―第九章:流浪人と御庭番衆と 弐―



「操さん、遅いですねぇ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
宗次郎の同意を求めるような声に、蒼紫も翠も答えない。
あらら、と思いつつ、宗次郎は操が入っていったきり出てこないその店を見る。看板には『椿茶屋』と書かれており、ごく普通のこじんまりとした茶店のようだった。
件の道場に向けて出発したのはいいものの、葵屋を出て十数分もしないうちに操は「ちょっと待っててね」と言い残し、一人この椿茶屋に入っていった。それからしばらく宗次郎と蒼紫、翠の三人は外で待っているのだが、操が出てくる気配はまだ無い。まぁ、しばらくとはいっても、きっと体感時間が長く感じられるだけで、実際には数分も経ってはいないのだろうが。
蒼紫は腕組みをして無言のままだし、翠も道端にしゃがみ込んで地面に何やら絵を描いている。往来に人々が行き交っていても、この場だけはし〜んとしているから、流石の宗次郎も何となく気まずくなって(三人でいるのに会話が無いのがなお気まずい)、あれこれ話しかけたり独白めいた声を上げたりしているのだけれど。
「そういえば、四乃森さんと操さんはいつ頃祝言を挙げたんですか?」
「・・・・・お前に答える必要は無い」
「あはは、そうですよね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
(・・・・何だかなぁ・・・・)
と、こんな具合にすぐ会話も終わってしまって、一向にその空気は変わらないのであった。
(操さん、早く帰ってこないかなぁ)
思わず、そんな言葉が心中で漏れる。
いるだけでも場を盛り上げてくれる彼女がいれば、きっとこんな雰囲気にはならないだろうに。
沈んだ雰囲気にどこか既視感を覚え、宗次郎はふと十年前のことを思い出す。
(そういえば、四乃森さんをアジトに招待した時もこんなだったなぁ。僕くらいしか喋らなくて、会話が続かなくって・・・・)
「ねぇ、お兄ちゃんは強いの?」
「はい?」
不意に話しかけられて、宗次郎は少々はっとしつつその声の主を見る。
しゃがんだままの翠が無表情で、けれどあどけない顔をしてじ〜っと宗次郎を見上げている。そういえば、翠の方から話しかけてきたのはこれが初めてかもしれない。
操と一緒にいる時は、まさに顔も行動も瓜二つといった感じだったのに、母親が離れてからの翠はまるで借りてきた猫のように大人しくしている。慣れない大人が側にいると、子供とはそういったものなのかもしれないけれど、何にせよせっかく翠の方から話しかけてくれたのだから、会話を繋げてみようかと宗次郎も思う。
目線が遠かったので、宗次郎も翠に向き合うようにしゃがみ込んで、笑顔でさらりとこう答えた。
「うん、結構強いと思うよ」
「じゃあ、お父さんとお兄ちゃんはどっちが強い?」
宗次郎の答えに翠は畳み掛けるように質問をしてきた。そこにあるのはただ純粋な好奇心。元よりまだ幼い翠には、二人の過去や事情、実際の強さなど知る由も無い。
子どもならではの裏表の無い素直な質問に、宗次郎もしばしう〜んと考えてこう返す。
「さぁ、直接闘ったことが無いから分からないなぁ」
嘘は吐いていない。けれど、十年前のあのアジトでの闘いの時、限りなく最強に近付きながらも終いには緋村剣心に敗北した蒼紫に、「結局、四乃森さんは弱かったってことかな」とちらっとでも思っていたということは、この際言わぬが花だろう。
と、ふと羽音が聞こえた気がして宗次郎は空を見上げる。一羽の鳩がどこからか飛び立ち、青い空をすうっと飛んでいった。
「ごめんごめん、お待たせ〜」
鳩を見送るのとほぼ同時に、操が笑顔で謝りながら椿茶屋から出てきた。しゃがんでいた翠は気付くや否や立ち上がり、たたっと操の方へ駆けて行く。宗次郎もまた立ち上がる。
「さて、それじゃあ行きましょうか」
「さっきのお店では何をしてたんですか?」
操と宗次郎が並び、翠はその間を歩き、その少し後ろを蒼紫が歩くような形で四人は再び道場への道を行く。歩きながら、宗次郎は気になっていたことを率直に操に聞く。
「あぁ、今から行く道場の所に連絡してたのよ。伝書鳩を使ってね。いきなりあたし達が押しかけたら、流石に向こうだってびっくりしちゃうでしょ」
「へぇ、伝書鳩ですか」
さっき見た鳩はそれだったのか、と宗次郎は納得する。
「十年前の時も、伝書鳩で町中に情報を伝えて京都大火を阻止したのよ。伝書鳩は御庭番衆の情報伝達の要ね」
「へぇ〜」
得意気に語る操に、宗次郎は素直に感心する。京都大火作戦の失敗の裏にはこんな真実もあったのか、と、今更ながら驚いてしまう。電話も碌に普及していないこの時代、確かに即座に情報を伝えることができる伝書鳩は重宝することだろう。
そんな風にあれこれと会話を続けながら、四人は京都の街を歩く。相変わらず蒼紫は沈黙を保ったままだが、予想通りというか何というか、やはり操がいるのといないのではその場の雰囲気が違う。
碁盤の目のように道の連なる京都の街を、そのまま歩くこと約三十分。町の中心から少しばかり離れたその場所に、操の知り合いが師範を務めているという道場はあった。『松代一刀流』と看板が掲げられている。
「正確には、ここの松代先生と知り合いなのは爺やの方で、あたしは爺やにくっついて遊びに来てたから面識があるって感じなんだけどね」
宗次郎に簡単に説明しながら、操はその道場の門を叩く。すぐに門下生と思しき胴着姿の青年が、四人を案内しにやってきた。宗次郎達は促されるままに道場へと進んでいく。ごくごく一般的な造りの道場だ。
宗次郎が草鞋を脱いで道場に上がると、そこにいる者達は特に稽古をしているわけでもなく、両側の壁際にずらっと並んで正座していた。その数は三十人程だろうか。成程、確かにこの時代においては栄えている方の道場なのかもしれない。
そして道場の真ん中には、道場主らしき貫禄を備えた年の頃は恐らく四、五十の総髪の男が立っていた。
「松代先生、お久し振りです」
宗次郎に続いて道場に上がった操がすっと進み出て礼をして挨拶を述べた。厳しい表情をしていたその松代と呼ばれた道場主も、目元を和らげて会釈する。
「操さんか。相変わらず元気そうじゃな。伝書鳩での連絡、確かに受け取ったぞ。道場破りの提示した時間も間も無くだから、もうじき来る頃かと思って準備を整えて待っておったんじゃ。して・・・・」
古めかしい話し方やその落ち着き払った佇まいが、彼が一角の道場主であることを感じさせる。
一通り言葉を交わすと、松代は視線をすっと宗次郎へと向けた。
「この青年が、手紙にあった剣客か」
「ええ。初めまして。瀬田宗次郎といいます」
操がこの道場主にどの程度説明してあるのか全く分からなかったが、とりあえず宗次郎は丁寧に自己紹介した。
松代は操に挨拶した時とはうって変わって鋭い目で宗次郎を見据えている。何かを探ろうとしている、そんな目だ。けれど宗次郎は変わらぬ微笑を浮かべて、ただその視線を真っ向から受け止めている。
「・・・・どんなに剣気を叩きつけても全く動じず、か。成程、確かに大した剣客かもしれんのう」
「え?」
独り言めいた松代の呟きに、宗次郎はふと声を上げる。けれど松代は顔の強張りを解くかのようにふっと笑むと、いやいやと首を振った。
「本来ならば儂の受けるべき勝負に、君を巻き込んでしまってすまんな」
「いいえ、そんなの別に気にしなくていいですよ」
操さんとの交換条件だし・・・という続きを、宗次郎は口には出さなかった。
「そうそう、もう松代先生もお年を召されてるんだから無理しないで! 瀬田に任せとけば大丈夫だから」
「うむ、そうするとするか」
「さぁ、じゃあこっちで見てましょーよ! ほらほら、先生っ」
(・・・操さんて、本当に行動力がすごいなぁ)
操が伝書鳩の手紙の中で何をどう言ったのかは知らないが、この道場主をうまく丸め込む内容であったのだろうということは、宗次郎は容易に想像が付いた。
松代の肩を押しやって上座の席に座らせようとしている操を見て、余計にそう思う。
「あ、そーだ。瀬田、あんたのその刀、ちょっと寄こしなさいよ」
「え、これですか?」
松代を半ば無理矢理席に着かせ、戻ってきた操は宗次郎を見るなりそう言った。宗次郎ははた、と腰の刀に目を見遣る。
「あんたに真剣持たせておくわけにはいかないでしょ。道場破りのこと殺しでもしたら大事になるし。だから、今回の勝負には竹刀を使って頂戴」
操は有無を言わせず宗次郎に竹刀を押し付けてきた。宗次郎は苦笑しつつ、でも確かに道場主代理としての勝負だったら竹刀の方がいいんだろうなぁ、と、大人しく刀を操に引き渡した。
「あら、妙に素直ねぇ」
宗次郎から刀を受け取りつつ、操は不思議そうに首を傾げる。目の前の宗次郎は十年前と何かが変わっていると感じてはいても、廃刀令下でも未だに腰に帯びている刀を彼が素直に渡すとは、正直意外だったので。
「道場破りとの勝負なら、竹刀の方がいいでしょうからね」
宗次郎に竹刀を使った経験はほとんど無かったが(何せ剣の師匠はあの志々雄だ、竹刀など使う筈も無い)、持ち方は刀と同じだし何とかなるだろう。
それにしても。
「それにしても、操さんの言い草、何だか酷いなぁ」
「え、何が」
「だってまるで、僕が刀さえ持ってれば誰でも彼でも殺しちゃうような言い方なんだもの」
「だって、それは―――」
困ったように笑う宗次郎を見ながら、操は十年前の新月村のことを思い出す。
荒廃した村。斬り刻まれた栄次の両親の死体。死んだような目をした村人達に、そうさせる要因を作った者達―――志々雄一派。
血も涙も無い連中だと、思わずにはいられなかった。暴力という恐怖を以って村人を支配し、人を人として扱わない者達。自分達の欲望の為だけに栄次の村を滅茶苦茶にして、と怒りを感じずにいられなかった。
それに、その頃は出会ったばかりだったけれどその強さを知っていた緋村剣心の刀を、この宗次郎はいとも簡単に折ってしまったのだ。文字通り表情を変えず、あどけない笑顔のままで。笑って人を斬れる青年に、懸念を抱くなと言う方が無理な話だ。けれど。
けれど、今の宗次郎はあの頃とは何かが違うのだろう、操にはまだその確信が無いが。だから見せて貰いたい。彼を信じるに値する何かを。
そう、そのために自分達はここへやって来たのではなかったか。
「・・・・ごめん、言い過ぎた」
操にとっては杞憂を口にしたに過ぎなかったが、確かに失言だったかもしれない。
それを悟れるだけ、操もこの十年で少女から大人の女性へと成長していた。素直に謝ると、宗次郎も笑っていいえ、と首を振る。
「まぁ、そう思われてても無理も無いですけどね。でも、僕も旅の間に色々あって、もう人は斬らないって決めたし、それにその刀も真剣じゃないですから」
きっと言葉の裏側には何か重いものがあるだろうに、それを微塵も感じさせないくらいにふんわりと軽く宗次郎はそう述べた。
相変わらず顔に浮かぶ無邪気な微笑みがそうさせるのか、それとも・・・・・。
戸惑ったような顔をする操に、宗次郎は更にニコッと屈託の無い笑みを向けた。
「とりあえず、危ないから下がってた方がいいと思いますよ。ホラ、もうすぐ時間でしょうし」
「そ、そうね」
宗次郎の言葉に従うことにし、操は彼の刀を持って壁際に下がった。そちらには既に蒼紫と翠が並んで静かに立っている。翠はこれから何が始まるのか待ち遠しいといった風な顔だ。蒼紫はただ鋭くも真摯な視線を宗次郎に向けている。
(もう人を斬らないって決めた、か。そういえば弥彦君にも言ったっけ)
道場の真ん中で、一人静かに道場破りを待ち構えながら、宗次郎は心の中で呟いた。一週間程前、静岡で再会した弥彦にも、確かに宗次郎はそう言った。もう人を斬らないと決めたと。
操に言っても、すぐには理解してもらえないかもしれない。散々人を斬ってきた自分が、今更人を斬るのは止めたなどと。けれど、それはこの十年、いや、多分それ以前の時間をもかけて宗次郎がようやく見つけた自分の生き方の一つ。
誰かを斬りたくない。いや、もう斬らない。
八つの頃の自分も確かに人を斬りたくないと思っていた。それはきっと、幼い宗次郎の誰かを傷付けたくないという優しさと、人殺しにはなりたくないという罪への忌避と、そういったものが入り混じった、複雑で、けれど純粋な思いだった。
けれど、今の思いはそれとは違う。いや、根本的なところは同じなのかもしれないが。
―――刀で斬られるのって、痛いんだろうな。殴られただけでこんなに痛いんだから当然だよね・・・―――
確かに抱いていたその思いを、けれど弱肉強食の現実の元、ずっと封じ込めてきた。そうしなければ、強ければ生き弱ければ死ぬというこの世の中を、生き延びていくことなど出来はしなかったから。
剣心との闘いでそれを思い出して、それから十年旅をしてきて、その中で宗次郎は心の中に隠していた自分の欠片の一つ一つを少しずつ集められたような気がしていた。
けれど同時に、自分の罪深さも思い知らされた。宗次郎はあの闘いやその後の旅で、自身はそれと自覚していなくても封じていた感情を少しずつ取り戻していった。心が少しずつ正常に機能するようになった、だからこそようやく自分の犯した過ちのことにも気が付いた。気付かされた。
何も感じずに、何も考えずに人を斬り、それが多くの人の哀しみに繋がっていたということを、かつての宗次郎が全く理解できなかったそのことを。
己の罪の深さ。今まで奪ってきた人々の命の重さ。
ある人の死が、宗次郎にそれを身を以って教えてくれた。自分がその人に死をもたらしたのに、その人を失って初めて、自分のしてきたことへの後悔の念が生まれた。
気付くのがあまりにも遅すぎたけれど、きっと彼女の死が無かったら、『斬りたくない』ではなく『斬らない』と、思うことは無かったのだろう。
(何だか最近、あなたのことを良く思い出しますよ。・・・・咲雪さん)
ふ、と宗次郎は微苦笑を浮かべる。追憶に浸っている場合ではないのに、操や弥彦に告げたその言葉からは、その人を連想せずにはいられなかった。
と、宗次郎はすっと視線を上げた。いつまでも懐かしい人を思い出しているわけにもいかない。それに、今僅かだが、入り口の方で何者かの気配がした。
次の瞬間、がらりと戸が開いてざっと一つの影が入ってきた。
六尺を超える長身と、全身に筋肉のついた巨体。顔は編み笠で隠しているため分からないが、顎の周りに生えた無精髭が無頼の男、という印象を皆に与えた。襟足から伸びている白髪交じりの長めの髪が、これまた印象的な両肩の黒い羽飾りの方まで僅かにかかっている。
一見すると、その男の外見は宗次郎よりも余程強いといった雰囲気を漂わせている。
この道場に挑戦状を叩きつけてきた、道場破りに違いなかった。