―第四十章:秋の夜―
宗次郎が葵屋で静養している間に、暦の上では十一月を迎えていた。
風は更に冷たさと鋭さを増し、朝晩の気温差も激しくなった。日暮れも早くなり、夕陽が沈むと闇が空を覆うのはあっという間だ。
そうして、その漆黒の晩―――。
毎夜のように牛鍋や白べこに押しかけて、宴会を開くのが葵屋勢の日課となっていた。
「それでは、この度の闘いの勝利を祝して、乾杯!」
「乾杯〜〜〜!!」
翁が威勢良く乾杯の音頭を取れば、呼応した声があちこちから上がりあっという間に酒宴が始まる。
客席の一部を広々と陣取って、くっつけて並べた卓袱台の上座には、勿論大分傷の癒えた宗次郎が座っている。その両脇に、浅葱が並び、更に剣心と弥彦、薫に剣路といった面々が続く。
子持ちの操や下戸の蒼紫はほとんど酒に手をつけていないが、翁始め隠密御庭番衆の面々はすっかり出来上がっている。唯一の良心とも言えるべき増は、白べこの女主人・冴に申し訳無さそうに頭を下げている。
連日続くどんちゃん騒ぎに、他の一般客が寄り付く筈もなく、ほぼ貸し切り状態で宴は行われていた。
「まずはこの闘いの最大の功労者である瀬田君! もう一献どうじゃ?」
と翁が言い出せば、
「あ、じゃあ遠慮なく」
とすっかり元気になった宗次郎は素直に応じる。
「おい、宗次郎、一応まだ怪我人なんだからあんまり・・・・」
「硬いこと言うなって。程々に呑む分にゃ体にいーんだろ?」
咎めるような浅葱に、歳が近かったせいか既にぞんざいな口を利く弥彦が、これまた威勢良く飲んでいる。
剣路が酒を飲もうとすると薫に止められ、諍いになりそうな二人の間に剣心が割って入ると更に話がこじれて大騒ぎになる。
「何でだよ! ちょっとくらい飲んでもいーじゃんか!!」
「ダメよ、あなたまだ子どもなんだから!」
「子ども扱いすんなよ!!」
「おろ〜。薫殿、剣路、ここは穏便に・・・・」
「剣心は黙ってて!!」
「親父は黙ってろ!!」
二人同時に言われて、剣心も力無い笑顔を浮かべたまましょげてしまう。
壁際の席では、酒を飲もうとしない蒼紫に向かって、翠が、
「お父さん、どうしてお酒飲まないの? 好き嫌いはダメだよ〜」
「・・・・俺は下戸だ。酒は飲めん」
「ゲコって何? カエル?」
等と言っていたりして、そのやり取りの可笑しさに操が腹を抱えて大笑いしている。
そんな風にあちこちで繰り広げられている騒ぎに、宗次郎は明るい笑みを漏らす。酒が入ったせいもあるのだろう、何気無いことも酷く楽しげに宗次郎の目に映る。
と、薫と剣路のケンカから追い出された剣心が、よろろと宗次郎の近くまで後退してきた。
「あはは。流石の緋村さんにも、敵わないものがあったんですね〜」
「・・・・笑い事じゃないでござるよ」
口を尖らせるように言う剣心が可笑しくて、宗次郎はまた明るく笑う。
しばしその笑い声を聞いていた剣心は、やがて表情を少し真面目なものにする。
「・・・・宗次郎」
「はい?」
訊き返しながら、宗次郎は更に一杯の酒を煽っていたりする。義父のような酒乱の気は無かったが、志々雄に鍛えられたせいもあって宗次郎は存外、酒がいける口だ。
顔を向けてきた宗次郎に、剣心は言葉を選ぶようにして答える。
「蘇芳と鈴殿の顛末を思えば、全てを良しとする訳には行かないが、ひとまずこの闘いが終わって何よりでござるな」
「そう、ですね」
頷きながら、宗次郎はまた一杯の酒を煽る。笑みは少し引いていた。
嵐山の蘇芳の屋敷が火災で焼失したことで、彼を極秘裏に志々雄事変の関係者として追っていた明治政府は、警官隊と捜索隊をその跡地に送り込んできた。宗次郎達がそれに関わっていたことまでは掴んでいなかったらしく、彼らにまで捜査の手が及ぶことは無かったが。
明治政府や警察といった国家機構に属する人間に宗次郎の素性が知られたが最後、問答無用で死刑台行きだ。何分宗次郎は、かつての内務卿大久保利通暗殺の実行犯で、志々雄の一番の側近なのである。明治政府からしてみれば、第一級の大物犯罪者だ。仮に死刑台を免れても、裏取引で明治政府のいいように扱われるのに違いない。
とにかく、今回は宗次郎達に明治政府の取り調べが入ることは無かったので、その事態は回避された。
蘇芳の屋敷から近隣には大して飛び火しなかったらしく、幸いなことに山火事にもならなかった。それですっかり火が納まった頃、捜索隊の手が伸びたのだが、蘇芳の跡地には誰もいなかったのだという。燃え盛る屋敷に残った筈の蘇芳と鈴の遺体も無かったそうだ。
とはいえ、屋敷の奥につれて火の勢いは激しかったようだから、それで完全に遺体が燃え尽きてしまったという見方も無いわけではなかったらしいが。
これは、蒼紫がその筋から得てきた確かな情報だった。
つまり、蘇芳と鈴は依然行方不明扱いというわけだ。生きているか死んでいるのか、それすらも分からない。
最も、宗次郎達の初めの見解は彼らが死んだものとしていたから、生きているのだとしたら、それはそれでいいと思う。だから宗次郎は言う。
「まぁ、生きてるかもしれないなら、それでいいじゃないですか。またあの人がちょっかい出してくるようなら、それに応じればいいわけだし」
地獄にはいなかったから彼らはまだ生きている、とは現実味の無い話ではあるが、その可能性も無くは無い。
彼らが再び挑んでくるなら、またそれに応えるだけだ、と宗次郎は思う。そう思い込みたいのかもしれない。
最後の蘇芳や鈴の姿を振り払うように、また酒に口を付けながら、宗次郎は厨房に空き容器を運んでいるをちらっと見て、冗談めかして笑った。
「今回みたいにさん達を巻き込むのは、御免ですけどね」
剣心もそれでふ、と笑んで、同じように酒を煽る。
やはり蘇芳達が死んでいたのだとしても、それは彼らが自分の意志を貫き通したが故なのだろう。どことなくある後味の悪さをじんわりと感じながら、それを誤魔化すように二人は酒を飲み交わす。
「おうおう宗次郎、お前いい飲みっぷりじゃねーか」
がしっ、といきなり宗次郎に肩を組んできたのは弥彦だ。小さな御猪口で飲むことに飽き足らず、ついには徳利を抱えて飲んでいる始末。顔も上気して立派に酔っている。
弥彦に付き合って飲んでいた浅葱は、既に撃沈していた。卓袱台に突っ伏しているその姿を見て、宗次郎も小さく笑みを零す。滅多に酒を嗜む人じゃないから、浅葱も宗次郎の無事をやはり喜んでくれているのだろう。そういえば意識を取り戻した日も、「心配かけさせやがって!」と涙目の浅葱に怒られたりしたっけ、と宗次郎は思い出す。
「この酒もうまいぜ。飲んでみるか?」
「はい。じゃあ頂きます。ん・・・・・確かにおいしいですね」
弥彦が徳利を差し出してきたので、宗次郎は素直に応じた。気を良くした弥彦は、更に剣心に詰め寄る。
「だろだろ〜! 剣心も飲むか!?」
「いや、拙者は遠慮するでござ・・・・」
「遠慮すんなって!」
「お〜ろ〜・・・」
弥彦の強引さに剣心が振り回される様子がやはり面白くて、宗次郎はまた声を上げて笑う。彼がご機嫌なのはきっと酒の力だけではないのだろう。
その様子を少し離れたところから眺めていたも、小さく笑みを漏らす。
男同士の輪の中にいる宗次郎は、浅葱と会話している時とはまた少し違っているようにも見える。昔から知り合っている分、共に闘ってきた分、気心が知れているというか。
心の隅でちらりと、羨ましくは思った。
「今回も色々、あったけどよ」
一息吐いた弥彦はそう切り出した。色々、の短い言葉の中には、本当に色々なことが込められているのだろう。何かを思い出すような色が弥彦の瞳に揺れる。
溜息のような息を吐き出して、そうして弥彦は続きを口にした。
「みんなで無事に帰ってこれた。それだけでも十分だよな」
壁に背を預け瞼を伏せて、しんみりと弥彦は言う。場の喧騒がその時だけ遠ざかって、一瞬、静寂が落ちる。
剣心と宗次郎は、頷かないままで同意した。
「―――ってなわけだからよ、ほれもっと飲め!!」
「わああっ?」
「おろ〜〜〜!」
しかしそれもほんの一時のことで、弥彦は剣心と宗次郎に、憂さを晴らすかのようになおも酒を勧める。そうしてまたすぐに、騒がしさが戻ってきた。
この日も当分、宴は終わりそうも無かった。
深夜、果たして何時くらいだろう。
角灯が火を灯すおかげで薄明るい白べこの店内の中、すっかり酔い潰れてしまった面々には布団をかけて回っていた。京都の夜は冷え込む。酒の入った体をそのままにして眠っていては、間違いなく風邪を引く。
はあまり酒は強い方ではなかったから、ほとんど飲まなかったのだ。正確には飲めなかったという方が正しいか。
同じく酒に手をつけなかった増は(とはいえこちらは全員が全員酔っ払っては後片付けできる者がいなくなってしまうという判断からだったが)、厨房で冴の後片付けを手伝っている。蒼紫は二階の客間に、操と共に翠を寝かしつけに行っていた。
起きている者達で残りの面々を葵屋まで運ぶのには手間がかかりそうだったし、冴も「常連さんだから、朝までおっても別に構いまへんよ」と大目に見てくれたので、とりあえず一同は期せずして白べこに朝まで厄介になることとなった。
とはいえ、実はこれが初めてではないのだが。
宴会はほとんど翁が趣味でやっていたが、その孫娘同然の操もノリノリで参加していた。他の面々も、楽しいことは何度やっても楽しいことだから、ということで異論なく宴を催している。
そして実際、それは楽しかった。
(いい人達だな)
とは素直に思う。ここに集った者達は、付き合っていて気持ちの良い者ばかりだ。かつては敵であったという宗次郎に、こうも親身になって接してくれているということからも、その器の広さが分かる。
その宗次郎は、横向きになって畳の上で寝ていた。手や足を縮こませて、丸まっている姿はまるで子どものようで、すやすやと擬態語が聞こえてきそうな穏やかな寝息を繰り返してきた。あどけない笑顔だけを見ていると、どうにも彼の本当の歳を忘れてしまいそうになる。
だからこそ、出会ったばかりの頃は同世代と思い、君付けで呼び始めたその呼称が、今でも続いていたりもするのだけれど。
(風邪、引かないでね)
は小さく微笑んで、そっと宗次郎の体に布団をかけた。宗次郎はそれに気付くこと無く、安息の眠りの中にいる。
体の傷も大分良くなっていた。もう日常生活をするのにも支障はない。
と浅葱、それに宗次郎は、来週には静岡に帰ることをもう決めていた。こちらには随分と長居してしまったし、静岡では診療所の再開を待ち侘びる人達もいることを考えると、それが妥当な時期の気がした。折角仲の良くなった人達と別れるのは、少し寂しいけれど。
端から順番に回っているは、浅葱に布団をかけ終えると、酔いというよりケンカ疲れで眠ってしまった薫と剣路の親子にも同じように布団を被せた。未だ若々しい容貌の薫に、はふと、この人にも随分お世話になったな、と心の中で礼を言う。
蘇芳のアジトから戻ってきて三日間、宗次郎の意識が戻らないことに絶望し切っていたの肩に薫はぽんと手を置いて、力強く言ったものだった。
―――あのね、剣心も昔そうだったのよ。でも剣心は今、ちゃんと元気でいるでしょ? だから、宗次郎君もきっと大丈夫よ。
彼女は剣心の妻だった。剣心は幕末の頃に人斬り抜刀斎として名を馳せていて、その後も色々とあったと聞くから、その彼に寄り添うのは並大抵の苦労ではなかった筈だ。
薫もまた、少女だった頃は剣心の身を案じて止まなかったという。だからこそ、同じような境遇のに、己の姿を重ねたのだろう。
そうしてその励ましに、はどれだけ元気付けられたか。
(・・・・っと、いけないいけない、緋村さんにも布団かけなくちゃ)
思考に浸っていたは、ハッとそのことを思い出し腰を上げる。
彼女の夫で、かつての宗次郎の敵で、そして彼の人生において二度目の分岐点を示した人。
剣心についての色々な話を宗次郎からは聞いていた。彼の人となりだったり、北海道での事件についてのことだったり。けれどが一番興味を引かれたのは、やはり彼が宗次郎に、自分だけの真実を探し出すきっかけを与えてくれたということ。
いつか逢ってみたいと思っていた。どんな人なのだろうと思っていた。
実際に逢ってみたら、想像していた通りの穏やかさで、想像以上の若作りで、頬の十字傷がなければ彼が昔人斬り抜刀斎だったということなど、全く以って分かりそうもなかった。すごく強いのに普段は笑顔を絶やさなくて、おさんどんが得意なところなども宗次郎に似ていて、それがなんだかは可笑しかった。
ただ、蘇芳との闘いの最中に見せていた眼光の鋭さや、傷の手当ての時に見た引き締まった筋肉と体中の数多の傷跡は、確かに彼が紛れもなく人斬り抜刀斎だということを物語っていた。
とはいえ、や浅葱の世代では人斬り抜刀斎の伝説は遠い話で、彼に対し畏怖こそあれど現実感としての恐怖はそれ程大きくは無かった。けれど、彼を始めとした数多くの人間が歴史の礎となっているからこそ、今のこの世は成り立っている。
そして、宗次郎にとっては緋村剣心は、志々雄真実という唯一無二の存在と共に、彼の核に大きな変化を及ぼした人、なのである。
(会ってみたら、色々訊きたいこと、あったんだけどな)
実際、はずっとそう思っていた。けれどその本人を前にすると、はどうしてだかそれを問うことができなかった。
何となく聞き辛かった、言い出し辛かった、それもある。しかし実は、ただ知ることが怖かっただけではないのか―――。
いずれにせよ期限は来週まで。それを逃したら、ますます以って尋ね辛くなってしまうだろう。けれど、何をどう、話し出せばいいのか。
迷いを浮かべたまま、は剣心にそっと近付いた。起こさないように気を遣ったのだ。無論、それは他の面々に対してもそうであるが。
剣心は壁に背を預け、片膝を抱えるようにして眠っている。どうもそれは、長年常に生と死の間に身を置いた剣客として生き続けてきたが故の癖らしい。
はそうっと身を屈めて、布団を剣心にかけようとした。手を動かす前に、その剣心の目がぱちっと見開く。
それではびっくりして固まってしまって、布団を両手で持った姿勢で硬直してしまう。
「あ・・・緋村さん・・・・」
「いやぁ、驚かせてしまってすまぬでござるよ」
にぱっと笑った剣心は、頭に手を当てて明るく笑う。あはははという笑い声に、それでもほっと緊張を解いて、強張った全身の力を緩める。
「すみません、起こしちゃったみたいで」
謝るに、剣心はこちらこそすまぬな、ともう一度謝った。
「拙者、どうにも眠りが浅くてな。すぐに目が覚めてしまうのでござるよ」
「そうなんですか・・・・」
はぱちくりと目を瞬いた。あの体勢では実際、深く眠れはしないだろう。そして深く眠り込んでいたら刺客に襲われた時に一溜まりも無いからこそ、体も自然眠りが浅くなるよう、制御しているのかもしれない。剣心の話を統合すると、そんなことも考えられるような気がした。
宗次郎がいつだったか、あの人は生粋の剣客なんですよと言っていたが、その理由も何となく分かったような気もする。
「えっと、あの・・・・」
会話を続けようとして、は言葉を探す。今、は例のことを訊く、またと無い機会に恵まれたのだろう。
けれどいきなり言い出していいものか。
迷った挙句は、ここ数週間のうちに幾度となく言った、月並みな礼の言葉しか浮かんでこなかった。
「この度は本当に、ありがとうございました」
布団を脇に置いて、は改めて頭を下げる。
それが何に対しての礼の言葉か分かったのだろう、剣心は穏やかな笑みを湛えたままで。
「いや、世話になったのは拙者達も同じでござるよ。傷の手当て、かたじけないでござる」
剣心はそこまでの深手でもなく、むしろ体力的な消耗が激しかっただけなので、数日静かに過ごしているうちに体は本調子へと戻っていた。それでもその際、や浅葱に世話になったことに変わりは無いので、逆に、いつものように礼を返される。
それでひとまず会話が終了してしまって、は内心焦る。
どうしよう。
訊くべきか、訊かないべきか。
は迷った。けれどこの時を逃したら、当分訊く機会は回ってこないようにも思える。目の前にいる剣心は緩やかに、座る体勢を変えていた。今度は胡坐をかくようにして座って、肩が凝ったのか首を左右に動かしている。
次にいつ会えるか分からない人だし、残り僅かな滞在期間でこんな時間はもう、無いかもしれない。
勇気を出して訊くしかない。はそう決意を固めた。
思い立ったが吉日と、昔の人も言っている。
「あの・・・・私、緋村さんに会ったら、ずっと訊いてみたいことがあったんです」
「何でござる?」
は戸惑いながらも真っ直ぐに剣心を見た。いつに無く真剣な顔をした彼女に、剣心もまた只事で無いことを何となく察し、改めて向き直る。
「・・・昔の宗次郎君って、どんな風でした?」
静かな問いかけに、剣心は驚いたように目を見開いた。
文章的には簡単な質問を補足するように、はやや速い口調で言葉を紡ぐ。
「知ってます。あの人が昔何をしてきたか。・・・・・たくさんの人を、殺してきたことだって。宗次郎君の口から、話してくれた限りで、だけど・・・・」
いつしか正座の姿勢になっていたは、ぎゅうっと太股を覆う辺りの着物を握り締める。このもどかしい思いを、持て余すかのように。
「感情欠落って、蘇芳さんは言ってました。楽以外の感情が無かったって。以前の宗次郎君はそうだったって。でも、あなたはそれを感情を封じていただけだと言った・・・」
それは、蘇芳戦においてが初めて知った事実だった。恐らく、宗次郎自身はそれを自覚していなかったのだろう。己の感情が欠落していた、などと。自分自身では。
そうなるに至った理由は、知っているのかもしれなかったが。
感情というものは身の周りの事象に感応して自然と動くものであって、たとえそれが正常に機能しない人がこの世にいたとしても、どこにそれを自覚している人間がいるというのだろう? 『自分には楽以外の感情が無いんです』―――? 絡繰人形じゃあるまいし。
「宗次郎君の過去を探る気は無いんです。宗次郎君が話したくないなら、話さなくてもいい。ただ、私は、私は・・・・・」
は更に手に力を込めた。握った辺りが皺になる。
宗次郎が感情を失ったという、理由を知りたくないわけじゃない。単なる好奇心だということは分かっている。ただ、それでも。
「緋村さんの目から見た、昔の宗次郎君が知りたいだけなんです」
それをは知りたかった。他人の、それもできれば剣心の目から見た宗次郎を。
今の宗次郎はじかに知っている。
昔の宗次郎も、彼が語った部分は知っている。けれどそれはあくまでも自称であって、人の目から客観視したものではない。
だからは、剣心に会ったら訊いてみたかった。彼は以前の宗次郎を知る人だから。
昔の宗次郎が、どんな風であったのかを。
「・・・・殿」
ややあって、剣心は小さく返事を返した。この次は何と言葉が返ってくるのだろう。自然、の体に緊張が走り、着物を握り込んだ拳の指は落ち着き無く動く。
そんな少女の緊張を解くように、剣心はほんの少し、表情を緩めた。
「何から話せばいいでござるかな」
そう言って、何事かを考え込むような顔になる。
微笑を湛えつつも真剣な目の色をした剣心に、は再び、息を飲み込む。
「宗次郎と初めて対面した時は、拙者も蘇芳と同じく、宗次郎には楽以外の感情が欠落しているように見えたでござるよ。剣を持って相対しても、剣気も闘気も殺気も無く、まるで玩具を手にした時のような無邪気さしか感じられず・・・・」
闘いに関連する事柄から挙げられていくのは、彼が剣客であるが故だろう。蘇芳も似たようなことを言っていた。
正確に言えば、剣心の宗次郎に対する第一印象はあの大久保利通を暗殺した男、というものだった。が、の問いの意図するところとは違うと判断し、剣心は敢えて伏せた。
「そういう青年なのだと、その時は思っていた。だが、二度目に宗次郎と闘った時、宗次郎は自分の思うように拙者を斃せないことに、微妙ながら動揺していた。それで拙者は気付いたのでござる。もしかしたら宗次郎は、感情が欠落しているのではなく、何かが原因して無意識のうちに感情を心の奥深くに封じ込めてしまったのではないか、と」
ああ、それで、とは思った。宗次郎の感情に対する剣心と蘇芳の主観の違い、それが生じたのは。
けれども、宗次郎の感情は欠落しているのではなく、封じ込めているのでは、という意見には同感だった。だからこそ胸の奥が苦しかった。
そうでなくては生きられなかったのだとしても、それまで持っていたものを封じてしまう程の何かが、宗次郎の身に降りかかったのだ。
「その原因が何なのかは、拙者にも分からぬ」
剣心はそう言って目を伏せた。
そう、宗次郎が感情を封じ込めるに至った経緯は、剣心すら今以って知らない。宗次郎が己の過去をちらりと匂わせることはあったが、その決定的な何かを語ったことは無かった。
宗次郎が語ろうとしない、それはある。けれど宗次郎にとっては、きっとそれは語りたくない過去なのではないだろうか。
剣心が薫と初めて出逢った頃、彼女も言っていた。誰にだって、語りたくない過去の一つや二つあってもおかしくない、と。恐らく、宗次郎にとってはその出来事がそれに当たるのかもしれない。
もし、そうでなかったとしても、心の中での出来事は、己の言葉では語れないものだから。
「ただ、今でも忘れられない一言がある。宗次郎が拙者に冷たい目で言い放った言葉・・・・『あの時あなたは、僕を守ってくれなかったじゃないですか』」
その時の剣心の表情を、形容する語をは知らなかった。
敢えて言うなら、何かを歯痒く思うような、或いは自分自身に対してもそうであるような。貧弱な語彙ではそんな風にしか表せなかった。
ただ、それを言った剣心も、聞いていたも、胸が痛んだのには違いなかった。
「『あなたが正しいと言うのなら、何で守ってくれなかったんです』と宗次郎は続けた。そこには確かに、怒りが含まれていた」
その時の宗次郎の声音を剣心は思い出す。
あれは確かに、怒りだった。
弱い者を守る、それが正しいと言うなら、どうしてあの時あなたは守ってくれなかったのだと、剣心を糾弾するような。
宗次郎が普段、どこまでも明るいだけに、あの言葉を思い出すと剣心は無性に苛まれるような思いで一杯になる。自身が直接関わってはいないからこそ、尚更。
「それが何を指していたのかは、拙者には皆目見当が付かなかった。今でも宗次郎の言う『あの時』に、何があったのかは拙者は知らぬ。ただ、宗次郎にとっては、恐らくは、とても辛い何かがあったのでござろうな・・・・」
そう言う剣心の顔も、安易な哀惜の表情では無いからこそ、尚更痛ましくの目には映る。
宗次郎の母親が父の妾であったことで、彼が義理の家族達から疎ましく思われていたことはは知っている。それを聞いただけでも、恐らくは酷い仕打ちを受けていたのであろうことが簡単に想像できるのに。
―――あの時あなたは、僕を守ってくれなかったじゃないですか。
普段は穏やかで柔和な笑顔のあの宗次郎が、凍りつくような視線でそんな言葉を吐いたのかと思うと、間接的に聞いているだけでも気分がざわつく。
「けれど、守ってくれなかった拙者に対し宗次郎がそう思ったということは、拙者の生き方を責めるのと同時に、宗次郎は自身の今までの生き方に、心の奥底で本当は悔いているということではないか、と拙者には感じられた。
事実、宗次郎は答えを求めていた。弱い者のために剣を振るう拙者と、強ければ生き弱ければ死ぬという弱肉強食を唱える志々雄のどちらが正しいのかと」
そこで一度、剣心は言葉を切った。
あの闘いの時、宗次郎は強固に志々雄は正しいと主張していた。剣心のような生き方を認めず、否定していた。
けれどそれは裏を返せば、宗次郎が自身の生き方に、自分でも気付かぬ意識の底で、迷いがあったからではないか。
宗次郎が他人の言葉や行動に一欠片の関心も示さず、何も感じずにただ人を斬り続けるような青年だったら、剣心はこんな風には言わなかったかもしれない。しかし、宗次郎は心の中に何か深い闇を抱えていて、それ故にそんな風にしか生きてこられなかったのだとしたら。そうしてそれを、悔いている部分もあるのだとしたら。それに剣心は気付かされたから。
宗次郎が本来望んだ生き方とかけ離れているのだとしても、それがまだ手遅れで無いなら、今からでもやり直しは効くのではないか。
そう思ったからこそ剣心は宗次郎にそれを伝えた。そして本気と本気で技を撃ち合い、宗次郎を打ち破った。そうでなければ、互いにそれ以上先へと進めはしなかったから。
「だが、答えなど一度や二度の闘いで出るものではない。だから宗次郎に、答えは自分自身の人生の中で見い出すよう、拙者は言った。
その末に宗次郎が得た物が何であったのかは・・・・・殿も良く存じている筈でござる」
剣心が真っ直ぐに見据え返してきたので、もその視線を受け、頷いた。
剣心との闘いを終えた宗次郎は、志々雄と袂を分かち、自らの足で流浪の旅に出て、そうして蘇芳との決戦の際に表明した、自分自身だけの真実を見い出した。
その真実を見つけ出すことは元より、その過程で得てきたものも大きかったのだと、剣心とは宗次郎のあの答えに、そう感じていた。
「今の宗次郎がどんな風であるのかも、拙者より殿の方が存じていると思うでござるよ」
ようやく剣心は柔らかく笑う。も再び頷いた。
宗次郎の浮かべる、無邪気な笑みは変わらない。けれど、その笑みが浮かぶ理由は、この十年でかなり変化してきている。
それは宗次郎の内面の変化の表れでもあるが、今の彼がどんな風に生きているのかは、自分が語るよりも共に過ごしてきたこの少女の方が、理屈ではなく理解している筈、と剣心はそんなことを思う。
宗次郎を知りたい、とは言った。勿論好奇心もあるのだろうが、何よりも彼女にあったのは、宗次郎をもっと理解したい、というその一心。
思いを寄せる相手に対しそう思うのは、至極自然な心の動き。そうしてその相手の心に添いたいと、人は皆思うのだろう。
宗次郎にそんな存在ができたことを、素直に喜ばしく剣心は思う。彼女が蘇芳戦で己の身を省みず彼に向かっていった時にも感じたことではあったが。
そうしてようやく剣心は、はた、と気付いた。
「すまぬな。殿の求めるような答えを、拙者は返せたかどうか・・・・」
会話の軸がいつの間にかずれてしまったことに、剣心はぽりぽりと頭を掻く。何だか終始、十年前の闘いの話に費やしてしまった。
けれどそんな剣心に、は滅相も無いといった風に首を横に振る。
「いっ、いいえ! それだけ聞けただけでも十分です」
取り繕ったわけでもなく、真実、はそう思った。自分にはどうあっても知り得ない、剣心の目から見たかつての宗次郎についての話をこんなに聞ければ、それだけでも本当に十分だった。
それは恐らく楽しい話では無いだろう、と予測もしていたから尻込みしていた部分はあったし、実際、剣心の語った初めて知った宗次郎の姿には、が予想していた以上に、見えぬ不安に心が掻き乱された。にはどうにもできぬ、過去のことだから尚のこと。
ただ、胸の締め付けられるような思いはあったが、一方で宗次郎が流浪人となった理由も改めて知り、そのことに関してはは剣心に感謝していた。
剣心の言葉の一つ一つを聞いているうちに、彼が宗次郎に対し本気で接したのだということが自ずと理解できた。だからこそ宗次郎もそれで何か感じるものがあって、自分で考えてみて、一人で歩き出したのではないか。
「無理を言ってしまってすみません。それから、ありがとうございました」
深々と、は感謝と敬意を表して頭を下げた。
剣心に対し心底思うその一方で、宗次郎の話からすれば彼を地獄から追い返したという、彼にとってもう一人の大きな存在、志々雄真実にも逢ってみたかったな、とはそんなこともちらりと思う。こちらはとうに故人だから、叶う筈は無いのだが、この二人のどちらが欠けても、今の宗次郎は存在し得なかったのだから。
せめて剣心からこうして直接話を聞けたこと、それだけでもはすごく、有り難かった。
長い辞儀の後に頭を上げたに、謙遜するように剣心は言う。
「いやいや、礼を言われるようなことでは無いでござるよ」
そうしておどけたすぐ後に、剣心はふっと真剣な表情を浮かべた。
宗次郎は自身でも気付かぬ間に、この少女の直向さに感化されている。のそんなところに、宗次郎も恐らくは惹かれている部分もあるのだろうが、だからこそ或いは、と剣心の直感が告げる。
「彼の過去に何があったのか・・・・もしかしたら、いずれ、宗次郎自身の口から語られる時も来るやもしれぬな」
例えばそれは、剣心が巴のことを皆に語った時のように―――。
話す方も、聞く方も覚悟の要った話だった。掛け替えの無い今を守りたいからこそ、本当ならば自身でもあまり語りたくなかった、いや、ただ思い出すのが辛かっただけなのかもしれなかったが、その過去を剣心は口にした。
いつ、どこで、どんな状況でかは分かる筈も無い。ただ、もしかしたらこの少女になら、いつか宗次郎は、今まで語らなかった過去を語る気になるかもしれないと。
そんな、確信の無い予感、けれど予測し得る未来を、剣心は感じ取っていた。
「それは決して、快い話では無いでござろうが・・・・」
「・・・・・そうでしょうね、きっと・・・・」
頷きながら、はほんの少しだけ目を伏せた。宗次郎が語ろうとしない過去が、明るい話のわけが無い。
ただ、もしそんな日が来たら、厭わずに真っ直ぐに宗次郎の話を聞きたい、とは思った。それがどんなに辛い話であったとしても、その時宗次郎はきっと、誰かにその話を聞いて欲しくて、過去を語るのであろうから。
「でも、いつかそんな日が来たら、私は最後まで宗次郎君の話をちゃんと聞き届けたい。だって、宗次郎君が今まで語ろうとしなかったことを語ってくれるってことは、何ていうか、その・・・・うまく言えないけど、すごいことですよね。
だからいつか、本当にその時が来たら、私は・・・・宗次郎君のその思いをちゃんと受け止めたいって、そう思います」
剣心の憂いに反し、はしっかと頷いた。言葉と共に、自分の中にある確かな思いを少しずつ紡ぎながら。
のふわりとした柔らかな笑みと、内に秘めた芯の強さと、その双方を剣心は改めて窺い知った気がして、彼もまた深く頷いた。
「そうでござるな。宗次郎のためにも・・・・」
言いかけて。
ふと、背後で小さなくしゃみが聞こえたので、剣心とは思わず振り向いた。
見れば、布団を被りながらもなお縮こまっていた宗次郎が、眠りながらもくしゃみをしていた。更にもう一度。
それでも目を覚まさずに、「ん〜・・・」と喃語のような声を上げながら寝返りを打つ宗次郎の姿を見て、剣心もも思わず吹き出していた。先程まで真剣に彼について話をしていただけに、余計にそれは微笑ましい光景として二人の目に映った。
「まぁ、秋の夜は冷えるでござるからな」
「もう一枚、かけてあげた方がいいですよね・・・」
「それだったら、拙者の分を使えばいいでござるよ。眠気がどこかに行ってしまったようでござる」
剣心はが傍らに置いた布団を示す。は素直に礼を言って、宗次郎にその布団をかけた。
宗次郎は相変わらず、くうくうと小さな寝息を立てて寝ている。ついこの間まで死闘を演じていた時との差に、はまた顔を綻ばせる。
と、「殿」と剣心が名前を呼んだ。
「殿もそろそろ休んだ方がいいのでは?」
「あ・・・と、平気です。目も冴えちゃったし」
は微苦笑を浮かべてそう答えた。実際、目は冴えきっていたし、話も一区切りついたので、もし厨房でまだ手伝うようなことがあるのなら、そちらに行こうかと考えていたところだ。はちらっと厨房の方へ目を遣る。
「後片付けならば、拙者も行くでござるよ」
のその思考を読んだのか、剣心も笑って立ち上がった。
きょとん、としながらも、そっかこの人もそういうのが得意なんだものね、とは思い出し、快く同行を了承する。
「良かったら、今度は北海道で宗次郎と偶然会った時の話でもするでござるよ」
「あ、それ聞きたいです。宗次郎君、旅先でたまたま緋村さんと会って、びっくりしたとか・・・・」
「拙者も驚いたでござるよ。まさか宗次郎とあんな風に再会するとは思わなかったでござるからな。それで・・・・」
先程まで重い話であったから、今度は純粋な思い出話について、剣心とは言葉を交わし合う。その話に聞き入りながら、も静岡での宗次郎についてあれこれと逸話を述べる。当の宗次郎は自分が話題に上がっていることも知らず、ただ穏やかな夢の中。
秋の夜は、長い。
と剣心の話も、なかなか尽きることが無かった。
知らなかった宗次郎の姿を、互いに垣間見た一夜だった。
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