨日の時点では、薫と宗次郎の間に何かあったようには特に見受けられなかった。だとすれば今朝か。異変があるのは薫の方だから、彼女が何かを気に揉んでいるのだろうと考えられる。宗次郎の方が全く態度に出さないだけ、という可能性もあるが。
(薫殿は嘘が吐くのが下手だからな)
思わず小さく笑みを漏らしてしまう。薫のそういった素直な、言いかえれば分かりやすい所は却って可愛らしくもあり、思考を周囲に隠すのがすっかり得意になってしまった剣心からしてみれば、好ましい部分でもある。いつもありのままで己の感情に正直な薫が時に眩しく、どこか羨ましいとすら感じてしまうこともある。
そんな薫が今は宗次郎に、まるで腫れ物に触れるように接している。表面上は明るく、自然に関わっているようなのに…何故かどこかから染み出てくる不自然さ。
小さい宗次郎がこの神谷家に居候するようになって数日が経っている。彼が未だ晒していない面は多いが、もし薫のこの態度の理由が、彼女が彼の深みに足を踏み入れようとした結果なのだとしたら。
(…そろそろ、頃合いかもしれぬな)
ごく普通の動作で今度は茄子の漬物を口に運びながら、剣心はほんの少し目を細めていた。
朝餉を終えると、剣心組はそれぞれに散る。
稽古時間の近い弥彦は道場の掃除へ、薫は剣路を負ぶって表門付近の掃き掃除へと向かった。
剣心と宗次郎は朝餉の片付けだ。特に何も無い日は剣心の家事を手伝うのが、宗次郎の日課のようになっていた。最初こそ剣心もやんわりと断っていたが、宗次郎の方から申し出てくれることであるし、恐らくは神谷家に住まわせて貰っていることに対して気兼ねしていたり、恩を返したいといった気持ちもあったりするのだろう、と有り難くそれを受け入れることにしたのだ。
まぁ、「手伝いますね〜」とにこやかに告げる宗次郎に対しては、どうにもそういった口調だと青年の方の宗次郎を思い起こしてしまい、剣心は内心苦笑いを浮かべるような気分になることもあったが。
単に人手があれば家事ははかどるというわけではなく、手伝う者の器用さ如何によっては、却って手がかかることもある。相手が子どもなら尚更だ。けれど宗次郎は炊事だ掃除だ洗濯だといったことには随分と慣れているらしく、この位の年頃にしては恐ろしく手際が良い。そんなわけでこのところの剣心の家事は大いに順調に進んでいた。
今もそうだ。
朝餉後の椀や箸や皿やらを入れた盥を手分けして井戸のところまで持っていくと、剣心と宗次郎は並んで屈んで食器洗いを始めた。剣心が米のとぎ汁で食器を洗うそばから、隣の盥の綺麗な水で宗次郎は食器をすすぎ、仕上げに清潔な手拭いで拭き上げていく。すっかり汚れの落ちた椀や皿を、また別の盥の中に積み上げる。
宗次郎のその一連の動作は滑らかで、かつ慎重でもある。できる限り素早く、正確に、それでいて食器を取り落とさないように気を付けながら作業しているのが見受けられた。やはり相当に手慣れている。それでいて表情は、何ら苦労も見せない柔和な笑顔なのだ。
元より、当初の体中の傷の他、宗次郎の細い指先はヒビや皸で覆われていた。このことからも、彼が昨日今日では無く長い間炊事洗濯といった水仕事に携わっていたことが伺える。体の傷の治療ついでにまめに手に軟膏を塗ることで、若干その症状は緩和されてきたが…とにかく、家族の元でか、或いはどこかに丁稚奉公にでも出ていたのか、宗次郎が長い間家事雑用に従事していたのは間違いない。
そこから斬り込んでみるか。
剣心は食器を洗う手を休めないままで、ごく平然と宗次郎に話しかけた。勿論、表には穏やかな表情を湛えたままで。
「手際が良いでござるな、宗次郎。拙者も助かるでござるよ。……恐らくはお主の親御殿のご指導が良いのでござろうな」
表面上は労い、褒め称えるような文言に、けれど宗次郎は僅か一瞬動きを止めた。
しかし次の瞬間には宗次郎はやはり笑ったままで、ただ小さくこう言った。
「……親は、いません」
ある程度予想していた返事だとしても、それを意図的に引き出させた。探る為とはいえ、我ながら底意地の悪い問いだったと思う。
「……悪いことを聞いたでござるな」
「いいんです。僕にとってはそれがもう当たり前だから」
「……」
こればかりは正直に謝罪した剣心に返ってきたのは、どこか諦めの入り混じった言葉。
当たり前、と事もなげに言う所から察するに、宗次郎は親を亡くして久しいのだろう。まだ幼いのに。
「でも……、」
しばしの沈黙をさ迷った後、宗次郎はおずおずと切り出した。言うか言うまいか思いあぐねて、それでもやっと言うことにした、そんな風だった。
「剣路君を見ると思うんです。いいなぁ、って。明るくて優しいお母さんがいて、優しくて頼もしいお父さんがいて…」
「……」
浮かぶのは、憧憬の滲んだ微笑。
親を亡くした子どもの、ごく当然の羨望を剣心は黙って受け止める。
自分達“家族”は、傍目からはそう見られていたらしい。子を慈しむ母。子を守ろうとする父。父母の惜しみない愛情と庇護の元に、のびのびと芽吹いていく子の姿。
最早過去になりつつもある流浪の旅の中でも、幾度も目にしていた家族の形。長く人々の中で繰り返されてきた、生命の営み。……無論、それに外れた例が多々あることも剣心は深く飲み込んでいる、それでも何気なく目にしたそんな家族の光景は眩く、どこまでも尊い。
かつて人を斬ってまで、守ろうとしたもの。ごく普通の人々の、何気ない生活。名も知らない人々がそんな当たり前の暮らしをしているのを見ると、心が満たされた。どこか救われる気持ちにもなった。血塗れになりながら、罪を重ねながら人を斬って来たのは、きっと無駄ではなかったのだ、と。
だが、それらを目の当たりにして剣心が噛みしめたのは幸福だけではない、地獄もだった。数知れぬ多くの者からそういった幸せを無残に奪い取ってきた、それもまた紛れもない事実。多くの犠牲の上に築き上げた平和だと突き付けられた。
それでも……
それでも、そんな自分でも、こうして伴侶と巡り合い、子を得るまでに至った。それは確かに、限りない幸せなのだろう。こんなことがこの己に許されてもいいのかと、時に深く悩み自問自答したくなる程。
そしてそうであっても、この少年からしてみれば、それはこの上もない理想の家族の姿だったのかもしれないという。
剣心の胸の苦みを知らぬまま、宗次郎は今度は何の憂いもなくにこりと笑う。
「でも、いいんです。ここにいる人達は、みんな親切で、優しくて……みんな僕に良くしてくれて。毎日が穏やかで、もう怯えなくて済む……そんな暮らしが送れるだけでも、僕は十分なんです」
ささやかな…本当にささやかなものを至極有り難く享受している少年に、剣心の胸の奥がまた苦く疼く。
思えば、自身の幼少の頃も、決して恵まれた暮らしではなかった。
貧農の出である故に毎日の食事にも満足にありつけず、幼い身ながらも畑仕事に駆り出された日々…。幸せとはほど遠く、本当に家族皆で生きていくのがやっと、という暮らしだった。
その上、虎狼痢(コレラ)で親兄弟も次々に命を落とし、僅か九歳で天涯孤独の身の上となった。村中に蔓延した病で呆気なく命を落としていく人々に対する悲しみや命の儚さに浸る間もなく人買いの手に渡り、そこでもまた無残に命の失われる様を目の当たりにした。偶然通り合わせた比古清十郎に助けられ、それからは彼の元で過ごし紆余曲折を経て現在に至る。
家族を流行病で亡くすのは、今でも珍しいことではない。むしろ同じ村の、自身と同世代の者達の方が次々に死んでいったことを思えば、家内で剣心一人生き残ったのは幸運といえば幸運なのかもしれない。今となっては最早顔もほとんど思い出せない家族達の、仄かな記憶。具体的な思い出すらとうに忘却の彼方だが、それでも、親が生きていた頃は、ごくごく普通の親として自分に接してくれていた。兄姉に構って遊んで貰ったこと、小さな弟妹の世話を手伝ったこと、記憶は微かでも事実として、胸の奥底に残っている。
貧しい暮らしの中でも、それでもそういった人との関わりはあった。家族がいた。何より、今となってはこの上なく恩も感じる、師匠とも出会えた。共に過ごしていた頃は何かと衝突も多く、反発することばかりだったけれど、それでもあの厳しくもどこか温かい指導者がいたからこそ、今、自分はこうして生きていられるのだ。
やはり同じように幼い身で親を亡くした宗次郎が、その後どんなに過酷な生活を送ってきたのか、そのすべてが分かる筈もない。ただ、少なくともこの細い身体で、その重圧にずっと耐えてきたことだけは確かだ。まして、その体中を傷だらけにしながら…。
剣心とて、躾の一環で親に叩かれたことくらいはある。師匠においては(その性格もあって)容赦がないから、修行中はしょっちゅうぼっこぼこにされていた。しかしどちらも、必要性があってこそのものだ。後者は尚更、それまでの生活の中で積み上げた信頼関係があったからこそ成立したことだ。
宗次郎の体中の傷に、そこまでの必要性があるのだろうか? ―――何となく、剣心にはそうは思えなかった。傷の具合からして、躾ではなく、性質としてはむしろ私刑に近いのではないか。そんな気がしてならない。
剣心は洗い途中の食器から手を離すと、その手を手拭いで拭きながら宗次郎を見た。まだ瘡蓋が其処此処に残る、痛々しい肌。古い傷が至るところに刻まれている肌。
体の痛みは相当に堪えていただろうに、それでも懸命に生きてきたのであろう彼を思って、剣心はその苦しみを労るように言う。艶のない散切り頭の上にぽんと手を乗せ、口元には穏やかに笑みを浮かべ、真っ直ぐにその目を見つめながら。
「……今まで相当に辛い思いをしたのであろうに、よく頑張ったでござるな」
「……」
その言葉を受けて、宗次郎の唇がぼんやりと薄く開いた。そんなことを言われるとは思いもしなかった、という顔だ。驚きに満ちた目で、これまた真っ向から剣心を見ている。
それから徐々に、迷子がようやく母親を見つけた時のような、張り詰めていた緊張の糸が切れて途端に涙が溢れ出す、そういった顔つきになって、しかしやはり泣くまでには至らず、泣き笑いのような表情になっていった。
苦しさを抑えるように手は胸元の合わせ辺りをぎゅっと握り締め、それなのに口からは小さく笑い声が漏れてすらいる。
本当は思い切り泣いてしまいたいのに、うまく泣けずにいる、そんな風だと剣心には思えた。
(……この子は、泣くことすら満足に行かぬのか)
泣くということは、何も知らぬ赤子すら身につけている、感情表現の初歩だ。我が子が生まれてから尚のこと良く分かる、空腹の時、おしめが濡れて不快な時、どこかが痛む時、何より母の温みが欲しい時…赤子は精一杯に声を張り上げ、涙を流し訴える。
赤子でなくても、幼いうちはとかく涙腺が緩いものだが、この子はそれすらもまるで自ら律しているかのようだ。
甘えることも我儘を言うことも、それこそ感情を率直に表すことも許されぬ環境に長くいたのだろうか。心の動きを、知らず知らずのうちに自然と抑圧せねばならないような環境下に。
純粋に不憫だ、と思う。情や思いすら押し殺さねば生きられなかったのか、と。それは幼子にとってはどれ程の負荷であっただろうか。
あくまでも推測であり、実際の彼自身の苦しみも、悲しみも、その深さは何よりも彼にしか分からない。それでも、ほんの少しだけでも軽くしてやるくらいなら、恐らくはできる筈だ。
剣心は屈んだまま、宗次郎と目線を合わせた。力強く笑ってみせ、今度はその肩に掌を置く。
「…宗次郎。ここにはお主が泣くことを咎めるような者は、誰もおらぬでござるよ」
「緋村さん…」
宗次郎はやはりぽかんとした顔で、しかし件の泣き笑いがやっとぼろぼろと崩れてきた。潤んだ瞳の端からは大粒の涙がぼたぼたと落ち、肩を震わせてしゃくり始めた。
頬も鼻も真っ赤になる程に泣いているのに、それでも口元だけはやはり奇妙なことに笑っているのだ。
「泣いても……、怒らないですか……?」
「怒ったりなどせぬよ」
「だって、泣くと、煩いとか、生意気とか言われて、もっと殴られるから……っ」
「それでずっと我慢してきたのでござるか。しかしずっと我慢していては、お主も疲れるでござろう。いい機会だ、うんと泣くでござるよ」
「…っ、さっき、薫さんに僕の笑顔が好きだって言われたんです」
「薫殿に…?」
「そんなこと…言われたのも初めてで……あの人達は笑顔すら、薄気味悪いだの、得体が知れないだの言って……だけど、それでも笑ってるのが一番マシだったのに、それでも、そんな僕でも、怒ったり、泣いたりしてもいいんですか……?」
「…己の感情を表すのに許可などいらぬよ。子どもなら尚更でござる。……お主の好きなようにすればいい」
「うっ…ううっ……」
ようやく宗次郎から嗚咽が零れ始めた。苦しげに喉元の辺りに手をやる宗次郎を、剣心はそっと引き寄せる。己の苦しみをどこかへと逃がしたいのか、宗次郎は剣心の肩口の辺りの着物をぎゅっと握り締めた。俯いた顔を剣心の胸元に埋め、その手と全身とを震わせながら宗次郎はひたすらに涙を流した。剣心は地面に両膝を付けるように体勢を変えると、その小さな体を支える。むせび泣く声だけが辺りにどこまでも響いた。
しがみついて泣き続ける宗次郎の背の辺りをぽんぽんと叩いてあやしながら、ここまで言わないと泣くことも叶わないこの少年に、剣心は憐憫の情を抱いた。
感情を表に出すことを恐れ、凝り固まってしまった少年の心。宗次郎の言う“あの人達”が何者かは分からないが、恐らくはその者達から己を守るために身につけたのであろう、笑顔という防壁。
『あの時あなたは、僕を守ってくれなかったじゃないですか』
まさか、あの瀬田宗次郎も…?
不意に氷のような怒りを思い出し、剣心は戦慄する。楽以外の感情を欠落していたあの青年の笑顔も、そうして培われたものだとしたら…?
(―――いや)
ふと浮かんだ憶測に、心の中で頭を振る。幾ら二人が似通っていても別人だ。この少年と同じような境遇であったとしても、まるっきり同じである筈がない。
それでもやはり引っかかる。あの青年とこの少年とを切り離して考えたいのに、そうもいかない。別人の筈、なのにこの、同一点。
(…けれど、今はこちらの宗次郎でござるな)
彼のことが気にならないわけではない、しかしその当人は目の前にいない。目の前で肩を震わせて泣いているのは、この幼い宗次郎だ。
まずはこの感情表現の不器用な少年の心を解し、安心させてやらなくては。小さく戦慄く体を受け止めながら思う。
ずっと己の心を偽ったまま生き続ける、それではあまりにも、―――あまりにも。
「……剣心? 宗君?」
不思議そうな声に、剣心はそれが聞こえてきた方を見る。
心配そうな顔で立ち尽くしているのは、剣路を背負ったままの薫だった。箒を片付けに来てこの場面に出くわしたのか、それとも宗次郎の嗚咽を聞きつけてここに来たのか。
宗次郎も涙でぐしゃぐしゃになり紅潮した顔を上げて、薫の方に振り向いた。それを見た薫は、どこか非難めいたような表情に変わる。
「何かあったの? まさか…剣心が宗君を泣かせたの!?」
「いや、その…泣かせたというか…」
怒りを含む薫の言い方に、剣心はしどろもどろになって答える。確かに事実だけ見れば己が宗次郎を泣かせたわけだが、薫は恐らく、宗次郎を叱るなり何なりして泣かせたのだと勘違いしているのかもしれなかった。
弁解しようとして、しかしすぐに思い直す。
「―――いや、この子はむしろ、もっと泣いたり怒ったりした方が良いと思うでござるよ」
「……?」
薫は要領を得ないといった様子で首を傾げる。
両手で必死に涙を拭った宗次郎は、またひくつく喉を静めるように幾度か深呼吸をして剣心から離れる。剣心はそれで一度立ち上がったが、宗次郎もそれに続くと薫に向き直った。それから、まだ潤んだ目のままで頭を下げる。
「さっきは…ごめんなさい」
「えっ、何が?」
謝られたことに対し、薫は宗次郎が何について謝罪したのか分からない、といった風に疑問の声を上げた。
宗次郎は未だ涙声のままで続ける。
「薫さん…僕の笑顔を好きだって言ってくれたでしょう? …前は、仕方なく笑ってることが多くて、それでも色々と酷いこと言われたりしたから…だから薫さんにあんな風に言われて、それから、ぎゅうってして貰えて……多分、嬉しかった筈なのに、よく分からなくて…。どうしたらいいのかも分からなくなっちゃって、それで逃げちゃったんです。…ごめんなさい」
それでやっと、剣心は薫が宗次郎に対し取っていた不自然な態度の理由を知る。
恐らく、薫は己が好意でしたこと、言ったことが裏目に出てしまったのだと思い、彼と接することに自信が無くなっていたのだろう。
宗次郎の言い分を聞いた薫は、ほっとしたように全身の力を抜いた風に見えた。
「何だ、そうだったの……。でもそれは、宗君が謝ることじゃないわ。私がちょっと無神経だったかしら…ごめんなさい」
「いえ、そんなこと……。……でも、その時も、やっぱり僕笑ってました?」
「えっ…?」
自覚、ないの?という呟きが今すぐにでも薫から零れてきそうだった。その顔を見ればありありと分かる。
しかしこうして人の優しさに慣れていない宗次郎を見れば、温かい言葉をかけて貰ったこと、抱き締めて貰ったことにすらどう反応したらいいのか分からない、だから、やはりいつものように笑うしかなかったのかもしれない……そんな風に、剣心は推察した。
「お主は笑うのがすっかり癖になってしまっているのでござろうな…。無論、笑顔が悪いというわけではない。怒ったり泣いたりすることも、こうして少しずつ取り戻していけばよいと思うでござるよ」
剣心はまた宗次郎の頭にぽん、と掌を置く。そうそう簡単に習い性というものは変わるものではない。それでもこの少年がまだこうして“泣くことができる“のならば、それはきっと何かの光明だと思うのだ。
「……そうね。私も、さっきの宗君に、何で悲しそうな顔してるのに泣かないんだろうって、そんな風に思っちゃった。でも宗君にとってそれは、とても難しいことだったのね」
神妙な微笑で薫はそう述べる。宗次郎は曖昧な笑みで、それを黙って聞いていた。
「でもね! 宗君の笑顔が大好きだっていうのは本当よ。だからもっと自信を持って、あなたは笑ってもいいと思うわ!」
一転、力強い表情になって薫は宗次郎の顔を覗き込む。
ああ、この明るさだ。剣心の内にじんわりとした熱が灯る。この底抜けに明るい、どこまでも前向きな性根。自分には持ちえない、彼女だからこそのもの。
きっと宗次郎に涙を流させたのも、自分一人の力ではなく、彼女の存在という下地があったからこそだろう。身を守る術としてだけだった笑顔を、違った意味で真っ直ぐに肯定してくれたから。それは宗次郎にとっては驚きであり、戸惑いであり、それでいて恐らくは、喜びだった。
「勿論、さっき剣心が言ったみたいに、怒ったり泣いたりもしながらね! あなたはまだ子どもなんだから、遠慮しないで色んな気持ちを表に出しちゃえばいいのよ」
「あは…あはははっ……」
茶目っ気たっぷりの薫の一言に、宗次郎は遠慮がちに、だが声を上げて笑い始めた。また頬を湿らす泣き笑いだった。
けれど、それでも…きっとこれで良かったのだと、剣心もまた微笑むのだった。
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