―第三十八章:あなたに死んで欲しくなかった(前編)―



しばしその場で呆然と立ち尽くしていた一同は、ぱちぱちと何かの爆ぜるような音と、天井から降ってくる火の粉にハッと危機感を取り戻す。この和室はもう四方に炎が広がり、その先の廊下にも火の手が伸びていた。
加えて白い煙がもうもうと上がり、それは宗次郎達の呼吸の邪魔をする。煙が喉を刺激したことで宗次郎は咳き込む。思わずまた煙を吸い込んでしまい、宗次郎は余計に息苦しくなる。
「大丈夫かよ、オイ!?」
膝を折りかけた宗次郎を弥彦は慌てて支える。このままぐずぐずしていては、炎に呑まれるばかりか一番損傷の激しい宗次郎の体力がますます減るばかりだ。最早、脱出に一刻の猶予も無い。
「さっさとここから出よーぜ!」
「確かに、のんびりしてる時間は無さそうですね。・・・・っ」
再び咳き込む宗次郎に、弥彦はじれったそうに叱咤する。
「無理に喋ろうとすんなよ! お前が一番重傷なんだから」
「あはは・・・・そうかも」
それでも宗次郎はにこにこと笑っているものだから、弥彦は呆れるようなむず痒いような気持ちになると同時に、或いはやっぱこいつある意味大物だぜと変な関心をしてしまったりする。
火の勢いはますます激しくなるばかりで、辺りを包み込む熱気は夏の蒸し暑い陽気とは比べ物にならない。壁や畳から上がる煙は視界をも白く覆う。煙が目に沁みて、生理的な涙が滲む。
「オイ剣心、大丈夫かよ!? そのって子も・・・・」
「ああ、大丈夫でござる」
廊下の方へ足を向けながら、背後を振り返って弥彦は声を上げる。白煙をかき分けるようにして、剣心と彼に腕を引かれたが姿を表した。は鈴の行動に依然、戸惑ったままのようで目が虚ろである。
と鈴との間に何があったのかを宗次郎は知らなかったが、その態度を見れば彼女らの間に何かしらの交流があったことは確かなようだった。だからこそは衝撃を受けているのに違いなかったが、宗次郎はやんわりと笑んで、こう言った。
「まだ蘇芳さんや鈴さんが死んだって決まったわけじゃないですよ。執念深い蘇芳さんのことだから、あの闘場に脱出路とかあってもおかしくないと思うんですよね。今頃二人とも、まんまと脱出してたりして」
若干の方便も交じってはいたが、宗次郎はそんな風にも考えられるように思えた。あの蘇芳にしてみれば、引き際があっさりし過ぎている。鈴のあの振る舞いも、或いは自分達の目を欺くための巧妙なハッタリだったのではないだろうか、とも。
勿論、蘇芳や鈴の覚悟を決めたような態度を思い起こせば、幾ら何でもこれは事態を楽観視し過ぎているような気もする。鈴のあの躊躇いも無かった姿が、まさにそれを物語っている。そして彼や彼女が語った再会の約束の方こそが、自分達を欺いていた可能性が高い。
けれど意気消沈したに対し、宗次郎はあくまでも自分の考えの一つとして、ぽんと口にしてみた。
それに流石に素直に納得したわけではないのだろうが、には多少の気休めにはなったらしい。「そうかもしれないね」とは小さく頷いて、それで何とか剣心の手を借りずとも、自分から歩き出すことができた。
炎上する和室を後にして、宗次郎達は廊下を急ぐ。襖を勢いよく開いて立ち去る側から、噴出す炎が後ろから迫ってくる。それにしても火の回りが早い。或いは蘇芳はこうなることを見越して、表屋敷の方にも火薬のようなものを仕込んでいたのか。
それでも玄関に着く頃には追いかけてくる炎熱の脅威は大分衰え、どうにか一同は炎に巻かれる前にその屋敷から抜け出すことに成功した。開け放たれた玄関の戸から飛び出すように出てきた宗次郎達は、そのまま屋敷前に広がる砂利の敷き詰められた前庭を数歩歩いて、振り向いた。
一階の奥の和室の天井から火が伝わったのだろう、二階も赤々と燃えていた。屋敷を包み込む炎はごうごうと唸り声を上げている。
揺らめく炎と火花は夕闇の広がりつつある辺りを明るく照らし、周囲の木々に火が燃え広がるのも時間の問題のように思えた。
「これ、下手したら山火事になるんじゃ・・・・」
あはは、と力無く笑いながら宗次郎は呟く。弥彦も概ね同意しながら、
「全く辺りに人気がねェってわけじゃねェし、これだけの騒ぎになればそのうち消火活動だって始まるだろ」
現に、炎と煙を上げる蘇芳の屋敷を遠巻きに見ている野次馬の姿が道の向こうにちらほらと窺える。蘇芳の闘場に滝が見えたことから、川や地下水といった類のものも存在するだろうし、燃える媒介が無くなれば火も自然と収まるだろう。
「けど、せめて延焼くらいは防がねーとな」
悪ィな、と宗次郎に呟いた弥彦は己の肩にかけられた血塗れの腕をそっと外すと、逆刃刀を手に屋敷の方へと向かっていく。多少、足元がふらついたが、宗次郎はまだ一人で立つことくらいはできた。そのまま、弥彦が今からしようとしていることへと宗次郎は目を向ける。
弥彦は逆刃刀を抜刀すると、その逆刃を返し屋敷の側にある木を斬り倒し始めた。とりあえずは屋敷からすぐに燃え移りそうな可能性のある分だけを。自分達の具合を考慮すれば、宗次郎という重傷者がいる以上、いつまでもここに残って消火活動に参加する余裕は無さそうだった。事態を引き起こしておいて面目無いが。
ならばせめて、被害を最小限に留める努力をしよう、そう思ったが故の弥彦のこの行動だった。
「ま、ざっとこんなもんだろ」
そう言って弥彦が一息つく頃には、屋敷の周囲二間程に生えていた木は全て斬り倒されていた。せっかくの美しい紅葉の木を伐採してしまうことに気後れしないでも無い弥彦だったが、状況が状況なのでこの自然破壊も止むを得ない。
少なくとも、何もしないのよりはマシだ。
「すまぬな、弥彦」
申し訳無さそうに笑む剣心を弥彦はからからと笑い飛ばす。
「いーって。剣心は無理すんなよ。それより、剣心より無茶しやがった奴のこと、さっさと葵屋に戻って手当てしてやんなきゃな」
「誰のことです、それ」
そう言って宗次郎は苦笑する。少し動いた拍子に走った痛みにぎこちなく身を強張らせた宗次郎に、弥彦はそれ見ろと悪戯っぽく笑う。ただしそこに流れる空気に悪意は無く、むしろ親しみに満ちている。
もふっと微笑んだ。笑みを交わし合う彼らに、本当に三人とも無事で良かったと、改めて安堵せずにはいられない。
そうして四人は、屋敷から遠ざかろうとした。今度こそ帰路に着くべく、宗次郎達は未だ炎を上げる屋敷に背を向けてしまった。それは、この燃え盛る屋敷から無事に脱出することができたということから生じた、ほんの僅かな気の緩みだった。
その瞬間、炎によって二階の瓦屋根が弾け飛び、その勢いのままに幾つかの瓦が落下した。それも丁度、を目掛けて―――。
さ・・・・)
音に気付いて振り向いた時には遅かった。天衣を抜刀して払い除けることも、を連れてその場から退避することも不可能な程、その危険はのすぐ側まで迫ってきていた。そこまでの体力も無かった。
彼女をその落下する瓦から守る手段は一つだけだった。けれどその時の宗次郎には、を守ろうとする意思が働く間すら無く。
ただ、が危ないと思った瞬間、考えるよりも先に体が勝手に動いた、まさにそうとしか表現できない咄嗟の判断で宗次郎は。
を思いっきり、突き飛ばしていた。
「・・・・・!!」
は最初、何が起きたか分からなかった。
宗次郎に突然体当たりされ、その拍子に目を思わず瞑ってしまった。真っ暗な視界の中で、他の感覚器が捉えたのは、地面に腰を強かに撃ちつけた衝撃と、がしゃん、と瀬戸物が割れるような音。それも、出来損ないの瀬戸物を地面にわざと叩きつけた時のような小気味良い音ではなくて、何か柔らかい物にぶつかって割れた時のような、鈍い嫌な音。
それではすぐにハッと目を開けた。目を瞑る前とはあまりにも違う光景がそこにあった。
へたり込んだの膝の先で、その彼女に手を伸ばすような体勢で宗次郎がうつ伏せに倒れていた。瞳を閉じ、瞼を縁取る長い睫毛はぴくりとも動くこと無く、まるで幼子が眠っている時のような無邪気な表情を宗次郎はその面に浮かべている。
さらりとした散切りの髪は乱れ、脳天から滑り落ちるように割れた瓦が寄りかかっている。細かい破片がその周りの髪の毛に絡み付いていた。
はすぐに、その事態を飲み込めなかった。ただ頭の中がすうっと信じられないくらいに冷え、胸の奥に鉛を飲み込んだような感覚だけがあった。
宗次郎が目の前で倒れているのは見えているのに、何も考えられなかった。何も、考えられなかった。
「・・・・宗次郎!」
と同じようにほんの一瞬だけ金縛りになっていたのであろう剣心と弥彦が、その硬直を解いて宗次郎の側に膝をついた。
彼らが宗次郎の肩を軽く叩いてその意識があるかどうかを確かめようとしている姿を見た時、ようやくの中に意識が戻ってきた。緩やかに、それでいて急速に。
「あ・・・あ・・・・・・・」
小さく声を漏らして、は震える手を宗次郎に伸ばした。まずは宗次郎の後頭部にぶつかったのであろう瓦をそっと押し退ける。炎の熱で熱くなっていたはずなのだが、どうしてだかの手にその感触はなかった。
そのままそっと髪の毛に触れる。カタカタと手を震わせながらもは怪我の場所を探ろうとした。
まずはその箇所を調べなくては。医師としての意識のみがの手をようやく動かさせる。皮膚が盛り上がったりはしていないようだから瘤はできていないようだが、の指が頭を撫でても宗次郎の反応は無い。何も無い。
さっとの顔から血の気が引いた。更に頭の中が冷えたことで、の意識は今度こそ、はっきりと彼女に戻ってきた。
「宗次郎君・・・・宗次郎君!!」
頭を揺らさないようにして、は宗次郎の肩に手を当てて耳元で必死に呼びかける。
宗次郎は私を庇ってその代わりに瓦の直撃を受けたのだ、とはようやく認識した。果たして彼があの一瞬でそこまで思っていたかどうかはともかく、少なくとも宗次郎がを突き飛ばしていなければ、このような事態にはならなかった。
つ、と頭の表面を伝った血が宗次郎の額から流れ落ちた。はなおも宗次郎に呼びかけるが、宗次郎の意識は戻らない。呼吸をしていることから、何とか彼が生きているということだけは分かるものの。
「チッ・・・・悠長にここで手当てしてる暇は無さそうだぜ」
周囲を見渡して、弥彦が小さく舌打ちする。恐らくは辺りの別荘地にいる人達なのだろう、有志による消火隊と思しき連中が、どやどやとこちらへと続く道を歩いてくるのが見えた。このままこの場に留まっていては、厄介なことになるのに間違いない。
「止むを得ん、とりあえずこの場から離れよう」
剣心の提案に弥彦も頷く。宗次郎は頭を強く打っているので、その頭を揺らさないようや剣心も手を貸しながら、弥彦の背に背負わせる。しがみ付くこともできない宗次郎の手が、力無くぶら下がった。
は今すぐにでも泣きたいような気持ちだった。
(何で・・・・・どうしてこんなことに・・・)
この事態を引き起こした一端が自分にもあるので、は悔やんでも悔やみきれなかった。
けれど、今ここで泣いても何にもならない。状況は何も好転しない。
たとえどんなに泣きたくても我慢しなくては。耐えなくては。唇が意志とは無関係に震えて、喉の奥がじりじりと痛むように苦しくても。目頭が炎の熱のせいではなく、瞬きをするのも憚れるほど熱くなっても。
泣くわけにはいかない。何としてでも、宗次郎を助けなければ。助けなければ!
殿。宗次郎の手当てを頼むでござる」
「は、はい。もしサラシか手拭いの類があったら貸して下さい。ひとまず止血をします。それから―――」
急ぎ足で蘇芳の屋敷前から去りながら、は剣心とそんな会話を交わす。
そう極めて冷静に努めようとする意識とは裏腹に、の頭はどうしようもなく空虚だった。口からは確かに言葉が出てくるのに、まるでそれは自分の言葉で無いかのような、奇妙な感覚。
頭の一部にこの状況を飲み込めない部分があって、それが意識全体を麻痺させ思考を鈍らせているような、そんな感覚。
(・・・・ッ、しっかりしなきゃ! 冷静にならなきゃ・・・・!)
自分でもそれを何となく認識して、はそんな霞がかった頭を覚醒させるようにぶんぶんと首を振った。
蘇芳の屋敷があった場所から半刻程下って着いた坂道の麓、丁度ぽっかりと木立が失せ人一人寝かせられるくらいの空間のあるその場所に、弥彦と剣心にそっと宗次郎を横たわらせて貰ったところで、はキッと目を吊り上げる。弥彦の逆刃刀を借りて、剣心から貰った手拭いを細く裂くと、それを包帯代わりにしてまずは宗次郎の頭から流れる血を止める。そして―――。
(必ず、助けてみせるから―――)
その思いを新たに、は宗次郎の手当てに臨む。宗次郎はまだ瞳を閉じたままだった。
夕陽はすっかり、空から姿を消していた。














「・・・遅いのう」
漆黒の夜空の下、顎鬚を扱きながら翁がぼんやりと呟く。
その隣では操がやはり心配顔で、眠気と闘いながら宗次郎達の帰りを待ちつつもやはり寝入ってしまった翠を抱き抱えながら、所在なさげにうろうろしている。
何を考えているか分からないような相変わらずの無表情で、蒼紫は葵屋の前に出された長い腰掛にどっしりと座っている。ただしその眼光はどこまでも鋭い。
翠と同じく眠気に負けそうになりながらも、意地で立っている剣路はカッと目を見開いて暗がりの先の道を凝視している。そのまだ小さな肩を支えるようにして、母の薫。やはり顔は憂いを帯びている。
宗次郎達が闘いに赴いた後、葵屋の者達もただ安穏と彼らの帰りを待っていたわけではなかった。蘇芳一派の急襲に備え、葵屋やその周辺を警戒していたのだ。実際は蘇芳側にはそんな目論見は無かったため徒労に終わりはしたが、夜も更けた今でもこうして彼らは宗次郎達の帰還を信じ待ち続けている。
そうしてその人物は、もう一人―――。
「はい、浅葱さん、お茶です」
「ああ。ありがとう」
皆の緊張を解すために、増やお近が甲斐甲斐しく熱い茶を配り回っている。その湯飲みの一つを受け取って、浅葱は強張った頬を少しだけ緩めた。
の兄である浅葱は本当につい先程、増と白尉と共に葵屋に到着していた。静岡から京都までの急ぎの旅路で浅葱もまた疲弊していたが(けれどもそれはやはり唯一の肉親であるが蘇芳に連れ去られたという心労と、その蘇芳との闘いに赴いた宗次郎達のこともまた気掛かりだという点に因るところが大きい)、時刻は深夜を回っても彼もまた休むこと無く、ただ葵屋の玄関横の格子窓に背をつけて立っている。
浅葱は静岡で増と白尉から事の成り行きを聞いた他、葵屋に到着してからも京都での宗次郎についての出来事は既に翁達から話は伝わっていた。
危険の渦中にいる妹と宗次郎らのことを思えば、本当は浅葱もすぐにでも蘇芳のいる本拠地へ乗り込みたかったところだったのだが、それは翁に止められた。きっと彼らは帰ってくる。だから信じて待つべきだ、と。
それでも募る焦りを鎮めるように、浅葱は茶を少し口に含んだ。苦くも温かい液体が渇いた喉を潤し、すうっと胃の中へと吸い込まれていく。腹の奥から伝わる熱さは、夜風で冷え切っていた体を温める。
「すまんのう。君も、妹や瀬田君のことが心配なんじゃろうが・・・」
高い老人の声がふと右横から聞こえ、浅葱は反射的にそちらへと目を向ける。いつの間にか隣に来ていた翁が、本当にすまないといった風な顔付きで浅葱を見ている。
翁が何に対して謝っているのかに気付いた浅葱は、それに小さく笑みを返す。
「いえ、翁さん達が俺の身のことも案じて引き止めて下さったことは良く分かってます。俺も一度は蘇芳って奴に間接的とはいえ人質になった身。それが今京都にいることが知れたら、蘇芳にまた利用されないとも限らない。もう決戦を迎えたからにはその可能性は低いとはいえ・・・・それでも用心するのに越したことは無い」
理路整然と語る浅葱に翁は頷く。浅葱をこの場に留まらせたのは宗次郎達との行き違いを避けるためでもあったが、彼が語ったように蘇芳による再度の介入を避けるためでもある。浅葱の想像通り、可能性としては高くないのかもしれなかったが、それでも万が一ということもある。
も、どんな手で奴に利用されてるのか・・・・宗次郎もそれで、不利な状況に陥ってなきゃいいんだが・・・・」
闇夜に浅葱の押し殺した憤りの声はしんと響き、いつの間にかその場の全員の視線がそちらへと向く。自分に視線が集まっていることに気付いた浅葱は、僅かに俯いていた顔を上げた。
皆があまりに険しい顔をしていたものだから、浅葱は逆に心が静まり、ふっと笑ってこんなことを言う。
「・・・・大丈夫。宗次郎は、きっと無事に帰ってくるさ。あいつはそう簡単に死ぬような奴じゃない」
浅葱の脳裏に浮かぶのは、明るい声を上げて笑う宗次郎の姿。
宗次郎は不思議な人間だった。自分より年上の癖にとてもそうは見えなくて、むしろ手のかかる弟といった風な感じなのに、時折ふっと真剣な表情を覗かせる。刀を持つと普段の飄々とした姿からは想像もつかない程強くて、そんな時はやはり自分よりも長く、そして様々な経験を経ながらこの世で生きてきたことを感じさせた。決してそれは平坦な道ではなかっただろう、恐らくは。
それでもいつも宗次郎はにこにこと笑う。その穏やかな微笑みに、浅葱ももどれだけ心に平穏を浮かべられたことか知れない。
宗次郎はだけでなく浅葱にも、また静岡のあの場所へと戻ってくることを約束した。いつもの笑顔で、しっかりと頷いて。だから必ず帰ってくる。
浅葱は己の制御しきれぬところで震えを止めない手をぎゅっと握り込んで、心の中で再び、今まで幾度となく繰り返していた言葉を呟いた。
あいつが、そう簡単に死ぬわけが無い。あいつが―――。
「・・・・あッ!!」
不意に、何かに気付いたような声を剣路が上げた。一同はハッと一斉にそちらを見る。
剣路の指差す先には、遠く闇に紛れて、けれども確かに幾つかの人影。目を凝らし、それを確認した浅葱は、葵屋に寄りかかっていた背を慌てて離した。
周辺の家々が静かに寝静まっている中、それでも室内で煌々と灯を灯し続けていた葵屋の窓から零れた光が、その人影の姿を浮かび上がらせた。力無くとぼとぼと歩いている、見慣れたその小さな姿をはっきりと目にした時、浅葱は思わず飛び出していた。
向こうもそれに気付いたのだろう。その小さな影もまた走り出した。肩までの髪をふわふわと揺らしながら駆け寄ってきたのはやはり、浅葱にとってただ一人の妹、だった。
っ!」
「お兄ちゃん・・・!」
何故、兄が京都に、という疑問が無いわけではなかったろうが、もまたたった一人の肉親との再会に、喜びや安堵といった感情に任せるままに浅葱の元へと駆けてきた。
不安でいっぱいという顔をしたの肩を、浅葱は優しく受け止める。一体何があったのだろう、の顔には涙を流した跡が見られ、顔も着物も煤けて汚れている。
それでもは生きていた。縋りつくように袖の着物を掴むの仕草に浅葱もまた胸がいっぱいになり、やっとの思いで言葉を吐き出した。
・・・無事で良かった・・・」
「お兄ちゃん・・・・」
絞り出すように声を発した兄の姿に、は何故か哀しげに瞳を潤ませる。それを疑問に思った浅葱は、僅かに首を傾ける。
は兄に助けを請うように、ぎゅっと眉根を寄せた。震えの止まぬ手で、浅葱の腕を痛いくらいに掴んできた。
「お兄ちゃん、どうしよう、宗次郎君が・・・・」
「・・・・え?」
その言葉に浅葱はハッとの後ろを見遣る。
どうして、先程は気が付かなかったのだろう。と歩いていた人影は三つではなく、二つだったということに。
それは翁や操達から話を聞いていたおかげで分かっていた、緋村剣心と明神弥彦という二人の人物のもので―――そして教えて貰った特徴に当てはめれば恐らく弥彦の方だと思われる青年に、宗次郎はぐったりとしたまま、背負われていた。
「瀬田!?」
それに真っ先に反応したのは操だった。翠を抱えたまま慌てて弥彦に駆け寄ると、その背にいる宗次郎に大声で呼びかける。
「あんた、一体どうしたのよ? しっかりしなさいよ!」
宗次郎は硬く目を閉じたままで何の反応も無い。弥彦と剣心も沈痛そうな面持ちで目を伏せた。
満身創痍の宗次郎に浅葱も顔色を変え、と共にその側へと寄る。傷だらけで意識を失っている宗次郎を見て、頭と胸にちりちりとした感覚を奔られながらも、浅葱は冷静に宗次郎の全身の怪我の様子を観察する。
右脇腹と背中の刀傷、左肩の火傷に加え、細かく腕や腹部に刻まれた傷。恐らくはの手当てによって今は止血してあるが、着物を染める血の範囲からして、相当出血したのに違いない。
何よりも、頭に巻かれた手拭いの包帯と、それに滲む赤い色。着物を染めているものと比べ、色が鮮やか過ぎる。宗次郎の水色の着物や白いシャツに染み付いた血は、ほとんど褐色に変化しつつある、つまり、頭のそれが最も新しい傷というわけだ。
ぐったりしている宗次郎の姿から判断すれば、これは頭を打っていると見て良さそうだが―――。
「・・・私のせいなの」
俯いたがぽつりとそう言った。
「闘いは勝ったのに、屋敷から脱出する時に宗次郎君、私を庇って・・・・」
わなわなと、その肩が震えた。涙声での絞り出すような言葉の語尾は、徐々にに小さくなって消えた。
堪えきれない、といった風に顔を上げたは、再び浅葱の袖を掴んで引っ張った。
「ねえ、お兄ちゃんどうしよう!? 私の、私のせいで宗次郎君が・・・・! ずっと意識を取り戻さないの、もう私、どうしたらいいのか・・・・・っ!」
悔恨と混乱のあまり、は浅葱にすがるようにして問いかける。
が葵屋に到達する前に八方手を尽くしたということは、彼女の態度から見て取れる。それでもなお、宗次郎が目を覚まさないからこそ、剣心と弥彦もまた、沈んだ表情のままなのだろう。
帰還した四人と浅葱の周りを取り囲むようにして、薫や操といった面々も力無く立ち尽くしている。傷ついた宗次郎のために何かをしたいのに、何かをしなければいけないのにどうしたらいいのか分からない、まさにそんな風に。
浅葱もしばし呆然とに揺すられるがままになっていた。必死に泣くのを堪えている妹を痛ましく思いながら、次に目を閉じたままの宗次郎も改めて浅葱は見る。
宗次郎のあの数々の傷は、彼が己の道を通そうとしたというだけでなく、を蘇芳から救い出すために闘ったが故に負ったとも言える。剣術に疎い浅葱から見ても常人を遥かに超越した強さを持つ宗次郎が、これ程までの傷を負い、そして今まさに死の淵に立たされている。
『それじゃあ、行ってきます』と、あの日見送った宗次郎の笑顔と声はどこまでも明るかった。送る側も笑顔で送り出せたのは、いつもの擬似家族的な日常がまた後に戻ってくる筈だったからだ。それが永遠に失われることなど、浅葱は考えたくなかった。瀬田宗次郎というこの世でただ一人の存在が、失われてしまうことも。
妹の命を助けてくれたから、ただそれだけではない熱い思いが浅葱に猛然と湧き上がる。浅葱はキッと目を尖らせると、取り乱しているの肩をしっかと掴んだ。
「落ち着け、! お前がしっかりしないでどうするんだ!」
兄の叱咤にはきょとんと目を見開く。浅葱の瞳は、これまでに見たことも無いくらい真剣だった。
「宗次郎はこれくらいのことで死んだりしない・・・死なせたりなんかしない!」
今度は浅葱の方が、痛いくらいにの肩を掴んだ。
「俺達は医者だ。傷ついている人達を救うのが、医者の役目だろ!」
そこまで言って、浅葱は一つ息を吐いた。自分の方こそが冷静さを取り戻すように声を落ち着かせて、浅葱はに懸命に語りかける。
「なぁ、・・・俺達は今まで宗次郎に世話になってきた。だから今度は、俺達が宗次郎を助ける番だ。そんな時に、お前がしっかりしてなくてどうするんだ!」
兄の言葉にただじっと耳を傾けていたは、放心していたような瞳に再び力強い色を浮かばせて、こくん、と頷いた。浅葱の真剣な思いは、の失いかけていた自信を再び奮い立たせた。
は手の甲で涙を拭うと、兄に応えるような真っ直ぐな眼差しでもう一度頷いた。それで浅葱も頷き返すと、即座に視線を弥彦と剣心の方へと向けた。
「妹がお世話になりました。の兄で、浅葱と申します」
体も二人の方へと向き直ると浅葱は深く一礼する。そうしてそれすらもどかしいといった風にすぐさま顔を上げる。その眼光はどこまでも鋭い。
「挨拶も碌にしないままで申し訳ないが、時間が惜しい。このまま宗次郎を葵屋の中に運び入れて下さい。すぐに適切な傷の処置を行いたい」
きびきびとした浅葱の指示に弥彦と剣心は気を悪くする風でもなく、むしろ活路を見い出せたことに表情に覇気を取り戻す。
「ああ!」
「心得た」
返事をすると同時に、弥彦と剣心の二人は浅葱の言葉通りに宗次郎を葵屋の中へと運んだ。同時に、操と薫が即座に動き、玄関から一番近い和室に布団を敷き始める。増は浅葱が念のためと静岡から持ってきた医療道具を小さな行李から取り出し、蒼紫は湯や薬の類といった必要なものを聞き出すとすぐにその手配に取り掛かる。
浅葱とを中心として、宗次郎の治療が始まる。幼さを残すその顔立ちに今や生気は薄く、瞼もまた閉じられたまま。
(必ず、助けてみせる―――)
もうその思いはだけではなく。
京都中が闇に包まれながらも、たった一つの命を救うべく、葵屋の中はいつまでも灯りが灯されていた。