―第三十九章:あなたに死んで欲しくなかった(後編)―




「あれ、ここは・・・・・?」
見慣れぬ風景に、宗次郎は目を瞬いた。
気が付いてみれば辺りには自分以外に誰もおらず、血塗れだった着物や袴もまた、綺麗に新調されたかのような水色を基調としたものをまた纏っている。
全身を見回し、足下に視線を落としたところで宗次郎はぎょっとした。草履の裏にやたらごつごつした感触があると思えば、何と無数の髑髏の山の上に自分は立っているではないか。
宗次郎は改めて辺りを見渡した。重苦しい雰囲気を醸し出す、灰色がかった霧が立ち込めている。空を見上げても霧の向こうのそこには何も無く、ただ漆黒の空間が広がるだけ。天である筈なのにまるで深海の底を見ているような感じだ。
加えて、このおびただしい数の髑髏の平野。一歩踏み出せは骨と骨の砕ける音と感触が足裏に伝わってくる。四方のどこを見渡しても、物言わぬ髑髏の丘がどこまでも広がっている。
「もしかして、ここって地獄?」
宗次郎にそう思わせるだけの説得力がその場所にはあった。
死後は生前の行いによって極楽か地獄のどちらかへ行く、という嘘か真か分からぬことを鵜呑みにしていたわけでもなく、かといって方治のように死んだ後は等しく土に還ると割り切っているわけでもなかった。死んだら終わり、と咲雪もそんなことを言っていたが、その終わりの先に何があるのか、宗次郎ははっきりと思い描いてはいなかった。
ただ、どう見てもこの骸の大地と暗鬱極まりない空気は、まさに人の言う地獄そのものではないか。
「そうだよね。僕が地獄に堕ちるのなんて、当たり前だよね」
それでも小さく微笑んで、宗次郎は肩を竦めてそんなことを呟く。
己の犯した罪を思えば、極楽など元より行ける筈も無い。むしろ、血の通わぬ修羅の如く生きてきたことを鑑みれば、己にはまさに地獄こそ相応しいように思える。事実、こうしてこの屍の山を宗次郎は踏みしめている。
極楽と地獄、死後の裁きが本当にあるならば自分は間違いなく地獄行きだろうと認めてはいても、実際にこうして地獄へと来てしまったことにほんの一抹の言葉にできない思いが宗次郎に浮かんだ。が、背後から聞こえてくる髑髏を踏みしめる二つの足音を宗次郎の聴覚は捉え、それに妙な確信を抱いたことでその思いは霧散する。
そう、振り向く前から宗次郎には何故か確信があった。髑髏をむしろ蹴散らすような力強い歩みと、それに従うようなたおやかな歩み。驚きながらも振り向いて、その足音の主達を目で確認して、宗次郎はあぁと表情を緩めて息を吐く。
懐かしい、とても懐かしい人達がいた。
宗次郎の予想通り、そこには志々雄真実その人と、それに寄り添う駒形由美の姿があった。
「よォ、宗次郎」
志々雄はニッと口の端を吊り上げると、ただ短くそう言った。その姿は十年前の志々雄のそれと全く変わらず、粋に着流した藍の着物に全身の火傷を覆った包帯という出で立ち、不思議なことに無限刃も腰に健在で、生前とそう変わらぬように見えた。
由美の方も同様で、かつて娼妓であったことを髣髴とさせるような奔放ながらも艶かしい着物を纏い、紅を引いた唇には穏やかながらも妖艶な笑みを湛えている。
剣心らが、志々雄と由美が死んだところをはっきりと見ているわけだから、この二人が生きている筈は無いのだが、それでも地獄という場所にも拘らず以前と変わらぬ二人の様子に、宗次郎も十年前に立ち戻ったような気持ちになって、その調子で思わずこんなことを口走る。
「お久しぶりです。志々雄さんも、由美さんも・・・・お元気そうで何よりです」
それで由美は一瞬だけあんぐりと口を開けた後、やがてくすっと微笑んだ。
「・・・・坊やは相変わらずねェ。私達がもう死んだ人間ってこと、忘れてるでしょう」
「あ、そっか。そう、ですよね」
あはは、と笑いながらも、自然、宗次郎の声の調子が下がる。
ここが地獄だと、死後の世界だと、すぐに飲み込めたわけではないが、それでもその故人である当人の口から死を知らされるのはなんだか不思議な気分だ。
次に言う言葉が、すぐに浮かんでこない。
「ぼんやりしてんじゃねェよ、宗次郎。さっさと行くぜ」
「行く? 一体どこに?」
親指を残し握った拳で背後を指し示す志々雄に、宗次郎は至極当然な疑問を投げかける。
不思議そうに聞き返してきた宗次郎に、志々雄はニッと強気な笑みを返す。
「決まってんだろ。閻魔相手に地獄の国盗りだ」
その台詞に、宗次郎は素直に驚く。
この人は地獄に堕ちてもなお、そんなことを考えていたのか。
志々雄のその発想に、宗次郎は度肝を抜かれたと同時に、何だかあまりにも彼らし過ぎて思わず笑ってしまった。
(やっぱり、志々雄さんはすごいや。でも―――)
「悪人だらけの世を統べるだけあって、閻魔も一筋縄じゃいかなくてな。お前も来てくれればまさに百人力だぜ」
宗次郎はついてくるものとばかり思っているのか、志々雄は返答を聞かぬまま踵を返し髑髏の山を行く。その腕に手をかけるようにして由美も彼と同じ道を歩んでいく。
骨を踏みしめるざくざくという音だけをぼんやりと聞きながら、宗次郎はただ茫漠と、その後ろ姿を見送ったままでいた。
地獄の主神とも言われている閻魔相手に国盗りを謀るなど、実に志々雄らしい。そうしてそれは存外不可能ではないかもしれないという器が志々雄にはある。
どうせ地獄に堕ちたのなら、或いはそれも一興だろう。志々雄の案に乗り、再び彼の側近として務める―――。
けれど宗次郎の足は不思議なことに、ただその場に貼り付いたままだった。
「そっか、僕、死んじゃったのか・・・・」
今更、ようやくそのことに思い当たる。宗次郎が思い返してみれば、己の最後の知覚はを突き飛ばした後、後頭部に感じたガツンという重い衝撃と一瞬の激しい痛みだった。そしてそれはすぐに途切れ、目覚めた時は宗次郎はこの場所にいた。
それが実際の感覚として正しいのなら、が受ける筈だった瓦の直撃を自分自身が代わりに受けたということ。そして夢や幻でなく、この光景が本当に地獄のものだというのなら、確かに宗次郎は死んだということ。
「あぁ、でも僕がここにいるってことは、さんは助かったのかな」
けれど裏返せばそういう事実も考えられる。悟りながらも今ひとつピンと来ない自分の死に、宗次郎は持て余すようなもやもやとした気持ちを感じつつ、ただ己の予想通りが助かっていればいいと思った。
に死んで欲しくなかった。あの時の宗次郎の行動原理は、きっとそれだけ。守るとか、庇うとか、多分そういったことではなく、ただ宗次郎がにいなくなって欲しくなかったから。
それで自分自身が死んでしまってはどうしようもないのかもしれなかったが、それでもは恐らく無事なのだろうと思い当たったことで、宗次郎はどこか満足感のようなものも感じずにはいられなかった。
には死んで欲しくない。それは単なる我侭だった。我侭だったが、それ故に誰かに何かに彼女の命が脅かされることを宗次郎は認めたくなかった。防ぎたかった。可能ならば、この自分の手で。
相手の無事を、命を保つ。それこそが守るということであり、に対してそうしたいと、そうしたかったのだと彼女を蘇芳の手に奪われて宗次郎はようやくそのことを知ったけれど。
誰かを『守る』ということが、いつの間にか宗次郎にできるようになった。自分の足で歩き出した十年を経て。普段は意識していなくとも、本当に、自分の意識の及ばぬところで他者に対するその行為が。
とはいえ、複雑なのは心中のみで、宗次郎当人はそんな動き出した情の機微も露知らず、ただ「良かった」と、微笑んで頷くだけ。
けれどそれが、の命を己の手で守ることができた、その事実から実は生まれたものだということに、当人だけが気付くことは無く―――。
「オイ、宗次郎」
「はい?」
志々雄の呼びかけに、宗次郎はハッと顔を上げる。宗次郎から四間程距離の開いた場所で、志々雄と由美は立ち止まり静かにこちらを見ている。
その目がどうしてだかあまりにも冷たくて、宗次郎は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんです? 二人とも怖い顔して」
「宗、どうやらお前は、まだ現世に未練があるみてェだな」
「嫌だなぁ、未練だなんて、そんな・・・・・」
一瞬だけ怪訝な顔をして、次に笑い飛ばそうとして。
けれど言いかけて宗次郎の言葉は止まる。実際、自分はどう思っているのだろう?
限りある生を精一杯生きていたいという信念の下、宗次郎は蘇芳を打ち破った。その時宗次郎は心底、生きたいと強く願っていたが、無常にもその後にこうして呆気なく死んでしまった。
死んでしまったものは仕方ない、という諦めにも似た思いが浮かぶ一方で、それでも僕はやれるだけのことはやったよね、と己の行動を肯定するような思いもまた宗次郎には浮かぶ。
それは、宗次郎が自身の死に納得しつつあるということでもあり、けれどどこかそれを認めたくないような気持ちがあるのも確かだった。やっと答えを見い出せたのに、罪を贖う道も見えかけてきたのに、こんなところにいては何にもならない。地獄という場所で、仮にこうして再び生を与えられたとしても、現世に対しては何もできない。宗次郎が生きようとした世界には何も反映されない。
生きとし生けるもの全てにいつかは訪れる、不可避の終焉、それが死。だからこそ人も動物も植物も後生へと命を繋げ、この世は繁栄してきた―――けれどそれでも、たとえば蘇芳の野望を食い止め再びの戦乱を防いだ、とかそれにより失われる筈だった命を図らずも救ったとか、濁流のような歴史の流れの中で宗次郎が己の人生の中で為してきたことが後に何かを繋げていたのだとしても。
それでも、瀬田宗次郎という存在は、死によって永遠に失われるのだ。
これまでに積み上げてきた物がいとも簡単に瓦解したような、そんなぽっかりとした感覚を宗次郎は覚える。それでも、何を言ったところで死んでしまったものは仕方ないな、とやはり自身の死についてはそこまで深く考えてはいない宗次郎だったが、ちらりと最後に助けたの姿が頭を過ぎった。
あの少女は、また自分のせいで泣くんだろうか。
浅葱や剣心、弥彦らは何を思うんだろう。
自身が失われることを恐ろしく思うような感覚。取り残された人々へ宗次郎がかすかに思うその残滓。志々雄の言葉を借りるならば、それこそが現世への未練なのか?
黙り込んでしまった宗次郎に、志々雄は興醒めだといった風な溜息を吐く。
「話にならねェな。昔の宗ならいざ知らず、今のお前じゃこの地獄じゃあ到底やっていけそうもねェ」
「志々雄さん、僕は・・・・」
言いかけた宗次郎を遮るように、志々雄は突如無限刃を抜刀した。抜刀の鞘走りでその切っ先が紅く燃え上がる。―――壱の秘剣、焔霊。
真由に散々見せられたが、本家本元のその技だ。
「正直、がっかりしたぜ、宗次郎。お前がそんな風になっちまったのはな」
「・・・・・・・」
志々雄の一言に、宗次郎は何も言えなかった。何と言えばいいのか分からなかった。
「微温湯に浸かっちまったお前に教えてやるぜ。所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ―――この真実は、それ以上でもそれ以下でもねェってことをなぁッ!!」
由美を下がらせると、志々雄は足元の髑髏を粉々に踏み潰しながら焔霊を掲げて宗次郎に斬りかかってきた。宗次郎も反射的に天衣を抜刀し(驚くことに宗次郎もまた愛刀をこの空間でも所持していた)、いきなりの彼の行動に流石に戸惑いながら問いかける。
「志々雄さん・・・・どうして!?」
それでもそんなことしか訊けなかった。訊く間にも志々雄は眼前まで到達し、胸の前に構えた天衣とぶつかり合った無限刃の熱は宗次郎の前髪を焦がす。熱かった。
死んでも痛覚はあるんだ、と宗次郎は頭の片隅で妙な感心をする。
「地獄でやってくには、いまいち覚悟が足りてねェみてぇだからな。それをお前に思い出させてやる」
志々雄の眼光がスッと細まり、無限刃はぐぐ、と宗次郎の天衣を押していく。久々に間近で見る志々雄の瞳はどこまでも力強く、深い野心を宿した揺ぎ無いもの。
それを懐かしいと思いながらも、剣客としての勘が宗次郎に危機を知らせる。だから宗次郎は一度天衣の刀身に力を込め、その反動でざっと後ろに飛び退いた。着地と同時に、骸骨の中に足首まで埋まる。足裏にもまだ骸骨の平野。闘うには不向きな場所だったが、志々雄は炎の消えた無限刃の刀身を肩に担ぎ、なおも戦意を示す。
これほど不敵という言葉が似合う者が他にいるだろうか、というような本当に不敵な笑みを、志々雄はニッと浮かべた。
「それとも、お前がまだ現世で生きてみてぇって言うんなら、それだけの覚悟を俺に見せてみな!」
口元はその笑みが支配するが、その目は限りなく真摯に宗次郎に向けられていた。そう、それは志々雄が初めて弱肉強食の摂理を宗次郎に説いた時のものとどこか似ている。
それで宗次郎は、ふとあることを悟る。
(あぁ、そうか―――)
力無く下ろしていた天衣を、宗次郎もまたすうっと引き上げる。それを見た志々雄の笑みがより深くなった。宗次郎もそれで確信する。
この人は、今の僕を端から認めないというわけじゃなくて。
試そうと、しているんだ。
「来い、宗次郎」
どこか愉しげに悠然と攻撃を誘う志々雄に、宗次郎もまたにこっと笑む。どうしてだか自分でも良く分からないが、宗次郎の心もどこか弾んでいる。何故かうきうきしている。
多分、楽しいのだ。
「志々雄さんと鍛錬するなんて、久方振りですね」
だからそんな台詞が宗次郎から笑みと共に零れる。志々雄はその言葉にフッと笑みつつも、宗次郎の郷愁には同意せずに答える。
「鍛錬なんて生易しいもんじゃねぇぜ!」
そうして足元の一つの髑髏を踏みつけると、志々雄はそこに無限刃の切っ先を突き刺す。骨の表面を削り取るようにして、その摩擦熱で切っ先から刀身へと炎を走らせた。
焔霊の発動を目にした宗次郎は、ほぼ同時に志々雄との間合いを詰めるように駆け出した。この足場だから縮地は使えない。剣の腕のみで果たして志々雄に敵うかどうか。
遠い日に憧れたあの強さに追いつこうと、その彼と修行を繰り返した昔の日々。それは実際生半可なものではなかったが、それでも宗次郎がやっていけたのは、志々雄という存在を慕っていたからだ。そしてその思いは、今でも宗次郎にはあるから。
志々雄が鍛えてくれた剣で、その彼に応えるべく宗次郎は天衣を振るう。
「甘ェよ!」
横薙ぎの一撃は、志々雄の焔霊でいとも簡単に弾き飛ばされる。がら空きになった宗次郎の体に、志々雄の拳が容赦なく打ち込まれた。
不思議なことに地獄へ来てからというもの、宗次郎が蘇芳らから受けた傷は跡形も無くなくなっていた。が、志々雄の重い拳は新たな痛みを宗次郎に植え付ける。
うっと呻きながら、やっぱり志々雄さんは強いなぁ、と宗次郎は内心志々雄を賞賛する。けれどここであっさりと負けてしまっては、志々雄が宗次郎に示した心意気に水を差すことにもなる。
それに何より、宗次郎は志々雄に、今の自分を見て欲しかったのかもしれない。
だから宗次郎は、再度髑髏の山に足を取られそうになりながらも踏み止まった。振り下ろされた上段からの焔霊に、宗次郎は相打ち覚悟で逆に前に出た。
「・・・っ!」
それは、どちらの息を呑んだ声だったのか。
焔霊が宗次郎の肩を打ち据えた。それは奇しくも、真由が以前に宗次郎に焔霊を食らわせたのと同じく左肩で、新しく走った痛みに宗次郎は顔を僅かに歪めた。
けれど、その焔霊が極まったのとほぼ同時に、宗次郎の天衣もまた、志々雄の体に届いていた。宗次郎が懸命に腕を伸ばした先の手に握られた天衣は、志々雄の左脇腹に、刀身を食い込ませていた。ただし志々雄は表情を変えない。
それはほんの一瞬のやりとりだった。
双方共に一歩も動こうとしないまま、しばしそのままで時は止まっていた。二人から離れた場所にいる由美が、ごくっと唾を飲み込む。
笑みの無い、真摯な視線のみがただ宗次郎と志々雄との間で交差し合う。
と、志々雄が先に刃を引いた。肩から刀身が離れる時に宗次郎は小さく痛みを感じはしたが、それきりだった。それで宗次郎も天衣をそっと志々雄から離す。
志々雄が存外あっさりと無限刃を納刀してしまったので、宗次郎も同じように天衣を鞘に納めた。その顔はただただ、きょとんとしている。
「あの、志々雄さん?」
「志々雄様! 坊や!」
対決が終わったのを見て、由美が志々雄の側に駆け寄ってきた。由美は志々雄と宗次郎の顔を交互に気遣うように見る。
「案ずるな。大した傷じゃない」
「えーと、僕も平気ですよ」
宗次郎と志々雄の答えに、由美はほっと胸を撫で下ろしたような顔になる。それで由美は再び志々雄の側に寄り添い、丁度宗次郎がこの地獄にきた時と、同じような構図になった。
志々雄はまた、ニッと力強く笑む。
「俺に一撃入れるなんざ、腕を上げたじゃねぇか。・・・・ま、相打ちってのはギリギリ及第点ってトコだが」
「志々雄さん」
宗次郎はそれきり言葉に詰まる。今志々雄が見せる表情は、昔彼が宗次郎に向けていたのと同じものだ。自らが鍛え上げた宗次郎の力に絶対の信頼を寄せ、だからこそ一番の側近として控えさせていた頃の―――。
その表情に宗次郎は再度、懐かしい気持ちでいっぱいになる。
「だがこれではっきりしたな。宗、お前は地獄に来るのはまだ早ェ」
「はい?」
突如話題を変えた志々雄に、宗次郎は聞き返す。
目を丸くした宗次郎に、志々雄は楽しげな笑みを浮かべてあっさりと言ってのけた。
「もうしばらく、現世で修行を積んできな」
「・・・・え?」
志々雄の言っている意味が分からなくて、宗次郎は更に目を丸くした。何故いきなりそうなるのだろう。二、三度目をぱちくりさせて、宗次郎は呆然と言う。
「え、だって、僕は死んだんじゃ―――」
「ここは地獄とは言ったがな。お前が死んだとは一言も言ってねェぜ」
・・・・・嵌められた。
「ほとんど死にかけちゃあいるみてェだけどな。生と死の狭間で漂ってるうちに迷い込んじまったんだろ。まぁ、いつまでもここにいたら、本当に地獄の住人の仲間入りなんだろうが」
志々雄がそれを先に言わなかったのは、現在の宗次郎の力量をその目で確かめたかったからだろう。質の悪いやり方だと苦笑しつつも、つまり今自分は生と死の境界線を彷徨っているのか、と宗次郎はそんな風にも思う。
ふと志々雄の背後に目をやれば、相当離れた遠くに二つの人影が見えた。それは志々雄の言うように、既に地獄の住人となったかつての同志、方治と宇水の姿のようにも見える。
彼らは既に、現世ではないところで生きているのだ。
「弱肉強食の世でも、生きていくって決めたんだろ。強さにもう拘らないって言うなら、せいぜい足掻きながら手前の人生を最後まで生き延びてみせな」
それは自身と決別した宗次郎を嘲りながらも、激励している言葉のように宗次郎は思えた。
認めてくれたのだろう、今の宗次郎の生き方を。その全てとは言わなくとも。ほんの一握り、だけでも。修羅としての宗次郎を育て上げた志々雄にしてみれば、どこか認めたくない部分が大きくても。
挑戦的な志々雄の言葉に、宗次郎もまた笑んで頷く。
次に、由美が宗次郎の前にスッと進み出た。
「坊や。あんたにはお礼を言っておくわ。・・・・真由と、真美のこと」
由美の目が、優しくも悲しげに細められた。口元に浮かぶ淡い笑みは、そのまま続きを紡ぐ。
「私はあの子達に、何もできなかったから。―――だから、ありがとう、坊や」
そこにあるのはきっと、親としての後悔の思い。
「嫌だなぁ、僕は何もしてませんよ」
宗次郎は謙遜するように笑う。宗次郎自身、由美から礼を言われるようなことを、真由と真美にしたつもりはない。宗次郎がしたのは、ただ彼らの思いに応えたことだけ。
けれどその思いを受けてくれたことが、由美は嬉しく思ったのだろう。
どういう原理かは知らないが、あの世からでもこの世のことは幾らか見えるらしい。
「心配なんざいらねェ。あいつらは俺のガキだ。俺らがいなくたって逞しく生きるだろうよ」
事も無げに志々雄は言ってのけたが、その裏にはやはり、剣心が言っていたような親としての情があるのだろうか。それともやはり突き放しているだけなのか。実際本人に会っても宗次郎には良く分からなかったが、何となく、前者のような気もしないでもない。
色々と宗次郎が思案していると、志々雄の目がフッと真剣に窄められた。
「宗次郎。そろそろ現世に帰りやがれ。あんまりここにいると、本当に死んじまうぜ」
「え、でも帰るなんてどうやって・・・・・」
その時。
宗次郎は声を聞いた。
頭の中に直接響いてくるような声。自分を呼ぶ声。



・・・・・・宗次郎君・・・・・・



―――呼んでいる。
彼女が、呼んでいる。
宗次郎にはそれが分かった。
その声に呼応するように、宗次郎は己の帰る場所のある方向が、不思議と分かるような気がした。
「さっさと帰んな。栄えある特攻部隊十本刀一の使い手が、あんな呆気ない死に方じゃ俺としても情けねぇ」
「あはは・・・・厳しいなぁ」
志々雄の酷評に、宗次郎は笑う。
自分を確かに呼ぶ声を聞きながら、宗次郎は改めて志々雄に向き直った。
そこに浮かぶのはただ笑顔。けれど、ただの無邪気な微笑ではなく。
「志々雄さん」
呼びかける宗次郎の脳裏に、志々雄と出逢った日からことがまざまざと思い出された。それはまさに走馬灯のように。
志々雄の圧倒的な強さ。初めて己の境遇を他人に語ったこと。差し出された脇差と、弱肉強食の言葉。血。雨。死んだ義理の家族。
剣の修行の日々。要人暗殺の日々。血に染まる手と、良くやったと褒めてくれた言葉。
強ければ生き、弱ければ死ぬ。強くなりたかった。強く、なりたかった。
その思いが、今の自分の始まり。全ての始まり。
「志々雄さん。僕が見い出した真実は、志々雄さんの真実とはちょっと違っちゃいましたけど、それでも―――
あの日志々雄さんに会わなければ良かった、なんて、僕は考えたこと無いですから」
言葉の終わる頃にはにっこりと微笑んで、真っ直ぐに見据えてきた宗次郎に志々雄はほんの一瞬だけ真顔になる。
そうしてその表情を打ち消すかのように、志々雄はフッと笑んでこんなことを言う。
「ガキが一人前の口叩きやがって」
「ガキって・・・・酷いなぁ、志々雄さん、僕これでも二十八なんですよ」
子ども扱いされたことに宗次郎が笑って抗議の声を上げる。けれど志々雄は、やはり意味深に笑うだけだ。
「俺から見りゃあガキに違いねェ」
その言葉には二重の意味が込められていたのだろう。
お前がそのうち俺の歳を追い越そうがな、と、その後志々雄が付け足したことで、宗次郎はその意に気付きはしなかったが。
「宗。もう行きな。本当に帰れなくなっちまうぜ」
不意に、志々雄が真剣な顔になったので、実際言葉通りなのだろうと宗次郎も頷く。元気でね、と、由美があの時と同じように言った。
宗次郎は二人に、ぺこりと会釈をした。ややあって顔を上げた宗次郎は、今度は志々雄に、面と向かってこう言うことができた。そこに寂しげな笑みを浮かべて。
「・・・・さよなら、志々雄さん」
それは、決定的な決別だった。
宗次郎はそれだけを言うと、志々雄に背を向けて走り出した。一度経験した別れなのに、どうしてだか涙が込み上げてきた。
それでも宗次郎は振り向かずに自分を呼ぶ声が導く方向へ走り続けた。やがてその姿は、地獄の空を覆う霧に溶け込むようにして遠くなっていった。
生きるべき世へと帰っていく宗次郎を志々雄と由美は見送っていた。遠くなったその後ろ姿に、志々雄がしみじみと呟いた。
「ガキってのはいつの間にか、でかくなっちまうもんだな」
「あら、志々雄様。もしかして寂しいんですか?」
志々雄の声色を聞いて、由美が揶揄するように尋ねる。尋ねながらも、由美もどこかそんな思いがあるのだ。宗次郎が変わったことを、嬉しく思うような寂しく思うような、そんな気持ちが。
けれど彼女の湿っぽい感傷を否定するように、志々雄は一笑に付して答えた。
「フッ・・・・・馬鹿言え」
それで、志々雄もようやく、宗次郎の去って行った方へと背を向けた。再び髑髏の山を、彼の仲間と共に踏み越えて行く。
彼もまた、自分の信念を貫き通すために―――。












「・・・・あれ、ここって・・・・・」
宗次郎が次に目を覚ましたのは、布団の上だった。
やはり目を幾度か瞬いて、板の張った天井にここが室内であることを確認する。本当なら起き上がりたいところだったが、体中の痛みがそれの邪魔をした。全身の傷はどうやらきちんと手当てがしてあるようで、白く清潔な包帯が巻かれている。
宗次郎はもう一度瞬く。今の地獄の風景は、夢、だったんだろうか。それとも。
考えながら、宗次郎は目だけできょろきょろと辺りを見る。そうしてようやく気が付いた。どうしてすぐに気が付かなかったのだろう。
宗次郎から見て右側、布団の脇にいる驚いたような顔をしていると、宗次郎は目が合った。
は声が出ないのか、ただ口をぱくぱくさせている。その瞳の下には色濃い隈が浮かび、愛らしい顔はすっかりやつれていた。
だがそれでも、宗次郎が思っていたように、怪我は無かったようだった。
「・・・おはようございます、さん」
生身の体で久々に声を出した弊害か、声は幾らか掠れていた。それを聞いたがびくっと震えるのが分かった。酷く顔を強張らせている。蘇芳に捕らわれていた時よりもずっと、憔悴しきった顔だ。
果たしてあれから幾日経っているのか。
そんなの顔を見て、宗次郎は大人しく寝てはいられず、ゆっくりと身を起こした。その拍子にあちこちが痛んだけれど、手当ても良かったのか、どうにか一人で起き上がれそうだった。
目に入った和室に、ここが葵屋の一室であることを宗次郎は知る。あの後どうにかして帰ってきたらしい。今ここにいるのは一人で、剣心達の姿は見当たらないが。
流石に立ち上がるのは無理そうだったので、宗次郎は布団から半身を起こした姿勢で、今度こそににっこりと笑ってみせた。
「あ、あ・・・・」
はやはり声にならないようだった。ただ瞳を歪ませ、声を震わせ宗次郎を凝視している。
「御心配おかけして、すみません」
何だか彼女にはこの台詞ばかり言っているような気がする。
宗次郎はそんな風にも思ったが、他にかけるべき言葉が見当たらなかった。
とりあえずにこにこと笑っていると、の手がおずおずと宗次郎に伸ばされてきた。
「宗、次郎君・・・・」
まるで宗次郎の存在が確かにここにあることを確かめるかのように、その手は宗次郎の両肩に置かれた。
包帯越しだから感覚が薄れている筈なのに、彼女の手の震えが伝わってきた。すぐ目の前にあるの顔は、もう既に涙目だった。
宗次郎はにこにこと笑っているのに、はぽろぽろと涙を流す。その顔が、酷く辛そうに俯かれた。
どうしたんだろう、と宗次郎は疑問符を浮かべる。
「ごめん、ごめんね、宗次郎君・・・・」
の第一声は謝罪だった。
俯いた顔から零れ落ちる涙は宗次郎の手の上に雨のように降ってきた。水のような液体で、雨のよう、なのに、どうして涙は温かいのだろう。
「本当にごめんなさい、私の、私のせいで・・・・・」
のその言葉に、宗次郎はようやく彼女の涙の理由が分かった。
彼女はきっと、宗次郎が死にかける怪我を負ったのは自分のせいだと、ずっと己を責めてきたのだろう。宗次郎には、を責める気は毛頭無いというのに、それなのに彼女は自分で自分を責めている。
さんが謝る必要ないですよ。これ、さんが手当てしてくれたんでしょう? 僕のこと、助けてくれたんじゃないですか」
「で、でも・・・・」
顔を上げたは、宗次郎の穏やかな口調に却って申し訳無いとでもいうように小さく首を振る。
そんなの両の腕辺りに、宗次郎の手が無意識のうちに伸ばされた。の震えを落ち着かせるように、宗次郎の掌はそこに触れる。
彼女に、これ以上そんな顔をして欲しくなかったのだ。
さんてば。もういいじゃないですか、僕もさんも助かったんだし」
にこっと、宗次郎は笑った。そうすることで彼女も笑うことができたなら、それでどんなにか良かったのだろう。
けれどは、ますます目元を歪めたのだ。
あれ、と驚いていると、はその肩に置いていた手を滑らせるようにして、宗次郎に抱きついてきた。宗次郎の背を巻きしめて、丁度右肩の辺りに顔を埋めて。
突然の状況に、宗次郎の思考が付いていかない。
「え、えーと、さん?」
らしくなく吃りながら宗次郎はの名を呼ぶ。何だか良く分からないが気分が落ち着かない。
とりあえず、行き場の無くなったこの手をどうしたらいいだろう。
「本当にごめん、宗次郎君・・・・」
「だからそれは、もういいですってば」
肩の辺りに顔を押し付けたまま、くぐもった声で再度謝るを、宗次郎はやんわりと宥める。
するとは、しゃくり上げながらもこう続けた。
「何度呼び掛けても目を覚まさないから、もう駄目かと思っ・・・・」
そのまま、啜り泣く。
彼女はずっと、恐れ続けたに違いない、宗次郎の命が失われることを。
けれど、だからこそ、この世に留めようとした。
あぁ、と宗次郎は思う。
死の淵にある自分を呼び起こし続けたのは、やはりこの少女だったのだ。
「でも、宗次郎君が生きてて、良かった・・・・・」
の目からまた涙が一つ零れ落ちた。それは、ずっと続いていた不安がようやく安堵に変わったからこそ流れたもの。宗次郎が生きていて良かったと、本当に良かったと、以前よりもずっと強い思いがただの胸の内を占める。
ぎゅっとの腕の力が強められた。宗次郎の命があることを確認するように、感謝するように、何より嬉しく思うように。
全身で、は宗次郎の命を受け止めた。それは蘇芳との闘いを終えた時よりもなお強く、宗次郎の心をもまた震わせる。まるで、心の奥の氷を溶かし、その中の蒼い炎を鎮めるような、そんな不思議な心地良さ。
生きている。
自分を抱きしめるの温もりに、宗次郎は今度は紛れもない自分自身の生があることを実感する。自分に命があることの慶びを、宗次郎はこの時真に理解した。
生きている。当たり前のようで、なんて有り難いことなのだろう。生きている。ただそれだけでどれだけ多くのものを得たのだろう―――。
そうして宗次郎は、今まで知らなかったことをまた一つ知った。誰かに思い切り抱きしめて貰うこと。肌の温みに包まれること。母親以外にそうして貰えなかったからこそ余計に、宗次郎はそれが、どれだけ心地良いものか知った。
この、人の温もりが与える安堵感を。
何と言葉にすればいいのだろう。
「・・・・さん」
陽だまりのような温もりに触れた宗次郎は、小さく笑ってその少女の名を呼んだ。宗次郎が生きていたことに感極まっている少女は、宗次郎の体を未だ離さないままでただ顔だけを上げる。
「え、何?」
「あの、ちょっと痛いんですけど・・・・・」
宗次郎は力無く笑う。
は感極まる余り、宗次郎を強く抱きしめ過ぎていたらしい。輪郭のはっきりとした嬉しいという感情を通り越して、最早痛みが全身を支配し出したので、宗次郎は思わずそう口にしていた。
「!! ごめんっ!!」
控えめに訴えてきた宗次郎に、もハッと我に返る。顔を真っ赤にして慌てて宗次郎から離れた。
どぎまぎしているの姿に宗次郎はくすくすと小さく笑う。果たしてこの少女は繊細なのやら大胆なのやら。そしてそのせわしない感情の動きが彩る彼女の様々な表情から、何となく目が離せないんだよなぁと宗次郎はそんなことを思う。
「で、でも良かったよ、ホント、宗次郎君が無事で」
胸に手を当てて動揺を鎮めるようにしながら、は再びそんな風に話題を切り出す。
「お兄ちゃんも、緋村さんも明神さんも、みんな心配してたんだよ」
「え、浅葱さんももしかして葵屋にいるんですか?」
意識を失っている間にいつの間にかそんなことになっていたようで、宗次郎は驚く。
「翁さんが、京都まで呼んで下さったの。お兄ちゃんがいなかったら、きっと私、冷静に処置できなかったな・・・・」
沈んだ笑顔を浮かべながら、は小さく呟いた。
その表情の理由は分からないが、自分の手当てはだけがやったわけではないらしい。
「そっか。僕、浅葱さんにも助けて貰ったんだ」
いつも冷静で、たまに皮肉を口にしながらも、何だかんだで妹と同じく心配性な浅葱の姿を宗次郎は思い浮かべる。
翁に、浅葱にも今回の件を伝えるように計らいはしたが、その甲斐あって彼もまた京都へと着てくれた。宗次郎の命を救うために尽力してくれた。
それが分かったから、宗次郎の胸にまた何か温かいものが灯る。
「そう。本当に、危ないところだったんだ。何日も意識が戻らなくて。宗次郎君がこのまま死んじゃったらどうしようって、そればっかり考えちゃって・・・・」
は申し訳無さそうな笑みを浮かべる。宗次郎が臨死の状態にずっとあったからこそ、尚更彼の生還が彼女には嬉しかったのだろう。
しんみりと、もう一度言う。
「でも、良かった、本当に・・・・」
「本当は本当に死にかけてたみたいだったんですけどね。志々雄さんに追い返されちゃいました」
「・・・・・!?」
宗次郎の突然の発言には目を見開く。
その人物は、宗次郎にとって、大きな重みを持つ存在。彼の言葉の数々からそれが感じられる程。志々雄の名前は幾度も聞いたことがあるし、既に故人ということも知っている。しかし。
追い返されたとは一体どういうことか。
驚愕するを尻目に、宗次郎は更に軽い調子で続ける。幾分話を飛躍させて。
「あぁそうだ。さん、やっぱり蘇芳さんと鈴さん、まだ生きてるかもしれませんよ」
「えっ?」
「だって、二人とも地獄にいなかったんですもの」
「・・・・はい?」
聞き返すの頭の中は、既に疑問符でいっぱいだろう。目を白黒させるに、宗次郎は思わず、くすくすと笑みを漏らす。
けれど実際、蘇芳と鈴はいなかったのだ。あの地獄には。もしあれが、夢なのでなければ。けれどもしかしたら、瀕死の自分が見ていた都合の良い夢だったのではないかと、そんな風にも考えられる。
しかし宗次郎には、先程の体験が決してただの夢ではないということが、思えてならなかった。うまくは言えないが。
志々雄は相変わらずの存在感があったし、会話した言葉も、はっきりと覚えている。
「よ、良く分からないけど、夢でも見たの?」
「まぁ、そんなところです」
とりあえず宗次郎はそう言ってお茶を濁した。
にこにこと笑う宗次郎の姿に、にもようやく安心感が落ち着いたのか、表情に明るさを取り戻す。突拍子も無い宗次郎の発言が逆に、彼が戻ってきたことを再認識させるようで。
「そっか。本当に、そうだといいね」
宗次郎の返事を肯定し、はスッと立ち上がり、襖に手をかけた。
「私、お兄ちゃん達に知らせてくるね!」
が廊下に出た後、小走りに去っていくその足音を聞きながら、彼女が今度は大勢の人間を連れて戻ってくるのに、そんなに時間はかからないような気がした。
宗次郎の目が覚めたことに、皆きっと大騒ぎするのだろう。そんな光景を思い浮かべて、宗次郎は小さく微笑んだ。
そうして、その束の間のしばしの静寂の時間、宗次郎は目を閉じて、懐かしい人に思いを馳せた。
今も耳に残る、力強い声。
―――せいぜい足掻きながら手前の人生を最後まで生き延びてみせな。
(志々雄さん。僕、当分はこっちで頑張ってみますね)