―第二章―




 秋を迎えたとはいえ、神谷道場内はうだるような熱気に満ちている。それは外気温の高さもさることながら、門下生達の白熱した稽古の中から生み出されているということも大きい。
「ホラ! もっと声出せ! 気合いが足りねーぞ!」
「脇が甘い! 一つ一つの動作に気を配るんだ!」
「相手の動きを良く見ろ!」
 薫が他道場への出稽古で不在の今日、門下生達の筆頭となって指導に当たっているのは、師範代となった明神弥彦と、塚山由太郎の二人だ。元々好敵手の間柄のようだった二人だが、由太郎がドイツから帰国して正式に門弟となって以降は、互いに切磋琢磨しながら剣の腕を磨いてきた。性根からして二人は否定するだろうが、その関係はもはや親友と称しても相違ない。
 竹刀の交わる音、踏み込みの際の力強い足音、そして裂帛の気合いの声。道場内には様々な音が響き合っている。門弟達一人一人に目をやっていた弥彦は、由太郎が肘でちょいちょいとつついてくるのに気付いた。苛立ち混じりに顔を向ける。
「何だよ」
「また見に来てるぜ、あいつ」
「……ああ、」
 悪戯そうな顔をした由太郎が示唆するのは、道場の入口から中をこっそりと伺っている小さな影だ。その正体を認めて弥彦も頷く。瀬田宗次郎、ほんの数日前に神谷道場に居候し始めた少年だ。
 当初こそ周りの顔色を伺うように終始びくびくしていた宗次郎だったが、人心地ついた後は実によく笑うようになった。傷の治りも経過が良く、包帯や絆創膏があちこちに残るとはいえ、もう普通に出歩いても差し支えない。
 居候させて貰っていることを気兼ねしているのか、それとも元々よく気が付く性格なのか、この所は剣心や薫の家事を率先して手伝ったりしている。そのため薫からの評価も高く、
「なんていい子なのかしら宗君! 誰かさんなんて来たばかりの頃は、言われてもやろうとしなかったわよ! 口は悪かったし、生意気だったし、まぁその辺は今もそーなんだけど……そこ行くと宗君は、謙虚だし礼儀正しいし、本っ当いい子だわ!」
 ……とまぁ、こんな調子である。呼び方すら既に愛称だ。過去の自分を引き合いに出されて弥彦は正直面白くないが、そういった態度を取っていたのは事実だったので、小さく文句を言うしかできない。
 剣心については、そんな宗次郎に対し「感心でござるな」と褒めている半面、時々複雑そうな表情を向けるのが弥彦には少し気になっていた。まぁ、剣心が何かと思いあぐねるのは昔からの常であるし、宗次郎の事情そのものもまだ謎であったから、その点は当然と言えば当然なのかもしれない。
 弥彦自身の見解としては、宗次郎は「悪い奴じゃない」、そんな風だ。素性だったり事情だったり、その実、厄介事塗れであっても、彼自身が悪い人間だとは思えない。まだ十五年にも満たない人生とはいえ、それでもその激動の中で色んな人間を見てきた。いい人も、悪い人も、極悪人も。人を見る目はある、と自負している。
 宗次郎は気弱で、弥彦としてはじれったい思いをすることも少なからずあるし、何より隠しごともてんこ盛りだ。聞きたいことは山程あるが、しかし薫が「宗君にはきっと、話したくないことがいっぱいある筈だわ。宗君が自分から話してくれるまで、そっとしておいてあげましょう」などと言うので、弥彦含む一同は無理に彼から諸々を聞き出そうとはしていなかったのだ。かと言って、待っていても彼から話してくれるわけでもなく。
 しかし宗次郎は未だ隠していることは多くても、その言動に嘘は無い…と思う。この辺りは単純に勘だ。宗次郎は薫のあの飯すら美味しいと言って食べ、剣心の作った料理を食べた時には目を真ん丸にして「こんなおいしいご飯、本当に久し振りです」と薫の飯の比でないくらいぱくついていた。その辺りにちょっと同情してしまったのも本当だ。
 弥彦自身、父を上野戦争で亡くし、母一人子一人になってからは食生活も貧しかった。母を病で亡くしてからは食事どころか暮らしていくのもやっとで、ヤクザの下っ端にまでなり下がったりもした。そんな状況でも元来の逞しさで何とか生き延びてこられ、幸運にも剣心達と出会えた。剣術という目標を見つけ、張り合いのある毎日を送れるようになった上に、折につけては牛鍋だとか京料理だとか、そういったものまで味わえるまでにもなった。
 我ながら山あり谷ありの人生だぜ、と弥彦は思う(まだそう長く生きていないけれど)。そして状況こそ違えど、宗次郎もまたなかなかに苦難の道のりを歩いてきたようだ。そういった辺りも踏まえて、弥彦の宗次郎へのあれこれを一言にすれば、「俺もそれなりに苦労したけど、こいつも苦労してたんだろーな…」となる。
 その宗次郎は入り口横の柱に手をかけ、体半分で覗き込むようにして道場内を見ている。門下生が一同に集まり稽古が行われると、その活気に満ちた声は道場を越え神谷家の敷地内にも響き渡るから、中で一体何をしているのだろう、と気になるのも無理は無い。
 ただ、興味はあるらしいが、宗次郎は長々と道場の様子を見学するわけでもなく、しばしするとまたふらっと去っていってしまう。宗次郎が見に来ているのに気付いた時、薫や弥彦が稽古に誘ってみたこともあるのだが、ギクッとした様子の後に慌てて笑って、「あの、僕はいいです」と言ってそそくさと走り去ってしまった。一瞬だがあまりにも引き攣った顔をしていたので、以後はそれ以上の勧誘はせずにいたのだが、その割に毎日のように稽古の様子を見に来ているのが、不思議と言えば不思議である。
 額の汗を拭いながら弥彦はしばし思案し、ふーと溜め息を吐いた。「どーせ見るなら、中に入って見てみるか?」とでも声をかけてやろうかとそちらに向かいかけ…しかし宗次郎は弥彦が自分の方へ歩み寄ろうとしているのに気が付くと、やはり慌てて出ていってしまった。
(……何なんだろーかねェ、あれ)
 竹刀の刀身を肩に担ぎ上げ、弥彦はもう一度溜め息を吐く。内心やれやれ、と思いつつ、弥彦は指導の方へと再び意識を向けるのだった。







「ありがとうございました!」
「おう、気を付けて帰れよ」
「また明日な。弥彦。…さーてと、赤べこにでも寄って帰るかな〜」
「! 燕にちょっかい出すんじゃねーぞ!」
 稽古の時間も終わり、道場からは次々に門下生が帰宅していく。夕刻ともなると空気も大分涼しい。
 ニヤニヤと笑いながら去っていく由太郎を忌々しげに見送る弥彦に、小さく呼びかけてくる影があった。
「あの、若先生」
「ん、どうした、央太」
 振り向きつつ答える。弥彦の胸元辺りの背丈のこの少年は、東谷央太という。町の商店で奉公しつつ、こうして神谷道場にまで通う頑張り屋だ。性格は穏やかだが、剣術を始めて一年未満にしては、なかなか筋が良い。実はあの相楽左之助の弟だったりするのだが、そのことは央太本人も、弥彦達も知らない事実である。
 央太はこうして弥彦のことを“若先生”と呼び慕ってくれている。些か気恥ずかしい呼称だが、まんざらでもない。
 その央太はまだあどけない顔で弥彦を見上げている。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「あぁ、何だ?」
「このところ、時々稽古を覗きに来てる子がいるでしょう? あの子、誰ですか?」
「あー…」
 弥彦は頭をがしがし掻きつつ、その疑問にも成程なと思う。
 ちょろちょろと道場を見に来ている見慣れぬ者がいれば気になるのは当たり前だし、まして央太の歳の頃は宗次郎と然程変わりがない、尚更気になるというわけだ。
「ちょっと訳ありでな。今ここに居候してる奴なんだ。…あ、そーだ」
 説明しつつ、弥彦は妙案を思いつく。
「央太、お前この後、時間あるか?」
「はい、大丈夫です」
「そーか。ならあいつと一緒に遊んでこいよ」
 央太も日頃は働き詰めだ、時には息抜きも必要だろう。それに宗次郎の方だって、同年代との方が気楽に遊べるに違いない。
 単にそういった、安易な思いつきである。
 やや及び腰の央太を引き連れて、弥彦は神谷家中庭へと向かう。自分から言い出したものの、いざ面と向かって顔を合わせるとなると照れ臭いのだろう。しかしその顔には確かに、新たな友達ができるかもしれないという期待感がありありと浮かんでいる。央太の方とて地元を出てきてからは、門下生を含め周りの人間はほとんどが年上だったから、やはり同じくらいの歳の子と遊べるのが嬉しいのだろう。
 中庭に付くと、剣路を負い紐で背負いながら、たらいに手を突っ込んで洗濯をしている剣心がいた。話題の宗次郎はその近くで、洗濯物を干す手伝いをしているようだった。
 宗次郎は簡素な模様の縹色の着物と、薄鼠色の袴を身につけている。これまた、弥彦がかつて着ていた物のお下がりだ。
 剣心は近付いてきた二人の存在に気が付くと、一度手を止め顔を上げた。
「おろ、弥彦に央太殿。どうしたのでござる」
「あぁ、こいつが宗次郎のこと気になってるみたいだから、連れてきた」
 弥彦が簡単に説明する傍ら、当の央太と宗次郎は、片やはにかんだような、片や不思議そうな顔を突き合わせていた。こうして近くに連れて来てみれば、央太は宗次郎よりほんの少し背が高い程度で、控え目な雰囲気は互いに通じ合うものがあるかもしれなかった。
「えっと、僕、東谷央太っていうんだ」
「僕は…瀬田宗次郎」
「ここの道場の門弟なんだ。よろしくね」
 二人してもじもじしながら自己紹介し合う。央太は宗次郎の顔の傷痕に目を止め、心配そうに眉毛をハの字にした。
「…ところで、あちこち怪我してるみたいだけど、大丈夫? 痛くない?」
「う、うん、平気……」
「そう……早く治るといいね」
「うん……ありがとう……」
 探り探り会話を交わしている二人の隣で、弥彦はからからと笑って剣心に言う。
「な、歳も近そーだし何だか気も合いそーだし、遊び相手にちょうどいいだろ」
「そうでござるな。宗次郎にも良い気分転換になるでござろう」
 納得した剣心も表情を緩め、立ち上がってうーんと腰の辺りを伸ばしながら、宗次郎の方を見た。
「ここの手伝いはもう大丈夫でござるから、宗次郎は央太殿と遊んでくるといいでござるよ」
「でも、あの…」
「遠慮は無用でござるよ」
 迷っている風な宗次郎の肩を押すように、剣心はにっこりと笑う。
 宗次郎も笑った、しかしそれは、困ったような笑顔だった。
「……遊ぶって……どうやって……」
「ハァ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げたのは弥彦だ。何を寝ぼけたこと言ってんだコイツは。そんな感想すら浮かぶ。このくらいの年頃だったら、単に木の枝を持って走り回ってるだけでも、十分に遊びの範疇に入るだろうに。
「…色々あんだろよ。鬼ごっことか、隠れ鬼だとか……」
 とりあえず思いつくままに例を上げてみる。その辺りだったら、何も道具がなくても、ある程度広い場所さえあれば遊べる。
「二人でどっちか鬼決めて、その辺追いかけっこすればいいだろ」
 鬼ごっこの説明なんて久し振りだぜ、と思いつつ弥彦は宗次郎に話を振る。
 しかし宗次郎は今度は少々青ざめた笑顔で、こんなことを言う。
「…鬼ごっことかは、ちょっと…」
 どうやらあまり乗り気ではないようだ。その様子に弥彦ははたと思い出す。
(そーかこいつ、元は誰かに追われてて薫達に助けられたんだっけな……)
 追いかけてくる鬼から走って逃げる、そういった遊び方がその出来事を連想させてしまい、怖いのかもしれないなと思い当たる。隠れ鬼も結局は鬼から息を潜めて隠れているのだから似たようなものだ。
 じゃあ男の子達の定番中の定番、チャンバラごっこは、と一瞬思い浮かべたが、剣術に興味がありつつも慌てて逃げていく、宗次郎のあの様子を思い出せばいい返事はあまり期待できそうにないな、と思い直す。
 だったら、と逆に聞いてみる。
「何かオメーが好きな遊びとかないのかよ」
「いえ、特に…」
「まさか、遊んだことがねーとか言わねェよな?」
 もしそうだとしたらどんだけだよ、と内心思う。
「ないわけじゃあないんですけど、遊んだのなんて、ずっと前だから……それに、同じくらいの歳の子と遊んだことはなくて……」
「……可哀想」
 宗次郎の返答に、央太がぽつりと言った。憐れんだわけではなく、子どもならではの純粋無垢な感想だろう。
 訊いておいて何だが、まさか本当に遊んだことがない、という返事が返ってくるとは。
 弥彦は眉根を寄せて腕組みをして、うーんと考え込む。宗次郎は央太と遊びたくないわけではないらしいが、多分、どうやって一緒に遊んだらよいか分からず戸惑っているのだろう。しかし、それにしてももっとこう…子どもってフツー、教えなくても自然と遊べるもんじゃないのか。子ども同士の輪の中で自然と身につけているもんじゃないのか。
 そりゃ、大人から教えて貰った遊びもあるが、自分自身は子ども同士での付き合いの中で覚えたものの方が、圧倒的に多い。それこそ鬼ごっこや隠れ鬼、チャンバラに始まり、虫取り、水きりといった自然の中で遊ぶもの、花いちもんめやかごめかごめ、友達と一緒に遊ぶもの、凧上げ、独楽回し、双六、道具を使って遊ぶもの……。少女であればあやとり・ままごとといったものも加わるだろうが、それでも簡単に遊べるものは幾らでもあるのだ。なのに。
 子ども同士での付き合いも碌にない暮らししてたのかよ、コイツは。何とも言えない溜め息が出る。
 じゃあ尚更遊んでやりたいところだが、どうするか。鬼ごっこなどは駄目。花いちもんめやかごめかごめをやるには人数が足りない。今神谷家にある子ども遊びの道具といえば剣路のでんでん太鼓くらいだが、幾らなんでも幼過ぎるだろそれは。庭に都合よくトンボやバッタがいるわけでもない。
 ほんの数秒だがうんうん頭を抱えている弥彦を見兼ねてか、剣心が助け舟を出してくれた。
「それなら、町中を歩いてみたらどうでござろうか。特に宗次郎はここに来てからは外を出歩いてはいないわけだし、何か物珍しいものも見つかるやもしれぬよ」
「! それだ!」
 弥彦は思わず人差し指で剣心を指差す。
 街見物。むしろ散歩か、ともあれ大いに結構。
 確かに匿ってからこっち、神谷家敷地から一歩も出ていない宗次郎にとっては気晴らしになるだろうし、ブラつけば子ども向けの玩具を売っている小間物屋だって見つかるだろう。
「央太も帰りがてらになるし、丁度いいな。テキトーに、その辺一緒にブラブラしてくっか」
 すっかり快活な表情に戻った弥彦は宗次郎と央太の肩をぽんと叩き、出発を促す。あの、と遠慮がちに振りかえる宗次郎に、剣心は「気を付けていってくるでござるよ」と送り出す姿勢である。ただ、弥彦、と小さく呼び止めた。どうやら子ども二人には聞かれたくない話のようだ、何となくそれを察した弥彦は、剣心の近くまで引き返す。
 思った通り、剣心はごくごく抑えた声だ。
「もしかしたら、宗次郎を追っていた者達と出くわすこともあるかも知れぬ。その時は…」
「あぁ、分かってるさ」
 皆まで言わせず弥彦は頷く。
 仮に、本当に宗次郎を追っている者達と出くわしたとしても、双方の言い分を改めて聞くまではどうにも手は出せない。しかし、こうして数日共に過ごしたことで、宗次郎にはすっかり情が移っている。
 本当の事情如何にもよるが、できることなら宗次郎の味方をしてやりたい、と弥彦は思う。それが人情というものだ。そうでなくても、相手は年端も行かない少年をタコ殴りにするような輩なのだ。
「しっかり守ってやるから、安心しろって」
 背負っている木刀に弥彦は意識を向ける。無論、これを使わないで済めばそれが一番だが、使うにしても使わないにしても、状況をしっかり見極めて、自分の心に従って行動したい。
 弥彦の、小声ながらも力強い答えに、剣心も「頼りにしているでごさるよ」と言わんばかりの目線を返した。
「…よっし、んじゃ行くか」
 年長者二人の会話内容など露知らぬ央太と宗次郎の頭をわしゃわしゃと撫で回しながら、弥彦は出立を告げる。去り際、央太は剣心に小さく頭を下げ、宗次郎もそれに倣う。
「どうも、お邪魔しました」
「それじゃあ、あの、行ってきます」
「あぁ、気を付けて行くでござるよ」
 にこやかな剣心に見送られながら、三人は神谷家の表門を出ていく。自分も行きたい、というわけではないだろうが、今や短くなった剣心の髪を剣路が思いっきり掴んでぐいぐいと引っ張る。「これこれ」と窘めて軽く剣路の腰の辺りを撫で、しかしその三人の姿がすっかり見えなくなってから、剣心はふと神妙な顔つきになったのだった。







「わぁ…この辺りって、凄く賑わっているんですね」
 弥彦や央太にとっては馴染みの界隈を、宗次郎は屈託のない声を上げながらきょろきょろと見回している。
 通りを歩く人々の多さ。立ち並ぶ商店の中から聞こえてくる、客を呼ぶ声。すぐ脇を笑い声を上げながら走り去っていく、近所の小さな子ども達。
 弥彦にとっては普段と何ら変わらない景色だが、宗次郎にはやはり物珍しいのだろう。央太も何やら張り切って、あそこのお店はどーの、とか、あっちの方には何々が…と宗次郎に説明してやっている。
 家に籠りっきりより、連れ出して正解だったなー、と弥彦は思いつつ、
(…でもこいつ、どこから来たんだろーな…)
 そんな疑念もまた、過ぎる。
 宗次郎のこの様子から、この辺りの子どもではない、ということは判断できそうだ。近くの出身ならもう少し土地勘はあるだろう。果たして彼は一体どこから来たのか。それに、出身地の他にも気になることはまだある。
 追われている、と言って彼は逃げてきた。逃げた先がたまたま、神谷道場だっただけだ。他に行く宛ては無かったのか。宗次郎を探している親や家族はいないのか。どちらも無いからこそ黙っている、ということも勿論考えられる。何しろ、かつての自分がそうだった。
 ヤクザの元にいた頃、正直、悪事に手を染め続けるのは御免だと、足を洗おうとしたことも何度もある。そのたびに弥彦は思ったものだ。ヤクザの元を抜け出したとして、頼れる身内も何の後ろ盾も無い子どもがどうやって生きていくか。そんなのはたかが知れている。土台、逃げてもその内に見つかり、手酷い仕置きを受けた後に連れ戻されるのがオチだ。
 誰も頼れない、真っ当に生きようとしてもそうそう簡単に差し伸べられる手も無い。誰かに助けを求めようとする気すらなかった。どうせヤクザが相手では、事態は好転しないに決まっている。そこにあったのはどこか諦めにも似た気持ち。そして万一逃げおおせたにしても、行く宛てだって当然、どこにも無いのだ。
 町の暗闇にたむろする浮浪児達の仲間入りをすることもできただろう、しかし彼らもまた生きるためには、どんなに汚いことでも平気でしようとする。盗みでも、恐喝でも、それこそ人を傷つけることも。荒んだ暮らしの中では心もまた尖り、攻撃的になる。そうでなければ生き延びられない。他者を押しのけてまでも、強くあろうとしていなければ。
 どの道、生き方が変わらないのなら、と弥彦は甘んじてあの立場を受け入れていた。誰かを食い物にするような、そんな生き方を心根ではしたくない、と反発していても、幼くして自分を庇護してくれる存在を失った身では、どうしようもなかった。あの日あの橋の上で剣心や薫に出会っていなかったら、今頃自分もどうなっていたか。
 宗次郎ももしかしたら、あの頃の自分と同じなのかもしれない…。そんな風にも考える。もう既に頼れる人も帰りたい場所も無く、だからこそ何も言わず、ようやく飛び込めた温かい場所、そんな自分を保護してくれた人達の元で、ただ安息に浸るように過ごすことを望んでいるのではないのか、と。
 一方的な、勝手な解釈だったがしかし、案外当たらずとも遠からずというところなのではないかと、弥彦ははしゃぐ宗次郎と央太とを見やりながら、ぼんやりとそんな思考を巡らせていた。
「……おっと、」
 茫漠と考え事をしながらも、目の前の小間物屋の中から子ども達が数人、喜び勇んで飛び出そうとしているのが見えた。弥彦は咄嗟に前を歩く宗次郎と央太の首根っこ辺りの着物を掴んでやる。
 強制的に動きを止められてしまった二人の前を、わーっと声を上げた子ども達が過ぎ去った。あと一歩遅れていたら、間違いなくぶつかっていたことだろう。
 宗次郎達よりも少し小さいくらいのその子ども達は男女取り交ぜて五人程、恐らくは近所の幼馴染同士で買い物にでも来ていたのでは、と見当が付いた。彼らは家に帰るまで待ちきれない、といった様子で、通りの隅っこで遊び始めた。両の手を擦り合わせて、空に何かをしゅっと送り出す。竹トンボだ。竹の切れっぱしに串が刺さっている、という何とも簡単な造りの玩具なのに、不思議な程に高く飛ぶのだ。
 子ども達はわーわー言いながら竹トンボを次々に飛ばしている。どうやら飛ばし合いっこをしているらしい。
 弥彦自身は「懐かしーな」という思いでその光景を見ていたのだが、どうにも、宗次郎の方は違うようだ。楽しそうに遊んでいるその子ども達から目が離せず、その場にただ突っ立っている。自分のような郷愁ではなく、羨望の眼差しがそこにはあるように思えた。
(まるで珍しいもんでも見てるみてーに…)
 割と大衆的な玩具だ。しかしふと、弥彦は思い直して、宗次郎と央太が遊ぶ子ども達を眺めている間に素早くその小間物屋に入ると、竹トンボを二つ購入した。どうせ大した値段ではない。二人の背後から近付いて、驚かせるようにその竹トンボを見せてやる。
「オメーらもやってみるか?」
 案の定、突然降って湧いた竹トンボに子ども達は驚いていた。宗次郎の方は特に、大きい目をさらに丸くして弥彦を見上げている。
「あの、若先生…」
「気にすんな。央太はいつも稽古も頑張ってっからな。ご褒美みてーなもんだ」
 でも他の奴らにゃ内緒な、と気兼ねした風な央太には洒落っ気を交えて言ってやる。
「元々遊ぶつもりで出てきたんだしな。ちょっと広いとこまで行こうぜ」
 弥彦はひょいひょいと二人に竹トンボを手渡し、先導するように歩き出す。二、三分程歩いて辿り着いたのは、疎らな民家の間に広がるような原っぱだ。
 空には茜色が差し始める中、草の中に足を踏み入れるとそのたびにバッタやらコオロギやらが勢いよく飛び出してきて、竹トンボ遊びに飽きた後に虫取りをすることだってできそうだ。
 央太は早速、手の中でくるくると竹トンボを回している。宗次郎は、というと、竹トンボをしげしげと眺めているだけで、その手を動かそうとしない。
「どうしたの? 宗次郎君、やってみようよ!」
「見たことはあるけど、やったことは無くて……」
「じゃあ教えてあげる! この棒の所をね、こうやって掌の間に挟んで……」
 実演も交えながら、央太は宗次郎に竹トンボの遊び方を教えてやっている。央太の竹トンボはひゅんと空を舞い、宗次郎も真似をしてやってみるもののうまく飛ばず、ぽと、と落ちてしまう。あれ、と肩を落とす宗次郎を央太は励まし、こんな風にするといいよ、と改善点を伝えたりしていた。
 次第に宗次郎もコツを掴んできたようで、ついに彼の竹トンボも高く高く飛んだ。わぁっと歓声を上げて見送って、しかし存外遠くに飛んで行ってしまい、草むらの深い所に着地する。慌てて探しにいく二人。草同士が擦れ合い、かさかさと音を立てる。
「あれ…どこ行っちゃったかなぁ」
「あ、こっち、あったよ宗次郎君! …あれ、大きいバッタがいる! 見て見て!」
「えっ、どこ? あ、本当だ」
「あー…逃げちゃった。残念。でも、やったね。竹トンボ上手に飛んだね! もう一回やってみようよ」
「うん!」
 盛り上がりながらも、遊びに興じる二人。少し離れたところからそれを眺めつつ、弥彦は子どもの遊びってのは本来、こういうもんだよなと少し安心した心地でいた。互いに自然と関わり合いながら、会話を楽しみ、遊びを膨らませていく。遊ぼう、と誘って始まる遊びもある。しかしむしろ、誰かと一緒に過ごすこと、その行動そのものこそが遊びになっていく…。
 時に虫取り、野草取りに脱線しながらも、宗次郎と央太は実に楽しそうな笑顔で遊んでいる。竹トンボの飛ばし合いも始まり、僕の方が飛んだ、だの、僕の方が遠くに行った、だの、可愛らしい張り合いをしている姿すら見られた。
(竹トンボくれーで、あんなにはしゃいじまって……)
 正直、そういった思いも少なからずある。買える玩具としてはごくごく手が届くものなのに、それでも宗次郎はそれを知らずにいたのだ。
 いつしか央太とあちこちを走り回り、息を切らせている宗次郎が近くに来た時、弥彦は思わずこう投げかけていた。
「楽しいか?」
「はい!」
 返ってきたのは、その言葉と満面の笑みだ。またすぐさま央太の方へ駆けていく宗次郎を見て、弥彦は小さく頬を掻いた。
(…まぁ、いいか)
 少なくとも買い与えた甲斐はある。この笑顔が見られただけでも。
 次第に足元の影が濃くなる中、宗次郎と央太はそうして長いこと、一緒に遊んでいた。








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