―第四章:消えない烙印―
宗次郎と蘇芳、向き合う二人の間に落ちるものはただただ沈黙。虫の声や木々のさざめきすらも、まるで二人の闘いを邪魔しないかのようにしんと静まり返っていた。
片や蘇芳は刀を正眼に構え、片や宗次郎は相変わらず刀を肩に当てたまま、そうして顔には互いに笑みが浮かぶ。不敵な微笑と、あどけない笑顔。
「行くぞッ!」
膠着を破ったのは蘇芳だった。『天剣』の宗次郎相手に先読みは通用しない、どちらかが均衡を崩さねば闘いは始まらないと分かってるからこそ、敢えて蘇芳は先に斬り掛かっていく。
対する宗次郎は、避ける風でもなく、真っ向に蘇芳の刃を己の刀で受け止める。キィン、と金属同士がぶつかる高い音が響き、続いてビリビリと手に振動が伝わってきた。
鍔競り合いになる前に、宗次郎は蘇芳の刀を弾き飛ばし、ざっと後退した。
「『鬼刃』は健在のようですね。いえ、むしろ前よりも強くなったんじゃないですか?」
微笑のままで静かに問う。どこか挑戦的な宗次郎の言葉に、蘇芳もふ、と口の端を吊り上げる。
「お前に敗れてからの十三年、俺もただ遊んでたわけじゃないんでな」
言い終わるか終わらないかのうちに、蘇芳は再び猛然と攻めかかってきた。
今度は宗次郎の方もひゅっと前に踏み出す。蘇芳の刀が右肩に振り下ろされるその刹那、すっと体を傾け交差法気味に宗次郎は刀を振るった。蘇芳の左脇腹に宗次郎の刀が食い込む。だが大した痛みではないのか、蘇芳は顔色を変えずに尚も刀を振り下ろしてくる。
「!」
それに反応し、宗次郎は素早く身を引く。蘇芳の刀の切っ先は、宗次郎の左肩を掠った。着物と中に着込んでいるシャツの繊維が斬り裂かれ、その下の皮膚にもまた浅く、だが恐ろしい程鋭利な斬り傷がついた。
宗次郎の感覚では、紙一重でかわしたように思っていたのだったが。
「へぇ・・・なかなかいい刀ですね」
切り口は鋭いものの所詮は掠り傷、大した傷ではない。痛みは気にせずに、宗次郎は蘇芳の刀を見る。真新しい血を滴らせる鈍色の刃。先程も思ったことではあったが、酷く磨き上げられた名刀であろうことは、宗次郎でも容易に想像が付く。
「ああ、これぞ俺の愛刀、妖刀『村正』さ」
「村正・・・・!」
誇らしげに言う蘇芳を見て、弥彦が驚きに目を見開く。
「村正・・・・って何ですか?」
きょとんと首を傾げる宗次郎に、弥彦は今度は思いっきりずっこけた。
「知らねーのかよ! 有名な刀じゃねーか!」
緊迫感をぶち壊した宗次郎に呆れつつ、弥彦は突っ込みを入れる。
剣客ではあっても、刀の種類や銘柄については疎い宗次郎である。名刀ということは分かっても、刀の名前までは出てこないのであった。
『村正』とは、室町時代の刀工の名を冠した刀で、妖刀として名高い。その切れ味もさることながら、時は江戸の世、徳川の権力者達を葬った刀がことごとく村正であったことから妖刀視され、徳川家に忌み嫌われてきた。転じて、幕末期には多くの討幕派の志士がその刀を求めたという。
弥彦がそれを簡単に説明すると、宗次郎は成程、と納得したように頷いた。
「徳川なんざどーでもいいが、妖刀とされるだけあって切れ味が見事でな。血を求める俺にとっちゃあ、持って来いの刀だってわけだ」
蘇芳は再びふ、と笑むと、今度は獲物を見つけた肉食獣のようなぎらついた視線を宗次郎に向けた。
「前にお前が持っていた菊一文字ならいざ知らず、そんな鈍刀じゃ俺は斃せねぇぜ」
「・・・・・」
宗次郎はそれでも笑みを崩さない。
「十年以上の時を経てやっと会えたんだ。あまり俺をがっかりさせるなよ」
「じゃあ、少しは期待に応えましょうか」
宗次郎は己の爪先をトントンと地に打ちつけ始めた。できれば縮地は使わずに何とかしたかったが、この蘇芳はかつて闘った時よりも強さが増している。加えて、確実に相手を殺傷できる刀を今は手にしていない以上、ならばそれ以外の手で勝機を見い出す。
それに何より、言われっぱなしでは何となく面白くない。
「行きます。縮地の三歩手前で」
微笑む宗次郎の姿がふっと消える。駆ける足の軌跡のみが地を走り抜け、宗次郎は瞬く間に蘇芳の懐に飛び込む。横薙ぎに払った一撃は、だが蘇芳の刀によって遮られた。
「縮地は衰えてないようだな、安心したぞ」
宗次郎は何も答えず、ただにこっと笑む。そうして次の瞬間には、刀を返し蘇芳の肩口を袈裟斬りで狙う。それも蘇芳の一撃で弾かれてしまうと、宗次郎は再び縮地の三歩手前で駆け、彼の背後へと回り込んだ。蘇芳が反応して振り向く前に、宗次郎はもう一度左脇腹に斬撃を叩き込む。
「くっ・・・・」
今度は幾らか効いたのか、蘇芳の体が傾ぐ。
間髪入れずに、宗次郎は次は上段から刀を振り下ろした。右肩から左腰にかけて、蘇芳の背中に宗次郎の刀が打ちつけられる。
蘇芳は体勢を崩しながらも、それでも倒れるまでには到らない。右足を前に出し踏み止まった蘇芳を見て、宗次郎は一時後退する。
「流石じゃねーか。蘇芳って奴も強ぇけど、あいつ、宗次郎にほとんど手も足も出てねぇじゃねーか」
宗次郎が優勢なのを見て、弥彦が思わず声を上げる。
けれど宗次郎はそんな弥彦には振り向かずに、未だ蘇芳を静かに見据えながら。
「いえ、蘇芳さんはまだまだ本気を出してませんよ。それに・・・・」
視線の先には、再び宗次郎に向き合う蘇芳の姿があった。宗次郎の刀には刃が無いから、攻撃を受けてもその体から血は流れてはいないが、それでも幾度か鋭い斬撃を食らって打撲傷は負っているというのに、それでも蘇芳は―――哂っていた。
「フフフ・・・・ハハハハハッ!」
天衣を見た時と同じ、笑わずにはいられないといった高笑い。歓喜と失望、嘲りと愉悦、そういった相反する感情の篭もった歪んだ笑い声。
「な、何が可笑しいんだ!」
その中に確かな狂気を感じて、弥彦は反射的に逆刃刀の柄に手をかけていた。宗次郎は無形の位で蘇芳を見ている。
「これが笑わずにいられるか。確かに、瀬田にかつての強さが失われていようことは分かってはいたが、まさかこれ程とはな」
一頻り笑い終えた蘇芳は、その顔に酷く冷たい笑みを浮かべる。鋭い視線を宗次郎からそらすことは無い。
「十本刀一の剣客、”『天剣』の宗次郎”を支えている強さは三つあった。一つは字名でもある天賦の才による『天剣』、先を読ませぬ『感情欠落』、そして強靭な脚力による『縮地』」
「・・・・・」
宗次郎は無言のまま、蘇芳の言葉を真摯な瞳で聞いている。
「その三つがお前を最強の修羅と成さしめた所以だ。だが・・・・今のお前は、その最強の修羅として最も重要だったものを失っている。天剣や縮地以上に、お前を支えていた強さ・・・」
蘇芳はすうっと刀を引き上げ、切っ先を宗次郎に向けた。鋭い刃の輝きが宗次郎を捕らえる。
「お前の剣をより強く昇華させていた、『哀の感情が無いため、人を殺めることを何とも思わない』―――今のお前にはそれが無い!」
裂帛の気合と共に、蘇芳はそう言い切った。
十年前の、剣心と宗次郎の闘いを蘇芳は知らない。その最中で起きた宗次郎の葛藤も、蘇芳は知ることはない。流浪人となったことは知っていても、その旅の中で宗次郎が何を得たのかも。
だがそれでも蘇芳には分かる。今の宗次郎には感情があると。はっきりと表に出るようなものではなくても、顔に浮かぶのはあの頃と変わらぬ笑みであっても、その胸の奥では確かに動く心があると。
十本刀最強の修羅と呼ばれた『天剣』の宗次郎は、『楽』の感情しか存在しないから、常に自然体の剣を振るうことができた。
『喜』の感情が無いから闘気が無い。
『怒』の感情が無いから殺気が無い。
そして『哀』の感情が無いから、人を殺めることを何とも思わない。
他人に容赦しない、殺すことに何の躊躇いも無い。それこそが剣のキレを増し、相手を確実に仕留めることができる、『天剣』の宗次郎の最も恐るべき強さだった。
なのに、今の宗次郎にはそれが無い。何も感じずに人を斬ってきた修羅が、今では人を斬ることができない刀を手にしている。
まだ幼い少年でありながら、修羅として相応しい完璧な強さを得ていた宗次郎を恐れ、その一方で羨望していた蘇芳にしてみれば、久方振りに会ったその最強の修羅の変貌振りに我慢がならなかったのだ。
「それで、あなたは僕にどうしろって言うんですか? 闘う前に言ったでしょう、あなたがあの頃の僕との再戦を望んでいるのなら、多分期待に応えられないって」
蘇芳の憤りを目の当たりにしても、宗次郎はただ微笑んで軽く溜息を吐く。
この十年、流浪の旅の中で学んだこと、出逢った人達が教えてくれたこと、感じさせてくれたこと。それらとその前の人生と、今の自分はその積み重ねでできている。自分なりに得たものがある。それを否定されたくは無い。
だからこそ、今の宗次郎は刃の無い刀を手にしているのだから。
「簡単に真っ当な道に戻れるとは思ってませんよ。ただそれでも、あの頃のような強さは・・・・人を殺める強さは、今の僕には必要ないんです」
きっぱりと言い放った宗次郎に、けれど蘇芳は不気味に静かに笑う。
「果たして、そうかな」
え、と思う間も無く蘇芳は宗次郎に斬りかかってきた。下段から振り上げられた刀を宗次郎は天衣で払いのける。体勢を整えようとして、けれどその前に蘇芳が放った蹴りを宗次郎はまともに受けた。
「・・・・っ!」
意外な攻撃に反応できなかった。勢いのまま蹴り飛ばされた宗次郎の体はごろごろと草原の上を転がる。
「宗次郎!」
「あの頃の強さが無ければ、ここでお前は死ぬことになるぞ!」
弥彦の自分の名を呼ぶ声と、蘇芳の険しい声が重なって聞こえた。身を起こした宗次郎が上を見上げると、今まさに村正を振り下ろそうとする蘇芳の姿が目に入った。立ち上がり、体勢を立て直して―――
「遅いッ!」
蘇芳の鋭くも重い斬撃が宗次郎に迫る。風をも裂くような剣閃。宗次郎の華奢な体をその刀が斬り裂くかに見えた。
―――だが。
「・・・・・!!」
息を飲んだのは、蘇芳の方だった。
刃が宗次郎に届くかに思われたその刹那、宗次郎は地を蹴った。三歩手前ではなく、二歩手前でもない、正真正銘の超神速の縮地で、蘇芳の背後に回り込んでいた。そうして天衣の刀身を、蘇芳の喉元にぴたりと宛がっていた。
「く・・・・っ」
背後を取られ、喉元に刀があっては蘇芳も身動きが取れない。身を引こうにも、吸い付いたように首についてくる宗次郎の刀がそれを許さない。
蘇芳からは見えなかったが、今の宗次郎は鋭く、どこか冷たくも見えるような色をその瞳に映していた。
「形勢逆転、ですね」
だがそれもほんの僅かなこと。そう言った宗次郎は、にこっと幼子のような笑顔になった。
「どうします? これで終わりにしますか? それとも・・・・」
「まだやる気だってんなら、今度は俺が相手になってやらァ!」
あどけない宗次郎の声と弥彦の勇ましい声とを受けながら、蘇芳はしばし動かずにいたが、やがて瞼を落とし観念したかのようにふっと笑った。
「どうやらこの場は、刀を納めるしかないようだな・・・」
蘇芳はゆっくりと村正を鞘に納めていく。蘇芳の刀が完全に納まるまでは宗次郎も喉に突きつけた刀身を離す気は無い。
刀を納刀し、その側の脇差にも手をつけず、蘇芳は両の手をだらんと下に垂らした。そこまでを経て、宗次郎はようやく刀を引いた。
次の瞬間、蘇芳の放った肘打ちが宗次郎の胸を強打した。
「ぐっ・・・!」
「てめぇ!」
蘇芳の遣り口に頭に血が上った弥彦は、逆刃刀を抜刀し斬りかかっていく。すっと向き合った蘇芳は余裕綽々と言った笑みを浮かべていて、それが更に弥彦の怒りを煽る。
「俺はもう、この場では刀を納めると言っただろう」
「るせぇっ」
弥彦は勢いのままに逆刃刀を振るうが、蘇芳はすっと体を傾けてかわす。横薙ぎも、切り上げも、刀を持たない蘇芳にあっさりとかわされ翻弄されてしまう。
上段から振り下ろした一撃も、刀が蘇芳に当たることは無かった。刀の軌道を見切り、蘇芳が弥彦の右手首をがっしりと掴んだのだ。蘇芳の握力の強さに、弥彦も思わず顔をしかめる。
蘇芳はにやりと笑うと、一度弥彦の手を前に引き、それから後ろへと思い切り突き飛ばした。
「くっ!」
だが弥彦もこれまで幾度もの激戦を潜り抜けてきている。簡単に倒れはしない。
何とか踏み止まった弥彦の側に宗次郎も駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ああ。お前こそ平気か?」
「ええ。・・・・でも、あの人の遣り口は知ってたはずなのに、うっかりしちゃったなァ」
まだずきずきと胸は痛むものの、剣呑な瞳で宗次郎は再び蘇芳と向き合う。そうして自身はまだ納刀していない天衣を、トンと肩に担ぎ上げる。
「あなたがまだやる気なら、またお相手しますけど?」
「せっかくの申し出だが遠慮しておく。さっきも言ったが、一度身を引こう。だが、いずれお前とは必ず決着をつける」
冷たい視線で宗次郎を睨みつけ、蘇芳は踵を返しかける。
「何だかんだいって、結局は逃げんじゃねーか」
はん、と笑って挑発する弥彦だが、蘇芳は特に意に介する風でもなく。
「何とでも言え。次にお前達に会うのは、京都でだ」
「・・・・京都?」
懐かしい知名に、宗次郎はほんの少し眉を顰めた。かつての志々雄一派の本拠地。この国の命運を賭けた、決して歴史の表舞台には出ない闘いがあった場所。
「何で京都でなんだよ?」
同じくその闘いに携わった弥彦が疑問を素直に蘇芳に投げかける。蘇芳はニッと口の端を吊り上げて見せた。
「志々雄が成し得なかった国盗りを、俺がやってやろうって言うのさ」
蘇芳の言葉に、宗次郎も弥彦も少なからず驚く。
「志々雄を崇拝する者、明治政府を憎む者は幾らでもいる。もう既に、俺の配下は京都でその日を待っている。俺を止めたければ、京都まで来るんだな。抜刀斎にも伝えておけ」
「待て! そうと分かっててみすみすお前を逃してたまるかよ!」
弥彦は逆刃刀を持つ手に力を込めた。柄を握り直し、刀身を蘇芳に向け―――けれど。
無言のまま蘇芳から放たれた威圧的な剣気に圧倒され、思わず足が止まる。蘇芳の剣気に反応したのか、辺りの草が一斉に風に靡かれたように揺らいだ。
「国盗りをする、とは言っても、俺はお前との決着の方を優先するがな」
「・・・・もし、僕が京都へ行かなければ?」
静かな、だが奥底に氷のような冷たさを含みながらの蘇芳と宗次郎の応酬。それでも微笑みを絶やさない宗次郎の問いに、けれど蘇芳は答えずに何かを含んだような笑みを浮かべるだけ。
「いや、お前は京都に行かざるを得ないさ」
「? それはどういう・・・・」
どういう意味か、と問う前に、蘇芳はもうこちら側へと背を向けていた。しばしそのままで、しかし不意に蘇芳は振り向いた。
「志々雄の忘れ形見が今、俺の元にいるからな」
それを聞いた宗次郎の顔から、一瞬表情が消えた。
「真由君と、真美ちゃんが・・・・?」
次に唖然とした表情になって、宗次郎は呟くように聞き返す。
「おい、誰だよそのマユとマサミってのは?」
弥彦が苛立ったような声を上げるが、宗次郎は答えない。
蘇芳はどこか満足そうな顔になると、更にこう、付け加えた。冷たく、凄惨な笑みを浮かべて。宗次郎を京都へと赴かせるべく。―――更なる絶望を与えるべく。
「二人は抜刀斎とお前のことをこう認識しているぞ。父の仇と、
―――裏切り者、とな」
「・・・・!」
滅多に負の表情を浮かべない宗次郎が。
その時は酷く痛ましいような、傷付いたような、顔をした。
「今度は修羅のお前と闘えることを期待しているぞ。・・・・じゃあな、京都で待ってるぜ」
「ッ、てめぇ!」
ざっと駆けていく蘇芳を弥彦は追おうとしたが、宗次郎が呆然と突っ立ったままなのが気になって、結局その足を止めてしまった。歯噛みしながら蘇芳を見送って、苦い気持ちで逆刃刀を鞘に納めながら宗次郎に近付く。
「どうしたんだよ、お前、何か変だぞ・・・」
気遣わしげに宗次郎に問うが、宗次郎は半ば茫然としたまま、何事かを考えるような瞳をしている。
「その、マユとマサミって奴に関係あんのか。そいつら一体何者なんだ?」
「志々雄さんと由美さんの子どもです。真由君と真美ちゃんは」
さらっと答えると弥彦から「何ィっ!?」という驚愕の声が上がったが、宗次郎は半分それを聞き流していた。
頭の中を反芻するのは、ただただ蘇芳の言葉。
―――いや、お前は京都に行かざるを得ないさ―――
「・・・・やっぱり、平穏は望んじゃいけないのかな」
出来得ることなら、この穏やかな生活の中に浸っていたかった。けれど一度修羅道に堕ちた者は、ずっと闘い続けるしかないのか。
ぽつりと零れた言葉は、宗次郎以外の誰にも聞こえることは無かった。
その手に刀は、未だしっかりと握られたままだった。
「やぁ、お帰りなさい。今日も成果は上々だったようですね」
蘇芳が宗次郎と弥彦の前から去って、間も無くのこと。
この町の悪徳医師、安塚の前に一人の来客が訪れていた。
「でもそろそろ、仕事場を変えた方がいいかもしれないですねぇ。この町近辺で噂も広がってますし、ますます遣り辛くなる・・・・。今日なんかは刀を持ってあなたに会いに行った人間もいましたしね」
「ああ、もう会ってきたさ」
ぺらぺらと心配そうに語る安塚に、その男はあっさりと答える。
その男は言うまでも無い、蘇芳だった。
「お前は役に立った。人を斬りたい俺と、怪我人の治療をして金儲けしたいというお前の利害が一致して、俺の組織の資金繰りに大いに貢献してくれたしな。何より―――お前は今日、俺の追い求めた宿敵の情報をくれた」
「へ? あの瀬田とか言う小僧ですか? お知り合いだったんですねぇ。どうりであなたは知らせた時にあんなに嬉しそうな顔をしたわけだ」
淡々と礼を述べる蘇芳に、安塚はうんうんと頷きながら相槌を打つ。その言葉の裏側に隠された真意に、気付くことも無く。
「ところで、どうしますか、次の仕事場は?」
「とりあえず今日で辻斬りは終いだ」
「え・・・・」
安塚の顔がさあっと青くなった。目の前の蘇芳が、刀の柄に手を伸ばしているのが見えたからだ。
「もう十分に金は手に入ったし、お前も満足だろう。俺も瀬田を見つけたから、もう辻斬りをする必要も無い。それに・・・・」
「ひ、ひぃぃぃぃっ!」
ここでようやく安塚も気が付いた。この男は自分のことを殺すつもりなのだと。
後ずさりながら必死に考える。
何故、この男は私を殺そうとする。
長年、一緒に組んでやってきたじゃないか。辻斬りと医者、これらが手を組めば幾らでも金を稼げるのに、自分は役に立ったと言っていたのに、一体何故。
何―――。
「俺も、この刀も、もっと血が欲しいのさ・・・・」
安塚の思考は途中で遮られた。振り下ろされた村正が、その脳天を叩き割ったからだ。
頭から血を流しどさっと倒れた安塚を見て蘇芳は冷笑を浮かべると、次は己の愛刀を見下ろした。
「さて、それじゃあ京都であいつを待つとするかな。果たして修羅に戻るか、否か・・・・」
近隣に住む人々が安塚の悲鳴を聞いてその場に辿り着いた時には、もう既にそこに蘇芳の姿は無かった。
安塚殺害の犯人は、強盗か、はたまた町を騒がせていた辻斬りの仕業か、様々な憶測が流れたが、ついにはその犯人は不明のまま事件は迷宮入りすることとなった。
次の日の瓦版には、この町一の名医が死亡と、そういう見出しの記事が載ったという。
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