カルマが本当に見てたのはあいつだったってこと、俺、気付いてたんだ。







仲間外れのトリアングル








「ん、…ん…っ」

 自分の下にいるカルマが、切なげに眉を歪めてぎゅっと目を瞑る。生理的な涙が眦を濡らし、赤みがかった睫毛が小さく震えた。
 あー俺、カルマのこの顔に弱いんだよな、と興奮の熱の狭間にぼんやりと思いながら、前原は下半身を一層カルマに密着させた。





 行為の後、さっと身を清めたカルマは脱ぎ散らしていたシャツやズボンをゆっくりした動作で身に付け、この部屋に来た当初と同じ制服姿に戻っていく。前原はまだ下着だけ履いた状態でベッドに寝そべり、片肘で頭を支えた姿勢でカルマのその様子を眺めていた。
 こちらに背を向ける形で着替えているカルマの首筋には、つい先程自分がつけた赤い印がある。カルマが身体を動かすたびにちらりと見えるそれと揺れる赤髪が合間って、彼の色気を感じさせる。熱く甘い時間の終焉の予感に物足りなさを覚えて、前原はベッドから動かぬままカルマに呼びかける。

「なー、本当にもう帰るのかよ」
「そーだけど?」

 最後に黒カーディガンを拾い上げたカルマは、それに腕を通しながらやっと前原に振り向いた。

「前原のおねーさん達、間も無く帰ってきちゃうんでしょ?」
「まぁな」

 カルマの声はもうすっかり普段のトーンだ。表情だって、普段の教室でのそれと然程変わらない。
 その確認の言葉に前原は頷く。そう、もうじき家族達が帰宅する頃合いだ。彼女らと顔を合わせる前に帰りたいカルマの気持ちは分かる。分かるが、まだカルマと一緒にいたい。
 とりあえず話を続けてみる。

「うちの姉ちゃん達、結構肉食系でイケメン好きだからなー。カルマ、見つかったら危ねーかもしんねーぞ」
「えー? じゃあ尚更、鉢合わせないうちにさっさと帰るし」

 軽く言えば、カルマは嫌そうに笑って肩を竦める。前原も笑って身を起こした。

「姉ちゃん達、磯貝のこともお気にだしな〜。ま、磯貝は昔からウチに出入りしてるから、もう一人の弟扱いって感じだけど。姉ちゃんら、俺より磯貝のこと可愛がってんの。それって酷くね?」
「…不出来な弟より、出来のいいその友達の方が可愛いってことじゃね? 単純に考えて、前原みたいな弟と磯貝みたいな弟じゃどっちがいいかは、火を見るより明らかでしょ」
「カルマも酷ぇなぁ」

 ぺらぺらと語ると、カルマも辛辣な評価を下す。その口の悪さを日頃のノリで苦笑して流して、「カルマ、ちょい」と前原は手招きをしてカルマを呼んだ。
 カルマは少し不思議そうにしながらも、大人しくベッドの傍に寄ってきた。近付いた細腰に腕を回し、前原はカルマを捕らえる。

「…なーに?」
「んー、今度また、カルマん家行かせてくれよ。今度はカルマん家でシよーぜ。その方がゆっくりできるしさ」

 前原は甘えた声を出し、シャツに頬を擦り寄せながらカルマを見上げた。カルマの家は両親が不在がちで、カルマは一人でいることが多いのだ。だから先程の行為のようなことをするには、都合がいい。
 そうした前原に従順に捕らえられたまま、カルマは呆れの表情を浮かべる。息で笑い、カルマは前原を見下ろしながら言った。

「前原は本当に、そーいうの好きだよね〜」
「…ま、そこは否定しねーけど…、カルマが好きなんだよ」

 前原はカルマの腰を更に抱き寄せて、シャツ越しにカルマの肌を甘噛みした。




※ ※ ※





 カルマとのこういった関係は、前原から持ちかけたことで始まった。否、告白したのだ。前原が、カルマに。

『あー、何か俺、なんでか分かんねーけどカルマのこと気になって仕方ねーんだわ。多分、好きなんだと思う、カルマのこと。最初は試しでいいからさ、付き合ってみねぇ?』

 日頃女子に声をかけるのと似た調子で、こんな具合に前原はカルマに思いを告げた。
 告白したのは前原だったが、前原がカルマのことが気になり出したのは、そのカルマの視線が時折自分に向いていたからだった。密やかに、けれどちくちくと、甘く柔く熱く鋭く刺さってくる。その視線の主がカルマだと気付いてから、前原はカルマを意識するようになった。
 恋愛経験豊富な前原にはすぐに分かった、カルマのその視線に恋情が混じっていることに。自他共に認める女好きだった筈の前原が、それでカルマをそういう対象に認識し始めた。マジかよ、と戸惑う自分がいる一方で、カルマのことを意識するとどうにも落ち着かない自分もいた。
 モヤモヤしてどうしようもなくて、ダメ元で告るしかねーと腹を括って。そんな前原の告白にカルマは驚いた様子だったが、一応OKしてくれて、付き合うようになった。それは嬉しく、とんでもなく幸運で、…しかし同時に前原の心にしこりを生んだ。
 前原がカルマを意識するようになった、あの熱視線。あれは本当は、自分を通り越しているものだったから。それを勝手に、誤解しただけだった。
 でもそのことが分かった時にはもう気持ちはカルマに向いてしまっていたし、だからカルマがOKしてくれたことは前原は正直意外だった。多分妥協とか、諦めとか、そんな感情がカルマにはあるんだと思っていた。
 それでも構わない、と思った。最初はその気がなくても、付き合っているうちに相手に情が芽生えていくなんてのは、よくある話で。それも期待して、前原はカルマとの恋人生活を送っていた。
 けれど、思っていた以上に相手にハマッてしまったのは、どうやら自分の方だったらしい。





「カルマ、それ湯上がりのイチゴ煮オレ」
「へ〜ぇ、前原気が利くじゃん」

 とある週末の夜。
 前原は泊まりの予定でカルマ宅を訪れていた。例の行為の後、先にシャワーを浴びリビングのソファに座っていた前原は、同じくシャワーから戻ってきたカルマにそう声をかける。
 ソファ前のローテーブルに置かれたイチゴ煮オレの紙パックにカルマは楽しげに目を瞬かせ、それを手に取りつつ前原の隣に腰を下ろす。

「あれだけ声出したら、喉も渇くよな〜って思って」
「…前言撤回。ただのエロ親父だった」

 前原の発言にカルマは酷薄な笑みを浮かべ、紙パックにストローを挿しイチゴ煮オレを飲み始めた。ピンク色の液体を吸い上げている様子と、素行不良の癖に甘味を好むギャップとが可愛く思えて、前原の顔が自然に緩む。
 ふわんとシャンプーの香りが漂うのも色っぽかった。スウェット姿のカルマは肩にタオルをかけてはいるものの、髪はまだ水分でぺったりしている。

「カルマ、髪、半乾きだぞ」
「んー、ドライヤーすんの途中からかったるくなった」
「…ったく、しょーがねーなお前は。ほら、拭いてやっから、もうちょいこっち来いって」
「とか言って、俺とくっつきたいだけじゃねーの、前原は?」
「ははっ、バレた?」
「バレバレ」

 呼んでみればカルマは意地悪く笑うけれど、ちゃんと前原の近くに寄ってくれた。嬉しくなった前原はへらっと笑って、ソファーに深く腰かけると、カルマを自分の前に座らせた。片腕でカルマを抱き締めながら、もう一方の手でカルマの髪をタオルで拭く。
 カルマはイチゴ煮オレを飲みながら、素直に前原に髪を拭かれるままになっている。すっかり気を許しているようにカルマがもたれて体重をかけてくるので、前原の機嫌はますます良くなる。

「ちゃんと乾かさねーと、髪痛むぞ」
「え〜? 別にいーよそんなの」
「よくねーよ。カルマの髪、せっかく綺麗なんだし。俺、気に入ってんだ」

 タオルで拭く傍ら、前原はカルマの赤毛を指で梳く。髪や首筋にちゅっ、と軽くキスを落としていると、カルマはくすくす笑って呆れの口調で言う。

「前原ってさ〜、結構甘ったれだよね。末っ子気質ってやつ?」
「かもな。だから長男気質の磯貝とは、気が合うのかもしんねーな」
「…そーかもね」

 親友の話題を出すと、カルマの返しがほんの僅か遅くなる。たまに、そうしたことがある。それはささやかな変化ではあるのだけれど、前原はつい察してしまう。
 ぎゅうっと心臓を掴まれる感覚に陥りながら、前原はカルマを背後から強く抱き締めた。
 話の中で磯貝を出すたびに、カルマの心をきっと傷つけていることは前原も分かっている。けれど止められない。前原が普段の前原である為には。そして下らない嫉妬の為に。

(…カルマはまだ、あいつのこと好きなんかな)

 磯貝のことなんてさっさと振り切って、普段のノリの俺の話にカルマも普通の反応してくれればいい。思って、前原はまたカルマを切りつける。

「俺と磯貝だと俺がいー加減で、あいつの方がしっかりしてるだろ? だからあいつがよく俺に世話焼くんだよな〜。俺、一人じゃそんなに信用ねーんかなぁ。この前なんかも…」
「そんなの、いつも教室で見てるから分かってるよ」
「…だよなー」
「…ってかさ、前原、髪拭くか話すか俺にちょっかい出すか、どれかに絞ってくれない? 鬱陶しいから」
「鬱陶しいって何だよ」

 言い返しながら、前原はカルマの耳に口づける。ピクンと震えるカルマの身体にテンションが上がって、同時に胸の中の暗く濁った気持ちが濃くなっていく。それを散らしたくて、前原はタオルを放って両腕でカルマを抱き竦めた。

「カルマ」
「…ッ」
「…カルマ、」

 背後から幾度も呼んで、カルマの胸に掌をかける。こんなに大人しく抱き締めさせてくれるんだから、その心も早く、もっとちゃんとこっちを向いてくれればいいのに。

「好きだぜ、カルマ」
「んっ…」

 耳元で囁けば、腕の中のカルマが分かりやすく震える。
 何度も、何度も、カルマに浸透するように「好きだ」と告げて、前原はカルマの頬に唇を寄せ続けた。カルマの表情こそ見えないが、その頬は次第に、赤く色づいていく。
 プライドや警戒心が高い割に、カルマは案外こういうのに弱い。日頃の教室での強気なカルマを知っている分、二人きりの時だけにカルマが晒してくれる姿が、可愛くて仕方ない。
 カルマの頬の熱が移ったみたいに、前原の呼気の熱も増す。荒い息と告白と共に自分の頬を擦り寄せ、耳や頬へのキスを繰り返していたら、カルマは「くすぐったいって…大型犬かよ」と笑った。

「…っとにタラシだよね前原は。今まで沢山の女子、そーやって口説いてたんだろ、…ッあ」
「何だよ、嫉妬?」
「ん…っ、前原なんかのことで妬かないし…ッ」
「可愛くね〜」

 カルマの言葉に前原は苦笑するが、愛撫はやめない。嫉妬しているのはむしろこちらだと、カルマを両腕でぐっと捕らえる。
 来る者拒まず去る者追わず、そんな感じでライトな恋愛ばかり繰り返していた自分がこうも追い求めるのは、カルマが初めてかもしれない。その性格もあって、なかなか思うようにはいかない相手で、しかも同性。なのに、いや、だから追いかけているのだろうか。どうにかして、本当に捕まえたいと。
 己の両腕に閉じ込められて窮屈そうに身じろぎするカルマに前原は煽られて、体温が上がっていくのを感じる。れっきとした男の身体でも、相手がカルマならきっちり興奮してしまう。

「ッはぁ、カルマ…っ」
「ぁ、…ッ何、もっかいすんの…?」

 前原が首と肩の境目辺りをやんわりと噛み、スウェットに掌を潜らせて腹や胸を撫でていると、カルマも熱く気だるげに息を吐き出す。そこに籠る色気にゾクゾクして、前原はカルマに触れる行為をエスカレートさせる。

「ん…いいだろ? 今日は泊まりなんだし。…またカルマのこと、欲しくなった」

 ドツボに嵌まってんな、俺。自嘲しながらも、カルマを貪るのはやめられない。
 そんな前原に、カルマはイチゴ煮オレの紙パックをローテーブルに置いて「…ま、いーけど」と頷いた。




※ ※ ※





「あーっもう、なんで日本史も世界史も、似たような名前の奴ばっかりなんだよ! 藤原とか何とかヌスとか、何人いんだよ!」
「気持ちは分かるけど…歴史の流れをなぞりながら誰が何をしたかってエピソードを把握していけば、覚えやすいぞ」
「そんなん分かってるっつの! 分かっててもそれを覚えられるかどーかは、また別なんだよ!」

 社会の授業の後の休み時間、磯貝の席の前に立つ前原は、先程殺せんせーから返却されたミニテストの答案を見ながらガリガリ頭を掻く。元々社会は苦手教科だったのだが、このところ伸び悩んでいた。
 社会が得意な磯貝は94点と高得点で、そのことにも前原はこっそり溜め息を吐く。

「前原さ、色んな女子の顔とか性格とか、ちゃんと掴んでるじゃんか。そういう感じで歴史上の人物も覚えてけば…」
「それもまた別の話だろっ」

 席に着く磯貝は大真面目に助言してくれるものの、前原はツッコミを入れるしかない。それとこれとでは脳の使っている部分が違うのだ。

(それに、最近は女子とは遊んでねーしなー)

 心の中でぽそっと呟く。カルマと付き合うようになってから、前原はそういった目的では女友達と遊んではいない。そのこともカルマとのことも磯貝は知らないから、ごく当然のように磯貝はそれを引き合いに出したのだろう。

(…俺が今カルマと付き合ってるってこと話したら、こいつ、どんな反応すんだろな)

 また薄暗さが胸中に漂って、前原は顔を上げて磯貝の列の最後尾に座るカルマを見る。途端、カルマとぱちりと目が合って。今も磯貝のこと見てたんかなと、ズキッと痛む心の様子は表に出さないようにしながら、前原はにかっと笑ってカルマに小さく片手を振る。
 一瞬きょとんとしたカルマは、前原の仕草にべっと舌先を見せて返した。素っ気無くはあるがカルマらしくもあり、前原はハハッと表情を崩す。それに気付いた磯貝が不思議そうな声を上げる。

「ん? どうした?」
「や、カルマとたまたま目が合ったから。あいつ、このテストやっぱ100点なんかな〜」
「多分そうなんじゃないか?」

 前原の恋情もカルマの慕情も、何も知らない磯貝は穏やかに微笑む。優越感と劣等感と、それを同時に覚えて前原は複雑な心境になる。そんな感情、できれば親友には抱きたくなかった。
 そういったものを誤魔化すように、その場から動かないままで前原は声を張り、カルマに問う。

「な〜、カルマ〜、お前さっきのテスト何点?」
「決まってんじゃん」

 普通に笑うカルマはぴらっと答案を掲げた。予想通りの100点。「すげーな」と前原が言えばカルマの方に振り向いた磯貝も「流石だな」と感心し、前原とカルマのやり取りが聞こえていたらしい教室内のあちこちのクラスメート達からも、同じような賞賛の声が上がる。
 渚や杉野、それからカルマをイジろうとする寺坂など、そうしたメンバーがカルマの周囲に集まってきて、カルマを中心として賑わい出す。

「…本当に凄いよな、カルマは」

 そうした様を眺める磯貝の瞳は、心なしかいつもより穏やかで、柔らかくて。磯貝にそんな目でカルマを見て欲しくなくて、前原は内心慌てつつも自然に、自分のテストに話題を戻す。

「まーあいつは別格だからなー。…そーだ磯貝、この記述問題なんだけどさぁ、お前どーいう風に書いた?」
「あぁ、その問題か。俺はこんな感じに…」
「ほうほう、成程ね〜」

 前原の視線はカルマから外れるが、磯貝も教室の正面を向く形で座り直したので、その視線を外すこともできた。カルマの周囲は引き続き賑やかだから、カルマがこちらに向ける視線も消えた筈だ。
 その辺りにほっとして、前原は磯貝と普通に会話を続けた。




※ ※ ※





 その日とはまた、違う日の放課後。
 外は晴天だが、閉め切った体育倉庫は薄暗い。その奥の、入口からは死角となる場所で、二人分の息遣いとくぐもった声とが響いている。

「っは、ぁ…ッ」
「ん…」
「…ったく、暗殺訓練の後こんなとこ連れ込むとか、何考えてんだか前原は…、ッ」
「たまにはいーだろ、こーいうとこでキスすんのも。…カルマの首筋に汗が流れ落ちてたのが何かエロくて、ムラッとした」
「はぁ…、万年発情期」

 熱の籠る目付きで迫る前原を迷惑そうに眺めながらも、カルマは前原のキスを拒みはしない。その背中を抱き寄せ時に浅く時に深くキスをする前原の腕や脇腹に、カルマもまた触れてくれている。
 外からは遠く、微かにクラスメートの声がする。大方、校庭で遊んで盛り上がっているのだろう。そんなシチュエーションでこっそりと逢瀬をしているという背徳感と緊張感もあって、却って変に興奮する。
 前原は汗で湿ったカルマの首筋に顔を埋め、体育着の裾からその中に手を忍ばせた。カルマがぴくりと震え、「ここでどこまでする気だよ…っ」と嫌がる素振りを見せたが、本気の抵抗は無い。

「…っ、ふ、…」

 いつしか、前原はカルマの背を体育倉庫の壁に押し付ける形となっていた。押し付けながら耳を唇で愛撫し、掌で胸板をまさぐる。
 室内の薄暗さ故に、カルマの顔色までは分からない。けれどその表情は普段の情事同様蕩け始めていて、時折強気に、挑発するように見返してもくる。享楽主義のカルマのこと、この状況も案外、楽しんでいるのかもしれない。
 昂った気分は治まらず、前原は尚もカルマとの触れ合いを続ける。流石に最後までする気は無いが、もう少しだけ…。思って、前原はカルマの肩を押さえる側の掌に力を込め、キスを交わす。
 その時、体育倉庫の入口からカチャリと物音。
 二人は密着したまま身を強張らせる。続いてキィィという音と、薄暗さを切り裂く光。誰か何か用事があって、倉庫に入ってきたのだろう。
 潮時かなと、前原がカルマとの接触をやめようとするのとその誰かの声が聞こえたのは、ほとんど同時だった。

「…? 誰かいるのか…?」

 磯貝だ。

「!」

 息を潜めはしてもこちらの気配を察したらしき磯貝の声に、カルマが慌てた風に前原を押しのけた。それは咄嗟の反応で、ほぼ無意識の動きだったろう。
 …だからこそそんなカルマの行動に、前原はカッとなった。離れようとするカルマを再び壁に押し付けて、前原は強引にキスをする。

「ちょっ…!」

 抵抗も、その声も封じるように無理矢理に。押さえ付けられながらもカルマは暴れ、前原のキスから逃れようとする。
 「やめっ…前原…ッ」と、小さく鋭く声が上がった。ここは黙って大人しくしているのが賢明な判断なのに、その方が見つかりにくいのに。
 それも忘れ抵抗するカルマに彼の本音が透けて見えた気がして、前原は悔しさと憤りの感情のままに尚もカルマにキスをする。磯貝に見つかっても構わない、むしろ見せつけてやる、その位の思いで。
 苦しげに目を歪めるカルマの唇の端から一筋の唾液が流れる。乱暴なキスをする前原の表情もまた、苦しそうに歪んでいた。

「んっ、う…ッ」
「やっぱり、誰か…」

 揉み合うようにキスをする二人の声や物音を不審に思ったに違いない、磯貝が近くにやって来た。サッカーボールを手にした磯貝は前原とカルマに当然気付き、そのキスシーンを目撃し驚きの表情に変わる。

「あ…」

 目と口を丸くし、呆然と立ち尽くす磯貝を横目で見、前原はキスをやめてカルマをぐいと抱き寄せた。その時にはもう、カルマの抵抗も止んでいた。

「…あー、悪ィ悪ィ、磯貝、驚かせて。俺達、付き合ってんだ」

 カルマの方はまるっきり見ないで、前原は笑いながらそれを磯貝に告げた。口調や態度はいつもと同じく軽く、けれど強気に不敵に。
 相変わらず唖然としたままの磯貝に、今度はカルマが言う。

「TPOも考えず急に盛り出すんだから、前原は困るよね〜。幼馴染みとクラス委員として、何か言ってやってくれない? 磯貝」

 前原はまだカルマの方を見られなかったが、その声音もまた普段の皮肉っぽいそれで。カルマが話を合わせてくれ、交際についても否定しなかったから、前原は安堵と後ろめたさを感じつつももう一度磯貝に見せつけるように、カルマの髪にそっとキスをする。
 固まっていた磯貝も、少しずつ落ち着きを取り戻してきたらしい。磯貝は普段のように朗らかに笑う。それは少々、ぎこちなく。

「あ、…いや俺の方こそ、何か、邪魔してごめんな」
「ん〜? 却っていいタイミングだったよ。磯貝来なかったら、最後までやりかねない勢いだったから、このタラシ」
「人を何だと思ってんだよ。流石にここで最後までなんかしねーよ」
「どうだろうね〜」

 カルマを抱き締めたまま、前原は痴話喧嘩のようなやり取りをする。磯貝の表情の強張りも段々と解けて、そうした二人の姿に穏やかに頷く。

「全然知らなかったから驚いたけど…俺は別に、その、反対とかしないから。男同士だとしても、二人が色々納得した上で付き合ってるなら…それでいいんじゃないかって、思うし」
「おっ、流石は俺の親友、話が分かるなぁ」
「でも、前原。さっきカルマも言ってたけど、時と場所は考えろよな。あんまりカルマを困らせるなよ」
「へいへい」

 物分かりの良さを見せ、少しだけ険しい顔をして嗜めてくる磯貝の態度は、前原と日頃接している時のそれと大差無く。安堵を覚える傍ら、磯貝にカルマとの仲を認めて貰えたことに、一言では纏められない感情を前原は抱く。
 腕の中のカルマの顔を、まだまともに見られなかった。

「カルマ、前原がまた何か度を越えるようなことするなら、俺に言ってくれてもいいから。俺からも、前原に注意するよ」
「ん、りょーかい。こいつに何か問題行動あったら、すぐにチクるね〜」
「ひっでぇ扱いだなぁ、二人して」

 磯貝とカルマも普通に、気安くやり取りをする。そこにホッとして、後ろめたい。

「じゃあ、俺はそろそろ行くから。前原、程々にしとけよ。…邪魔してごめんな」

 ボールをカゴに仕舞った磯貝は、二人にもう一度同じことを言って体育倉庫から出ていった。磯貝がいなくなり入口の扉も閉まると倉庫内は再び薄暗さに満たされ、静寂もまた訪れる。
 前原はカルマを抱き締める腕を緩めた。冷たく沈黙するカルマに、「悪ぃ。我慢できなかった」とキスを止められなかったことをいつもの自分と同じ調子で謝る。それだけでなく、詫びるようにカルマのこめかみや頬に優しくキスを重ねた。
 カルマは前原にされるがままだった。ただ溜め息を吐き「いーよ、別に」とだけ言う。
 それでやっと、前原はカルマの表情をそっと窺った。自分の幼稚な嫉妬でカルマを傷付けた筈なのに、カルマの冷めた笑顔はいつもと変わらなかった。
 これで嫌われても、仕方ねーよな。乾いた諦めとは裏腹にちりちりと気持ちは燻り、カルマを手放せそうにない。前原はカルマを改めて抱き寄せる。

「ごめんな」

 マジで。本当に。
 何の謝罪にもならないけれど、その気持ちをぎゅうっと抱擁に込めた。
 カルマは「…別に」とぽそっと呟いて、磯貝に見られたことについては後は特に何も言わなかった。前原も、もう何も言わなかった。




※ ※ ※





 次の日の朝。
 木造校舎に向かう裏山の途中で、前原は磯貝に出くわす。「はよっす」「おはよう」と自然に挨拶を交わし、「昨日の宿題さ〜」などと会話が続く。
 朝の裏山は涼しく、静かで、どこかから鳥の声がする。他の何人かのクラスメートもちらほらと山道を登っているが、お互いの会話が聞こえない程度には前原や磯貝からは距離があった。
 前原の言葉に受け答えしてくれる磯貝は、昨日の例の出来事があったのにも関わらずごくごく普通の態度だ。それに胸を撫で下ろしつつも、何だか少し、納得がいかない。
 山道の前後のE組生達が自分達とはまだ離れていることを確認して、前原はそれを切り出す。

「なー磯貝」
「何だ?」
「昨日の今日で少しは気まずいかと思いきや、お前の態度全然フツーなのな」
「…そりゃ、前原とは付き合い長いから。これでも、昨日は凄く驚いたんだぞ」
「ま、そこは当然だわな」

 何の話題かすぐに察したらしい磯貝の声のトーンが落ちる。前原は緩い態度を崩さないが、磯貝は生真面目な顔をして問いかけてきた。

「昨日はそこまで訊けなかったけど…、前原、他校の彼女いただろ? その子は?」
「ん、切った。他の女子と遊ぶのもこのところはしてねーよ。今は俺、カルマに夢中だから」
「…本当に、本気なんだな」

 軽さに本気を混ぜて語れば、磯貝は驚きと感嘆を表情と声に表す。じっと前原を見た後で顔を正面に戻し、口を引き結んで山道を歩く。
 急に静かになった磯貝の隣で歩みを続けながら、その力無い様子の磯貝に前原も真面目なトーンで言う。

「…何だよ。やっぱ男同士ってことが引っかかんのか?」
「そういうわけじゃ、なくて…」
「じゃあ何だよ?」
「……」
「いきなり昨日みてーなとこ見て、お前が色々思うのは無理もねーよ。別に、何だって言ってくれていいんだぜ? 俺とお前の仲じゃねーか」
「……」

 歯切れの悪い磯貝に焦燥感が募る。「言いたいことあんなら、はっきり言えよ」と前原がささくれ立った心持ちで促していると、磯貝は立ち止まり意を決した風に前原に向き合う。

「じゃあ、言うけど…、」
「おう」
「…もしかしたら、俺もカルマのこと好きだったのかも、って」

 ―――。

「昨日の二人のキス見て、あの時はああ言ったけど何だか複雑で、モヤモヤして…俺、そうだったんじゃないかって、気が付いた。…だからって、二人の間に割って入ろうとかは思ってない。俺は二人のこと、応援するから」

 困惑を宿しながらも真っ直ぐな磯貝の瞳に、前原の胸中にひやりとしたものが駆け抜ける。
 それって―――俺が余計なことしなければ二人は両思いで―――いや磯貝にカルマとのキスなんか見せなきゃ、磯貝だって本心に気付かなかったかもしれなくて―――。
 全部俺が、余計な真似したばっかりに。

「ごめん、こんなこと言って。言ったところで前原がいい気しないの、分かってるのに」
「…や、言わねーで抱え込んだままで、変にわだかまり残すのも辛ぇだろ。…あんな場面見せちまって、悪かったな」
「…本当に、ごめん」
「言わせたのは俺だ。気にすんな」

 心底申し訳無さそうにする磯貝に前原は理解を示すが、そんなのは口先だけだった。心がからからに乾いたみたいだった。だって俺のせいで、カルマも、磯貝も。
 そうした前原の心境など知らない磯貝は、小さく笑って次にこう言う。

「変なこと言っておいて何だけど…俺、二人の仲を引っかき回す気なんて、全然無いから。もしかしたらそうかも、ってくらいの感情の俺と違って、前原とカルマ、ちゃんと両思いなんだし」

 違う、という言葉は前原の喉から出かかって、そこで止まった。言った方が、本当のことを伝えた方が、磯貝やカルマにとってはいいのだろう。
 けど、俺は。
 この、カルマへの気持ちや執着はどうすればいいんだ。
 昨日の磯貝とは逆に、前原は愕然と立ち尽くす。

「カルマがたまに俺のこと見てる気がしたから、俺も何だかカルマを意識するようになった、っていうのはあったかも。けど、昨日ので分かった。それは気のせいで、勘違いだったんだな、って。
だってカルマは、本当は前原を見てたんだもんな」

 今度は失恋の痛みを堪えるような笑い方をする親友に、前原はついに『違う』とは言えなかった。








 結局、それ以降の彼らの関係は、表面上は何も変わらなかった。前原と磯貝も。磯貝とカルマも。…前原と、カルマも。
 今もカルマは大人しく前原に抱かれ、むしろ積極的に腰を動かしてすらいる。前原との行為に没頭するように、何かを振り切るかのように。

「は…、んっ、ん…ぅ、ッん、あ…ッ」

 肌や髪を汗で濡らし、甘く喘いで身悶える。
 睫毛の下に虚ろに覗く琥珀色が本当は何を考えているのかを知りたくて、前原は思わず訊いてしまう。

「なぁ…、カルマ」
「…なーに…?」
「カルマは…俺のこと好きか?」
「んっ、…好き、だけど?」

 確認の問いかけに、カルマは前原を見返しゆるりと笑んで肯定する。

(…よく言うよ)

 前原は苦笑してカルマの顔に掌を伸ばし引き寄せて、その嘘つきな唇にキスをした。







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