―第五章:京都へ・・・(前編)―



「しっかし、まさか志々雄に子どもがいたなんてねェ・・・」
ゆっくりと歩きつつ、弥彦が首を傾げながら呟く。
「まぁ、前の闘いの時は真由君と真美ちゃんはまだ小さかったし、それに京都にいませんでしたからね。知らないのも無理ないですよ」
同じ速度で隣を歩く宗次郎は、微笑を浮かべて言葉を返した。
蘇芳との闘いの後、その場を去った二人は未だ静寂に閉ざされるこの町を歩いていた。空には重い暗雲が立ち込め、朝の訪れる気配はまだ遠い。
しばらくは力無い笑みを浮かべていた宗次郎も、今はいつもの飄々とした笑顔に戻っている。
「何でまたそいつらは京都にいなかったんだ?」
「志々雄さんがわざと自分から離させて育てたんですよ。親といると甘ったれるから、って。まぁ、由美さんの方は手元に置きたがってたみたいですけどね」
「志々雄の子どもってことは、やっぱ強いのか?」
蘇芳や真由、真美に対しての好奇心は尽きないようで、ずっと弥彦からの質問攻めは続いている。宗次郎はその一つ一つに、自分が分かる範囲で丁寧に答えを返していた。
「う〜ん、二人とも今年で確か十六だから、強くなってると思いますよ」
「って、もしかして真由と真美って双子か?」
「ええ。僕はよく知らないんですけど、男女の双子って不吉だそうで。だから志々雄さんから引き離して育てたって節もあるみたいですよ。方治さんが言ってました」
それはあくまでも迷信ではあるが、かつて日本では男女の双子は心中した恋人同士の生まれ変わりと言われており、そのために不吉なものとされていた。
もっとも、志々雄はそんなことを気にするほど器の小さい人物ではなかったが。男であっても、女であっても、我が子がより強く育つようにと、敢えて親元から引き離し、甘えを断ち切ろうとしていたようだった。
ちなみに、年の頃が十六というのは数え年で計算した場合で、実際の二人の年齢は十五歳となる。
「真由君と真美ちゃんが志々雄さんと由美さんに会えるのだって年に数える程で、僕自身も二人にそんなに会ったことも無いんです。でも・・・・」
「でも?」
宗次郎の表情から、ほんの一瞬笑みが失せた。弥彦も眉を顰めつつ、言葉の続きを待つ。
「僕、あの闘いの後、真由君と真美ちゃんを探したんです。志々雄さんがどうなったのか・・・・二人にも教えておいた方がいいかなって。でもそれまでいた場所から二人はいなくなってて、その後の行方も掴めなかった。まさか、今、二人が蘇芳さんと一緒にいるなんて思わなかったな。蘇芳さんと再会しただけでも驚いたのに」
そうして宗次郎は再び口を噤む。
蘇芳と真由、真美の間に何があったのか、そのいきさつは知らない。けれど、彼らが今行動を共にしていることは事実。そして、十年前に京都にはいなかった蘇芳が、その闘いのことについてどう説明したのかも知る由も無いけれど。
剣心を父の仇だと。
宗次郎を裏切り者だと。
真由と真美がそう思っていることも、きっと真実。
―――剣心と宗次郎が、共にそんなつもりは無かったとしても。
「・・・で、お前はやっぱ京都に行くのか」
ふと声のトーンを落として、真摯にこちらを見つめて来る弥彦に、宗次郎も少し真剣な面持ちになって。
「・・・・それは勿論」
蘇芳との因縁は、自分で蒔いた種だ。彼が自分と決着をつけたいと望むなら、それに答えねばならない。
それに、志々雄と由美の忘れ形見、真由と真美も自分を待っているというのなら。
自分は京都へ行くべきだ。いや、蘇芳の言葉通り―――行かざるを得ない。
何より、その二つの理由の他に、宗次郎にはもう一つ京都へ行かなければならない理由がある。
「俺も行くぜ。あんな奴、野放しにしちゃおけねぇ。十年前の闘いの時は俺は蚊帳の外だったけど、今度は違う。俺もあの時の剣心みたいに闘うぜ!」
拳を掌に打ちつけながら、弥彦ははっきりと言い放った。
弥彦もまた、あの京都での闘いに携わった者。今回の蘇芳の件に、志々雄一派のことが関与している以上、見過ごしてはおけない。
そして剣客としての曲げない信念と、生来の強い正義感のためもある。この国の平和が再び脅かさせるかもしれないと知った以上、黙って見ていることなど、弥彦にはできなかった。
「そう言うと思った」
宗次郎はくすっと笑う。蘇芳との因縁は自分にあるとはいえ、辻斬りの一件で弥彦も蘇芳とは相対した。彼の性格なら、きっと蘇芳のことを放っておくことなどしないだろう。
剣心もまた、この一件のことを知ったら、きっと動くに違いない。逆刃刀を手にしていなくても、例えもう闘えないとしても。
あの人は、そういう人だ。
「俺は一旦東京に戻って、剣心にもこの話を伝えてくる。そしたら、俺もまたすぐに発つから、次に会うのは京都でだな」
力強い笑みを残し、弥彦は宗次郎の前から去っていった。
・・・・それは、ほんの数時間前の話。再び一人きりになった宗次郎は、ただ静かに帰り道を歩いていた。
顔に浮かぶあどけない笑みとは裏腹に、宗次郎の心は珍しく沈んでいる。それは蘇芳のことについてだけではなく。
『気を付けてね』
そう言って送り出してくれた、彼女への思い。
いきなり自分が京都へ発つと言ったら、あの少女はどんな反応をするのだろう。
「・・・・ん?」
不意に、ぽつ、と雫が宗次郎の頬に落ちた。反射的に空を見上げると、暗い空からいくつもの雨粒が落ちてくるのが見えた。もうすぐ夜も明けるというのに、雲は晴れずに雨が降るなんて。
「雨、か。そういえばあの日も雨だったなぁ」
懐かしい人と会ったからだろうか、いつに無く郷愁的な気分になって宗次郎は目を細め、遠い昔を思い出すように呟いた。
宗次郎が強くなるきっかけを得たはじまりの日も、こうして雨が降っていた。思えばあの日からだろう、修羅の道を歩き出したのは。
誰も守ってくれない中、自分がその手を汚すことで、強くなることで、宗次郎は己の身を守ることができた。
所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ。その言葉通り、強くならなければ生きられなかった。
その真実を教えてくれたあの人を、宗次郎は確かに慕っていたけれど。
それでも、あの日の自分に打ちつける雨は、ただただ冷たかった。
過去があるから今の自分があると分かっていても、それでももしかしたら、あの雨の日のままで動き出していない自分も、どこかにいるのかもしれない。
「あーあ、着物、濡れちゃったなぁ」
言いながらも、宗次郎は歩く速度を速めない。いや、むしろ立ち止まって、再び雨の落ちてくる空を仰ぐ。
秋の雨は酷く冷たい。雨が体を打つごとに、震えるような寒さが走る。朝の空気と相まって、体が段々芯から冷えてきたけれど、それでもなお。
幼い頃のあの日と同じく、たった一人で雨を見上げて―――。
「・・・宗次郎君」
ふと、その雨が途切れた。視界に薄紅色の番傘が入り、気遣わしげな声が耳に届く。
振り向くと、そこには心配そうな、けれどどこか安堵したような笑みを浮かべたが立っていた。
「・・・さん」
「お帰りなさい。そろそろ帰ってくる頃かなって思って、探してたの。雨も降ってきちゃったし・・・」
ほんの少し目を丸くして宗次郎はを見る。彼女は寝巻きに羽織を一枚かけただけという質素な格好で、自分が濡れるのも厭わずに宗次郎に傘を差し出している。
目の下にうっすらと隈も見えることからして、きっとあまり眠ってもいないのだろう。
「すみません、心配かけちゃって」
頭を掻きながら、宗次郎は素直に謝った。謝りながらも、がこうして迎えてくれたことに、どこかほっとしている自分もいて。無意識のうちに、宗次郎の笑みは深くなっていた。
「肩のとこ、怪我してるね。早く家の中に入って手当てしよう、体も冷えちゃうし」
雨に打たれて濡れたせいで、宗次郎の肩の掠り傷の辺りは、血が染み出して着物が赤く染まっていた。大した怪我ではないのだけれど、それでも怪我であることに変わりはない。
「ええ、お願いします」
微笑って頷きながら、宗次郎は自分の体から冷たさが薄れていることに気が付いた。
そしてそれは多分、雨が傘で遮られたから、それだけではなかった。













「・・・京都?」
治療を終えた後、と浅葱の二人に、宗次郎は昨日のおおよその経緯を説明した。
町を騒がせていた辻斬りは、昔の同志・蘇芳であったこと。過去のいざこざが原因で、蘇芳は宗次郎に固執していること。その蘇芳は今、この国そのものを奪い取ろうとしていること。何より、京都で宗次郎との再戦を望んでいること―――かつての主、志々雄の遺児の二人と共に。
と浅葱は突然の途方も無い話に、ただただ唖然とするばかりであった。二人に向かい合って、きちんと正座をして座っている宗次郎は、微笑みを湛えながらも真っ直ぐな瞳でこう続けた。
「蘇芳さんが僕との闘いを望むなら、それに応えたいとは思うんです。真由君と真美ちゃんもいるのなら尚更・・・・僕は京都へ行かなくちゃいけない」
「・・・・・・」
宗次郎の言葉を、と浅葱は声も無くただ聞いている。外で降っている雨はまだ止まず、静かな雨の音だけが、場をよりしんとさせる。
「この国を守るためとか、そういうことを言うつもりはありません。正直、日本の行く末がどうなるかなんて僕には分からないし。ただ、僕が原因で蘇芳さんがそんな行動に出たんだとしたら、やっぱりそれは僕がケリをつけるべきかなって、そう思って」
宗次郎は思うままを二人に告げた。
十年前の剣心やつい先程の弥彦のような、この日本を守るため、という正義感など無い。方治のように、国を憂える気持ちも無い。自分の生まれ育った国だという認識はあるが、日本そのものを宗次郎はどうこうするつもりは無く、国の行く末なんてあるべき方へ流れていくものだと考えている。この先この国がどうなるかなんて、宗次郎にはあまり関心が無かった。
ただ、十三年前、蘇芳が志々雄一派から離脱する原因を作ったのは、その気は無かったとはいえ紛れもなく宗次郎自身である。その後も蘇芳は宗次郎の強さを追い求め、再び剣を交えたいと欲している。そうであるなら応じたいとは思う。修羅としてではなく、一介の剣客として。
そして、真由と真美。志々雄と由美の忘れ形見。
流浪人としてこの十年、日本を流れて、修羅としての自身の過去は否定するつもりは無いけれど、それはこの平穏の中に大分埋もれてきてはいた。けれど、人は過去を全て払拭するなど、できるはずも無い。
元より過去の自分を認めてはいても、それでも蘇芳と真由、そして真美、彼らと相見まえるということは、宗次郎が自分自身の過去と再び向き合うのと同じだと言えた。
蘇芳だけではなく、過去の自分とも、ケリをつけるための闘いだとも。
「・・・浅葱さんとさんの二人には、本当にお世話になりました」
ふと目を伏せて、宗次郎は微笑んだ。
温かな日常を、自分に与えてくれた人達。いつの間にかここが自分の居場所になっていた。それがとても心地良かった。ようやく安息を得たと思った。だからこそ、それが、宗次郎がここを離れる一番の理由。
京都に行かなければならない。行かざるを得ない。
―――自分の闘いに、この二人を巻き込むわけにはいかない。
「すみません、いきなりこんなことになってしまって」
今度は申し訳なさそうに笑った宗次郎に、ようやく浅葱は口を開いた。
「お前が謝る必要なんてないさ。世話になったのはお互い様だし、宗次郎が自分で決めたことなら、俺達はどうこう言うつもりはないし。ただ・・・」
「・・・寂しくなっちゃうね」
浅葱の言葉を遮るように、がぽつりと呟いた。俯いているの顔には、力無い笑みが浮かんでいるようにも見える。
宗次郎は不思議な気分になった。のその表情を見た途端、胸の中にもやもやと、形の定まらない塊が浮かんだようだった。
すみません、と、思わずもう一度謝ろうとした時、
「とりあえず、朝ご飯にしよっか。宗次郎君もお兄ちゃんもおなか空いてるでしょ」
多分無理して笑っているのだろう、どこかぎこちない笑顔を浮かべて、はすっくと立ち上がった。
「おい、・・・」
「宗次郎君は夜中ずっと歩いてたから疲れてるでしょ? 今日は私が作るね!」
呼び止める浅葱の声も聞き流して、はそのまま障子戸を空けると、ぱたぱたと廊下を歩いていってしまった。
宗次郎はぽかんと口を開けたままその姿を見送って、浅葱は苦い顔になってハァ、と重い溜息を吐く。
「・・・ったくのやつ、無理しやがって」
直後に漏れたその呟きは、幸か不幸か、宗次郎の耳には入らなかった。
「あの〜・・・浅葱さん、今何か言いました?」
「いや、こっちの話だ。それより、」
不思議そうに首を傾げた宗次郎に浅葱は愛想笑いを返して、そうしてまたふっと真剣な表情を浮かべる。
「さっきの話の続きだけど、俺はお前が京都に行くのを止めはしない。元々流浪人だったお前を、止める権利も無いしな・・・・気を付けて行って来いって、見送るくらいしかしてやれそうにないし」
「充分ですよ、それで。ありがとうございます」
宗次郎はやんわりと笑った。
浅葱との二人に、一緒に京都へ行って欲しいと、宗次郎は言うつもりは無い。二人には二人の、人の命を救うというやるべきことがあるのだし、何より、自分と蘇芳の確執に二人は関係ない。わざわざ巻き込む必要は無い。浅葱とには、闘いとは無縁であって欲しい。
宗次郎自身は「これは僕の問題だからなぁ」、と案外気楽に考えていたりするのだが、それでも、その心の僅かな機微を言葉にして表すのなら、そんな風に言えただろう。
だから自分では力になれないと気落ちする浅葱とは反対に、宗次郎はほっとしたのだったが、それでも彼のその言葉は有り難いと思った。
「明日、ここを発ちますけど、今日も普段通り過ごさせて下さいね」
立ち上がり、宗次郎は皺になった袴を直す。普段通り、というのは、掃除をして洗濯をして食事を作って、といったようなおさんどん仕事の類を今日もしていたいということだ。再び剣を抜く前に、そうした些細な日常をまた送りたいと。今まで世話になった浅葱とへのお礼のつもりもある。
「・・・宗次郎」
障子戸に手をかけかけた宗次郎を、浅葱は呼び止めた。宗次郎は顔だけ振り向く。
「何ですか?」
にこやかな宗次郎とは対照的に、浅葱は存外真面目な顔で。
「俺は、お前が京都へ行くのを止めはしない。ただ・・・・」
先程と同じ台詞だった。けれど浅葱は、その先を言うのをどこか躊躇しているようだった。
障子越しに、雨の音だけが聞こえる。
「闘いが終わった後、お前はどうするつもりなんだ?」
また流浪人に戻るのかと、浅葱のその目はそう言っていた。
宗次郎は微苦笑を浮かべた。
その問いへの答えは、もしかしたら一番、宗次郎自身が聞きたかったのかもしれない。
「さぁ、・・・・・」
だからだろうか、宗次郎はただ曖昧な笑みと共にそう返して。
静かに、その部屋を去っていった。