―終章―
陽が昇る限り、朝は来る。地上の様がどうであろうと、光そのものは万人に降り注ぐ。
幼い宗次郎が消えた神谷道場にもまた。新しい朝は、訪れていた。障子戸を開け放し、その柔らかで眩しい光が射し込む一室で、宗次郎は剣心達と酒を酌み交わしていた。
「僕が言うのも何ですけど…、本当に不思議な出来事でしたね」
「そうでござるな」
宗次郎は静かにお猪口を傾ける。宗次郎の向かいに座る剣心も、穏やかな笑顔で酒を嗜んでいた。かつて互いに命がけで刀を合わせたのが夢であるかのように、しかしあの闘いがあったからこそ、この時間はあるのだろう。
「一体、僕はどうして離魂病なんかになったのやら…。…でも、一つ思い当たったことがあるんです」
「何だよ?」
宗次郎と剣心とを加えて三角形を描くような位置に座る弥彦が問う。
「しばらく前に、凄い嵐の日があったじゃないですか。僕その時、ここから離れた山中の洞穴で野宿してたんですけど、雨を見ながらふと考えちゃったんですよね。
初めて人を殺した、嵐の夜の“あの時”に僕は守って貰えなかったけど、誰かに守って貰えてたらどうだったんだろう、って。…そんなの、幾ら考えても詮無いことなんですけどね」
「……」
「それがきっかけであの子は僕から逃げて、勝手に探しに行っちゃったのかもしれませんね」
さらりと言い、あははは、と宗次郎は朗らかに笑う。宗次郎のお猪口が空になっているのに気付いて、剣心は徳利から酒を注いだ。弥彦も手の中の酒をぼんやりと見つめてから、ぐいとそれを煽る。
「まぁ、何にせよ一人に戻れたようで良かったです。皆さんには、長らくご迷惑おかけしました」
宗次郎は剣心と弥彦に、小さく会釈する。
「気にすることはないでござるよ。あちらの宗次郎にも言ったが、楽しかったでござるし」
「そうよ、楽しかったわ。宗次郎君も旅の途中でまた近くまで来たら、絶対にウチに寄ってよ! 遠慮なんていらないからねっ」
厨で酒の肴を用意していた薫が、剣心の言葉を引き継ぐようにして室内に入ってきた。剣路を背中に負ぶい紐で括りつけている薫は、男三人の前に肴の皿を並べると輪に加わる。
ごく自然に接してくる剣心組に、宗次郎はのんびりと笑う。
「あの子も、本当に楽しかったんでしょうね。戻りたくないってごねるくらい。…でもね、緋村さん。いくら元々の一人に戻ったっていっても、僕はここでの思い出をあの子と共有してないんです」
「え?」
「僕には、ここで過ごしていた時の楽しい記憶は無いんですよ。その思い出は、きっとあの子の中にしか存在していないんです」
宗次郎の説明に、何とも言えない感慨を剣心達は覚える。
薫のお粥に感動していたこと。剣心の家事仕事を手伝ったこと。弥彦や央太と遊んだこと。様々な感情を表したこと。上っ面でなく、笑っていたこと。
幼い宗次郎が神谷道場で過ごしていた数々の日々は、青年の心には最早無いという。少年が本当は何を思い、何を感じ、何を歓びとしていたのか…、それはあの幼い宗次郎にしか分からない。
「あの子は僕だけど、厳密には僕じゃない。……だからやっぱり、ちょっと、羨ましいや」
憧憬の微笑みには、当然あの少年の面影が残る。皆の胸に一筋の淋しさが通り抜け、そしてそれは種類こそ異なれど、この青年も同様なのかもしれなかった。
「…あの子が求めていたものを、お主も手に入れることはできる。お主もそれを望むのならば。償いの方法や、答えを見つけるその道程で…、お主にも見つけられる筈と、拙者は思うでござるよ」
「そうよ! 今度はあなた自身が色んなことをして色んなことを感じて…、色んな気分を味わう番でしょう? そうしていけばいつか、あなたの答えも見つかるかもしれないわ」
剣心と薫は宗次郎を明るく力付ける。弥彦も強気な笑みで言った。
「…ま、知り合っちまった縁だ。何か厄介事や困ったことがあったら、いつでも俺達を頼っていいぜ。…それに、あいつと約束したからな。何があっても、俺達はお前の味方だって。お前も一応、あいつだからな」
「…結構義理堅いんですね、弥彦君て」
「結構たぁ何だ! 俺はそのうち日本二の剣客になる、東京府士族明神弥彦だぞ! テメーにも負けねーからなっ!」
「威勢がいいなぁ。頑張って下さいね」
「ぐっ…何か馬鹿にされてるみてーだな…。…ったく、こっちの宗次郎は可愛気ねーなぁ!」
弥彦と宗次郎の温度差のあるやり取りに、剣心と薫は笑い声を零す。
「ふふ。弥彦ったら、宗君がいなくなって寂しいのよね。そんなわけだから宗次郎君、いつでも気兼ねなくここに来てね」
「ばっ…誰が寂しいだ馬鹿ヤロー!!」
「ホントのこと言っただけでしょー?」
「あんだってぇ!? 寂しくてピーピー泣いてたのは、薫の方じゃねーか!」
「なっ…何よ!」
「これこれ、二人共。落ち着くでござるよ。剣路もびっくりするでござるし…」
「あははっ。ここは本当に、賑やかですね」
賑やかを通り越して喧騒となっていくが、やはり部屋の空気は前向きで明るく、希望に満ちたものだった。
瀬田宗次郎は今日、神谷道場を発つ。
※ ※ ※
日常が戻ってきた。不思議な出会いが起こる前と同じように。
何の変哲も無い、秋の一日。
薫は縁側で、乾いた洗濯物を畳んでいた。近くに座る剣路が、着物をちょいちょいと引っ張り『構ってくれ』と訴える。
「ごめんね、剣路。もう少し待っててね。…遊んでくれるお兄ちゃんが一人いなくなっちゃって、寂しいねぇ」
言いながら薫が手に取ったのは、幼い宗次郎が借りて着ていた、弥彦のお下がりの着物だった。
「…次にこの着物を使うのは、剣路が大きくなってからかしらね」
淋しそうに笑う薫はしばらくその着物を眺め、それから丁寧に畳んでいった。
(…宗次郎。どうかお主の旅が、実り大きものであるよう)
中庭で目を閉じ、剣心は祈る。
京都での闘いの後の彼の行く末は気にかかっていたから、今回の件で彼が自分自身の意志で歩き出す選択をしたことを知ることができたのは、剣心にとっては幸いだった。
宗次郎が一体どんな答えを出すのかは分からない。けれど、それが彼が本心から納得できるものであればいいと剣心は思う。そして。
ここであの少年がしていたように、彼もまたいつの日か、素直に表情や感情を表し、心のままに生きていけることを願う。
くるくると、央太の手の中で竹トンボが踊っていた。それを一緒に飛ばし合う相手は、もういない。
「本当にいなくなっちゃったんだね、宗次郎君…」
「……」
がっかりと肩を落とす央太の頭を、弥彦はがしがしと撫でてやる。
いつものように稽古に来て、けれど道場や母屋のどこにも宗次郎の姿が見当たらないことに、央太はようやく別れを実感し、落ち込んでいた。道場の表門まで見送りに出た弥彦の前で、央太は重い溜め息を吐く。
「せっかく友達になれたのにな…」
「…元気出せって。あいつ、出立の時に竹トンボ、ちゃんと持ってってたから」
「…ホントですか若先生」
「ああ、ホントホント。…もう会うことはないかもしれなくても、お前も、あの竹トンボもちゃんと、あいつの思い出の一つになってるって」
自分で言いながら、弥彦はそうだよなと思う。あの宗次郎が消えても、あいつと皆がここで過ごした時間まで消えたわけじゃねェんだ。
央太に本当のことは言えないけれど。別れを乗り越えて進まなくちゃいけない時もある。
「…うん」
央太は芯の強さを見せ、笑みを取り戻し頷いた。それに弥彦はほっとして、また頭をがしがししてやった。
※ ※ ※
「…あれ。意外にうまくいかないなぁ」
野を走るとある街道にて。
人気の無いその場所で、瀬田宗次郎は竹トンボを飛ばすことを試みていた。飛ばし方は一応知っているのだが、思った程飛ばない。
「もう少し手を擦り合わせればいいのかな? それとも、手を離す時にコツがいるのかな。…うーん、分かれ道があったから、竹トンボを飛ばして決めようと思ったんだけどなぁ…」
誰もいないのをいいことに、独り言全開の宗次郎。ああでもないこうでもないと何度も試しているうちにようやく、遠く高く飛ぶようになった。
「あはは、やった! …へぇ、結構飛ぶんだなぁ」
草むらの上に落ちた竹トンボを宗次郎は拾いに行く。歩くと近くにある草からもバッタやコオロギが飛び出してきて、宗次郎はそちらにはちらりと目を向けたくらいで、目的の物を目指した。
「えーと、どこだろう。…あ、あった」
背丈のある草に引っ掛かっていた竹トンボを宗次郎は拾い上げる。それを目の前に持ってきて、何となく眺めて、にっこりした。
「さぁ、次に僕が行くのは…、右かな、左かな?」
答えを見つけ出す為に、それに少しでも近付く為に。
竹トンボに行き先を委ね、宗次郎は道の分岐点に立つと無邪気に竹トンボを飛ばす。
どこまでも澄む青空に、その形が映えた。
了
『少年の日の思い出』これで完結です。pixivにはすべて掲載済みでしたが、サイトの方にアップするのが非常に遅くなりまして、申しわけありません。
約5年に渡る連載にお付き合い頂き、ありがとうございました!(サイトにアップする為の編集にあたり、序章を書いたのが2013年ということにとても驚いている)
そもそも、何故こんな無茶苦茶な話を書いたのかというと、宗次郎自身は償いや答え探しの旅の果てに救われる余地はあるけれども、殺されかけたその時の宗次郎が救われることは未来永劫無いんだなぁ…と、そんなことを思ったのがきっかけです。
そうした幼い頃の宗次郎を救済し、単に甘やかしてあげたかったのです。
幼い宗次郎がタイムスリップ…かと思いきやまさかのドッペルゲンガーでしたが、タイムスリップだと歴史が変わってしまうので、あくまでも宗次郎の分身ということに。
ほんとその辺り無茶苦茶ですが、人間が霊を霊と気付かずまま共に過ごす…的な蘇り系の話が世の中には結構あるし!…と、半ば開き直ることにしました。
幼い宗次郎の正体を知ってから最初から読み返すと、あぁ成程!ってな場面もあると思います。
神谷道場の面々に関しては、もし彼らが幼い頃の宗次郎に出会ってたら、どんな風に行動するか?を念頭に、描写してみました。きっと剣心達なら、こんな風に温かく幼い宗次郎に接してくれた筈…。
央太に関しては、性格とか完全に想像と捏造の産物ですが。
今回は章ごとに主に剣心・薫・弥彦視点で書いてみましたが、敢えて宗次郎の視点は入れておりません。幼い宗次郎が何を思い、何を感じ何を考えたのか…。その辺りは、皆様のご想像にお任せします。
幼い宗次郎が何気ないに日常を過ごす場面を書けて楽しく、また、同時に切なかったですが、この小説の中だけでも彼に少しでも幸せな思いをさせてあげられたなら、よかったのかなぁと思います。
後書きも長くなってしまいましたが、ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます!
北海道編が始まる前に何とかこの話を書き上げたいと思っていたので、ギリギリ間に合って良かったです。(注:書き上がったのは2017年9月)
2019,3,10
完成:2017,9,3
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