―第四十一章:In the blue sky―
空は高く青く晴れ渡り、出立には絶好の日和だった。
葵屋にて、翁や隠密御庭番衆の面々との別れを済ませた宗次郎達は、京都を発ち大阪の港にて、剣心、薫、弥彦、剣路、それに蒼紫に操、翠といった面々と向かい合っていた。
剣心達はあと一週間程、京都に滞在するというから、ここで帰路に着くのは宗次郎、、浅葱の三人だけとなる。
「色々とお世話になりました」
久方振りの旅装束を身につけた宗次郎が、一同にぺこりとお辞儀をした。もそれに倣い、浅葱も続く。
「それはお互い様よ、瀬田!」
にかっと操は笑う。背後に控える蒼紫は何も言わなかったが、恐らくはその発言に異論はない筈だ。
「あんまりちゃんに心配かけさせるんじゃないわよ。それと、たまには手紙の一つでも寄越しなさいよね。勿論、直接京都に来てくれちゃっても全然構わないけど」
過去のイザコザは既に水に流したかのように、実にあっけらかんと操は宗次郎達を送り出す。
と、操は己の足に抱きついて、しっかとへばりついている翠を無理矢理引っ剥がし、宗次郎の方へと向けさせた。顔の赤い翠は宗次郎の方をちらりと見上げ、すぐに頬を膨らませて下を向いてしまう。
「ホラ、翠も御挨拶なさい」
「・・・・・・」
翠はぶすっと黙り込んだまま何も言わない。
「あれれ。どうしちゃったんですか? 翠ちゃん」
いつもと違う翠の様子に宗次郎は首を傾げる。操はあぁ、と軽く返事をして、
「今日で瀬田とお別れなもんだから、拗ねちゃってるのよ。遊ぶ相手がいなくなっちゃって、寂しいんでしょ」
幼いが故に大人の事情に納得が行かず、けれど素直な翠の気持ちを操は母親らしく代弁する。それを聞いた翠はますます眉をハの字にして、今度は泣きそうな顔になった。小さく鼻を鳴らし始めた翠に、は慌てて屈み込み、その顔を覗き込んだ。
「翠ちゃん、泣かなくても大丈夫だよ」
「・・・・・」
ひくっと翠がしゃくり上げた。は翠を安心させるように微笑む。
「『また京都に来てね。その時はいっぱい遊ぼう』って、翠ちゃんのお母さんは言ってくれたの。だから翠ちゃんもまた、宗次郎君と遊べるから」
「本当・・・?」
涙こそ止まったものの、まだ不安気に翠は宗次郎を見上げている。それで宗次郎も少し身を屈めて、翠ににっこりと笑ってみせた。
「本当だよ。今度京都に来た時は、いっぱい遊ぼうね」
の言ったように操から誘いは受けていたし、志々雄達の墓参りも兼ねてまた京都へと来てみようかと、宗次郎にはそんな思いがあった。
翠にもすっかり懐かれてしまい、幼いながらまた会う日を楽しみにしているこの子がいるなら、そういった意味でもいつか葵屋にもまた訪れたいなとも宗次郎は考えている。
それで宗次郎はそう返事を返したのだが、他ならぬ彼の口からもたらされた再会の約束に、翠はようやく笑みを浮かべた。きっと操の小さい頃もこうだったのだろうなと一同に思わせる満面の笑みで、宗次郎に何度も「また来てね。また来てね!」と念を押し、握手した手をぶんぶんと上下に勢いよく振っている。
「オイ宗次郎。東京にも忘れずに来るんだぞ。俺との決着はまだついちゃいねーんだ」
腕組みをして、じろっと宗次郎を睨みつけてきたのは剣路。
すかさず弥彦は、
「もうとっくに勝負はついただろ。つーかお前が宗次郎に勝つなんざ十年早ェよ」
と突っ込み、不躾な剣路の態度に、
「コラ! ちゃんと挨拶しなさい!」
と薫は目くじらを立てる。そっぽを向いてしまった剣路に「まったくもー」と溜息を吐きつつ、薫は改めて宗次郎達に向き直った。
「でも剣路はああ言ってるけど、東京にも是非来てね! 宗次郎君達が来るの、待ってるわ」
やはり明るい笑みで、宗次郎達が訪れることを歓迎してくれる。宗次郎も頷いて、
「そうですね。今度神谷道場に行く時は、さんと浅葱さんも一緒に」
最も、診療所のこともあるから、も浅葱も長く家を空けるわけにはいかないだろう。それでも、いつかあの場所へ二人のことを案内したいなぁと、そんな風に宗次郎は思う。
「・・・・そろそろ、出立の時間でござるな」
大阪湾に浮かぶ船が蒸気を上げているのを見て、剣心は静かに呟く。白い蒸気は空に高く立ち上り、青の中に吸い込まれていく。
その蒸気船に乗って、海路を経て、宗次郎達は静岡へと帰るのだ。
「達者でな、宗次郎」
「ええ。緋村さんもお元気で」
穏やかな笑顔を向き合わせて、剣心と宗次郎は別れの挨拶を交わす。短い言葉だが、それだけで二人は十分だった。
いよいよ時間が差し迫り、最後にもう一度剣心達に礼の言葉を述べて、浅葱、、宗次郎の順に桟橋を渡る。薫や翠の「またね〜!」という声に宗次郎は一度振り向いて、そうして「ん?」と首を傾げた。
剣心や操達と同じように、船を見送る人々や乗組員などでごった返す埠頭の雑踏の中に、雪哉と真由、そして真美らしき人影が見えたような気がしたのだ。最もそれはほんの一瞬のことで、すぐにその三つの人影は人込みに紛れてしまったが。
(見間違い・・・・かなぁ。もし見間違いじゃなかったら、雪哉さん達、見送りに来てくれたのかな?)
そんなことをちらりと思って、でもまさかね、と宗次郎はすぐに自分の発想を打ち消した。けれど本当に、もし見送りに来てくれたのなら・・・・彼らは一体何を思い、そうしたのだろう。
(それとも見送りじゃなくて、見張ってるだけなのかな?)
「どうしたの? 宗次郎君」
桟橋を渡り終え、船の甲板に辿り着いたところでは宗次郎にそう尋ねてきた。振り向いたまま歩いていた宗次郎を不思議に思ったに違いない。
甲板の板の感触を草履越しの足の裏で確かめて、船に乗るのも久しぶりだなぁといった感想を思い浮かべていた宗次郎は、が振ってきたその問いにどう返そうかしばし考え、
「いえ、何でもないです」
とにっこり笑って済ませた。
実際、先程見た人影が本当に雪哉達だったかどうかなどと確かめようがないし、言って悪戯に不安を煽る必要もない、と宗次郎は判断したのだ。
ただ、気のせいかもしれないとはいえ垣間見た雪哉の姿に、冬が終わりに近付きあの梅の花が咲く季節になったなら咲雪の墓にも参ってみようと、そのことも宗次郎は思った。
まだ詳しくは話していなかった咲雪のことを、そう、静岡に戻って落ち着いたら、と浅葱に話すのもいいかもしれない。そしてまだ二人には伝えていなかった様々なことも、いつかは―――・・・。
三人が甲板に立ってしばらくして、もう一度白い蒸気が船から上がった。ついに出港の時間になり、船は少しずつ、港から離れていく。青い水面に反射する太陽の光は眩しい。波も穏やかで、潮風も気持良い。航海は順調に行きそうだ。
「元気でなー!」
一際大きな弥彦の声が、もう遠く離れてしまった港の方から何とか届く。それに手を振り返して、宗次郎は船縁に寄りかかった。
本当に色々なことがあったけれど―――こうして無事に帰路に着けたことが、やはり何よりだと思う。それも、も浅葱も、誰も欠けること無く一緒に。
「良かったぁ。無事に帰れそうで」
その思いがしみじみと、宗次郎の口から吐き出された。
それは本当にしみじみとした声音だったので、も思わず、笑みを零した。宗次郎がそんな風に独り言を言うなんて珍しい、と感じながら、も彼の隣に、同じようにして船縁に寄りかかる。
「そうだね。色々なことがあったけど、みんなで静岡に帰れて、良かったよね」
宗次郎に笑顔でそう言って、は視線を海原へと向けた。大阪湾を離れたら、後はしばらく船の上だ。港のある方角から少し視線をずらせば、そこには弧を描く水平線が見える。波はやはり、どこまでも静かだ。
「そうだな。確かにみんな無事で良かったな。けど―――なぁ、宗次郎?」
「はい?」
宗次郎が振り向けば、そこにはいつになく険しい顔をした浅葱。口元は笑っているが、目は笑っていない。明らかに怒っている。
「ど、どうしたんです? 浅葱さん。怖い顔して」
浅葱の静かな迫力に気圧されるようにして、宗次郎はまぁまぁと宥めながらも後ずさる。といってもすぐに背が船縁についてしまい、それ以上は下がれない。
「お前な。俺はともかく、も危険な目に合ったってーのに、無事で良かったで済ませる気か?」
「あ、えっと、それは、」
「お兄ちゃん! そのことは宗次郎君は謝ってくれたし、私のこと庇ってあんな大怪我までしたんだよ? 大体、お兄ちゃんだって目が覚めた宗次郎君に、『のこと守ってくれてありがとうな』とか言ってたじゃない」
「それとこれとは話が別だ」
つん、と横を向いてしまう浅葱は素っ気無い。
がどうしたものかと困っていると、浅葱は再び厳しい顔を宗次郎に向けてきた。
「確かに、今回は無事で済んだ。けど、一歩間違ってたらは一生物の怪我を負ってたかもしれないんだ。俺が言いたいのはそういうこと。それを少しは自覚しろよ」
浅葱の正論に、宗次郎は申し訳無さそうに笑って素直に謝罪する。
「はい・・・・それは、僕もお二人を巻き込んでしまって、申し訳ないって思ってます。さんにも、怖い思いをたくさんさせちゃったし」
「宗次郎君、私は、」
何かを言いかけたを遮るようにして。
浅葱は今度はにやりと笑って、揶揄するように宗次郎にこう言った。
「宗次郎。お前には勿論、感謝してるさ。けど、を危険な目に合わせたのも事実。
―――だからいつか、男としての責任、取って貰うからな」
浅葱は再度、ニッと笑う。そこに悪戯めいたものはあるものの、悪意は無い。むしろ、それを言わんがために、こう会話を進めてきたような。あるとしたらそんな目論見。そして多分、それは浅葱も存外望んでないわけでは無いであろうからこそ。
「男としての責任、って」
その言葉が暗に示す意味を宗次郎は悟り、苦笑する。遅れてそのことに気付いたが顔を真っ赤にして、浅葱に非難めいた眼差しを送っている。浅葱はそれには動じず、ただ楽しそうに笑っている。
そんな兄妹の姿を交互に見て、宗次郎も微笑んだ。
或いは、それも悪くは無いかもしれない。
けれど、それが実現するとしても―――もうしばらくは先の話。
「考えておきますね」
宗次郎はとりあえずそう答え、それではますます顔を赤くし、浅葱はますます楽しそうに笑う。
と、三人が立つ看板の上を、何か黒い影がフッと横切った。
「あ、鴎だ」
宗次郎が見上げると、白い鴎が羽を広げて伸び伸びと空を飛んでいた。それも一羽だけではなく、幾羽も群れを成して、宗次郎達の船旅を見送るように、大きな円を描くようにして飛んでいる。
話をはぐらかす、という意図など微塵も持たずに無邪気に鴎を見上げている宗次郎に、今度は浅葱とが苦笑した。とはいえ、片や呆れ顔で、片や微笑ましそうに。
けれど、三人のそんな時間が戻ってきたことが、にはとても、嬉しく感じられた。
宗次郎達の乗る船はそんな風にして大阪湾を離れ、駿河湾へと向けて進んでいく。
既に豆粒程の大きさになった船を、未だ大阪湾で見続けている影があった。雪哉、真由、真美である。
宗次郎が見たというその三つの姿は、見間違いではなかった。彼の出港日時の情報を入手していた雪哉らは、宗次郎がこの地を発つのを見送りに、というよりも見届けにやって来ていたのだ。
「・・・・行っちゃったわね」
ふぅ、と溜息を吐きながら真美。整った顔立ちは何の感情も示してはおらず、彼女が何を思っているのかまでは一見読み取れない。けれど恐らく彼女は、勿論寂しさを感じているわけも無く、かといって獲物を取り逃したという怒りがあるわけでもない。
今真美自身が呟いたように、ただ宗次郎が行ってしまったというそのことだけ思っているのかもしれない。
「とりあえず俺達はこれから全国を放浪する予定なんだが、お前はどうするんだ?」
そう言って真由は視線を雪哉に向けた。
真由は今、全国を放浪する、と言ったが、それは彼の言葉を借りれば「断じて抜刀斎や宗次郎の真似じゃねェ」とのこと。真美と共に、修行がてら、ついでに世の中の在り方というものを実際にこの目で見てみようじゃないか、という挑戦心の表れでもある。
やはり弱肉強食がこの世の全てなら、その信念を持って再び宗次郎に闘いを仕掛けに行くつもりではあるし、もしも違うものが見えたなら―――その時はそれに在った生き方をしてみようと、いずれにしろ志々雄、宗次郎、そして蘇芳といった軛からある意味解放されたとも言える真由と真美もまた、各々の人生を新たに歩んでいくことを、この闘いを経て決めていた。
最初こそ真由と真美は二人で行くものの、いつか、今まで共に生きてきた二人が、また時間を経た後にそれぞれの道を進んでいくこともあるかもしれない。
そうした真由の言葉を受けた雪哉は、無言でしばし考えて。
「そうだな。・・・・・仏門に入って、家族を弔いながら生きていくかな」
「・・・・冗談だろ?」
枯れた答えに、真由は思わず脱力して聞き返す。雪哉はそれで笑って、半分は本気だ、と返事を返した。
「けど、まずは・・・・そうだな。咲雪の墓参りに行って、今回の件を報告してくる。それからのことは、その後考えるさ」
そう述べた雪哉の顔は、清々しいものだった。もう、迷いは無いように見えた。
真由らと同じく蘇芳一派の幹部でありながらも、今ここにはいない雷十太は、アジト崩壊時に真っ先に脱出してどこかに行方を眩ませてしまった。今はどこにいるのか知れないが、恐らくは今度こそ剣客としては再起不能だろう。今度こそ身の丈にあった暮らしをすればいいのだが。或いは正しいやり方で、剣術の復興を目指すか。
鈴については、彼らは知っていた。闘いに敗れた際はどうするか、そのことを以前蘇芳が仄めかした時、何となく、彼女はそれに殉じそうだと、皆そんな風に感じていたから。そして実際彼女は、いや彼女らはそうした。彼女らだけが、最期まで蘇芳に付き従ったのだ。
蘇芳一派の幹部、とはいえその実は宗次郎という存在を目の敵にする者か、蘇芳の存在に惹かれた者か、大きくその二つに分かれていた。だから、蘇芳と宗次郎、その両方を欠いたとあっては、これ以上徒党を組む必要も無かった。事実、蘇芳の配下達も、彼がいなくなってしまった後は今や皆散り散りになっている。
何よりも、これからどう生きていくか、既に真由達は自分の中で心を決めていたから。
そうして彼らもまた言葉少なに別れを済ませ、各々の旅路へと歩いていく。蘇芳という繋がりを喪った彼らもまた、それぞれの人生を再び歩み始めるのだ。
このどこまでも続く青空はやはり、出立の日には相応しい。
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