―第三十七章:答(後編)―



冷え始めた空気を切り裂くような音が、辺りにずっと木霊している。
余裕綽々の態度を払拭した蘇芳が宗次郎を鬼刃で狙い撃ちにするべく、刀を振るっている音だった。その表情は先程までより、よほど鬼気迫っている。
宗次郎の方もまた、笑みは浮かべながらも鋭い目付きで縮地の二歩手前で攻撃の機会を窺い続けているのだった。蘇芳に受けた背中の傷は元より、体のあちこちが痛んだが、不思議とそんなに痛みは気にならなかった。
自分の信念を新たにしたことで精神が肉体を凌駕している、或いはそんな風に表現できるのかもしれなかったが、宗次郎の場合、ただ単に傷の痛みを気にしないようにしているだけなのかもしれない。
「くっ!」
蘇芳が横薙ぎに鬼刃を振るう。豪快ながらも研ぎ澄まされた剣閃は、けれど宗次郎にかわされてしまう。その血の臭いを追って蘇芳は更に第二撃を繰り出すが、振り払うような天衣の動きの前に弾かれてしまう。
宗次郎はすぐさま刀を返し、蘇芳の左脇、肋骨を目掛けて打ちつけた。骨にひびの入ったような微細な感覚が手に伝わる。蘇芳もまた痛みに顔を歪めた。
「いつまでも、やられっぱなしじゃいられませんから!」
意趣返し、というわけではないが、宗次郎は不敵に笑むと間を置かずして刀の柄で蘇芳の鳩尾を突いた。ぐっと呻いた蘇芳はそのまま後退し膝を折りかける。
けれど俊足でその動きに追いついた宗次郎は、上段から蘇芳の左肩に向けて天衣を振り下ろした。
「ぐあっ・・・!」
肩の肉にめり込むような重い一撃に蘇芳は溜まらず声を上げる。だが目に力を込めキッと宗次郎を睨み付け、唸るような声で叫ぶ。
「調子に乗るのも、大概にしろ・・・・!」
踏み止まり、宗次郎の攻撃に耐えた蘇芳は下段から凄まじい速さで刃を振り上げる。宗次郎は咄嗟に後ろに飛び退いたが、腹部から胸にかけて縦に浅く赤い線が走る。衝撃でシャツのボタンが幾つか弾け飛んだ。
そのまま宗次郎は蘇芳の間合いから離れる。だが意外にも蘇芳は追ってこず、宗次郎の真正面に位置から動かない。
と、村正を両手持ちにした蘇芳は、冷徹な目線を宗次郎に向けた。怒りとも憤慨ともつかぬ複雑な表情がその面には見て取れる。
蘇芳はそのまま、手にした村正をすうと頭上まで高く持ち上げた。
「修羅に戻らなかったのはつくづく残念だが・・・・・やはり大した男だな、お前は」
やはり答えを出した人間は強いのか。たとえ、その答えが蘇芳にとっては、不本意なものであったとしても。
損傷は蓄積されている筈なのに格段に動きの良くなった宗次郎に、蘇芳も一つ覚悟を決めた。このまま消耗戦に縺れ込むよりも、次の一撃に全てを賭けようと。どちらが勝つにしろ、それでこそこの闘いの幕切れには相応しいと。
顔付きの変わった蘇芳に、宗次郎もふと動きを止める。
「だがお互いに、次で最後の一撃にしようじゃないか」
蘇芳の振り上げた刀身やその全身からは冷え冷えとした剣気が立ち上る。凍てつくような蘇芳の視線と、微動だにしない上段の構え。
それを目にした鈴が、ハッとしたように呟いた。
「あの構え・・・・。蘇芳さん、『絶鬼刃』を使う気だ・・・・!」
「ゼッキジン? 何だそりゃ」
その呟きを聞き止めて弥彦が問う。振り向いた鈴は、彼女にしては珍しく切迫した表情で、やや早口で弥彦に説明する。
「二撃目、三撃目でも凄い威力を持つ鬼刃を、初太刀にその力を全て集めた蘇芳さんの奥義・・・・!」
「けどそれって、示現流ってやつとまるっきり同じじゃねェか?」
揶揄するように言葉を返した弥彦に、けれど鈴は首をぶんぶんと横に振った。
「まるっきりじゃないよ。蘇芳さんの絶鬼刃は示現流より破壊力は上! 受けようもんなら刀ごと体は真っ二つ! それに、その後に普通の鬼刃だって繋げることだってできるんだからっ・・・!」
悪いけど、この勝負は蘇芳さんが貰ったね。言葉にこそ表さないものの、鈴は心中でこっそりとそう思う。
矢継ぎ早に告げられたその技の原理に、弥彦はといえばぐっと息を呑んでいた。
けれど弥彦はすぐに思い直した。宗次郎にも切り札と言えるべき秘技は残されている。そう、あの真由を倒した瞬天殺。
その技の力がどれ程のものであるかは、端から見ていただけでも十二分に伝わってきた。瞬天殺ならその蘇芳の絶鬼刃とやらに引けは取らない、筈だ。
問題は宗次郎の万全とは言えないあの状態で、瞬天殺の力をどれ程出し切れるか―――。
「弥彦。心配は無用でござるよ」
「剣心、」
弥彦には振り向かぬまま、宗次郎と蘇芳へと目を向けたままの剣心が静かにそう口を開いた。
「宗次郎は答えを見い出した。だからきっと、負けぬでござる」
短くも、心から信をおいた言葉。穏やかながらも力強く発せられた剣心の声。
十年前、二つの真実の狭間で揺れ動いていた一人の青年は、今その二つとは別の、独自の真実を見い出した。あの時、宗次郎に己自身の真実を探すべきだと標を指し示したのは他ならぬ剣心だが、実際にその彼が長い時をかけ自分だけの答えを見付け出したことに、どこか感慨無量といった胸を撫で下ろすような気分になる。
だが、今はまだ闘いの途中。いかに決闘の静観者とはいえ、最後まで気は抜けない。視線の先の宗次郎は、天衣の刀身を白塗りの鞘に納めている。笑みを絶やさない口元から、それでも小さく息が漏れているのを剣心は見逃さなかった。さしもの宗次郎とて、連戦で体が辛くない筈が無い。
ただそれでも、剣心は宗次郎を信じた。彼の強さだけではなく、彼が己の中に見い出した答えを、そして何より宗次郎という存在を。
宗次郎は、決してここで負けはせぬと。
「それに、あの少女もそう信じている筈・・・・・」
言って、剣心は視線をちらりとに移した。宗次郎と蘇芳との闘いの行く末を彼らから一番近い場所で見守っているは、僅かに憂うような顔をしているものの、その瞳に浮かぶ直向きな光は失ってはいないようだった。
唇をきゅっと噛み締めて、ただは宗次郎の無事を祈る。
(宗次郎君―――・・・・)
心の中で、は強くその名を呼んだ。
あの日、また戻ってきてくれると、宗次郎は約束してくれた。ごく普通の日常が何だかもう遠かった。後は宗次郎と蘇芳の闘いは決着をつけるだけ。この闘いを乗り越えねば、あの場所へ帰れはしない。宗次郎がようやく得た答えを、貫き通すことができない。
国盗りという、には得体の知れぬ壮大な計画がこの日本を巻き込もうとしている。けれど今この場においては、これは紛れもなく宗次郎の闘い。それならば今は、ただ宗次郎を信じよう。
宗次郎がこの闘いに勝利することを。それは何よりも、彼自身のために。
「瞬天殺、か・・・・・」
静かな、重々しい空気が辺りに満ちる。更に冷たさを増した風が宗次郎に触れ、次に蘇芳へと触れ通り過ぎた。
右手がやや下がり気味の抜刀術の体勢を取った宗次郎に対し、蘇芳は確認するように呟く。宗次郎はただ、こくりと頷いた。
「そんな体で満足に撃てるか?」
「あれ? それは蘇芳さんも同じだと思いますけど?」
「フ・・・・言ってくれるぜ」
水面下での応酬に、けれど何故か存外悪い気はせず蘇芳はふ、と笑む。
勝とうが負けようが、次がお互いに最後の一撃。たとえ絶鬼刃が完全に極まらなかったとしても、自分にはまだそこから繋げる二撃目がある・・・・・・だがそれでも蘇芳は、やはり次の一撃で勝負を決めるつもりでいた。次の剣に全てを賭け、宗次郎を打ち破る、と。
闘いの最中は酷く高揚していた感情が、不思議と今は落ち着いている。蘇芳は心穏やかに最後の一撃に臨めそうだった。
宗次郎の方もまた、胸の中はしんと静まり返っていた。敢えて言うならそれは一種の緊張感だったろうか。けれどそれでも宗次郎自体は至って剣も心も自然体で、穏やかな表情のままで蘇芳を見上げている。
思えば長い闘いだったと宗次郎はらしくなくそんなことを思う。アジトに突入してからはまだ半日も経っていないとはいえ、蘇芳との因縁は十年以上も前に芽生えていた。それを鑑みれば、何て遠い道のりだったんだろうと思う。そしてそれを、あの氷雨の日から数えるならば更に。
(負けられないな)
宗次郎はほんの一瞬だけ小さく笑って、そんなことを思った。
ようやく見い出した答えと、自分自身の全てを賭けて。ここまで来るまでに関わってきた人達のことも、頭の片隅に留め置いて。
のことも勿論―――再びあの日々に帰るためにも。
左手で掴んだ鞘を、ぐいと宗次郎は引き上げた。既に構えた右手を軽く開いたり閉じたりする。手の感覚を確かめると、指先を再びスッと揃えた。
負けられない。負けるわけには行かない。この闘いの終幕は、全て次の一撃に委ねられている。
宗次郎は前方に出した右足に、ぐっと力を込めた。
「―――行きます!」
静かな宣言のみを残し、宗次郎の姿がその場から消える。超神速の縮地の疾走で、瞬き一つする間に宗次郎は蘇芳の懐まで飛び込んでいた。
宗次郎は右手で柄を掴み取ると、右足の踏み込みに合わせて抜刀した。鞘から除く曇りの無い刀身が煌めき、瞬速の抜刀術が蘇芳の腹部に向けて放たれる。
だが、蘇芳もその時技を繰り出していた。彼もまた己の全力を賭けた渾身の一撃、絶鬼刃。さながら鬼の唸り声のように空気を震わせながら、その満身の力を込めた重々しくも鋭い斬撃は宗次郎に向けて真っ直ぐに落とされる。
その刃と、宗次郎の瞬天殺とがぶつかり合った。天衣と村正の刃が擦れ合う金属音が嫌な音を立て、互いの聴覚神経を刺激する。
そしてその絶鬼刃の刃は徐々に、しかしやがて次第に、宗次郎を押し出した。宗次郎は何とか天衣を振り切って瞬天殺を極めようとするが、重い蘇芳の一撃は易々とそれを許さない。
「うおおおおおおッ!」
目を見開いて宗次郎を睨みつける蘇芳は、村正にぐいぐいと体重をかけてくる。そのあまりの力の強さに、宗次郎は天衣を押し切られないようにするのがやっとだった。ほんの少しでも刀を手にした腕から力を抜いたが最後、天衣は折られ宗次郎は無残な屍を晒すだろう。
蘇芳の絶鬼刃の想像以上の威力に、抜刀術を放った姿勢のままの両足が僅か地面に沈み込んだ。
「宗次郎君!」
「く・・・っ!」
が上げた声を認識する余裕も無かった。
歯を食い縛り、宗次郎は天衣を前へ進ませようとする。だが、蘇芳の村正はびくともしない。逆に、時間にすれば数秒とはいえこの激しい鍔競り合いで、宗次郎の右腕に痺れが走り始めた。
再び、村正が宗次郎の間近に接近した。天衣の刀身越しでも、それは本当に宗次郎の眼前から数寸の距離―――。
(あ・・・・・・)
迫る白刃を前に、宗次郎の意識はほんの一瞬だけ、遠いあの日のことを思い出していた。
もう二十年前の、初めて人を斬り殺したあの日。あの時は迫り来る刃に対し、浮かべた思いは一つだけだった。志々雄が教えてくれた弱肉強食の言葉も頭の中を過ぎりはしたけれど、浮かべた思いはただ一つ。『死にたくない』、ただそれだけ。
死の恐怖に押し潰され、幼き日の宗次郎は刀を振るった。死にたくなかった。今でこそ、時と場所は違うが状況はどこか似ている。けれど、浮かべる思いは、あの時とは異なる。
(死ぬわけにはいかない・・・・・いや、ちょっと違うな。そうじゃなくて、)
ようやく見い出した、自分自身の真実。
弱肉強食の世の中でも、いや、そんな世の中だからこそ、宗次郎は毎日を精一杯に過ごしていこうと思った。
同じ世で、同じ国で、同じ時代で、同じ空の下で。
誰もが皆生きている。皆懸命に生きている。たった一度きりの生を、皆それぞれの思いを抱えて。
そんな人達との邂逅を経て、宗次郎はここまで来られた。志々雄との出逢いから真に始まった宗次郎の人生、そうしてようやく自分自身の足で歩き、選ぶことができているこの道を、ここで費えさせたくはなかった。
だから、浮かぶ思いは死というものからの逃避ではなく。
(僕は、―――生きたい)
生きていきたい。
宗次郎はそう思った。
見い出した真実と同じく、たとえ強ければ生き、弱ければ死ぬという世の中でも、それでも宗次郎は―――
この世で生きて、いきたいと。
「蘇芳さん、僕は、負けられないんです・・・・!」
吐き出した声は酷く苦しそうで、けれど不思議な気迫が篭もっていた。その言葉に後押しされるように、天衣が少しずつ、村正の刀身を蘇芳の方へと追いやっていった。宗次郎にまだこれ程までの力があることに、蘇芳が驚きに目を見開く。
『生と死の極限の狭間で、更に一歩前に踏み出す。それは捨て身とか死中に活を見い出すとか、そういう後ろ向きな気持ちを一点でも含んだ心境では、絶対に不可能なんです』
それは、かつて宗次郎自身が由美に語った言葉。その時は、宗次郎はそれをできないと答えた。
けれど、今の宗次郎の心を占めるのは、死にたくない、という後ろ向きな気持ちではなく、それを越えるなお強い思い。
生きたいという、強い意志。
宗次郎は、無意識のうちに片足を踏み出していた。それは、抜刀術を放つ時の定石たる右足ではなく、そう、
―――左足を。
「何・・・っ!? ぐ、ああああああっ!!」
焦りと驚愕の交じり合った逼迫した声が蘇芳から上がった。左足の踏み込みにより力を増した天衣は、村正を撥ね退けてそのまま蘇芳の体へと到達する。
蘇芳に押さえつけられ、それ故に破壊力もまた蓄積していた瞬天殺は、急激に解放されることにより通常のそれを遥かに凌ぐ威力を発揮した。
強かに蘇芳の胸部を打ち据えた天衣は、筋肉の軋むような音を奏でながらその奥へと食い込んでいく。そうした末に、蘇芳のその屈強な体を容赦なく天に向けて跳ね上げた。
「・・・・・・・!!」
瞬天殺を喰らった衝撃で吐血した蘇芳はもう声にならない声を上げ、その血を口から撒き散らした。彼の身につけた黒の羽織や灰色の着物も見るも無残な姿になり、無数の端切れが飛ぶ。
力を失った蘇芳の体は、緩やかな放物線を描きながら落ちてきた。いち早く事態を察知した鈴が、慌てて蘇芳の落下するであろう場所に駆け寄った。
受け止めることこそ叶わなかったものの土煙を盛大に巻き上げて地面に到達した蘇芳を介抱するように、鈴はその側に膝をついてしゃがみ込んだ。背中からとはいえ、地面に思いっきり叩きつけられたこともあるのだろう、蘇芳はぴくりとも動かない。
とはいえ、胸は微かに上下に動いていた。息をしている。死んではいない。
そのことにも気付いた鈴が、ホッと安堵の息を吐く。蘇芳さんのことは鈴さんに任せておけば大丈夫だろう、とそこまで事態を見届けてから、未だ左足を前に刀を振り切った体勢のままでいた宗次郎は、へたりとそのままその場にしゃがみ込んだ。らしくなく深い呼吸を繰り返す宗次郎に、弥彦と剣心もまた彼の元へと走ってきた。
「大丈夫か、宗次郎?」
気遣う剣心の声は、やや鋭さを帯びている。瞬天殺をまともに喰らった蘇芳に負けず劣らず、宗次郎の方も今やぼろぼろだ。これだけの深手を負った上に、全力を込めた技まで放ってきている。平気でない筈が無い。
力無く顔を下に向けていた宗次郎は、息継ぎをするようにはぁはぁと空気を吸ったり吐いたりしていた。それがようやく落ち着くと、すうっと深く息を一つ飲み込んで、それからやっと宗次郎は顔を上げた。
浮かぶのは勿論、あの極上の無邪気な笑みだった。
「大丈夫、です」
掠れ声ながらも宗次郎が剣心と弥彦にそう告げると、二人ともようやくほっと頬の緩まった表情になる。
右手にしたままの天衣の切っ先を地面に突き刺し、杖代わりにして宗次郎はゆっくりと立ち上がろうとした。そうしてその時足元を見て、宗次郎は初めて気付いた。自分が瞬天殺を蘇芳に決める刹那、左足を踏み出していたことに。
(あれ、それって・・・・・)
宗次郎は目を丸くする。これではまるで、剣心のあの技ではないか。
蘇芳と対峙していた時は宗次郎にしては珍しくまさに無我夢中だったから、その時はそれに気付くことは無かったが。
しばし不思議そうに目を瞬いていた宗次郎は、ややあって薄く笑んだ。
(でも、まぁいいや)
無意識に放った瞬天殺の型が剣心の天翔龍閃に酷似していたということはこの際、宗次郎にとっては些細な問題だった。
ただ宗次郎は、生と死の極限の狭間で更に前に一歩踏み出すことが自分自身にできたというそのことの方を、余程重く噛み締めるような気分だった。
(まさか、僕にもそんなことができるようになるなんてな)
もう一度ふっと小さく笑って、立ち上がった宗次郎は何事も無かったかのように左足を戻し、天衣を静かに鞘に納めた。そうしてゆっくりと後ろに振り向いた。
呆然、というまさにその言葉の通りの表情を浮かべたがそこにいた。薄く開かれたその唇からは、何の言葉も紡がれはしない。やはり呆然とした眼差しでただただ宗次郎を見ている。
宗次郎はに笑みを向けると、彼女を拘束している縄を解くべく木柱の後ろ側へと回った。縄は予想以上に固く縛られ、の小さな手はうっすらと鬱血している。途中が蘇芳に抵抗したせいだろう、手首は縄と擦れた箇所は赤い擦り傷のようになっていた。
早くを解放させたいのは山々だったが、宗次郎がその縄を解こうとしても解れる様子は無く、固い縄に対抗する指に十分な力もまた入らない。
「弥彦君、すみませんけどお願いします」
「ああ、任せとけって」
手で縄を解くことを諦めた宗次郎はの前方へと戻ってくると、側にいた弥彦にそう声をかける。
その意味を即座に理解した弥彦は、宗次郎に変わっての背後へと回り込んだ。の腰と手首に食い込む縄に、こりゃ痛そうだなと一瞬顔を顰めた弥彦は、さっそく逆刃刀を抜刀した。の皮膚に傷をつけないように留意して、返した逆刃で縄だけを器用に斬る。
の自由を奪っていた縄は、それでようやくぱらと解け、その足元まで滑り降りた。と同時に、体と木柱とを繋いでいた縄を失ったことで平衡感覚も一瞬乱れたは、そのまま前のめりに倒れ込む。あっと小さく声が上がった。
その体に伸ばされる腕があった。はそれに思わずしがみつく。その腕に支えられるようにして、は地面を踏みしめた。
ほっと息を吐きながら、手をかけたその腕を覆う袖は血に染まりながらも見覚えのある水色の着物だと認識した時、は慌てて斜め上へと顔を上げた。
屈託の無い笑みで、自分よりほんの少しだけ高い位置から見下ろしている宗次郎とは目が合った。
「宗、次郎君・・・・・」
夢を見ているのか、とでもいうような表情で、は唖然と宗次郎を見上げていた。
その憔悴した顔に、宗次郎は申し訳なく思う。自分はどれだけの心労をこの少女にかけてしまったのか―――。
けれどそれでも、の命が失われなかったことに宗次郎は安堵していた。が両手を乗せた右腕とは逆の、宗次郎の左腕は知らず知らずのうちにその背中側へと回され、彼女の体をそっと巻きしめていた。
生きている。
その温もりが、そのことを宗次郎に如実に伝えた。誰かの命をこの手で抱き締めることの喜び、それを初めて宗次郎に教えた。彼女もまた、生きている。
陶酔するわけでは決してないが、それでもそんな甘やかな安心感に浸りながら、宗次郎は口を開いた。
「すみません、心配かけちゃって」
これ以上の心配をかけさせないために、宗次郎は自然ごく普通に振る舞って穏やかな声と明るい笑顔で謝った。と、そんな宗次郎の前で、不意にそのの目には見る見るうちに涙が溜まっていった。
宗次郎がぎょっとする間もない。の潤んだ瞳からは、後から後から涙がぽろぽろと零れ落ちる。何かを訴えかけるような眉根を寄せた眼差しで宗次郎を見、唇を小刻みに戦慄かせている。
ああそうか、と宗次郎はようやく思い当たった。無事に助け出せたとはいえ、彼女も先程まで死の寸前といったところまで危険に晒されていたのだ。緊張が解けたことで、後になって恐怖が襲ってきても無理も無かった。死を免れたという安堵に思わず涙を流すのも無理も無いと思った。
(また、泣かせちゃったか)
それもまた、自分のせいで。
宗次郎はそれで申し訳無さそうな笑みを浮かべる。今度ばかりはもう少し、声に深刻さを含ませて。
「・・・すみません。そうですよね、怖かったですよね。こんなことに巻き込んじゃって、本当にすみませ・・・・」
「・・・・ううん、違う・・・・」
再び謝る宗次郎を否定するように、は頭を左右に振った。そうして宗次郎を見据えると、はまた一つ、涙を零した。
「宗次郎君が無事で、嬉しいの・・・・」
の声は震えていた。笑みを浮かべようとして笑みにならなかった笑みのようなものをは浮かべていた。
予想とは違う答えを聞いて唖然とする宗次郎の腕に、はそのまま力無く顔を埋めた。その肩もまた小刻みに震え、小さくしゃくり上げながら、消え入りそうな声では言った。
「本当に良かった、本当に・・・・・」
再び唖然として、宗次郎はを見た。
相手の生存を願っていたのは、宗次郎だけではなかった。もまた宗次郎の無事をひたすらに望んでいた。それは勿論、宗次郎は何となく察してはいたが―――。
ただ、こんな風に涙を流し人の生を喜ぶという温かい想いに、宗次郎は触れたことが無かった。誰かが、自分のせいで、ではなく、自分のために、自分を想って涙を流してくれるということは無かった。
けれど今は、そう、のその言葉で初めて気が付いた。
彼女は、宗次郎のことを想って。
宗次郎のために、温かい涙を流してくれているのだと。
「・・・・あ、あれ?」
頬を伝うものに気が付いて、宗次郎もふと我に返る。
胸元の着物に落ちたそれを見てその正体を知る。いつの間にか、自分自身も泣いていたらしい。
宗次郎の動揺を感じ取ったのか、は顔を上げる。
「ど、どうしたの、宗次郎君? 怪我が痛むの!?」
今度はの方に心配されてしまった。の涙は流れ落ちるのを止め、ただ僅かに目尻にその残滓を留めるだけ。宗次郎が泣くところをは初めて見たから、相当驚いたのに違いない。
戸惑うように見上げてくるに、宗次郎はただ微苦笑を向けた。この胸に浮かぶ気持ちを、何と言葉にすればいいのだろう。染み透るように伝わった彼女の想いが呼び起こした感情は、何と呼ぶのだろう。
それはまだ、宗次郎には分からない。ただ、宗次郎がはっきりと分かるのは、が生きていて良かったと、そう素直に思ったその気持ち。
「・・・・いいえ。僕も、さんが無事で良かったなぁって」
それでは一瞬ぽかんとした後、今度はほっとしたように笑った。その拍子に流れた一筋の涙をそっと手で拭ったの表情は、微笑みを湛えた柔らかなものだった。
この瞬間、宗次郎は他人と初めて感情を共有したのだと、言えるのかもしれない。
激しい闘いを終え、互いの無事を確かめ合い笑みを交わす二人の姿に、剣心はそっと安堵の表情を浮かべる。宗次郎が今、彼のために温かい涙を流してくれる者と出逢えたというそのことを、剣心もまた深く噛み締めていた。
(良かったでござるな、宗次郎)
年長者らしい落ち着いた笑みで二人を見守る剣心。
と、そのは今の自分の体勢がどんなものであるか、はた、と気付いたらしく慌てて宗次郎から離れた。
「わああああっ!? ご、ごめん、宗次郎君!」
「・・・・・?」
真っ赤になったが大慌てといった様子で謝るが、その宗次郎の方は何故謝られているのか、さっぱり見当も付かない。
心底不思議そうに首を傾げる宗次郎に、弥彦は「鈍い奴・・・」と呆れた顔で呟いた。
「あ・・・・えっと、こちらの方達は?」
まだ頬を赤く染めながらも少し平静を取り戻したは、着物の裾を直しながら剣心と弥彦に向き直った。宗次郎はあぁ、と軽く相槌を打って答える。そういえば彼女と彼らは初対面だった。
「前に話したことあると思いますけど、こちらは緋村さん、それから弥彦君。この闘いでも色々とお世話になったんです」
宗次郎の返答にもあぁと頷く。宗次郎の会話の中に時たま出てくる人達だ。それにここで宗次郎の訪れを待っている間、蘇芳の下へ寄せられた報告の中でもその名があった。
赤毛に十字傷、穏やかな表情なのが剣心。真っ直ぐな黒髪に凛々しい顔立ちなのが弥彦。話に聞いてはいてもようやく対面を果たしたこの二人に、は佇まいを直して深々と頭を下げる。
「初めまして、と申します。お二人の話は宗次郎君から色々と伺ってます。この度はご迷惑をおかけしてしまって、すみません」
彼らもまた、ここに来るまでの闘いで傷を負ってしまったということをは申し訳なく思う。けれど感謝の気持ちを感じているのも確かだから、顔を上げたは続けて礼の言葉を述べた。
「それから、ありがとうございました」
「あー・・・・っと、そんな恭しい言葉なんかいいっていいって!」
礼儀正しいの姿に、弥彦はからからと笑って手を振る。
「世話になってんのはお互い様だしな。それより、あんたの方こそ怪我とかしてないか?」
「え、はい。私の方は全然」
弥彦の言葉には改めて自分の体を見遣るが、特にこれといった怪我は無い。人質としての待遇がよかったせいもあるだろう、精神的な消耗はあっても体調はほとんど問題無い。
「それは何よりでござる。殿、お主も宗次郎も無事で、本当に良かったでござるな」
剣心のその柔和な笑みに頷きながら、同時にはあることを思い起こす。ああそうか、この人が―――。
宗次郎が己だけの真実を探すきっかけを与えてくれた人。それがこの、緋村剣心だった。いつか逢ってみたいと思ってはいたけれど、まさかこんな形で対面が叶ってしまうなんて。
「つーか、あんたさ、俺達より先に礼を言わなきゃなんねェ奴がいるだろ?」
「え、あ」
遠い思いに馳せ掛けていたの思考を、弥彦のその揶揄するような声が引き戻した。その示唆していた人物に思い当たって、はそちらへと顔を移す。
そう、確かに誰よりも礼を言わねばならぬ人はここにいる。言いたい人はここにいる。自分のためにここまで来てくれた、それだけでもは胸がいっぱいだった。
きょとんとしたような宗次郎とは目が合った。先程のことを思い出し、はまた赤くなる。
「あ、あの」
「はい」
の頬が紅潮している理由にやはり見当も付かぬまま、宗次郎はにこやかに頷く。そんな宗次郎に対し、先程剣心達に礼を述べた時よりもほんの僅か、明るく柔らかな表情では言った。
「ありがとう、宗次郎君・・・・」
の嬉しそうな笑顔に、宗次郎もただにっこりと笑みを浮かべて、答えたのだった。
「う・・・・ぐ・・・・・・・・」
それまでの柔らかい雰囲気を打ち消すような蘇芳のくぐもった声が響いた。
一気に緊張感の走った一同がそちらに振り返ると、鈴に支えられた蘇芳がかろうじて上半身を起こしているのが見えた。その顔は苦渋に満ちたものながらも、瞳の鋭い光は未だ宗次郎を強く見据えている。
しかし蘇芳は、ふっとその表情を緩ませた。
「ふ・・・・・そう身構えなくともいい。闘いの勝敗は明らかだ・・・・これ以上剣を交えたところでそれは変わらん」
意外にあっさりと負けを認めた蘇芳に、宗次郎は肩透かしを食らったような気分になる。警戒を解く宗次郎の視線の先で、蘇芳はゆるりと空を見上げた。遠い色には少しずつ、茜色が滲んでいる。
「悔しくない、といったら嘘になるがな。昔は全く手の届かなかったお前を・・・・・あれだけ追い詰めることができたんだ。それだけでも、この闘いをした甲斐があるってもんだ」
宗次郎の全身を改めて見回して、そのボロボロの姿に蘇芳は満足気に笑む。勿論、そこには満足以外のものも見て取れたのだが、それはやはり言葉にするならば悔しさなのだろう。
「蘇芳さん」
「真由、真美」
何かを言いかけた宗次郎を遮るようにして、蘇芳は闘場の隅で茫漠と立ったままのその二人に顔を向けると呼びかけた。突然声をかけられた真由と真美は、ハッとして蘇芳を見返す。
「行け。志々雄真実という修羅の血を、お前達は決して絶やすんじゃないぞ」
いつになく真剣な蘇芳の視線と、真由と真美の真摯な視線がぶつかり合う。ややあって、真由がふっと口の端を吊り上げた。
「言われなくともそうするさ。あんたにゃ何かと世話になったな。礼を言うぜ」
「礼などいらん。さっさと行け」
真由の言葉を受けた蘇芳はにやりとした笑みを浮かべながらもぶっきらぼうに言い放つ。それを見た真美は呆れたように溜息を吐いて、けれど顔は笑っていた。
「大丈夫。父さん達のこともあんたのことも、私達がずっと語り継ぐわ。たとえ歴史の裏に埋もれてしまっても、父さん達の存在は、確かにあったんだって。絶対に後世へ繋いでいく。そうそう明治政府の思い通りになんかならないわよ、私達はね」
真美の言葉に、蘇芳はやはり満足そうに笑う。
それを見届けてから、真由と真美は静かに登場の扉から去っていった。二人と蘇芳の応酬には、誰も口を挟める雰囲気でもなく、宗次郎や剣心達もまた黙って見送るしかなかった。
「鈴」
「はい」
蘇芳は今度は、自分の背を支える鈴を振り返った。真っ直ぐに自分を見据えてくる蘇芳に、鈴はどこか切なそうな、寂しそうな顔になって、それでも瞳と口元には笑みを浮かべていた。
押し黙っている蘇芳もまた、何かを覚悟したかのような表情。言葉を交わさなくとも、何か意思の疎通をしているかのように宗次郎達には見えた。
そうして蘇芳はただ一言。
「こうなった以上、分かっているな」
「はい。・・・・でも、終わった後はあたし、また蘇芳さんのところに必ず戻ってくるよ。それって蘇芳さんの命令違反だけど、あたし達みんなで、決めたことだから」
にかっと、底抜けの明るさで鈴は笑う。蘇芳はそれにほんの僅か、逡巡するような表情を過ぎらせたが、鈴の意志が固いことを知るとふうと重々しい息を吐いた。
「・・・・・・・好きにしろ」
しばしの沈黙の後、蘇芳は目を閉じて鈴にそう答えた。鈴は今度はほんの少しだけ、申し訳無さそうに笑う。
今のやりとりが何を意味するのか、宗次郎達が考える間も無く、蘇芳から離れた鈴はたたっと走り寄ってきた。支えを失った蘇芳は胡坐の姿勢に座り直し、そのままその場に鎮座している。
「お待たせ〜! 長〜い闘い、お疲れ様っ! さ、今度は帰り道案内するねっ」
どこまでも明るい声と笑顔の鈴だった。その鈴と蘇芳とを見比べて、弥彦はこんなことを聞いてみる。
「あの迷路みたいなアジトの帰り道案内してくれるのは有り難てーけどよ、あいつのこと放っておいてもいいのかよ?」
「うん・・・・今は蘇芳さんをそっとしといてあげて。ああ見えても蘇芳さん、意外に繊細なんだよ」
こそっと言った鈴の言葉を、蘇芳は聞き咎めていたらしい。憮然とした声で言う。
「鈴、余計なことは言わなくていい」
「あ、あはは〜怒られちゃった」
ぺろっと舌を出して鈴はおどけた風に笑ってみせる。
そんな鈴に宗次郎も小さく笑みを零しながら、彼女の肩越しにその蘇芳を見る。蘇芳さん、と呼びかけると、蘇芳はうな垂れていた頭を上げ、宗次郎を見た。
「これから、どうするんです?」
何となく、宗次郎はそんなことを訊いた。蘇芳はほんの少し考え込むような素振りを見せ、やがて緩く冷笑を唇に乗せた。
「・・・・・さあな。また力を蓄えて、お前に挑むとするかな」
「懲りない人だなァ」
宗次郎が笑って溜息を吐くと、蘇芳もまた低い笑い声を漏らした。小刻みにその肩が震え、背中を流れる蘇芳の長い黒髪もまた揺れる。
太陽から放たれるのはもう夕暮れの陽射しだった。その柔らかな光は、宗次郎も、蘇芳も、その場にいる誰もを淡い橙の色に染め上げている。
顔を流れる血もまた鮮やかに彩られる中、蘇芳は宗次郎と鈴に出立を促す。
「ふん、俺にまた寝首を掻かれんようにせいぜい気を付けることだな。鈴、早くそいつらに帰り道を案内してやれ」
「了解で〜す」
鈴は蘇芳に手を振ると、再び宗次郎達の先頭に立って歩き出した。満身創痍の宗次郎は流石に足元が覚束無かったので、弥彦に肩を貸して貰いながら歩き、その後を心配顔の、そして剣心が続く。
闘場の扉をくぐる寸前、宗次郎は一度蘇芳に振り向いた。はらはらと散る紅葉の葉の下で静かに座り込んでいる蘇芳は、宗次郎にただ静かで冷たく、それでいて不敵な笑みを浮かべていた。
「・・・・それじゃあ」
宗次郎は少しだけ微笑んで、そう言うと踵を返した。何か意図がありそうな蘇芳の笑みに宗次郎は何かを言いたかったが、言葉がうまく見つからなかった。
だからそれだけを言い残すと、宗次郎は扉の先に続く下り階段を弥彦に支えられながら慎重に下っていく。
そうして一同の姿がすっかり見えなくなった頃、蘇芳は再び瞼を伏せふ、と笑んだ。その顔に浮かぶのは、本懐を遂げられずとも何かに確かに満足している、納得している、そんな表情。
そして彼にとっては絶望的なある事実を、悟ってしまった表情―――。
手放していなかった村正がその身に伝わせるのは宗次郎の血。妖刀という異名に相応しく、血に濡れたそれは妖しい光を湛えている。それをしばし見つめ、蘇芳は一人、呟いた。
「これからどうするか、だと?
 ・・・・敗者の末路は、決まっているさ」









下り階段の後に大灼熱の間を経て、再び屋内へと戻った宗次郎達は、雪哉、鈴、雷十太のそれぞれの部屋も通り過ぎた。帰り道の案内をしている鈴はともかく、雪哉と雷十太の二人はもう各々の部屋に姿は無かった。恐らく、闘いの後に独自でその場から去ったのであろうが。
そうして初めに雑兵達と闘いを繰り広げた広間も経由して、宗次郎達はようやく、蘇芳のアジトとその仮の姿である屋敷とを繋ぐ隠し通路まで辿り着いた。そこまでの道程は疲労した体では存外辛いものがあり、宗次郎は依然笑顔だったが浅い呼吸を繰り返している。
「大丈夫? 宗次郎君。血止めの軟膏くらいじゃ焼け石に水だったよね・・・・」
「いいえ、それ付けて貰ったおかげで随分体が楽になりましたよ」
自身の身を気遣うに、宗次郎はにっこりと笑みを返す。はいざという時のために軟膏の入った円形の容器をいつも懐に携帯しているのだが、蘇芳に捕らわれた際に幸運にもそれを奪われずに済んだので、道すがら宗次郎達の傷の手当てを簡単にしていたのだ。
当然ながら体力までも回復されるような代物ではないが、それでもその軟膏は流れる血を食い止め、痛みを抑える効果もあり、宗次郎達の体の具合は何もしないままよりもずっと良くなっていた。
自然傷の箇所を庇いながら宗次郎達は件の狭い隠し通路をまた通り抜け、屋敷内の和室の一角へと再び戻ってきた。格子の窓を通して見える空は、山の裾はまばゆいばかりの茜色、高い空は深く透き通るような藍色と、二つの色が交じり合って見事な対比を描いていた。こんな風景だけなら、先程までこの紅葉の彩る山中で激しい死闘があったことなど、微塵も感じられはしないのに。
「さて、ここまで来れば案内はもう大丈夫だよね」
鈴は手を腰に当て、役目を果たしたとばかりに笑ってふうと溜息を吐く。確かにここからは普通の屋敷の造りと大して変わらないから、鈴の案内はなくとも迷ったりはしないだろうが。
異論なく頷く一同を鈴はぐるりと見渡す。そうして宗次郎にふと目を止めると、鈴はにこっと笑った。
「ねぇ、瀬田さん。分かって欲しいとは言わないけど、蘇芳さんがさ、」
鈴は笑っていた。
笑っているのに、瞳は不思議と今までに見たことも無いくらい、真っ直ぐで真剣だった。そしてほんの少し、本当にほんの少しだけ、淋しそうだった。
「瀬田さんが修羅に戻ることに拘ってたのはさ、蘇芳さんが負けたのはその頃の瀬田さんだったからだと思う。どんな手を使ってでも、修羅としての瀬田さんとまた闘ってみたかったんだよ。それでも瀬田さんに負けちゃって、蘇芳さんは勿論悔しいんだろうけど、どこか満足してる部分もあるんだと思うよ。もう修羅である瀬田さんと闘えないってことは、すごくがっかりしてたみたいだけどさ」
くるっと、軽やかに宗次郎達に背を向けて、顔を見せないままで鈴は言う。
「最初はただ、瀬田さんに負けたのが悔しかった。だから勝ちたかった。蘇芳さんは、本当にそれだけだったんだよ、きっと・・・・」
そこまで言うと、鈴はしん、と黙り込んだ。宗次郎達から見えなかったその表情は、鈴のものにも或いは如月のものにも、一郎汰のものにも百合のものにもそしてふみのものにも。
誰のものとも取れるような、不思議な表情だった。或いはその一瞬だけ、彼女が持つ人格の全ての意思が反映された表情が姿を表したのか―――。
「・・・・なんてね。これはあたしの独り言」
いずれにせよ、鈴が再び宗次郎達に向き直った時には、その表情は影を潜め、彼女はいつもの明るい笑顔に戻ってしまったが。
つられて笑みを浮かべた宗次郎に、鈴はちょっとばかり気取ってお辞儀をした。
「それじゃあ皆さん、御機嫌よう〜♪」
「ああ。案内役、かたじけないでござる」
「色々とお世話になりました」
「鈴ちゃん、何かとありがとうね」
「さっさと蘇芳んトコ帰れよ」
剣心と宗次郎、が口々に鈴に労わりの挨拶を送る中、弥彦は素っ気無くそんなことを言う。追い返すようなその一言に鈴はわざとらしくえぇっと泣き顔を作ってみせるが、
「お前だって本当はそうしたいんだろ」
その続きの言葉にきょとんとし、そして笑う。
「そうだね。早く蘇芳さんのトコに戻んなくちゃ。・・・・後始末も、残ってるし」
どこか意味深なその一言は、即座に鈴が浮かべた満面の笑みの前にかき消されてしまった。ひらひらと掌を振る鈴は、屈託なく明るい人懐こい笑顔で別れの挨拶を述べる。
「ではでは皆様、また会う日までお元気でv」
そうして先程通って来たばかりの隠し通路の前に鈴は再び戻ってきた。
ちゃん、色々とごめんね」
その縁に手をかけ、中に足を踏み入れる刹那、鈴はに振り返った。鈴の子猫のようなくりっとした目がに向けられた。
それから鈴は、目を細めて顔全体でにぱっと笑う。
「今度会った時はさ、一緒にお茶でもしよーね!!」
本当に屈託の無い、無邪気な笑顔。それは確かに鈴のものだったが、ふみのそれも滲んでいるようにも見えた。
再び軽く手を振った鈴は、の返事を待たずに隠し通路の中へと飛び込んだ。狭い通路だが通るのはやはり熟れているらしく、大した時間もかからずにそこをすり抜けたかと思うと、たたたと軽快に走る足音が聞こえてきた。同時に、次第に小さくなる鈴の音。
その鈴の音と足音が遠ざかってから、弥彦は小さく息を吐く。
「何つーか、あいつ、ムカつくとこはあったけど不思議と憎めねー奴だったな」
「・・・そうかもしれぬな」
弥彦の呟きに、剣心も微苦笑を浮かべて同意する。弥彦の顔のすぐ横でそれを聞いた宗次郎も、あははとただ笑った。
そうして弥彦は改めて宗次郎の腕を担ぎ直し、帰路への思いを新たにする。
「さてと、もう長居は無用だな。さっさと葵屋に帰・・・・・・」
言いかけた弥彦の背後。
不意に、くぐもった激しい爆発音が上がった。同時に建物全体をどんと地響きのような振動が突き抜けた。
突然の事態に宗次郎達が慌てて振り返ると、つい先程鈴が駆け抜けていった隠し通路の向こう、蘇芳のアジト内部が赤々と燃えていた。その火の中では爆発が次々に連鎖して起こり、それがこの表屋敷をもまた揺るがしている。
唖然とする宗次郎や弥彦の視線のずっと先でまた何かが爆発する音が響き、隠し通路を伝わって熱風がこちらへと奔ってきた。ふわん、と熱気が宗次郎や弥彦の髪を巻き上げる。
「なっ・・・。まさか、あいつ・・・・!?」
鈴が去った直後の爆発。ただの偶然では片付けられないそのタイミングに、弥彦はこの爆発が紛れもなくその鈴本人が引き起こしたものだということを確信していた。
けれど、だとしたら彼女は一体何故。
「何で・・・・鈴ちゃん、鈴ちゃん!?」
混乱した風なが追い縋るように隠し通路に近付く。しかし、再度通路を抜けて逆流してきた炎の波はがその先へ進もうとすることを拒み、そればかりか今宗次郎達がいるこの部屋までも侵食してきた。
立ち尽くすを、剣心はその肩を引いて炎から庇った。木造の日本家屋は瞬く間に、その柱に壁に炎を伝わせていく。
「・・・・後始末と、彼女は言っていた。そしてそれは恐らく、蘇芳の意志なのでござろう・・・・」
苦々しい表情で剣心は言葉を紡いだ。蘇芳の本意は定かではないが、彼と鈴とのやりとり、そしてその彼女の言葉と照らし合わせれば、今口にした通りのことなのだろうと思う。気付くのが遅すぎたが。
そしてまたずっと深い奥で、何かの爆発したような音。もう恐らくは、手が届かない。
「でも、だからって、こんな・・・・・」
感情がついていかないは静かに頭を振る。そうして燃え盛る炎をぼんやりと見つめているうちに、同時に以前鈴が言っていたことをふっと思い出す。
『蘇芳さんが、蘇芳さんだけがあたしを、あたし達を必要としてくれたんだ』
『あたし達は蘇芳さんのために生きるって、決めたから』
鈴が蘇芳のために命を賭ける覚悟で生きていたことくらい、とうに知っていた筈だ。それなのに、いざそれを目の当たりにして、に浮かぶのはただただ困惑だった。分かっていたのに。彼女はどこまでも蘇芳についていくこと。
「これが、鈴さん達が選んだ答えなんだ・・・・」
隠し通路の先で火の海と化した蘇芳のアジトを真っ直ぐに見据えながら、宗次郎は静かにそう呟いた。分かっていたことなのに、改めてそう思わずにはいられなかった。
弥彦と剣心も同様の思いなのだろう、拳を握り締め、ただ炎の中に消えていった彼女を思う。は口元を押さえ、うぅと小さく呻いた。
炎に包まれるアジトの中を、それでも親愛する蘇芳の下まで駆けて行く鈴の後ろ姿が、宗次郎の頭の中で浮かんで消えた。
蘇芳のために生きること。それが鈴達の見い出した答えだったから、きっと後悔などはしたりせずに、あの明るい笑顔は浮かべたままなのだろう。
どんなことがあっても最後まで一人の人間についていくことを決めた鈴の姿に。
宗次郎は、自分にはできなかったもう一つの生き方を、彼女はしたような気がしていた。