―第十章:流浪人と御庭番衆と 参―



「松代一刀流道場師範、松代東吾郎。一つ手合わせ願おう」
編み笠を取り、低く渋みのある声でその男は言った。
傘の下から現れた顔は厳つく、力強くも奥の見えぬ濁った目をしていた。その男は奥に座っている松代を見、次に自分から三間ほど離れて真っ直ぐ前にいる宗次郎を見た。
「せっかく来て下さったところ申し訳ないんですけど。松代先生の代理ってことで、あなたのお相手は僕がします」
口ではそう言いながらも、全く悪びれた風でもなく宗次郎は道場破りに向き合う。
道場破りは無言のまま、宗次郎を見下ろしている。その鋭い眼光が誰かに似ている気がして、宗次郎はおや、と思った。
(この人・・・・何だか蘇芳さんに目が似てるなぁ)
威圧的で、けれどどこかに狂気を秘める目。今目の前にいるこの男の目にも、そうした類のものがあるような気がした。外見こそ全く違うのに、目にはどこか共通点があると。
「・・・良かろう、相手をしよう」
挑戦状まで出してきた割にはあっさりと、道場破りは宗次郎との勝負を受け入れた。駄目だっていったらうまく言い包めて・・・と考えていた操もほっと安堵の息を吐く。
「吾輩は石動雷十太。お前も名を名乗れ」
「瀬田宗次郎です」
名乗ってきた道場破りに、宗次郎もにこっと笑って簡単に言葉を返す。自分が名乗ってから相手に名前を聞くなんて、見た目とは裏腹に案外礼儀正しい男なのかもしれない。
けれど、それは宗次郎の思い違いだった。
宗次郎は知る筈も無かったのだが、この雷十太はかつて剣心と闘ったことがあり、その際に闇討ちをしたり目潰しを仕掛けたりと、正々堂々らしからぬ手段を用いている。
十年前、剣心に敗北し剣客としての自信を打ちのめされた彼が、剣客として再起不能かと思われた彼が何故今この京都で再び道場破りをしているのか、その疑問が頭に浮かぶ者は残念ながらこの場にはいない。
もしもここに剣心か弥彦がいたならば、雷十太の目があの頃よりも暗く澱んでいるということに気が付いたのだろうが。
「それにしても、獲物は竹刀か。真剣は無いのか」
「僕はあくまでもこの道場主の代理ですから。それに、僕は真剣なんて持ってないし」
飄々と答える宗次郎は、確かに嘘は言っていない。形は日本刀のそれであっても、刃の無い天衣は真剣の部類には入らないだろう。
雷十太はしばし疑惑の目で宗次郎を見ていたが、やがて、
「良かろう。だが吾輩は竹刀など持っておらんから一振り借りるぞ」
そう言って壁にかけてある竹刀の一本を手にした。
そうして操達と、松代と門下生達とが見守る中、宗次郎と雷十太は静かに向き合う。
「一本勝負だ。いいな」
「ええ。別に構いませんよ」
何本勝負、といった類のものも宗次郎は経験が浅かったが、元々は確実に相手を斬り殺す剣を学んできたのだ。殺るか殺られるか―――それは一本勝負にも通じるものがある。
トン、と宗次郎は竹刀の刀身を右肩に当て、立ち構えの状態を取る。こちらから向かって行くにしても相手を迎え撃つにしても、この体勢が一番自分に馴染む。
場はしん、と張り詰めた空気で満ち、雷十太も宗次郎の出方を窺っているのか、無形の位のまま一歩も動こうとしない。
と、スッとその足が動いた。
「!」
宗次郎は即座に後ろに退く。ほぼ同時に雷十太の竹刀がそれまで宗次郎のいた場所に振り下ろされた。勢いのまま床に叩きつけられ、その重い一撃の振動がビリビリと床を伝わり、建物全体をも揺るがすようだった。
(へぇ・・・・)
「ぬん!」
宗次郎が心の中で感心した風な声を上げる間も無く、雷十太の二撃目が宗次郎に振り下ろされる。
どうやら肩口を狙っているらしい。狙いが分かればかわすのは簡単だ。宗次郎はひゅっと駆け雷十太の竹刀を難なく避ける。
(この雷十太って人、思ってたより速いや。それに一撃一撃が重いな。悪いけど、松代先生じゃこの人には勝てなかったかも・・・・)
笑みを浮かべ、雷十太と相対している宗次郎にはまだまだ余裕がある。元より、本気など少しも出してはいない。雷十太の重い一撃をその身に受けることなく、ただ風のようにさらりとかわしている。
「ぬうぅ・・・」
悔しげに表情を浮かべる雷十太に、宗次郎はにこっと笑む。
そうしてかわすばかりではなく、今度は宗次郎の方から仕掛けていく。袈裟懸けに竹刀を振るう宗次郎、しかし雷十太もそれをまた竹刀で受け止める。宗次郎は一度退き、今度は横に回り込む。胴を狙ったその一撃は、雷十太が身を引くことでかわされてしまった。
「ぬん!」
転じて、雷十太が攻勢に回る。豪快に竹刀を振り下ろし、けれどどんなに強力な一撃でも当たらなければ意味が無い。
打ち下ろしが大きければ、それと同じくらい攻撃後の隙ができる。宗次郎はそれを見切り、雷十太の竹刀を避けた後に一足飛びで彼の懐に入り込み、
「・・・・・!」
「勝負あり、ですね」
ぱん、と、軽やかに面を決めて見せた。
「や、やったぁ!!」
思わず声を上げ、操は翠と一緒に飛び上がって喜ぶ。二人の攻防はまさにあっという間の出来事だったが、それでも思わず固唾を呑んで見守ってしまっていた。雷十太の強さもかなりのものだと思ったが、それでも終始優勢だった宗次郎は、流石はあの志々雄の片腕だっただけある、と操は納得せずにはいられなかった。
「すごいじゃん瀬田! あっという間にそいつやっつけちゃって―――」
宗次郎に駆け寄ろうとした操を、蒼紫が手ですっと制する。何事かと思って蒼紫を見遣り、その目線の先を追うと、雷十太がぬっと立ち上がるのが見えた。
「いやぁ、いい手合わせでしたね」
一体どこまで本気で言っているのか。にこにこにこっと笑って、宗次郎は雷十太を見上げている。雷十太の顔にはもう悔しさは見られない、けれど底知れぬ負の感情が、立ち昇っているように見えた。
「この勝負、僕の勝ちですから、この道場の看板に手は出さないで下さいね」
「ああ。元より道場の看板などどうでもいい。この町で騒ぎを起こしていれば、そのうちそっちの方からやって来るだろうと思っていたが、案外早かったな」
「え・・・・?」
いささかかみ合わない会話に宗次郎は首を傾げる。雷十太は竹刀を放さぬまま、更にこう続けた。
「天衣無縫の剣とはよく言ったものだな。蘇芳の言っていた通りだ」
「・・・・蘇芳さんを、知ってるんですか」
宗次郎の声がほんの少しだけ低くなる。表情は微笑を湛えたままだが、目にどこと無く剣呑な色が浮かぶ。
「いかにも。蘇芳と吾輩は行動を共にする同志だ。目的は異なってはいるがな」
雷十太のその答えを聞いて、宗次郎の頭の中でようやく点と点とが繋がる。
つまり、この雷十太は蘇芳の仲間で、宗次郎がそのうち京都に来ることを知り誘き出すのが目的で道場破りを繰り返していたということか。蘇芳の命令か雷十太の意志かは知らないが、宗次郎一人の為に随分と回りくどい事をするものだ。
蘇芳の情報のために道場破りとの勝負を引き受けたのに、その道場破り自身が情報を持っているだなんて、考えもしなかった。
「あなたが蘇芳さんの同志だって言うんなら、蘇芳さんに伝えて下さい。こんな回りくどいやり方しなくても、僕はいつでもあなたとの勝負に応じますって」
宗次郎はそのつもりで京都に来たのだ。わざわざ自分を炙り出すような真似をする必要は無い。
宗次郎はじっと雷十太の目を見る。この目が蘇芳の目と似ていると感じた理由が今ならば分かる。
「・・・伝えておこう。だが、まだ勝負の日はお預けだ」
「どういうことです?」
「役者が揃っておらんからな。緋村剣心、明神弥彦、そして・・・・」
雷十太は誰かの名前を言いかけ、けれどすっと口を引き結んだ。
「まぁ、じきに分かるだろう。それより、今日はこれで失礼するが、置き土産をさせてもらうぞ。吾輩も負けたばかりではいられぬ」
「え、置き土産って・・・・」
雷十太に聞きたいことは幾らでもあったが、宗次郎もいつまでも喋っているわけにはいかなかった。雷十太がすっと竹刀を構え、殺気の篭もった鋭い目を宗次郎に向けたからだ。
「ぬぅん!」
裂帛の気合を込めた雄叫び。それと共に柄を握る手に渾身の力を込め、雷十太は竹刀を己の背中の方にまで引く。
「これって・・・・」
雷十太が何をしようとしているのかは分からない。けれど、何かをしようとしていることは分かる。
宗次郎はその場を飛び退こうと足にぐっと力を込めた。自慢の脚力を以ってすれば、如何なる攻撃であれ避けるのは容易い。けれど。
後ろには操や翠、蒼紫達が控えている。相手の攻撃がどんなものか分からない以上、迂闊には避けられない。ならば。
宗次郎が逡巡していたのはほんの僅かな時間だった。本能的に危険を察知し、宗次郎は咄嗟に声を上げる。
「皆さん、伏せて!」
「えっ・・・!?」
不審に思いながらも、操は翠を庇うようにバッと身を伏せる。蒼紫もまた身を屈め、松代や門下生達も一斉に身を伏せた。その刹那。
「秘剣・飛飯綱!!」
まるで、空気が切り裂かれるような音がした。
雷十太の鋭い剣閃が疾風となり宗次郎に迫る。風のような、では無い。まさにそれは風だった。それも、恐ろしい程鋭利な。
「っ!」
宗次郎は先程皆に声をかけた時、自分もまた身をすっと低くし竹刀を両手持ちにして、刀身は上に掲げるような体勢を取っていた。それが幸いした。
その疾風は宗次郎の竹刀の刀身の真ん中を綺麗に真っ二つにした後、そのまま真っ直ぐに走り抜け道場の壁に食い込んだ。ガッという音と共に鋭い亀裂が入る。
宗次郎の頭も掠っていたのか、数本の髪の毛がパラパラと舞う。
「・・・・うわぁ、危なかったぁ」
気の抜けた感嘆詞が宗次郎の口から漏れる。
もう一歩遅かったら冗談抜きで危なかった。身を退いてなかったら首チョンパになっていたところだ。
周りにいた者も、とりわけ宗次郎の背後にいた操達も、伏せていなかったらどうなっていたことやら。
「ふむ・・・・飛飯綱を初見で喰らわずにいられるとは、流石だな」
にぃ、と雷十太はどこか狂気めいた風に笑う。今この場での雷十太が、初めて浮かべた笑みだった。
「って、感心してないで、蘇芳さんの居場所を教えて下さいよ」
竹刀を投げ出し、踵を返そうとする雷十太を宗次郎は引き止める。
誘い出したのはそっちなのに蘇芳の場所も教えず、飛飯綱というわけの分からない置き土産まで残されて、このまま黙って帰すわけにもいかない。
雷十太は再び、ふ、と笑った。
「時が来れば、自ずと蘇芳の方から姿を現すだろう。それまで大人しくしていることだな。でなくば、蘇芳は決してお前の前に現われはしない」
「・・・・・・」
宗次郎は笑みを浮かべながらも、内心歯噛みする。
京都で待つと言いながら己は表舞台には出てこず、引っ張り出そうとすれば雲隠れしてしまうという蘇芳のやり方に。
静岡での一件もそうだ。宗次郎に京都へ来いとけしかけて、真由と真美の存在を仄めかし、言いたいことだけを言って蘇芳は去っていった。
闘いでは宗次郎が上回っていたのに、結果として蘇芳も雷十太も優位な立場に立っている。
あの蘇芳のことだから一筋縄では行かないだろうと思っていたが、こうも人を食ったやり方ばかりをして。
(何か、こう・・・・イライラするなぁ)
蘇芳に苛立ちを感じずにはいられなかった。それはまだほんの僅かな怒りの感情だったが、それでもその小さな炎は宗次郎の心の中を少しずつかき乱していく。
「では、さらばだ。またそのうち会うことになるだろうがな」
「ええ、その時は逃がしませんからね」
トゲを含んだ声色で、宗次郎は雷十太に言い放つ。そのまま去っていこうとする雷十太を、宗次郎はただ見送るしかなかった。・・・・・が。
「も〜っ!! 何なのよアイツ、それに蘇芳とかって奴! 怒りの怪鳥蹴・・・・!!」
「わ〜、お、お母さんっ!」
騒々しい声に宗次郎はハッと意識を引き戻す。振り返ると、怒りで顔を真っ赤にした操が翠にどうどうと落ち着かせられているところだった。
「人をおちょくるのもいー加減にしろっての! 大体、そっちが瀬田に京都に来いって言ったんだから、そっちが出てくるのが筋ってもんじゃない!? あ〜もうムカつく!」
「落ち着け、操」
昂ぶる感情のままに声を上げる操に蒼紫も声をかけ、ようやく少しは怒りが収まったらしい。感情表現が豊かなところは、彼女は十年前とほとんど変わっていないようだった。
感情のままにその表情を変え、心にも顔にも喜怒哀楽をはっきりと表せる操を。
宗次郎は心の隅っこで、少しだけ羨ましいと思った。
「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ操さん」
宗次郎よりも操がなおはっきりと怒りの感情を表に出していた為だろうか。宗次郎の苛立ちは却って収まり、口調もまた穏やかなものへと戻る。
操はそんな宗次郎にぎろっと目を向けた。
「あんた、悔しくないわけ? あんな風にまんまと逃げられてさ。あんたの方が勝ってたのに」
「そりゃ〜悔しいですよ」
「どこが! 全然そんな顔してないじゃない。ま、あんたに言ってもしょうがないのかもしれないけどさぁ〜・・・」
操はふぅ、と溜息を吐く。宗次郎は思わず苦笑したが、ふと、自分の着物の袂を食いくいと引っ張る小さな手に気付いた。その手の主は言うまでも無く翠で、宗次郎をキラキラした目で見上げている。
「どうしたの?」
「お兄ちゃん、すっっっごく強いんだね!!」
その顔はまさに満面の笑みというのに相応しく、見開かれた目には尊敬とか憧れとか、そういった感嘆の思いで溢れていた。
と、その翠の言葉を封切りに、
「そうだ、あんた強かったぞ!」
「ああ、名勝負だった!」
「あんな凄ぇの見れてびっくりしたぜ!」
と、道場のあちこちから門下生達の熱い声援が宗次郎に送られた。確かに、このような普通の道場では、まず見られない高度な闘いだったのだろう。宗次郎と雷十太が互いに本気を出してなくても、それでも二人は彼らと強さの桁が違う。
「あはは、参ったなぁ」
頭をぽりぽりと掻きながら、宗次郎が大して参った風でもなく呟く。と、すっと松代が宗次郎の前に進み出た。
「瀬田殿、助太刀かたじけない。もしお主がいなければ、この道場の面目は丸潰れになってしまうところじゃった」
「あぁ、そんな礼なんていいんです。元々、今回の一連の道場破りの騒ぎって、僕が原因みたいなものだし」
どこか申し訳なさそうに宗次郎は笑う。松代はいやいやと首を振って、
「それでもお主がいなければこの騒ぎは収まらなかったじゃろう。少なくとも、今日あの石動とかいう輩を負かしたことで、この町で道場破りは無くなるじゃろうし」
松代のその笑顔からは年を重ねた者独特の貫禄が滲み出ている。自分が原因で起こった騒ぎなのに、そう言って貰えて宗次郎は気の休まる思いだった。
「それにしても、あの飛飯綱という技。一体どんな技なのじゃろうな。あんな技、見たことも聞いたことも無いわい・・・」
と、ふと表情を険しいものにし、松代は先程の飛飯綱で亀裂の入った壁を見上げる。
宗次郎達も自然とそちらを見た。漆喰の壁に鋭く真一文字の傷。どんな原理かは知らないが、竹刀でこんな芸当をできる辺り、ただの技ではない。
「・・・・・かまいたち、だな」
それまで冷静に事の成り行きを見守っていた蒼紫が、ふと口を開いた。蒼紫は静かにその壁の傷を観察している。
「え? 四乃森さん、知ってるんですか?」
「俺も詳しくは知らんが、確か古来に伝わる技だ。剣を振るうことで空気の断層を生じさせ、生まれた真空を以って相手を殺傷する。もし人体があの技で斬られれば、傷口がぱっくりと開き、だが出血は少ないという、まさに自然現象のかまいたちでできた傷と同じような特徴を持つだろうな。この壁も見事に真一文字に裂かれている」
淡々と蒼紫は述べた。説明を聞いても宗次郎にはよく理解できなかったが、実際にその技を間近で見た時に感じたように、あれは剣を振るって起こる疾風で相手を斬り裂く技らしい。
「さっすが蒼紫様、物知りね〜」
惚れ直した、という風に操は蒼紫に見惚れている。けれど、はた、と何かに気付いたという風に宗次郎に向き直った。
「ちょっと、どーすんのよ瀬田!」
「え、何がですか?」
宗次郎はきょとんとしている。
「何が、じゃなくて、あの壁! 道場に傷つけちゃったじゃない」
「あ〜・・・と、そういえばそうですね」
宗次郎にその気は無かったとはいえ、結果的に建物に傷をつけてしまったことは事実だ。それに、竹刀を一本駄目にもしている。
「松代先生、本当にごめんなさい!」
「すみません」
頭を下げる操につられるようにして、宗次郎も頭を下げる。そんな二人を見て、翠も真似をしてぺこりと頭を下げる。
松代はふぉっふぉっとまるで仙人のように笑った。
「なぁに、気になさるな。達人同士の闘いを見られたという眼福を思えば、そのくらいの傷安いもんじゃ。なぁ皆の衆」
「ああ、気にすんなって!」
「こんくらいの傷、すぐに直してやるさ!」
松代が同意を求めると、道場中から頼もしい声が上がった。宗次郎が呆気に取られていると、松代はすうっと深く頭を下げた。
「本当に、かたじけない」
心から、深く深く宗次郎に礼を述べる松代に、宗次郎も姿勢を正して向き直り、ぺこりと頭を下げたのだった。











宗次郎達が松代の道場をお暇した時には、陽はすっかり傾いていた。
静岡とはほんの少し夕焼け空の色も違うなぁといった感想を抱きつつ、宗次郎は操達と共に歩いていく。
「あ、そうだ。これ、返さなくちゃね」
「あぁ、刀ですか」
と、ふと立ち止まった操は、ずっと持っていてごめんといった風に宗次郎に刀を差し出した。そういえば勝負の前から預けっぱなしだった。
その刀を受け取り、腰に差そうとした宗次郎だったが、
「ちょっと待って」
と操から急に待ったがかかった。
「あんたその刀、真剣じゃないって言ってたわよね」
「ええ、真剣じゃないですよ」
「じゃあ何? 竹光? それともまさか・・・・逆刃刀!?」
興味津々といった風に操は身を乗り出してくる。真剣じゃない、けれど外見は日本刀というその刀の正体を単に知りたいというのもあるだろうし、かつて人を大勢斬り殺していた宗次郎が、今どんな刀を手にしているのか気になるというのもあるのだろう。
「逆刃刀じゃないですよ、あれは緋村さんと弥彦君の刀ですから。僕の天衣は、こんな刀です」
そう言って、宗次郎は操達に見えるようにすうっと天衣を鞘から引き抜いていく。刃のついていないその刀身を見て、操もあっと声を上げる。
「何これ? どこにも刃がついてないじゃない」
「そうなんです。だから真剣じゃないでしょう?」
操がそれを確認したのを見て、宗次郎はまた天衣を鞘に納めていく。そうしてまた左腰に帯びる。その重みが何となく懐かしく感じる。多分、ここしばらくずっと帯刀したまま旅をしていたからだろう。
「それにしても、何で天衣って名前なわけ?」
ああ、それは、と答えようとした宗次郎の言葉を遮るように、蒼紫が静かに推論を口にした。
「・・・・天衣無縫。雷十太も言っていたが、お前のその剣技の性質から取ったのだろう」
「うわぁ、四乃森さん凄いですね、大正解です。そうなんですよ、この刀を打った人が、僕の剣技を見てこの刀に天衣って名付けてくれたんです」
天衣無縫。それは雷十太が、恐らくは蘇芳が、そしてかつては志々雄も言っていた宗次郎の剣の性質。天が与えたかのごとく完璧で、しかも自然体である様。加えて、それは人柄の天真爛漫さをも差す。まさに宗次郎に相応しい言葉と言えよう。
「ふ〜ん、成程ねぇ。ところで瀬田、あんた京都での宿は決めてあるわけ?」
「いえ、まだですけど」
「だったらさぁ、葵屋に来ない?」
「・・・え?」
操の突然の申し出に、宗次郎は思わず呆けたような顔になった。
何故なら、確かに宗次郎は情報収集のために葵屋に寄りはしたが、目的はそれだけで、情報を得たらもうそこからは立ち去る気でいたからだ。結果的に巻き込んでしまったような形にはなったが、元々蘇芳の一件に、操達は何も関係はないのだから。
何より、操自身が最初は宗次郎を拒絶していたのではなかったか。
「せっかくの申し出ですけど、その辺の安い宿を探すんで大丈夫ですよ。これ以上操さんや四乃森さんに迷惑かけられないし」
やんわりと断る宗次郎に、けれど操は存外真剣な顔つきになって。
「何を水臭いこと言ってんのよ。ことの重大さを知った以上、この一件から手を引くなんてできないわ。また日本に動乱が起こるかもしれないんだし、それに、その蘇芳って奴のやり方にはあたしも頭きてるんだから!
瀬田、あたしはあんたに協力するわよ」
一気に捲くし立てる操を、宗次郎は半ば唖然として見ていた。昼に再会した時には操は宗次郎を敵視していたのに、なのに今はこうして協力してくれると言っている。彼女の言っていることは分かる、けれど、こうも簡単に人への感情は変わるものなのか。
ぽかんとした顔をしている宗次郎に、操は少し照れ臭そうに言葉を付け足した。
「それに、さ。あんた、雷十太が飛飯綱を出した時、あたし達のこと庇ったでしょ」
「あれは咄嗟に、」
「咄嗟でも何でも、あんたがあたし達やみんなのこと庇おうとしたのは事実でしょ? 大体、あんたくらい強ければあの技避けることだってできたんだろうし」
「それは、まぁ」
生返事をしながらも頷く宗次郎に、操はその顔を覗き込んで、ニッと力強い笑みを向けた。
「誰かのことを考えて行動する、なんて、十年前のあんたじゃ考えられないわよ」
「・・・・同感だな」
操の言葉に、蒼紫もさりげなく同意する。
「だから、あたしはとりあえずあんたを信じてみるわ」
これは一種の賭けかもしれない、と操は思う。同じ人斬りでも剣心や蒼紫とは違い、誰かのため、何かのためでなく剣を振るってきた宗次郎を信じようだなんて。
十年前、言葉を交わしたわけではない。ただ剣心との勝負を見ただけでしかない。それでも、その薄ら寒く感じるような宗次郎の恐ろしさは何となく分かった。後から聞いた話だと、彼は感情が欠落していたというし。得体が知れないからこそ、その強さが不気味だった。
けれど、今の彼を信じてみたいと思った。
あの頃と外見はそう変わらないかもしれない、けれど、確かに彼の心は動き出している。先程言ったことだけれど、十年前の、かつて志々雄一派で多くの人を苦しめてきた彼が、そもそも感情すら欠けていた彼が、誰かのことを考えて行動するなどとは考えられない。
だから、あの頃とは確かに何かが変わっている宗次郎を、応援してみたくなったのだ。
(そういえば緋村にも言ったっけなぁ〜・・・。あたしが会ったのは人斬りのあんたじゃなくて、流浪人のあんただって。瀬田だって、きっと今の瀬田は十本刀だった頃の瀬田じゃない。流浪人の瀬田なんだ)
十年前を思い出し、操は心の中で頷く。今傍にいる蒼紫だって、修羅になりかけた自分を乗り越えて帰ってきた。
きっと、人は変わろうと思えば何にだって変われるのだろう。時間はかかっても、心が苦しみに苛まれても、きっと、いつかは―――・・・・。
「爺やもきっと話せば分かってくれるだろうし、ねっ、葵屋に来なよ」
「でも・・・・」
「どーせ緋村達もそのうちこっちに来るんでしょ? じゃあ、葵屋にいた方がいいって」
「うん、うちに来てよ、お兄ちゃん!」
いつの間にか、翠までもが宗次郎の袂を引っ張っていた。操と翠の母娘に左右からせがまれ、宗次郎は何となく助けを求めるように蒼紫に目を向ける。
蒼紫は何も言わずただじっとこちらを見ているが、その目に拒絶の意は篭もってはいない。蒼紫も宗次郎が葵屋に留まることを肯定はしているのだろう、言葉に出さなくても。
「じゃあ・・・・お言葉に甘えて、しばらくご厄介になります」
宗次郎はやんわりと笑った。協力してくれる、と言った操の言葉を素直に有り難いと思った。操の真意は宗次郎には掴みかねるけれど、彼女の言葉に嘘は何一つ無いような気がした。
自分を支えてくれる存在の大切さは、これまでの旅の中や静岡での生活の中で知っていた筈だった。けれど、改めてそういった存在を得ると、なんて頼もしいんだろう、と思う。
(あの時の緋村さんもそうだったのかな)
蘇芳への懸念は尽きない。既に雷十太というそれなりに腕の立つ同志がいた以上、まだまだ強敵は控えていることだろう。
けれどそれを迎え撃つのが自分だけではないことに。
かつての闘いと同じ地で、けれど今は敵ではなく味方として近くにいてくれる彼らの存在に。
宗次郎は不思議な縁を思うと同時に、奇妙な安堵感を心のどこかで覚えていた。