―第三章―
薫は剣路を抱いたまま、玄関前の廊下をうろうろと行ったり来たりしていた。
夕刻、出稽古先から帰って来てみれば宗次郎がいない。剣心によれば、弥彦や央太と一緒に遊びに出かけたのだという。それはそれで結構な話なのだが、問題はもう日も暮れたというのに、彼らが未だ帰宅しないことだ。
帝都とはいえ、夜の東京はそれなりに物騒だ。出かけた先で何かあったのだろうか。たとえば、宗次郎を追っている者達と出くわしたとか…。そうだとしても弥彦がついているのだから、そんなに厄介事にはならないだろう(多分)。それとも、何か別の揉め事に巻き込まれたとか。どうにも悪い想像しか浮かばず、尚更薫はやきもきしてしまう。
「一度、探しに行った方がいいかしら」と剣心に言ってみたところ、「弥彦がいる故、そう心配はいらぬと思うでござるよ」との返事だった。それは、まぁ、今の弥彦は確かに昔の彼と違ってそうそう無鉄砲なこともしないし、剣の腕だって更に上達したしで、薫だって剣心同様、彼に信を置いてはいる。「行き違いになっても困るし、もうしばし待ってみるでござる」、その言い分もごもっともだ。
だがしかし、どうにもただ待つだけ、というのが性に合わない。こんなに心配で気になって仕方がないのなら、いっそ探しに飛び出した方が気が楽である。
あと五分待って、それでも帰ってこなかったらやっぱり探しに行こう。薫はそんな決断を下し、一人うんと頷く。
が、まさにちょうどその時、玄関の戸がからりと開いたのだった。
「悪ィ、遅くなっちまった」
そう言いながら、まったく悪びれる様子も無く弥彦は敷居を跨いだ。その後ろには、申し訳なさそうに頭を下げる宗次郎。
央太の姿は無いようだが、彼は彼で既に奉公先へ帰ったのだろうか…とにかく、二人が無事に帰ってきたことに薫はほっと胸を撫で下ろしつつ、しかし一見、何も変わったことが無いように思える弥彦達の姿に、今度はきりきりと怒りが湧き上がってきた。何事も無かったというのなら、何故に帰りがこんなに遅くなったのか。無論、その怒りの矛先は弥彦である。
「弥彦! こんなに遅くまで、宗君をどこに連れ回してたのよ!!」
特大の雷が神谷家の玄関先に落ちた。
流石の弥彦もおわ、と後ずさり、宗次郎もびくぅっと身を縮こませた。
「とっくに日も暮れたっていうのに、なかなか帰ってこないで…弥彦、あんた剣心に宗君を頼まれたんじゃなかったの!! 何やってるのよまったく!!」
一度怒り出してしまうと止まらない。弥彦を責める言葉が口からぽんぽん飛び出してくる。薫のあまりの剣幕に腕の中の剣路も涙目で怖がっている。
弁解する間もなく一方的にまくし立てられていた弥彦が、呆れ顔でようやく「あのなぁ、」と声を発しかけたが、その前に宗次郎が思いっきり頭を下げた。
「ごめんなさい! 弥彦さんを怒らないで下さい!」
「…えっ?」
「弥彦さんは悪くないんです。僕が遊ぶのに夢中になっちゃって、だから帰りがこんなに遅くなって……悪いのは僕なんです、弥彦さんを怒らないで下さい」
「あら…、そうなの?」
宗次郎が小さい頭を必死に下げる姿を見て、薫は毒気が抜かれたようにすうっと冷静になった。話をちゃんと聞いてみれば、事は何と単純なことか。
それならそうと早く言えばいいのに、とこれまた弥彦に対し思わずにはいられない。薫は肩を竦めてやれやれと溜め息を吐いた。
「そーいうことなら仕方ないわね。早く言いなさいよ」
「おま…勝手に勘違いしといて何つー言い草だよ…」
何やら憤慨している弥彦は置いておいて、薫は腰を曲げて未だ項垂れている宗次郎を覗き込んだ。それから、安心させるようににっこりと笑う。
「事情も良く分からないままに怒ってごめんなさいね。でも、あんまり帰りが遅いものだから心配してたの」
「……心配?」
ごくごく不思議そうに宗次郎がゆるりと顔を上げる。よくよく彼を見てみれば、その手には大切そうにぎゅっと握り締められたままの竹トンボがあった。成程、これで遊んでいたわけか。我ながら飛んだ早とちりだった、と薫は反省する。
しかしこうして二人が何事も無く帰って来たなら何よりと言うわけで、気分は一転、ぱあっと明るくなる。
「とにかく、宗君が無事に帰ってきてほっとしたわ! さ、お腹空いたでしょう? ご飯にしましょ!」
薫はそう言いながら、家に上がるよう宗次郎を促す。それからはた、と思い出したもう一つの気掛かりを弥彦に確認する。
「そうだ弥彦。央太君の事もちゃんと送って来たんでしょうね?」
「当ったり前だろ。だから余計に遅くなったんだよ」
「良かった。ならいいわ」
「……何で俺にはそー上から目線なんだよちゃんと謝れってのオイ」
「今日はねぇ、剣心お手製の煮物と漬物があるのよ〜。剣心の煮物は絶品だから、宗君、たくさん食べてね!」
「聞けよ」
小さな居候が元気に帰ってきたことに、薫は本当に安心していた。たくさん遊んできてお腹も空いているだろうと、宗次郎の肩に手を置いて夕餉の席へと誘う。盛大に気を揉んでいた分、憂いの種が無くなればこうも心は軽い。
そんなわけで薫がご機嫌のままに剣路・宗次郎と共に去っていくと、後には不満顔の弥彦だけが残された。
「…やれやれ」
「とんだ災難だったでござるな」
「剣心、」
家にいる筈の剣心が背後から現れたことに弥彦は目を丸くする。つい先程までの自分達と同じように、剣心は玄関から入ってくると、その戸をとん、と閉めた。
「念のためこの辺りを一回りしていたのでござるが、弥彦達の方が早かったな。やはり入れ違いになってしまったでござるな」
剣心はおろ、と頭をかく。薫はそんなことは一言も言っていなかったから、恐らく剣心は独断でこっそりと自分達を探しに出ていたのだろう。そして成果が無く帰って来たところで薫の怒号をばっちりと聞いた。まぁあれだけの大声だ、盗み聞きしなくても聞こえる。しかしその後のやりとりは、剣心の事だからこっそりと窺っていたに違いない。
「宗次郎は、楽しく遊べたようでござるな?」
「まぁな。央太と一緒にはしゃいでたぜ。良かったんじゃねェの、思いっきり遊べて」
「それは何よりでござる」
確かめるような剣心に、弥彦は率直に答える。央太と遊んでいる最中の宗次郎は本当に楽しそうだった。勘違いした薫に盛大に怒られる羽目になったが、彼女が短気なのは昔からだ。心配性なところも。あの落雷は、当然その裏返しによるものだろう。
「…して、」
剣心が声を潜めた。表情も些か真剣なものになる。
「何事も無かったでござるか」
「あぁ、何も。宗次郎を追ってる奴らと出くわすことも無かったしな。ただ、今日の様子じゃ、宗次郎はこの辺りに住んでたわけじゃ無いみたいだったぜ。どこかは知らねぇけど、相当遠くから来たみてーだな」
町並みを物珍しそうに眺めていた宗次郎の姿を思い起こしながら弥彦は答える。手掛かりと言えば手掛かりだ。しかし宗次郎が央太と楽しい時間を過ごしたこと以外は、これといった収穫は無い。
もっとも、手掛かりはあくまでも副産物的なものであって、宗次郎が充実した時間を過ごせたというその事実こそが、今日においては何より重要だった。楽しそうに遊ぶ二人の遊びを中断させ帰宅を促すのも、何だか憚られた。だからこそ、弥彦も遅くまで付き合ったのだ。
何の厄介事も無かったと分かると、剣心も安堵したように柔和に笑む。
「そうでござるか。ご苦労だったな、弥彦」
「そんな労って貰うことでもねェよ。…けどさ、剣心にはあるそういった気遣いの一つや二つが、薫にもあったらなぁ…」
「おろ……まぁ、薫殿は弥彦とは長い付き合い故、どうしてもああした遠慮の無い物言いになるのでござろう」
「そーかねェ…初対面からあんな感じだった気がするけどな」
「おろろ…」
薫の性格については、今更言っても始まらない。それに、あの感情の豊かさ、底抜けの明るさに救われている部分も、少なからずある。
だから弥彦は薫への不満はそれ以上は口にせずに、こちらは剣心と連れ立って夕餉の席へと向かったのだった。
一夜明け、今日も清々しい秋晴れの空が広がっていた。
心地良い朝の空気に誘われてか、今朝は薫はすんなりと起きることができた。同じように起き出してきた剣路を負ぶい紐で負ぶって、薫は庭にある井戸に向かう。朝餉の準備で大量に使うから、台所の甕に補充しておかないと。
爽やかな風が心地良かった。薫はう〜んを伸びをすると、井戸の蓋を開け、綱のついた桶を中に放り入れた。水の入った桶を引き上げていると、丁度庭先に宗次郎が立っているのが見えた。特に何をしている、というわけでもないから、起きた後何となくこの場に来たのだろう。
「おはよう、宗君」
「おはようございます。…あの、手伝いましょうか? それとも代わりますか…?」
「いーのいーの! こう見えても私、結構力仕事得意なのよ! 何たって、神谷活心流の師範なんだから!」
薫は言いながら桶をぐいぐいと引き上げる。井戸から水を汲み上げるのは、意外に力がいる。まったく重くないといえば嘘になるが、それでも市井の女性よりはずっと早く作業をこなせているのではないかという自負が薫にはある。
それにしても、こんな風に気を遣って殊勝なことを言ってくれる宗次郎が可愛くて仕方がない。実際に手伝うかどうかはともかく、そう申し出てくれた心持ちが嬉しく、有り難いのだ。
それで弾んだ気持ちが後押ししてか、いつもよりも早く水は汲み上がった。なみなみと水の入っている桶を地面の上に置くと、宗次郎の顔にわぁ凄いやとでもいうような笑みが浮かんだ。
その笑顔に薫はまた嬉しくなる。ここに来たばかりの宗次郎は、全身傷だらけで、いつも何かに怯えていて、痛々しかった。だから何とかしてあげたくて、彼を匿うことを決めた。
そしてそれはきっと正解だった、と薫は思う。だって、この家に慣れた宗次郎は、すっかり明るくなって、元気になって、何より笑顔が屈託なくて……初対面時の“虐げられた子ども”の姿ではなくなったのだ。時折、宗次郎は暗い影を纏わせるような時もまだあるけれど、それでも最初の頃よりはずっといいと、薫はそう思うのだ。
それに、顔立ちの良さも相まって、宗次郎の笑顔は素直に可愛い。だからというわけでもないが、宗次郎の無邪気な笑顔を見ていると、薫も自然と頬が緩む。
にこにこと見つめてくる薫を不思議に思ったのか、宗次郎が笑ったまま首を傾げる。あぁごめんね、と一応謝ってから、薫はこの心境をそのまま彼に伝えることにした。
「宗君はいつもニコニコ笑ってるから、こっちまでつられて笑いたくなっちゃうのよ。何だか癒されてる気分よ」
「そう…なんですか……?」
心底意外だ、といった風に宗次郎は目をぱちくりさせる。その意外さを吹き飛ばすように、薫は思い切り自身の言葉を肯定した。
「ええっ! 私は大好きよ、宗君の笑顔」
これまた満面の笑みを薫は浮かべてみせた。しかし宗次郎はと言うと、複雑そうな笑顔になって、両の頬の辺りを抑えている。
その姿に薫は少し違和感を覚えた。けれど宗次郎がすぐにその手をひっこめていつものように笑ったので、照れちゃったのかな、と解釈することにした。
そうして、改めて言う。
「宗君がすっかり元気になって良かったなぁ、って、そう思って見てたの」
「それは…本当に、皆さんには感謝してもし切れません。ありがとうございます」
宗次郎はそう言って頭を下げた。この健気なこと! …しかし別に、宗次郎から礼を言って貰いたくて彼を助けたわけではない。
「傷ついた人、困った人がいたら手を貸すのは当たり前よ。だからあんまり気にしないでね」
「…当たり前、ですか」
腑に落ちない様子で宗次郎が呟く。
あぁそうか、と薫は思い当って慌てて補足する。彼に限っては、それが当たり前ではなかったのであろうからだ。
「勿論、それが当たり前じゃない人も世の中には大勢いるわよ。…でもね、私は傷ついた人、困った人を見過ごすことができない性分なの。剣心や、弥彦もね。だから、少なくともこの家にいる間は、それが当たり前だって思ってていいわ。」
己の行動が善であると思って動いているわけではない。ただのお節介なだけなのかもしれない、そんな風に思うことも時折ある。
それでも、薫はそうした人達に手を差し出すのを止められなかった。喜兵衛の時のように、そうした行動が裏目に出てしまったこともある。それでも、この性根は変わらなかった。傷ついた人、困っている人を前に、じっとしてはいられないのだ。何かをしてあげたくて、何かの助けになってあげたくて仕方がない、たとえそれが独りよがりなものだとしても。かつての弟子が不祥事を起こした時のように、それが必ずしも良い方向に向くとは限らなくても。
要は、自分の納得するように動きたいだけなのかもしれない…どこかそんな風に悟りつつも、この弥彦曰くの“お人好し”な自分は、結局はずっとこのままだった。そして少なくとも今、この目の前にいる少年を、多少なりとも助けることができた。
人に言えない事情、言いたくない事情も多そうなこの少年が、それでもこの場所で少しは心を許し過ごせているのなら……、ひとまずはそれでいいのかもしれないと、薫はそう感じてもいた。
宗次郎は、今までこんな風に誰かに手を差し伸べられたことも無かったのかもしれない。薫は少し身を屈めると、その宗次郎の頬をそっと掌で包み込んだ。温かかった。宗次郎がぼんやりとした目で見上げてきて、薫は少し胸が痛んだ。
この子に、母親はいないのだろうか。
既に死去しているというならそれも切ない話だが、もし健在なら探そうとはしないのか。探せない事情があるのか。敢えて探さないのか。我が子がいなくなったことすら知らないのか。
一番考えたくないのは、宗次郎を追っているのが母親、の可能性だ。実の母親から痛めつけられて、逃げてきた。
でもまさか、そんなこと…。ふと過ぎった可能性に、薫は身震いした。背中にいる我が子を思う。もし自分だったら、お腹を痛めて産んだ子を手酷く傷つけることなど、できっこない。どこまでもどこまでも守りたい、大切な存在なのに…、しかし世の中の母親すべてがそういった存在でないということも、この歳になれば薫は理解していた。この世には、我が子に暴力を振るうことも厭わぬ親も存在する。世知辛い話ではあるが、悲しくもそれが現実だった。
宗次郎の母親が、せめてそんな類いでなければいい。そう願いつつ、薫は衝動的に宗次郎の小さな体を抱き締めていた。もしかしたら、我が子が急に誰かから追われる羽目になって、消えたことも知らなくて、どこかを必死に探している母親なのかもしれない…そしてそうだったならいいと、そんな風にも思いながら。彼の母親代わりにはなれないのは分かっている、それでも、彼の孤独が少しでも和らぐように、そう祈りながら、ぎゅうと抱き締めた。
その間宗次郎は、大人しくされるがままになっていた。何の反応も見せなかった。その代わり、別段抵抗する様子も無く、ただ薫に身を委ねていた。
まさに母が子を慈しむ、そういった抱擁をしばらくした後、薫は体を離した。宗次郎はやはり、呆然と突っ立っていた。小さく笑っているようにも見えた。困惑している風にも、今にも泣き出しそうな顔のようにも見えた。
(……却って、寂しがらせちゃったかしら)
彼を抱き締めてあげたかったのは本当だが、自身の行いに、薫は少し後悔した。このどっちつかずの顔に、そう思わずにはいられない。
戸惑う薫の前で、けれど宗次郎は己の顔に浮かんだ混ぜこぜの思いを全部押し込めるようにして、微笑んだ。それはそれはもう見事に、にっこりと。
つい先程、宗次郎の笑顔を大好きだと言った薫だったが、この時ばかりはぞっとした。
だって、それはあまりにも完璧過ぎる笑顔で。
うまく言葉にできない思い、複雑に渦巻く感情、そういったものが確かに宗次郎の顔には表れていたのに、結局は笑顔で押し通した。
(……どうして?)
そう思わずにはいられなかった。
抱き締められたことが却って悲しかったのなら、泣けばいい。自身の母親を思い出して寂しかったのなら、泣けばいい。だってまだ、子どもなのだから。十にも満たない小さな…、なのに、どうしてそれを押し殺してしまうのか。
「…あのね、宗君、」
「台所の方、手伝ってきますね」
語りかけようとする薫を遮るようにして、ごくごく明るく宗次郎はそう言った。それから、その屈託のない笑顔のまま、すぐさまくるりと背を向けて小走りで去っていってしまった。
風が髪を揺らす中、薫はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。あぅ、と背中の剣路が無邪気に喃語を発していたが、この時ばかりは酷く場違いな感じがした。
「私………」
薫はどこか空虚な思いで、そこに立ち尽くすことしかできなかった。
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