―第一章―
「瀬田…宗次郎……」
少年が告げたその名に、剣心は瞠目したまま呟くことしかできなかった。
知った名だった。それも、良くも悪くも印象深い。
色鮮やかだがもう懐かしい思い出の一つにもなりつつある、志々雄一派との闘い。その時に出会った青年の名と全く同じなのだ。瀬田宗次郎。内務卿・大久保利通暗殺の実行犯であり、志々雄真実の懐刀。
精鋭部隊十本刀一の剣客でもあり、剣心自身も苦戦を強いられた。感情が欠落している、と評せるまでに心理や思考が読めなかった相手。闘いには似つかわしくない子どもめいた笑みを常に浮かべている癖に、その実、剣を持つと修羅の如き強さと容赦の無さなのだ。
けれど、それにも全て何らかの深い理由があるのではないか、と、彼との再戦の際に剣心は感じられた。それが何かまでは分からなくても、彼が抱える闇がどれだけ深いかも分からなくても……それでもあの時、久方振りに表出した感情に翻弄され、怒りとおそらくとは悲しみとで支配されていた彼に、剣心は己の考え得る限りでの精一杯の言葉を贈った。もし心の奥底で感じている悔いがあるのなら、今からでもやり直しは効くのではないか。本当の答えは勝ち負けではなく、自分の生き方の中から見出すべきだ、と。
宗次郎とは、その闘い以来会っていない。同じく十本刀の張の話では、警察に捕縛されることなく逃走した、とのことだ。あの青年の飄々とした様を思えば、存外今もにこにことどこかで過ごしているのかもしれない。それでも、二度目の闘いの最中に取り乱していた姿があまりにも痛々しかったのは確かで、何気なくふと、思い出すことがあったのも本当だ。あの青年は元気にしているだろうか。今どこで何をしているのだろうか、と。
今でも彼が健在ならもう二十歳は越えているだろう。だからこの今目の前にいる十にも満たぬ少年と、幾ら名前が同じだからといって、同一人物である筈は無い。しかし……、
単なる偶然にしては、顔があまりにも似過ぎている。何故、もっと早く気付かなかったのか。けれど少年が笑みを浮かべて初めてその正体に思い当たったということはやはり、あの青年の笑顔がそれだけ彼の象徴として剣心の胸に刻まれているからだろう。
改めて少年の顔を観察してみると、その造りはやはり似ている。青年宗次郎の面影がはっきり残っていると言っていい。いや、この少年が順調に歳を重ねれば、恐らくはあの柔和な顔立ちになるといった方が正しいか。
瀬田という性も宗次郎という名も、そこまで珍しいものではない。一致する人間は、日本のどこかにまだいるかもしれない。しかし、顔形までこうも似通っているということなど、有り得るのだろうか?
「どうしたの? 剣心。知ってる名前なの?」
剣心がぼんやりしていることを不審に思ったのか、薫がそんなことを言う。弥彦も首を捻りながら、
「そーいや…何かどこかで聞いたことがある気が」
「あ、……いや」
剣心は思わず誤魔化すような笑みを浮かべてしまう。
瀬田宗次郎については、志々雄一派との闘いが一段落した折に確かに二人に話してはいた。思えば弥彦が剣心の背中の傷を不思議がって、それで話したのが発端だった気がする。けれどそれでも、薫と弥彦自体は宗次郎と直接面識があったわけではないし、頻繁に話を聞かせたわけでもないから、あの闘いから数年を経た今では二人には印象が薄いのかもしれない。
改めて話せば思い出す可能性は高い……が、この疑念も得体が知れない以上、余計なことを言って二人に心配をかける必要も無いだろう。
(やはり単なる偶然……でござろう)
それで片付けられれば楽だったが、しかしその言葉だけで片付けるにはあまりにも、不可解な点が多過ぎる。剣心自身、その結論に納得しているわけではなかったが、今の段階ではそれ以上の答えは出ない。
「気のせい……うむ、気のせいでござるよ」
薫達をはぐらかすように、或いは自分自身にも向けて剣心はおどけるようにそう言った。
あの青年とこの少年に一体どんな関連があるのか。気にならないといったら嘘になるが、とりあえず思いあぐねていても仕方ない。
剣心は今ばかりは少し意図的に笑みを浮かべて、少年に話しかける。
「して、……その、宗次郎。腹は減ってはおらぬか」
一瞬、何と呼びかけたらいいものか迷ったが、結局はあの青年と同じ呼び方を採用することにする。
我ながらあからさまに話題を変えたな、と剣心は思ったが、幸いなことに薫がその意図には気付かずに話に乗ってくれた。
「そうよね! 私達もまだ朝ご飯食べてなかったし、宗次郎君もお腹空いてるわよね。待っててね、今すぐに用意するから」
薫が腰を浮かそうとするのを見て、宗次郎少年は遠慮がちに声を上げる。
「いえ、あの……大丈夫です」
それは気弱な少年そのもので、しかし薫は明るく笑う。
「遠慮なんてしないで。玄斎先生も言ってたけど、まずは何か食べた方がいいわ」
「でも……」
「いーのいーの! まずはお粥みたいな食べやすいものがいいかしら? 弥彦、剣路の子守りよろしくね」
薫はひょい、と剣路を弥彦に手渡すと、軽い足取りで部屋を出ていってしまう。
ぽかん、と薫の姿を見送る宗次郎に、弥彦はやれやれ、といった風に笑ってみせる。薫は我が子が生まれてから、他者に対するお人好しにも拍車がかかった気がする。
「ま、薫はあーいう奴だから。言い出したら聞きやしねェよ」
「はぁ…」
「弱ってんだし、確かに遠慮すんなって。俺は明神弥彦。よろしくな」
気さくな笑みと共に名乗る弥彦に宗次郎もまた小さく笑ったのを見て、剣心は再び靄を飲み込んだような感覚に陥る。やはり似ている。
「んで、こっちは緋村剣心。こんななりだけど、滅茶苦茶強い剣客なんだぜ!」
「何でござるか、その紹介の仕方は」
胸を張る弥彦に剣心は苦笑する。宗次郎の方へと顔を向けてみれば、彼は少し目を丸くしてこちらを見ている。
「どうしたでござるか?」
「あ、いえ……」
恐らくは何かを考えていたのだろうに、言わないまま飲み込んでしまう。青年の宗次郎とは違う点だ。あの青年は口調こそ穏やかだったが、言いたいことははっきりと言っていた。慣れぬ場所、という理由もあるのだろうが、こちらの宗次郎は随分と引っ込み思案だ。名や顔の相似が気になるせいか、つい比較してしまう。
「さて、と。そろそろ儂は帰るとするかの」
よっこらせと玄斎が立ち上がったのを見て、剣心が改めて礼を述べる。
「朝早くから忝いでござる。どうでござるか、せっかくだし一緒に朝餉でも」
「有り難い話じゃが、そろそろ診療所に戻らないといかんでな、それはまた今度にしよう。……のぉ、宗次郎君」
退出する前に玄斎は宗次郎をじっと見据える。医者として、そして長く生きてきた年長者としての真摯な眼差しだ。
「君には何やら深い事情がありそうじゃが、まずは身も心も休めるべきじゃ。ここに辿り着いたのは幸いだったかもしれん……賑やかな場所じゃが、温かい場所でもある。ゆっくりと養生するんじゃよ」
「……」
宗次郎は何と返せばいいか分からない、といった風に曖昧に笑んだ。無言のまま、玄斎に向かって小さく頭を下げる。
玄斎は皺だらけの頬を緩め、穏やかに笑った。うむ、とゆっくりと頷きそっと部屋を後にする。
障子戸同士の合わさる音、そして玄斎の遠ざかる足音の後は、皆何となく無言で、剣路があーあーと母を求めてぐずる声だけが辺りに響く。
あまりにも剣路が膝の上で暴れるものだから、弥彦は仕方なく一旦畳の上に降ろしてやる。剣路は這って付近をうろうろとするが、やがて剣心の背後に辿り着く。背中側の着物を掴んでようやっと立ち上がると、そのまま剣心の背中にへばりつくでもなく、一歩、二歩とまた畳の方へと進んでいってしまう。まだ一人歩きができないからすぐに力尽き、剣路はぺしゃんと尻餅をつく。するとまた這い這いで剣心の元に戻って、掴まり立ちを始めるのだ。
皆が座っている中で一人動いている者がいると、自然そちらへと目が向くもので、それが幼子なら尚更で、皆何となく剣路を見る。
そんな光景が何度か繰り返され、剣心はとほほ、と困り顔になった。これでは懐かれているのではなく、単純に立つ為に利用されているようである。
「…父はお主の掴まり立ちの為の柱でござるか」
「あははっ」
その時初めて、宗次郎が小さく声を上げて笑った。それで剣心が宗次郎の方を見遣ると、彼は些か気まずそうに笑みを引っ込めた。
「…そんな一々ビクビクしなくても、誰も取って食いやしねェよ。もっと肩の力抜けよ、お前」
若干の溜め息交じりと共に出てきた弥彦の一言は、宗次郎の態度を端的に表している。
そう、これは剣心も感じていたことだ。この宗次郎は常に相手の顔色を伺うかのような、そんな目をしている。周囲への警戒心を解けずにいる。
傷だらけで追われている、と訴えていたことから尋常でない事態が彼の身に降りかかったということは判明しているが、それでも無事に匿われた後でもこの様子。
もっとも、それも無理は無い、と剣心は思う。
「まぁまぁ弥彦。余程恐ろしい目に遭ったのでござろう。おいそれと安心できぬのも致し方ない」
と弥彦にこう言っておいて、
「けれど、宗次郎。ここにはお主を無闇に傷つけるような輩はおらぬ故、気兼ねなく過ごせばいいでござるよ」
まだどこか居心地悪そうに身を縮こまらせている宗次郎に、剣心はそう告げた。
言ったところで、この言葉が真に事実であるかどうか、宗次郎がすぐに信じられないのも無論無理からぬ話だ。誰かに手酷く傷つけられたことのある人間は、別の誰かに縋るように助けを求める一方で、その相手が信用するに値するかどうか、酷く警戒し怯えるものだ。助けてくれた者に気を許したい半面、自身の身をまた守るために頑なになる。
この人は本当にいい人なのか。どうせまた自分を傷つけるんじゃないか。そんな疑いが消せずにいる。
恐らくは、この宗次郎もその例に洩れないのだろう。そしてそれを抜きにしていても、他者からの無償の厚意や好意、優しさといったものに単にこの子は慣れていないのではないか……剣心には何となく、そんな風に思えてならなかった。
と、こちらへと元気な足音が向かってくる。からっと障子戸が開いて、その主が明るい笑顔と共に姿を現した。
「宗次郎君、おまたせ!」
戻ってきた薫は、土鍋やら茶碗やら湯呑みやらを載せたお盆を手にしていた。薫の人柄がそうさせるのだろう、場の雰囲気がぱっと華やぐ。
宗次郎の前に腰を下ろした薫が、土鍋から黄色い粥らしきものを茶碗によそい出したのを見て、弥彦がゲッという顔つきになる。
「あれだけ言ったのに、結局薫が作ったのかよ!」
「だって、待ってても剣心来ないんだもの」
「それにしても随分と早ぇな」
「丁度冷ご飯があったからね。それで作ったのよ。いつまでもお腹空いたままじゃ、宗次郎君可哀想でしょ」
「まずい飯食わされる方がよっぽど可哀想だぜ…」
「何ですってェ弥彦!?」
「おろ……薫殿も弥彦も落ち着いて」
また言い争いを始めそうな二人を剣心は早々に諫める。宗次郎は、というと見た目だけはまぁまともそうな卵入りのお粥に目が釘付けなっている。当人は遠慮していたが、空腹なのは間違いなさそうだ。
「弥彦も薫殿もこう言っているでござるが、食べるかどうかはお主に任せるでござるよ。あまり気が進まぬというのなら、拙者が作り直しても構わぬし」
さらりと手酷いことを言っている剣心である。
しばし迷っていた風な宗次郎だったが、ややあってこくりと頷いた。
「じゃあ……その、せっかくだから、頂きます」
「良かった! 食べて食べて!」
「本気かよ……これだけ言ってるのになかなか勇気あんなお前……やめとくなら今の内だぜ」
嬉々として茶碗や匙を宗次郎に手渡す薫の隣で、弥彦が渋い顔で忠告する。
「それじゃあ、頂きます」
どうぞどうぞ、と進めながら、薫は宗次郎の動向を見守る。一口分を匙に乗せ、ふうふうと息を吹きかけてから口に運ぶ。ぱく、と食べて咀嚼している間に宗次郎は次の一口を匙ですくっている。次の一口も、また次の一口も、宗次郎は真顔で食べている。
「ど、どう……?」
喜ぶでもなく吐き出すでもなく、無反応で食べている宗次郎の感想が気になるようで、薫は恐る恐る尋ねる。あっという間に全体の三分の一程を食べてしまった宗次郎は、ようやく顔を上げ、にっこりと笑った。
「おいしいです。ありがとうございます」
その答えに薫の表情がぱあっと輝く。人に料理の味をけなされることはあっても、褒められることなど碌に無い(むしろ皆無)なのだ。剣心ですら褒めるような言い回しはするが、直に美味しい、とは言ってくれない。だからこそのこの宗次郎の反応に、薫は一瞬にして有頂天になってしまう。
「本っっ当!? 嬉しいわ宗次郎君! 今回のは自信作なの! いっぱいあるからどんどん食べて!」
「マジかよ? どれ…」
ぴょんぴょんと跳ねそうなくらいにはしゃいでいる薫を尻目に、弥彦は土鍋に残った分を己の掌にほんの少し乗せてみる。どんな出来のものでも『今回は自信作』と言う薫の評価は当てにならないが、初めて食べる薫の料理を吐き出さず(しかも食べ進めている!)宗次郎を見る限りでは、意外に珍しくうまくできているんだろうか…。そう思いながらぱく、とつまみ食いした弥彦は、しかし咀嚼しているうちに変な顔になる。
火を通し過ぎたのか、卵がぼそぼそしていて舌触りが悪い。かと思えば、ご飯の方は所々芯が残っていて、こちらは柔らかいお粥にするには温めるのが足りな過ぎる。
肝心の味は、と言うと、塩気が足りず薄ぼんやりとした仕上がりとなっている。水分が飛び過ぎてしまっていることもあり、やはり全体的にぼそぼそとしていて食べ辛い。
吐き出す程ではないが、はっきり言ってしまえばまずいのだ。
「まっず……お前、よくこんなもん美味いって言って食べられるな……」
お茶でも飲んで口の中に残る後味の悪さを流してしまいたいところだが、今この場には宗次郎分のお茶しかないからそれはできない。
舌の上にある妙な味と格闘しつつ、弥彦は宗次郎に同情するような、ある意味称賛するような視線を向ける。まだぱくぱくと粥を食べ進めていた宗次郎は、そこで一度、手を止める。そのまま、ぼんやりと手の内にある茶碗を見た。
「……こんな風に誰かにご飯を作って貰うことなんて、もう長いことなかったから」
誰に言うでもなく、独り言のような口振りだった。
何でもないという風に語っているが、その内容に込められた重さに、場はしんと静まり返る。ただでさえこの少年は傷だらけなのだ。それも、玄斎の見立てでは長いこと暴力を振るわれ続けてきたという…。そんな環境の中で、この少年がどんな食事事情であったのかということも、剣心はその一言で悟ってしまった。
(そうか、この子は……)
まず人には勧められない出来の薫の料理を、美味しいと言ってぱくつく。それだけこの少年が普段からまともな食事にありついていないことの証であり、だからこそ同世代の少年と比べれば小柄で痩せているということにも、納得がいった。仮に自分の分は自分で用意していたのだとしても、それだって満足なものではないだろう。
「でも、おいしいです。本当に。ありがとうございます」
途端に立ち込めた重い空気の中でも、宗次郎は明るく笑って粥を食べ進めている。少し元気を取り戻したようだ。にこにこして美味しい美味しいと薫の粥を食べる彼を不憫に思ったのか、弥彦は剣心に耳打ちするように言う。
「なぁ、剣心……薫の飯なんかで美味いって満足してちゃ、コイツ気の毒だぜ。昼飯は剣心作ってやれよ」
そうでござるな、と同意しつつ、剣心は食事中の宗次郎にまた視線を戻す。屈託のない笑みは依然青年の宗次郎のものと被るが、考えても詮無いことだ。名が同じで顔が瓜二つなだけで、別人に決まっている。同一の人間であるわけがない。ただ。
『宗次郎は、決して幸せではなかった、ということでござる』
あの闘いの小休止の時に左之助に語った見解が、この少年にも当てはまっているのだということ。
その点にも気付いてしまい、やはり剣心の内には暗雲のようなものが佇んでいた。
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