少年の日の思い出
―序章―
激しい嵐の夜だった。
「…んもう! こう雷が酷いと、剣路が起きちゃうわ!」
布団に寝転がりひくひくと鼻を動かす我が子の横腹の辺りを掌で優しくとんとんと叩きながら、薫が愚痴を零した。
昨年夏に生まれた剣路も、もう一歳を迎えた。父である剣心に良く似た赤く柔らかな髪もすっかり伸び、ふさふさと頭を覆っている。乳離れを済ませたばかりで、だからこそ寝かしつけには大変苦労するのだ。抱っこしてゆらゆら揺すったり、子守唄を延々と唄って聴かせたり……その末にようやく寝付いたというのにこうも大雨と雷とでは、薫がぶちぶちと言いたくなるのも無理は無い。
雨は太鼓を打ち鳴らすように勢いよく神谷家の屋根を叩く。夜空を一瞬白く染め上げる閃光が走り、数秒遅れて轟く音。雷鳴の大きさに、剣路だけでなく薫も思わずびくっとしてしまう。
「薫殿。雨戸は全て閉めてきたでござるよ」
気配を断つようにごくごく静かに障子戸を開けた剣心が、薫と剣路とを気遣い小さな声で告げる。その声はほとんど雨音でかき消されてしまったが、それでも行燈の灯に照らされる穏やかな顔に、薫は ほっと笑みを浮かべる。
「ありがとう、剣心」
薫の隣に座った剣心は、一度着替えたのだろう、寝巻が変わっていた。これだけの雨である、雨戸を閉めるだけでも相当濡れたに違いない。母屋にはすべての箇所に雨戸があるわけではなく、焼け石に水かもしれなかったが、それでもある場所だけでも閉めておいた方が幾らかマシである。
「剣路は大丈夫でござるか」
「今のところはね。ほら」
薫は尚も手を動かし続けている。とん、とん、と、まるで心臓の鼓動をずっと緩やかにしたような律動で。
こちらも母になってまだ一年。いや、腹の中で剣路を育んでいた期間も含めれば二年近くか。日々の子育てにはまだ色々と模索しながらも、すっかり母親の手つきである。母の手の温みに安心するのか、剣路は幸いにも今のところ、外の騒ぎに目を覚ますことは無かった。
「明日雨が上がったら、まずあちこち掃除しなくちゃね」
「そうでござるな」
「ちょうど弥彦がいて良かったわ。頑張って動いて貰わないと」
「先程様子を伺ったら、よく眠っていたでござるよ」
「まったくもう、相変わらず図太いというか何というか…」
「それだけ日中の稽古に熱が入っていたのでござろう」
眠る我が子を見下ろしながら、未だ初々しい夫婦はそんな会話を交わす。
以前は共に居候生活をしていた弥彦は、とっくの昔に長屋に移り住んでいた。しかし昨日は稽古が白熱して長引いたことに加え、剣心がたまにはまた一緒に夕餉を、と誘い引き留めたのだ。その後この土砂降りとなり帰りそびれた弥彦は、久方振りに神谷家の母屋に寝泊まりすることになった。初めのうちは帰る、と言い張っていた弥彦も、薫の「変な気回さなくてもいーのよ! 雨も酷いんだから、泊まっていきなさい!」という一言が決定打となり、その運びとなったわけだ。
明治十四年、秋。心身共に弥彦は伸び盛りで、一層逞しくなった。何人も門弟の増えた神谷道場にて、兄弟子分として日々采配を振るっている。剣路に対しても歳の離れた兄貴のような感覚で、時折世話を見たり遊び相手になってくれたりするものだから、夫妻としては大いに助かっている。
空を割るような音がして、また雷が落ちた。今度は随分と近い。そのおかげで、何とかまどろみの中に留まっていた剣路がとうとう、声を上げて泣き出した。
「ああ、やっぱり」
少々残念がりつつ、薫は即座に剣路を抱き上げた。その頭を己の肩に寄りかけるようにして縦抱きにする。薫は立ち上がって左右にゆらゆらと体を揺らし、今度は剣路の背中をそっと叩き始めた。腕の中の剣路はふええ、と泣き声を上げているが、やはり母に抱かれると安心するのだろう、その声は徐々に小さくなっていった。
「すまぬな、薫殿。いつも任せっぱなしで…」
ハの字眉毛で薫を見上げる剣心は申し訳なさそうに頬をかく。毎日の寝かしつけの役目は専ら、薫の仕事である。
「いーのいーの。剣心が寝かしつけようとすると剣路、泣いちゃうんだもの」
これまた事実なので、剣心は肩を竦める他ない。男児は小さいうちは父親より母親によく懐く…と話には聞いていたが、我が子もその例に洩れなかったらしい。抱っこですら、薫がするのと剣心がするのとでは、剣路の反応に大きな差があるのだ。不器用ながらもこれでも誠心誠意接しているのに…と、何だか父親として情けなくなってくる剣心である。
ばりばり、どぉん、と再度雷が近くに落ちた。母屋全体にびりびりと振動が走るかのようである。薫が顔を顰め、溜め息を吐いた。
「本当、凄い雷ね」
近くで鳴り出してからまだ一時間も経っていないというのに、何だかひどく長く感じる。
剣心がやおら立ち上がって、剣路がいない方の薫の肩にぽん、と掌を置く。
「何、雷はそんなに長居はしないもの…。もうしばらくすれば、次第に遠ざかっていくでござろう」
そうして剣心は次に剣路の頭へと手を移動させる。ごくごくそっと、頭をぽん、とあやしたつもりが剣路が途端に不機嫌な泣き声を上げたので、剣心はおろろと敢え無く後退する。闘いとなれば百戦錬磨の剣客も、こうなると形無しである。
そんな剣心の姿すら何だか微笑ましく思えて、薫も笑みを漏らした。
「…そうね」
また静かな夜が戻ってきますように。
そう願いながら、薫は我が子をあやしながら外の天気に思いを馳せるのだった。
※ ※ ※
少年は走っていた。
雨で打たれて体中が濡れるのも厭わずに、裸足の足が水溜りの水を撥ね上げそれで袴の裾が一層びしょびしょになっても、委細構わずに走り続けた。
まるで何かから逃げるかのように、いや、実際、逃れるように。
どこへ向かうのかも、これから自分はどうなるのかも、そんなことを考える余裕もないまま、
少年はひたすらに走っていた。
※ ※ ※
夜が明ける頃には、大雨はすっかり過ぎ去っていた。
ただしその名残といったら酷いもので、母屋の縁側は水浸し、中庭は落ち葉や小枝だらけ、地面のあちこちには大きな水溜り…という有様である。道場の周りも同様だ。
軒からは雨水がぽたぽたと落ち続けている。
「やれやれ。これでは当分は洗濯もできぬな」
せっかくこんなに晴れたのに、と剣心はすっかり青の色を取り戻した空を見て溜め息を吐く。成程、確かに嵐が過ぎ去った後らしい良い天気なのだが、しかしこの惨状をどうにかしないことには、家事は始められないだろう。早めに起きてきて正解だった。
「この分では、外も見て回った方が良いかもでござるな」
この場合の外、というのは、神谷家の表門の外を指す。敷地内をざっと見回しただけでもこうなのだから、外周の方もそれなりの状態になっているに違いない。
一応外を見て回って、中の片付けにかかるのはその後でもいいだろう。むしろ、外に異常が無いと分かってから動いた方が、何かと効率が良い気もする。
そう判断し、剣心は緩やかに門の方へと歩を進める。草履の裏の地面がぬかるんでいる。
と、背後からかかった声があった。「剣心、」薫だ。
「おろ、薫殿。早いでござるな」
少なからず意外だ、という思いで剣心は振り向く。薫は朝は弱い方だ。加えて、今では剣路が夜泣きで幾度か目を覚まして、そのたびに薫も起きてあやす、という行為も顕著だ。剣路が生まれてからのこの一年は、薫はほぼ慢性的に睡眠不足状態に陥っている、といってもいい。新米母は大変なのである。
にもかかわらずのこの早起き。秋の早朝の清々しい空気の中で、薫はその剣路を抱いたままでほんの僅か苦笑する。
「剣路に起こされちゃって。寝かしつけてももう寝ないから、私も諦めて起きてきちゃったわ」
二人とも未だ寝巻きではあるが、確かに薫の腕の中の剣路の目はぱっちり、もう眠気もどこへやらだ。成程、と剣心はあっさりと納得する。
薫は己の足元の水溜りを見やりながら言う。
「それにしても、結構酷いわね」
これでは足袋が濡れないよう歩くのに少々苦心するかもしれない。この天気ならまぁ、次第に乾いていくだろうが。
「丁度、外を見回りに行こうと思っていた所でござる」
「あら、そうなの? じゃあ私も行くわ」
今でこそ夫婦ではあるが、元々のこの家の主は薫だ。昨夜はあれだけの嵐だった。外周に何らかの変化があるか、気になるところでもある。ちょっとした散歩がてらに、と薫は剣心の隣に並ぶ。
「ざっと掃除するだけで済むといいんだけど」
「はは、そうでござるな」
修繕となるとお金もかかるし、の一言に、剣心は少しばかり耳が痛かった。
閑古鳥が鳴いていた頃に比べれば、神谷道場には確かに門弟は増えた。彼らからや、或いは出稽古先にて収入を得られるのは、ひとえに薫や弥彦の働きによるものだ。
対する剣心は、剣路の子守り、という一仕事が増えはしたが未だおさんどんが主となる生活を続けている。時折日雇いで働きに出たり、または警察からの依頼に(あまり気乗りしないこともあるが)協力したりしてそこそこの稼ぎを得ることもあるが、それにしたって不定期なものである。
家計は火の車、という程ではないが、裕福とは言えない。それでもまぁ、みんなで楽しく平穏に暮らせれば十分幸せよ、と薫は大らかに言ってはくれるのだが、やはりお金の話となると、肩身が狭い剣心だった。
(何事もないといいでござるなぁ)
だから、というわけではないが、そんなことを思わずにはいられない。実際、何も変わりが無いのなら、それが一番なのだ。
門扉を開け、二人は神谷家の敷地外へと出る。前の通りは案の定、風で飛ばされてきた葉や泥水でぐしゃぐしゃである。しかし一見したところ、瓦が落ちていたり、板塀が壊れていたり、という被害はなさそうだった。
「良かった。特に何ともなってないみたいね」
甚大な被害が出ていないことに薫はほっと胸を撫で下ろす。母の心境を知ってか知らずか、剣路はあーうーとまだ意味を為さない喃語を上げている。
「裏手側も見て、何事もなかったら中に戻りましょ」
「そうでござるな」
「…それにしても、弥彦! まだ起きてこないなんて! 日中の掃除ではこき使ってやるんだから」
「まぁまぁ薫殿」
ぷんすかする薫を剣心が宥めつつ、二人は塀沿いを歩いてそのまま裏手側へと回る。そこを見て特に異常がなかったら、大人しく敷地内へと引き返す…その筈だったのだが。
ちょうど二人が角を折れる時、湿った地面を叩くような音が聞こえてきた。足音だ、と認識するより先に、先を歩いていた剣心はその主とぶつかる。
「おっと、」
「うわっ!」
剣心の穏やかな驚きの声と、その人影が上げた声が重なった。
出会い頭にぶつかった、とはいえ剣心はごく緩やかに歩いていたのでそんなに衝撃は無いのだが、ぶつかってきた方は相当に急いでいたらしく、剣心に弾き飛ばされるような形で地面に強かに尻餅をついたようだった。
俯いていてその表情は伺えなかったが、体格からするに、出会ったばかりの弥彦よりも幾つか小さい年頃の少年に思えた。
「すまぬな。大丈夫でござるか」
身を屈めるようにして声をかけつつ、剣心の顔に剣呑な色が走ったのは、
「…どうしたの!? あなた、傷だらけじゃない!!」
薫が上げた悲痛なその叫びがすべてを物語る。
そう、剣心にぶつかったその少年は傷だらけだった。体中濡れているのは、雨に打たれたから、ということで説明が付く。しかし、ぼろぼろの着物にも袴にも、雨で流しきれない程の赤い斑模様…加えて、襟元から覗く痩せ細った胸の辺りにも確かに、真新しい傷がある。
足袋も草履も履いていない足の裏は、真っ黒で傷が付いていた。裸足のままで長く走ってきたことが伺える。
薫の上げた声に驚いたのか、少年がここでようやく恐る恐る、といった風に顔を上げた。怯えたような顔つきで剣心と薫とを見ている。
顔のあちこちにも傷があり、赤く腫れあがったりしていたがしかし、剣心が途端に訝しげな顔つきになったのは、ぼさぼさの散切りの髪の下に覗いた少年のその顔に、どこかで見覚えがあったからだ。
(この顔……どこかで)
それがいつどこで、なのかははっきりしない。この子と面識は無い、筈だ。しかし確かに、いつか見たことがある顔立ちだった。
大きめの瞳に、小振りだが整った鼻筋と口元。びくびくした表情を浮かべているままだったが、顔の造り自体は、男児だけれど分類としては可愛らしい顔、と評せただろう。
「酷い怪我…どうしたの、一体!?」
寝巻が汚れるのも構わず、薫は剣路を抱きかかえたままでその少年の前に屈み込んだ。
少年はまた一瞬、びくっと体を震わせたが、やがて酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を動かし始めた。
「た……助けて下さい!」
ようやく放った一言目がそれだった。少年はゆるゆると体勢を立て直し、膝でにじりよるようにして薫に言い募った。必死の形相だ。
「追われているんです! 助けて下さい!」
「追われてる!? 誰に?」
只事でない言葉に薫がそのまま勢いよく聞き返す。しかし少年は青い顔をしてぶるぶると震えるばかりで、その先を言おうとはしない。
「……ッ」
「…何やら事情がありそうでござるな。しかし、手当てが先でござる」
色々と気になることが多過ぎるが、こんな風に恐怖に震えている少年を見過ごすことなどできない。薫も無論、剣心とは同意見だったようで即座に頷く。
「まずは家の中に入って! 着替えて、それから手当てしないと……。弥彦! 弥彦―っ!」
薫が母屋の方に向かって声を張り上げる。剣路が腕の中にいる為にうまく動けない薫に変わり、剣心が少年の側に膝をつく。
「立てるでござるか」
「………」
あまり刺激しないように静かに、そして笑みと共に問いかける。少年は剣心の顔を見て、不安そうに何事かを逡巡している様子だったが、小さく頷くと立ち上がった。覚束ない足取りを見て、剣心は少年が歩きやすいように肩を支えてやる。少年の背丈は剣心の腰の位置よりやや高い程度だったが、その肉の薄さ…簡単に言えば痩せているのが気になった。
「何だよ、朝っぱらから…って、そいつ、一体誰だ!?」
表門まで戻ってきた所で、欠伸をしながら歩いてきた弥彦と出くわした。不満そうな顔をしていた弥彦は、剣心と薫とが謎の少年といるのを見てぎょっと目を丸くした。
「事情はよく分からないけど、追われてるんですって! 放っておけないわ! まず匿って、手当てしてあげないと…弥彦、あなた玄斎先生を呼んできて!」
「お、おう!」
薫の説明に全て納得がいったわけではないのだろうが、弥彦もなかなかに面倒見がよい少年である。自身よりも小さい傷だらけの子を見過ごすことなどできっこなく、薫の指示にすぐさま従い、駆けていく。
小国診療所の方角に走り去っていく弥彦を見送って、薫と剣心とは少年を表門の中に招き入れる。門がきちんと閉じた所で、薫は少年を元気づけるようにこんなことを言った。憂いを帯びた顔を覗き込み、にっこりと笑ってみせる。
「安心してね。もう大丈夫よ」
その一言を受けても尚、少年は沈んだ表情を浮かべたままだった。
ただ、幾らかは肩から力を抜いたように、剣心の目には映った。
「うむ、これでいいじゃろう」
まだ診察時間でもないというのに弥彦に呼び出された玄斎は、快く少年の治療に応じてくれた。無事に手当てが終わったことに、薫達もほっと安堵する。
少年を神谷家に迎えた後、まずはびしょ濡れだった体を手拭いで拭いてやった。本当は風呂にでも入れてやり体を温めた方がいいのだろうが、全身の怪我があまりにも酷いため却って痛むだろう、ということで、体を清めるだけにとどまった。そうこうしている間に玄斎が到着し、こうしてそのまま治療に移ったというわけだ。
体中のそこかしこに包帯や絆創膏を付けた少年は、弥彦のお下がりの寝巻を着て、まだ借りてきた猫のように大人しく座布団の上に鎮座している。
玄斎は少年の正面に、剣心組一同は自然その周りをぐるりと囲むような形で座っていた。
「ありがとう、玄斎先生!」
薫の礼に頷きつつ、しかし玄斎は神妙な顔つきになる。
「うむ…じゃが、酷いものじゃ。今しがたつけられたような傷は、余程強い力で何かで殴りつけられたんじゃろうな。こんな小さい子に惨い事をする。それに…」
「それに?」
顔を更に曇らせた玄斎に、薫は怖々と聞き返す。
「他にも、古傷がたくさんあった。この子は日頃から、誰かから暴力を受け続けていたようじゃな…」
「そんな……」
玄斎の見立てに薫は絶句する。剣心や弥彦も苦い顔だ。
確かに、着替えさせる際に見たこの少年の傷は痛々しかった。頭や顔、胸に背中…あらゆる所が傷つき、歪に盛り上がり、見ているだけでも思わず顔を顰めてしまったくらいだ。
この少年は今までどれだけの痛みに耐えていたのか。いや、むしろ傷の痛みそのものよりも、“誰かから傷つけられる痛み”にどれだけ苦しめられてきたことか。
「誰が一体そんなこと…許せない!」
それを思うと、薫は憤慨せずにはいられなかった。薫自身もこれまでに幾度も怪我を負ってきたことはある。しかしそれは稽古の中でであったり、闘いの中であったりとでいわば一剣士としての傷…ある意味、納得ずくの負傷だった。
しかし、この少年の傷がそうだとは思えない。もし、理不尽に誰かに傷付けられたのだというのなら尚更、このいたいけな少年をそんな目に合わせた非道な輩に対して、薫は激しい怒りを覚える。
「まぁ、ゆっくり過ごせば傷はじきに塞がるじゃろう。外傷なら、子どもは治るのも早いからの」
治療器具を薬籠の中に戻しながら玄斎はそう述べる。
「あとは、そうじゃなぁ……痩せているようじゃし、もっと滋養を付けてやった方が良いじゃろうな。その方が体力の回復にもいいじゃろうし」
「滋養、ね。よーし、今日は腕によりをかけてご飯作るわよぉ!」
張り切って腕まくりをする薫に対し、弥彦が顔の前でぶんぶんと手を振る。
「…やめとけ。薫の飯じゃ、吐きまくって逆に体力消耗するのがオチだぜ」
「何ですって弥彦ォ!?」
「だって事実じゃねーか! 結婚して何年たっても料理下手な女なんてなかなかいないぜ!」
「よっ、余計なお世話よ! これでも日々上達してるのよ!」
「そんなの、カタツムリよりも遅い歩みじゃねーか!」
「何よそのたとえ!?」
「これこれ、二人共。そう騒いでは、この子がゆっくり休めないでござるよ」
先程までとはまた違った理由でびくびくしている少年を見て取って、剣心が苦笑しつつ二人を諫める。
剣心は居住まいを正して少年に向き直った。穏やかな笑みを向けつつ、ゆったりと語りかける。
「騒がしくてすまぬでござるな。…まぁ、ここはこういった所でござる。だが、こうして出会ったのも何かの縁、ゆっくり養生していくでござるよ」
この少年の素性も事情もまだ何も分からないが、今しがた言ったように、こうして出会ったのは何かの縁である。少年が身も心もゆるりと休める場所を提供するのはやぶさかではない。薫も元よりその心積もりのようで、剣心の言葉に思いっきり同調する。
「そうよ! 気の済むまでいてくれていいからね! まずはゆっくり体を治さないと……あ、そうだわ」
そうしてそこで、薫が何かにようやく思い当ったように一度言葉を区切る。
「まだ名前を言っていなかったわね。私は神谷薫。この子は私の息子で、剣路」
剣心とはとうに祝言を挙げていたが、この時代はまだ夫婦別姓なので姓は神谷だ。膝の上に座っている剣路と合わせて、薫は自己紹介をした。それから、少年に水を向ける。
「あなたのお名前は?」
そう、まだ肝心なそのことを聞いていなかったのだ。
一体誰に追われていたのだとか、親はどうしたとか家はどこだとか、気になることは幾らでもあった。しかし相手と親睦を深めるにはやはり、まずは互いに名乗るところから始まるのだろう。
ずっと何かを検分するような顔つきをしていた少年は、ここにきてようやく人心地ついたのか、ふ、と表情の強張りを解いた。ぎこちないものだったが、確かに笑ったのである。
ずっと暗い顔をしていた少年がやっと笑みを浮かべてくれたことに、薫や弥彦は安心するように己の笑みを深めた。剣心もその点については同意だったのだが、
しかし素直に喜べなかったのは、少年のその笑顔がやはり誰かに重なったことによる。ぞく、と背中にうすら寒いものが流れるようによぎる既視感。
……この笑顔は……!
剣心がそれに思い当ったのとほぼ同時に、少年は小さく名乗ったのだった。
「僕は瀬田宗次郎といいます」
と。
第一章へ
現存連載を放って新連載を始めてしまう私を誰か罵って下さい…(例・この豚野郎!)
またまた色物ネタです。
話が進むにつれて「いやこれはおかしいだろ」とか「幾らなんでも宗次郎贔屓が過ぎるだろ…」とか、そういった箇所が出てくるかと思われます。
でも「幼宗次郎救済計画」というのがこの小説の一つのコンセプトです。その点を念頭において広い心で楽しんで頂けたら幸いです。
2013,8,2
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