―終章―
『神谷道場の皆様へ
拝啓
寒冷の折、皆様恙無くお過ごしでしょうか。
こちらはおかげさまで診療所も再開でき、慌しくも穏やかな毎日が戻って参りました。
兄と私が診療を勤める傍ら、宗次郎君にも以前と同じように家の中の細々としたことをお手伝い頂いています。
とはいえ、長い間家と診療所を留守にしていたもので、私達三人はしばしの間ひたすら掃除に励んだものです・・・・』
そこまで書いて、は硯の脇に筆を置いた。
どうにも、こう言った堅苦しい文面を書くのは苦手である。けれど、無事に静岡に帰りつき、平和な日常が戻って来たことを神谷道場と葵屋のそれぞれの面々には、伝えおかなければならない。本当に何かと世話になったからだ。
双方共に、手紙の最後には「静岡に立ち寄った際には是非お越し下さい」とでも誘いの一筆を入れよう、とは決めている。そうしてその時は、彼らを誠意を以って御持て成しするのだ。
「! そろそろ時間だぞ!」
「! はーい!」
恐らくは診療所へと続く廊下の方だろうか、遠くから呼びかけてくる浅葱には大きな声で返事をし、慌てて筆や硯といった手紙を書くのに用いた道具を片付け始めた。
文面を考え考え書いているうちに、いつの間にか診療時間が近付いていたらしい。書きかけの手紙はとりあえずそのまま乾かしておくことにして、端に文鎮を載せて固定する。
後始末を終えたは、自室の障子戸を開けて廊下へと出る。の部屋の前の廊下はそのまま縁側にもなっているから、丁度中庭を掃除していた宗次郎の姿が目に入ってきた。
に気が付くと、宗次郎はにっこりと笑う。も自然と笑みが零れ、笑い返した。
宗次郎と共にあるこの穏やかな日常が戻って来たことが、は本当に、心の底から嬉しかった。
「あぁ、さん。さっき浅葱さんが呼んでましたよ」
「うん、私もお兄ちゃんの声聞いた。もう時間だから行かなくちゃ」
こんな何気ないやりとりに、にこにこと宗次郎の頬も緩む。自覚はしていなくても、恐らくはと同じ気持ちで宗次郎もいるのだろう。
この、穏やかな日常に再び戻ってこれたことを、多分、きっと、宗次郎は喜んでいる。
顔に浮かぶのは、お馴染みの柔らかな笑み。けれど不思議と、それは以前よりも楽しそうな色を含んでいた。ただの表面的な楽の感情による笑みではなく、宗次郎が本当に楽しいと思っている気持ちが内面から滲み出てきているかのような。意識していてもしていなくても、表情というものは自然、その人の心の在り方を示すものだから。
とはいえ、どこまでいっても宗次郎は宗次郎。表情の質が変わったことは、本人はきっと分かっていないに違いない。
それでも宗次郎はにこにこ、にこにこと周囲をも和ませるような笑顔を今日も浮かべている。
「お庭の掃除、ありがとうね」
「えぇ、やっと家の中が片付いてきましたからね。今日は庭を綺麗にしようと思って」
そう言って宗次郎は、竹箒を動かす。彼の足元では、既にからからに乾いた落ち葉が山盛りだ。
「ここが終わったら、洗濯して、家の方も掃除して・・・・あぁ、買い物も行かなくちゃですね。今日は何作ろうかなぁ。寒くなってきたから、温かい煮付けとかきっとおいしいですよね。それから・・・」
「あ、あんまり無理しないでね」
にこにこと笑いながら次々に仕事を上げて行く宗次郎を、は内心冷や汗をかきながらやんわりと諫める。全身の怪我が完治したばかりの彼に全てを任せるわけにもいかない。
ただ―――宗次郎があんまり楽しそうなものだから、止めるのもは何だか気が引けたのだが。それでこんな言葉が思わず、の口を付いて出る。
「・・・・宗次郎君、楽しそう」
「え?」
「本当に、何だかとっても楽しそうだよ」
もにっこりと笑う。宗次郎が本当に楽しそうだとも感じたから、その気持ちが伝染して、何だか心が弾むような気分だ。今日も頑張ろう、と、己の仕事に対する意欲も更に燃え上がる。
一方、言われた方の宗次郎は、自身についてそう言われたことに今ひとつピンとこなくて、目をぱちくりする。
けれど、そう言うの方が何だか楽しそうだと思いながら、宗次郎は自然、また笑みを浮かべる。
「、何やってんだ? 遅いぞ!」
「あっ、お兄ちゃんごめん! 今行く! ・・・・それじゃあまたね、宗次郎君!」
今度は診療所の戸の向こうから聞こえてくる声には慌てて返事をして、宗次郎にそう声をかけながら小走りで廊下を去っていった。
が診療所に入って行った後、浅葱の「宗次郎が帰ってきて嬉しいのは分かるけどな・・・」という妹を嗜める声と、「お兄ちゃんだって嬉しいんでしょ? 何だかんだ言って」というの兄をからかうような声が聞こえてきた。
聞こえないように二人は話していたのだろうが、ばっちりそれを聞き取ってしまった宗次郎は、くすくすと忍び笑いを漏らした。
そうして箒を持つ手をそのままに、空を見上げた。
今日は雲一つ無い快晴。空気はいささか冷たいものの、陽射しは温かく、いい天気である。
むしろ、冬に向けて少しずつ空気が凍て付いていく中で、それでも今は胸の内に何かじんわりとした温かさが灯っているように、宗次郎は思えるのだった。
ぽかぽかとした陽だまり。何気ない会話。いつもの場所。側にいる人。緩やかに流れていく時間。
これこそ、まさに平穏というのだろう。そしてそれが、ずっと続いていけばいいと思う。
蘇芳一派との闘いの中で幾度となく世話になった愛刀の天衣は、今は宗次郎に宛がわれている和室に置いたままになっている。もし、この先天衣を抜くことが無いとしても、それでも宗次郎は生涯、あの刀を手放すつもりは無かった。
己のしてきた所業と、奪ってきた命と、見い出した答えと、それらをすべて受け入れてこの先も歩んで行きたいから。ひとまずは、この取り戻した平穏の中で。
いつか、裁きの日が訪れるのだとしても―――この、己の生が尽きるまで。その日まで、毎日を精一杯、生きていこう。
風の彼方に得た様々なものに思いを馳せ、宗次郎は再び、蒼穹を見た。どこまでも晴れ渡るあの青い空。
宗次郎は空を見上げていた目を細め、にっこりと微笑んだ。
「う〜ん、今日もいい天気だなぁ」
そうして宗次郎は、風が頬を撫ぜるのを感じながら大きく伸びをして。
また、庭の掃き掃除を始めるのだった。
<了>
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