彼は、風のような人だと思う。
元々流浪人だから、いつかまたどこかへ行ってしまうことは分かっていた。
分かってた、のに。
―第六章:京都へ・・・(後編)―
「・・・・はぁ」
は本日何度目になるか知れない溜息を吐いていた。の沈んだ気持ちを象徴するかのように、空には暗雲が立ち込め、雨もまだ止まない。
その雨の中で、ずぶ濡れとはいえ大怪我もせず無事に帰ってきた宗次郎の姿を見た時は、心底安堵したものだったが。
『急で申しわけないんですけど、僕、明日京都に発ちます』
その後、そんな発言が宗次郎の口から飛び出てこようとは、思ってもみなかった。今日もいつも通りの日常を送れるのだと、疑いもしなかった。
「京都、か・・・」
宗次郎が言ったその地名を呟いてみる。自身は行ったことはないが、千年以上の歴史を持つ日本の古都。交通の便は昔よりも良くなったとはいえ、それでもここ静岡からは、遠い場所だとは感じていた。そして宗次郎にとっては、馴染みが深く、ゆかりのある場所。
彼がかつてしてきたことは知っている、多くの人を殺めてきたことも―――。
初めてそれを知った時は、正直とても宗次郎のことが恐ろしかった。いつもにこにこと笑っていて、あどけない表情を浮かべていて、それでも彼はその手で大勢の人を斬ってきたのかと。虫も殺さないような顔をして、多くの罪を重ねてきたのかと。
その反面、納得もしていた。今の時代に似つかわしくない、洗練された剣の腕。闘いの時に見せる、只者ではない身のこなし。それらも全ては、人を斬り殺してきたが故だったのだと。
怖かった。
この人は自分とは全く違った世界を歩んできた人なのだと、その時になってようやく痛感した。けれど。
『すみません、怖がらせちゃって』
自身の過去、旅を始めた理由、全てではなく断片的にだけれど、それらを語った宗次郎が微笑いながらもどこか寂しげな色をその瞳に映していたのを見て。
きっと、そうせざるを得なかった哀しい理由があるのだろうと、は悟った。
その時、初めて心から、彼の傍に居たいと思った。
「・・・・はぁ」
そうして、はもう一度溜息を吐く。
先程、宗次郎自身も言っていたが、蘇芳のことはやはり宗次郎が片を付けるべきだということには、も同感だった。
宗次郎がその争いの火種を作ったというのなら、それを止めるのは彼の役目だろうし、彼にしかできないことだ。悔しいけれど、医者というだけでごく一般の人間である自分には、決して手が出せない世界だった。
蘇芳という人が未だ剣を握り、立ち向かうのにもまた剣が必要となるならば、やはりそれは宗次郎のような剣客にしか、彼を止めるのは成し得ぬことなのだろう。
何より、宗次郎がそうしたいと決めた以上、それを邪魔することなどできない。邪魔をしたくない。宗次郎がそうしたいと望むなら、それを叶えさせてあげたい。
宗次郎と蘇芳の因縁は、自分には絶対に割り込めない領域。だから彼が京都に発つことを止めはしない。一緒に行きたいという気持ちが全く無いと言えば嘘になるけれど、彼の重荷になるだけだと知っているから、ついて行くこともしない。それはきっと、浅葱も同じ気持ちなのだろう。ただ。
彼は流浪人だから、いつかまた流浪れていってしまうことは分かっていた。
彼は風のような人だから、ずっと一つの場所に留まることは無いだろうということも分かっていた。
分かっていた。分かっていたのに、まるで彼がずっと昔からこの家で暮らしているような感覚をいつしか覚え、一緒に過ごしているのが当たり前にさえなっていた。
だから、これからもそんな日が続いていくのだと思っていた。続いていって欲しかった。いつか、別れが訪れるその日まで。願わくば、そんな日が来なければいいと祈りながら。
宗次郎は流浪人だから、いつかまたどこかへ行ってしまうことは分かっていた。
自由気ままに流浪れる彼を引き止める権利は、自分にはありはしない。真実を探している彼の旅路を、自分の我侭で終わらせるわけにはいかない。
闘いの後、またここに戻ってきて欲しいと願うことが、赦されないのは分かっている。
分かってたのに。こんなにも別れが辛い。行って欲しくないのとは少し違う。
―――彼に、ここに居て欲しい。また戻ってきて欲しい。
「・・・・はぁ」
そこまで考えて、は一際重い溜息を吐いた。
宗次郎の旅立ちは止められない。なら、笑顔で見送ってやるのが、この数ヶ月共に過ごしてきた自分達の役目だ。いつまでもこんな暗い顔をしているわけにはいかない。そう簡単に気持ちを切り替えられるほど、は器用ではないけれど。
(宗次郎君・・・・)
夕べ一睡もしていない分、朝食を終えた後から寝ている宗次郎の姿を思い浮かべて、は心の中でその人の名を呼んだ。
そうしてからようやく、は長い間止めていた歩みを再開し、廊下の先にある浅葱の待つ診療室へと向かったのだった。
時刻が正午を回っても、雨は止まなかった。幾らか小降りになってはきているが、相変わらず静かな雨の音は辺りに木霊している。
それも手伝って肌寒い空気だったが、それでも起き出してきた宗次郎は元気なことに着物を襷がけにして、廊下の掃除に精を出していた。足袋も脱ぎ、裸足になって雑巾をかけていく。
今日は生憎の雨なので洗濯はできそうに無かったが、自分が長いこと世話になったこの家を、その分綺麗にしていこうと思ったのだ。
「さて、後は縁側の方かな」
廊下の方は一通り拭き終わり、宗次郎はにこやかに笑って額に張り付いた前髪を払う。桶に汲んだ水の中で雑巾を洗いながら、宗次郎はふと懐かしい過去に思いを馳せる。
(昔も良くやったなぁ、雑巾がけ)
やらされていた、といった方が正確だが。
掃除だけではない。洗濯も、炊事も、あの義理の家族達に散々やらされてきたおかげで、すっかり宗次郎のお手の物となっていた。
あの頃はただ命じられるままにこなしてきたが、長い旅の中で、自分が家事を手伝うことで喜んでくれる人もいるのだと、労ってくれる人もいるのだと知った。だから今の宗次郎にとっては、家事全般は苦痛ではなく、むしろ楽しいものだった。この家に来てからは、特に。
けれどこういった家事仕事も、当分の間はできなくなるだろう。明日から、また自分は流浪人に戻るのだ。
(・・・・当分の間?)
そう考えて、その言葉に何か引っかかるものを感じて、宗次郎は苦笑した。
明日から、また自分は剣の世界ヘと身を投じる。相手はあの蘇芳だ、京都で様々な策を練って自分を待ち受けているに違いない。
しばらくは闘いと暗躍の日々になるだろう、あの頃と同じく。けれど、当分の間は家事ができなくなると、そう考えてしまうということは。
闘いの後、またこの日常に戻りたいと、そう言っているも同然で。
(そんなの、虫が良すぎるよね。ここは浅葱さんとさんの家で、・・・・僕の家なんかじゃないのに)
宗次郎はどこか自嘲気味な微笑を浮かべる。
『闘いが終わった後、お前はどうするつもりなんだ?』
浅葱から投げかけられた問い。すぐには答えられなかった。いや、答えそのものが浮かばなかった。だからあれだけしか言えなかったが、多分浅葱は、違う答えを期待していたのだろう。
自分の中の真実と、生き方を探す旅。十年は流浪れてみようと決めて歩き出したあの時から、もうそれだけの月日は経ってしまった。朧げながら、宗次郎も少しずつ自分だけの真実というものが見えてきている。
ならばそろそろ流浪れるのを止めにして、この家で暮らしていることが自分自身だけでなく浅葱とにとっても当たり前になってきている今、できればまたここに戻ってきたいと思う反面、
―――そんなことが、赦される筈が無いのも分かっている。
あの氷雨の日からずっと側にいた志々雄真実から離れ、その存在自体を失った時から、彼の帰る場所はどこにも無くなった。この十年、当ても無い流浪人として日本を流浪れてきて、一つの場所に留まることは幾度かあったけれど、それらのいずれもが宗次郎の帰る場所ではなかった。
その中でも一番長く留まったここは、宗次郎にとって一番居心地が良くて、一番温かい場所で、一番平穏を感じた場所だった。と浅葱と一緒に過ごしているうちに、幼い頃の自分が持ち得なかった家庭的な温もりというものを、今になって得た気がしていた。
それでも、ここもまた宗次郎にとっての帰る場所では無い。帰ってきていい筈が無い。
多くの人の命を奪ってきた自分の道と、多くの人の命を救ってきた彼らの道は、あまりにもかけ離れている。
いくら長く共に過ごしてきたとは言っても、いくら穏やかな日常を送っていきたいと思っても。
闘いの後、またここに戻ってきたいと望むことが、赦されないのは分かっている。
「あ、いけないいけない、急がないと夕飯の時間になっちゃうな」
もやもやした気分を振り払うかのように、宗次郎はやはり笑顔を浮かべる。
嫌なことは笑ってやり過ごす、その癖は今になっても、なかなか抜けてはくれなかった。いや、嫌なことだということを自覚したくないから、だからこそ笑って誤魔化すのかもしれなかったが。
雑巾の水気を絞り、宗次郎は今度は縁側の方の拭き掃除へと向かう。
吹き込んだ雨が板の上で無数の細かい水滴になり、縁側の廊下を濡らしていた。宗次郎はそれを端から丁寧に拭いていく。拭いていく側からまた雨が吹き込んできて、宗次郎は段々といたちごっこをやっているような気分になってきた。
「しょうがないなぁ。ここは雨が止んでからにするか」
空を見上げて宗次郎は呟く。少しずつ雨雲は引いてはきているが、相変わらずの空の色だ。
宗次郎は縁側の廊下の拭き掃除を諦めて、診療室へと繋がる廊下の方へと引き返す。と、丁度がその部屋の戸を開けて廊下へと出てきたところだった。少し沈んだような表情を浮かべていて、けれど宗次郎の姿を見た途端、ぎょっとしたような顔になった。
「そ、宗次郎君!?」
「どうしたんです? 変な顔して」
「あ、べ、別に何でもないよ」
焦りを隠すかのようにはひらひらと手を振り、強張った笑顔を返した。明らかに動揺しているを見て宗次郎は不思議そうに首を傾げたが、ふとある疑問符が浮かんでそのまま訊いてみた。
「診察はどうしたんですか? まだ診察時間ですよね?」
「えー・・・・と、それがね・・・・」
宗次郎が問うと、は明らかに気まずそうに目を泳がせた。
けれど小さな溜息を一つ零すと、意を決した風に答えを返した。
「お兄ちゃんに追い出されちゃって。『そんなに宗次郎のことが気になるんなら、きっちり話つけて来い! 上の空で仕事されたんじゃ患者さんに迷惑だ!』って」
浅葱の口調まで真似してが言うものだから、宗次郎は思わず笑みを漏らした。言い方こそ荒いものの、浅葱は落ち込んでいるを心配してそう言ったのだろう。その光景は容易に想像がつく。その位、自分は長くここに居たのだ。
「いつもありがとう、家の中を綺麗にしてくれて。本当は私がやるべきなんだろうけど」
宗次郎に向き直って、は柔らかく笑む。宗次郎は手にした桶と雑巾を廊下に置いて、手を手拭いで拭いた。
「いいんですよ。僕が好きでやってることなんですから」
そう言葉を返しながら、自分がそんな風に思えるようになったことに不思議な感覚を覚える。二十年前、あの頃の自分には決して無かった思いだろう。
「・・・京都へはどうやって行くの?」
「ええ、東海道を通っていこうと思って」
ふと会話を変えたに、宗次郎はきちんと返事を返す。船や機関車で京都まで行く道のりもあるが、旅慣れている自分にはやはり東海道を通っていくのが一番性に合っている。
「路銀は大丈夫? 何だったら私達出すけど」
「幾らかは持ってるから平気ですよ」
「いざとなったら野宿する気なんでしょ。迂闊に野草を食べちゃ駄目だよ、また中毒起こしちゃうから」
「ええ、気を付けます」
やんわりと笑みを返して、そういえばそれがと出逢ったきっかけだったなぁと思い出に浸る間も無く、更に彼女からの質問は続く。
「京都に行ったら、それからどうするの?」
「とりあえずは情報収集かな。蘇芳さんが向こうで何やってるか調べないと」
「宿は?」
「まぁ何とかしますよ」
「やっぱり路銀出そうか?」
「大丈夫ですって。それより・・・・」
宗次郎は一旦会話を切り、先程から気になっていたことを、口にした。
それは宗次郎からしてみれば、何気ない疑問だったのだけれど。
「何だかさん、珍しく多弁ですね」
普段のは、こんな風に畳み掛けるように質問をしたりはしない。相手の話をよく聞いて、相槌を打ったり、頷いたりしながら次の話題を出す。或いは、にこにことした笑顔を浮かべて、楽しそうに相手の話を聞いている。
それがまたらしくて、だからこそ今の彼女の態度には、何だか違和感を感じた。
それで宗次郎はそう言ったのだったが、は何故か、言葉に詰まったようだった。
「・・・・だって・・・・」
次の言葉は、言い訳のような言葉。
明るかった笑顔が、見る見るうちに、くしゃっとした泣き顔へと変わった。その顔を見せたくないのか、或いは涙を堪えるためか。は顔に片手を当てた。もう片方の手は着物をぎゅっと握り締め、小さく震えている。
宗次郎があれ、と思う間も無く、の瞳から涙が落ちた。
「・・・・喋ってないと、泣いちゃいそうなんだもの・・・・」
がそう言ったそばから、押さえ切れなかった涙が、後から後から流れてきた。
笑顔で見送ろうとは思っても。感情がそれを許してくれない。
頭で納得していても。すぐそこに迫った別れという現実に、心がついていかない。
だから仕事にも身の入らなかったを浅葱は放っておけず、ちゃんと話をしてこいと送り出してくれたのだけれど。
宗次郎と向き合ったら尚のこと、別れ難くなった。戻ってきて欲しいと言えない以上、明日が今生の別れとなるかもしれないのだから。
「・・・っく・・・、ご、ごめんなさい・・・・」
どうして彼女が謝るのか。宗次郎には分からないまま、は目の前で声を殺して泣き続ける。終いには着物を握っていた手も離し、両手で口を覆って嗚咽を堪えようとしていた。
(・・・・泣かせちゃったな)
正直、宗次郎はそう思った。感受性が豊かなだから、別れの際にはもしかしたら泣いてしまうかもしれないとある程度予測はしていたが、実際にこうして目の前で泣かれてしまうと、不思議な気分になる。
こんな風に声を上げて泣いたことも、宗次郎にはもうずっと遠い昔にしかなかった。剣心との闘いに敗れた時、志々雄と袂を分かった時、そして旅の途中で大事なことを教えてくれた”ある人”と別れた時、そう言った時に涙を流しはしたけれど、声を上げたりはしなかった。
涙だけでは収まらない激しい感情のうねりが、きっと声を通して表に出てくるのだろうけれど。
もうそれを宗次郎は知らない。だから、が苦しそうに泣いているのを見ても、何と言えばいいのかも分からない。それを癒す術を知らない。
だから、
「・・・嫌だなぁ、どうして泣くんですか」
そんなことしか、言えなかった。
「だって・・・・」
はしゃくりあげながら宗次郎を見た。涙で視界がぼやける。その中で宗次郎が困ったように笑っているのが見えた。
ああやっぱり。
目の前で泣いたって、宗次郎を困らせるだけでしかない。だから笑って見送りたかったのに。
そしてきっとこれから言うことは、もっと宗次郎を困らせるのだろう。
「だって闘いの後、もう、ここに戻ってきたりはしないんでしょう・・・・?」
いくら自分が彼にまた戻ってきて欲しいと思っても、彼にその気が無いのなら、そんなのはただ残酷な問いでしかない。訊いても仕方のないことなのに、言わずにはいられなかった。答えを、分かってはいても。
そうしてまた、は声を詰まらせて泣き続ける。一度溢れた感情の波は、そう簡単に鎮まるものではない。唖然とする宗次郎の前で、はただひたすら泣いていた。
「それって・・・」
の切望するような問いに、宗次郎はぼんやりとあることを悟っていた。
明日の別れ以上に辛いものに彼女は泣いている。
今生の別れを思っては泣いている。
だからは、宗次郎にまたここに戻ってきて欲しいと泣いているのだ。声を上げて、哀の感情に任せるまま、叶わぬ願いと知りながら。
宗次郎にまたここに戻ってきて欲しいと。
―――また、ここに戻ってきて欲しい?
「・・・・戻ってきてもいいんですか」
それに思い当たった時、宗次郎は思わず呟いていた。
宗次郎の呟きに、はえ、と顔を上げた。
宗次郎はどこか複雑そうで、それでいて穏やかな笑みを浮かべていた。
言っていい筈が無い。自分勝手だとさえ思う。
けれど、彼女が大粒の涙を流してそう言うのなら。彼もまた、問わずにはいられなかった。
また、ここに戻ってきても良いのか、と。
闘いの後、またここに戻ってきて欲しいと願うことが、赦されないのは分かっている。
闘いの後、またここに戻ってきたいと望むことが、赦されないのは分かっている。
―――それでも、もしもそれを赦してくれるならば。
「僕はまた、ここに戻ってきてもいいですか?」
宗次郎はを真っ直ぐに見据えて、はっきりと尋ねた。
はすぐに二の句が告げなかった。涙と嗚咽は止まったけれど、喉の奥が苦しくてすぐに声を出せなかった。その答えがまるで奇跡のように思えて、嬉しくて嬉しくて仕方ないのに。
だからその代わり、こくこくと頷いて見せた。
「良かったぁ」
今度は満面の、まさに子どものような無邪気な笑顔を浮かべて、宗次郎はほっとしたように息を漏らした。
の返事にも、彼女の涙が止まったことにも。
「・・・あ、」
がふと声を上げる。顔の涙を拭いながら、何かに気が付いたように。
「どうしたんですか?」
「雨、止んだみたい・・・・」
確かに耳を澄ましてみれば、あの耳に馴染んだ雨の音はもう聞こえない。宗次郎とがそのまま連れ立って縁側の方に回ると、そこに見える景色にはもう雨の姿は無く、代わりに目に飛び込んできたのは。
「わぁ・・・・」
「虹、ですね。久し振りに見たなぁ」
どうやらいつの間にか止んでいたらしい雨は、雨雲と共にそこを去り、残された晴天には七色の橋が架かっていた。雨上がり独特の涼しげな空気の中で、それはより鮮やかに、その七つの色を湛えていた。
「・・・ねぇ、宗次郎君」
「はい?」
晴れたのは、空ばかりではないらしい。
泣くだけ泣いて、顔にその跡は残ってはいたけれど、それでもはにっこりと、彼女が浮かべることができる一番の笑みを宗次郎に向けて。
「私、宗次郎君の無事を祈ってるから。だから、気を付けて行ってきてね」
「ええ、勿論」
そうして宗次郎も、屈託の無い笑顔をに見せるのだった。
次の日、道に水溜りは残るものの爽やかな青い空の下、再び旅装束を纏った宗次郎は、診療所の前でと浅葱に一時の別れを告げていた。
「行ってらっしゃい、宗次郎君」
のその顔に涙は見られない。ほんの少し寂しさを含んだ瞳で、けれどふわりとした笑顔を浮かべて宗次郎を見送る。
「気を付けてな。けど、もし大怪我でもしたら、すぐ俺達に知らせること。それから、事が片付いた後、ちゃんと俺達に事後報告はすること。分かったな」
「あはは・・・約束します」
宗次郎がまたここに戻ってくるようにと念を押す浅葱に、宗次郎は思わず笑う。から聞いてはいるのだろうが、それでもこれが彼の宗次郎への気遣いの表れなのだろう。
「それじゃあ、行ってきます」
宗次郎はにこっと笑む。天衣を腰に帯び、また自分は流浪人という剣客になるけれど、それでも戻ってきてもいい場所をようやく得る事ができた。
京都で何が待ち受けているかまだ全く分からないけれど、それもと浅葱の二人がここで待っていることを思えば、きっと何とかなるだろうと、そう思う。
蘇芳、真由、真美、そして自分自身の過去。そういったものが、立ちはだかるとしても。
必ず、またここに戻ってこようと。
「気を付けてね!」
自分を見送ると浅葱にまた満面の笑みを向けると、宗次郎は踵を返す。そのまま振り向かずに、真っ直ぐに歩いていく。
歩む先に続くのは京都。十年前、志々雄一派としての自分が暗躍した場所。
この静岡の地で得たものと、この先に向かう地でかつてあったことに思いを馳せながら。
宗次郎は、今、再び京都へと旅立った。
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