―第三十六章:答(中編)―



視界が急激に、天から地へと移行する。
背中に激痛が走り、やや遅れて地面とぶつかった衝撃が腕や胸に伝わった。痛みと息苦しさに、宗次郎は小さく呻いた。
蘇芳の影が覆い被さっていることから、うつ伏せの形で倒れ込んだ宗次郎を彼が見下ろしているのが分かった。
立ち上がらなくちゃ。
そう、宗次郎は思った。背中に傷を受けたのはとんだ失態だったが、立ち上がれなくなる程じゃない。その傷は焼けるように痛むし、血が着物をじくじくと染めているのも分かる。けれどまだ、立ち上がれなくなったわけじゃない。
宗次郎は手足に力を込め、立ち上がろうと身を起こした。上半身を起こしたところで蘇芳の足が動いた。草履を履いたその足は、宗次郎の脇腹を蹴り飛ばした。それも、雪哉に穿たれた右脇腹の傷の箇所を正確に。
「うあっ・・・・!」
抉るような痛みに宗次郎は悲鳴を漏らした。そのまま二、三度地面を転がり、またうつ伏せの姿勢を余儀なくされる。土埃が治まった後には、宗次郎の血が赤々と彼の転がった軌跡を印す。
「何だ? 宗次郎の奴、随分と劣勢みたいじゃねェか?」
「ええ、どうやらそのようね」
丁度その時、真由と真美が遅れて闘場へと到着した。
真由はようやく何とか動ける程には体力を回復し、真美に肩を貸して貰うようにして立っている。二人が現れたことに剣心達は一瞬そちらに目を向けたが、すぐに視線を蘇芳と宗次郎の方へと戻した。事態はそれどころでは無かったからだ。
蘇芳は今度は、宗次郎の左肩の火裂傷を踏みつけていた。足の裏を押し付けるようにして、蘇芳は宗次郎の肩に体重をかける。
「どうした? 貴様はその程度か?」
「・・・・っ!」
挑発するような台詞を吐く蘇芳の顔には、どこか嗜虐的な笑みが浮かんでいる。傷口に擦り付けられる草履の感覚とそれにより生み出される痛みに宗次郎は眩暈がしたが、いつまでも彼のされるがままになるのは御免だった。
(何とか立ち上がって、蘇芳さんに反撃しないと・・・)
けれど、そういった宗次郎の思いとは裏腹に、体は言うことを聞いてくれない。今までの闘いで体力を消耗していたのもあるのだろう、倒れたことでそれがより顕著に現れた。今度は手足にうまく力が入らない。
それでも立ち上がろうとする宗次郎を嘲笑うように、蘇芳は一度足を上げ、再度肩の傷に向けて踏み下ろした。宗次郎の方も再び、押し殺したような悲鳴。
「てめっ・・・・!」
蘇芳のやり方にとうとう我慢ができなくなった弥彦が、先の闘いを終え剣心から再び己へと渡された逆刃刀へと手を伸ばす。もう限界だった。
限界を迎えていたのは、弥彦だけではなかった。
「やめて! 何もそこまですることないでしょう!?」
怒りの篭もった、悲鳴に近い声を上げたのはだった。
宗次郎が傷つく様をすぐ前で目の当たりにし顔面蒼白となっていたは、今は憤るような表情で蘇芳を見据えている。
傷つき倒れ伏した者を足蹴にする、という蘇芳の非道な振る舞いには激昂していた。同時に感じていたのは、胸が張り裂けそうな痛み。苦痛に歪む宗次郎の顔を見るのが、は堪らなく苦しかった。
「あなたが望んだのは、宗次郎君との闘いだったんでしょ!? そんな一方的な暴力じゃない筈よ! それに・・・・っ!」
は息が詰まるような思いだった。宗次郎の危機に、何もできない自分が悔しかった。
ただ喚き散らすくらいしかできない、けれどは言わずにはいられなかった。
「もうやめて・・・これ以上やったら、宗次郎君が、宗次郎君が死んじゃう・・・!」
目に涙を浮かべては懇願する。体と手首を木柱に縛りつけている縄は固く、の力では引き千切ることは勿論、抜け出すことも不可能だった。振り解こうと体を捩っても徒労に終わることは分かっていたが、それでもは身を乗り出すようにして蘇芳を睨みつけた。非力な自分が本当に恨めしかった。
振り向いての抗議を黙って聞いていた蘇芳は、ややあって宗次郎から足を離す。涙ながらも気丈なの態度に、弥彦も逆刃刀を抜刀しかけたまま動きを止めていた。
宗次郎も、力無く顔を上げてを見上げた。眉根を寄せ唇を噛み締めるが目に映った。
「この期に及んで瀬田の心配か。健気なことだな」
蘇芳は口にした感想とは真逆の、の発言を軽んずるようなにやりとした笑みを浮かべる。
「まぁ安心しろ。まだ瀬田は殺しはしないさ。これで積年の溜飲は多少は下がったが、満足には程遠い・・・・。俺が長年追い求めた男を、この程度で終わらせる気は無い」
蘇芳がどこか恍惚とそう語る間に、宗次郎は立ち上がるべく天衣を握り締めた手で地面を押していた。にあんな表情を浮かばせてしまったことが、宗次郎は自分でうまく説明が付かなかったが、敢えて言うならそう、心苦しいような気分だった。
(また、泣かせちゃったな)
宗次郎はふと小さく笑む。旅立ち前日のあの日と同じく、自分のせいでを泣かせてしまった。
けれど、蘇芳の暴虐を止め、彼から庇おうとしてくれたの発言に、やはり言葉では表せない思いもまた宗次郎の胸の内に灯る。
だから蘇芳と闘う、恐らくはそのためだけでなく宗次郎は立ち上がろうとする。だが、それを邪魔するように蘇芳は宗次郎の手を蹴り飛ばした。支えを失った体は再び地に沈む。
はまたあっと声を飲み込む。蘇芳は宗次郎を見下ろしたまま、けれど言葉は背後のへと向けて。
「先程お前自身も言ったが、俺が望むのは確かに瀬田との闘い。だが、それは腑抜けた瀬田とでは無い。十年前、楽以外の感情が欠落していた頃の、完璧な修羅だったこいつとだ!!」
咆哮のように激しく、けれど至って落ち着き払った蘇芳の声。
殺気と闘志、そしてえも言われぬ憎悪とが混沌と入り混じった蘇芳には震えた。ただしそれは、彼の纏う雰囲気だけにではなく。
「感情・・・・欠落?」
聞き慣れぬ単語を、は首を傾げながらも反芻した。
その言葉が意味するところを、は何となく分かる。けれど、それが宗次郎にとって何を意味するのか、はすぐには理解できなかった。
戸惑うような色を瞳に浮かべるに、蘇芳はほうと目を見張った。
「何だ、お前はそのことを知らなかったのか?」
「・・・・・・」
はただ、沈黙を返した。そう、は知らない。十年前の宗次郎を。流浪人となる前の宗次郎のことを。
彼がどんな風に生きてきたか、その断片は宗次郎自身から聞いてはいたけれど。実際の、かつての宗次郎がどんな風だったか、は知らないのだ。
それが時にもどかしく、そして時に、それを知るのが堪らなく恐ろしいと、思うこともある。そう、例えばいつも浮かべる笑みの向こう側には、何が隠されているのかと。
押し黙ってしまったに、蘇芳は決して親切心からではない笑みと共に宗次郎について説き始めた。
「ふん、ならば教えてやろう。昔のこいつにはな、喜怒哀楽の楽以外の感情が存在しなかった。喜や怒の感情が無かったために闘気や殺気を発すること無く闘い、それは動きの先読みを不可能とさせていた。加えて哀の感情も無かったからこそ、鋭い剣の冴えが増していた。
そして、だからこそ人を何の躊躇いも無く斬り殺すことができた。人の死に心が動くことなど無かったのだからな」
は蘇芳がそう論じるのを、どこか茫然とするような気持ちで聞いていた。
剣術に関することは、は良く分からない。けれど、蘇芳の言う感情欠落というものが何に関連しているのか、それはおよそ理解できた。
彼が何故いついかなる時でも笑みを浮かべていることが多いのか、その理由も何となく分かった。表情がその人の心を如実に表しているのならば、楽の感情が引き起こすのは確かに笑みしかないだろう。
ただ。
理屈の上では通じていても、ただそれでも宗次郎のことを思うと、の心には引っかかりのようなものが生じる。人の生き死にに関心を持たない、躊躇無く人を斬り殺した、宗次郎のその事実に改めて胸が痛んだけれど、それとはまた別に、どこか釈然としないものが。
感情の欠落?
楽以外の感情が、無い?
「天賦の剣才に動きを常人には捉えられぬ縮地、そして感情欠落。この三つの力を兼ね備えたからこそ、瀬田は最強の修羅として十本刀の頂点に燦然と君臨していた。何も感じずに人を斬れるだなどと、まさに修羅として相応しいじゃないか・・・・!」
飽くなき闘争心。血を求める残虐性。
そういったものも無論、修羅の条件に当てはまる。けれど、心に何も浮かばないままただ人を斬り殺すことの方が、ある意味余程恐ろしい。
それが骨身に染みていたからこそ、蘇芳は狂気めいた表情でに向けてそう語った。嬉々としつつ、されど氷のような蘇芳の瞳の色にも身を竦ませる。蘇芳という存在に対して、これは半ば本能的に感じる恐れだ。
「だが、今の瀬田は感情欠落状態にあるとは言えない。俺が斃したい最強の修羅では無い。だから・・・・」
蘇芳は下げていた村正の切っ先を、すいと動かした。それはの胸元に向けられた。その銀色の刀身から宗次郎の血が滴り落ち、の着物に赤い模様を描く。
そのまま前に突き出せば心臓を貫くであろうその刃には思わず息を呑み、宗次郎も瞠目する。
「お前を修羅に引き戻すためには、、貴様に贄となって貰う他無いな」
「どうして、さんを・・・」
ぐぐ、と宗次郎が片膝をつくように身を起こす。蹴り飛ばされた箇所が痛み、容易には立ち上がれない。
けれど、立ち上がらなければ。
「簡単なことだ。この女はお前に、平穏などという下らんものを吹き込んだ。楽以外の情を抱かせ、闘う力を削り取った。それだけでも万死に値する。
感情を失うのも良し、怒りに我を忘れて向かって来るのも良し、少なくとも腑抜けた今のお前よりは強くなる。この娘を失うことで!」
事も無げに蘇芳は言い放ち、切っ先を更にに近付ける。心臓が脈打ち、自分でも理由の付かない焦りに宗次郎は急かされた。
立ち上がらなければ!
そうでなければ、が殺されてしまう。
「おっと、動くなよ。そこから踏み込むより、俺がこの娘を突き刺すほうが早いさ」
蘇芳が牽制したのは宗次郎では無く、乱入する時を計っていた弥彦と剣心に対してだ。動きが見透かされていたことに、弥彦はちっと舌打ちする。そしてその台詞が嘘ではない証拠に、蘇芳の村正は一寸たりとも動いてはいない。
はただ、ごくりと喉を鳴らして刀の切っ先を見下ろしている。その表情に少しの怯えは窺えるが、取り乱したり泣き叫んだりすることは無い。
こんな状況でも自分を見失わないこのの態度に、気丈な娘御だと剣心は改めて思う。
そして、自己の考えのみで語る蘇芳に彼の思い至らない宗次郎についての事実を伝えるべく、剣心は凛と前を見据えた。
「宗次郎は生まれつき感情が欠落していたわけではない。何か原因があって、感情を心の奥深くに封じていただけに過ぎぬ。己の闘いたいという欲を満たすためだけに、その少女の命を奪い、宗次郎からは取り戻しつつある情を再び奪い去ろうとするその所業、許すわけには行かぬ!」
「御高説どうも。だがな、元から感情が欠落していようが、封じ込めていようが同じことだ。この娘が瀬田に、情の断片でも湧かせたのは確か。だからこそこの娘を殺し、瀬田に修羅としての力を呼び起こす!」
「・・・・それは、違うわ・・・・」
哄笑と共に述べていた蘇芳を、静かに否定したのはだった。
どこか虚空を見つめるようなぼんやりとした瞳で、は宗次郎を見た。天衣を支えに立ち上がろうとする宗次郎も、茫然とを見返していた。
宗次郎を安心させるように、はにこっと小さく笑んだ。蘇芳の言葉が本当なら、そんな感情すら宗次郎には無いのかもしれない。けれどはそう思わなかった。
いつも笑ってばかりの宗次郎を、出逢ったばかりの頃は不審に感じていなかったわけではない。宗次郎の子どもめいた無邪気な笑顔は、そんな警戒心すらあっさりと消してしまったけれど。
何かの後遺症か、それとも顔の神経がどうかしているか何かで笑みしか浮かべられないのか? 医者としての観点から見た、今となれば馬鹿げた議論を兄の浅葱と交わしたこともある。
けれど宗次郎と接しているうちに、理屈ではなくは理解していた。常に笑顔を浮かべていることが、彼の彼らしさの一つなのだと。そこに何か、深い理由があったのだとしても。どんな時でも笑っているその様が、時にとても痛ましく目に映っても。
それでも宗次郎がいつも浮かべるその笑顔は、や浅葱に不思議な安心感を抱かせた。自分達より遥かに年上なのに子どもっぽくて、どこか頼りなくて、それでも彼といると心が安らぐ、落ち着ける、いざという時はこの上も無く頼りになる、そんな不思議な感慨を。
自分の中の真実を、答と呼べるべきものを探していると言った、捉え所の無い風のような人。
いつしか宗次郎はにとって、そして恐らくは兄の浅葱にとっても何にも代えがたい大きな存在となっていた。彼の人殺しだという過去を知ってもそれは変わらなくて、むしろだからこそ少しでも力になりたくて、なれなくて失望して。そして今この時も、足手纏いにしかなっていないのだとしても。
それでもは宗次郎を思って、蘇芳に毅然として反論した。
「宗次郎君が感情を欠落してたとか、何かがあって感情を閉じ込めてたとか・・・・俄かには信じられないけど、でも、」
言いながら、の胸がぎゅっと痛んだ。
きっと自分の想像を絶するような辛く苦しいことが宗次郎にはあったに違いない。そうでなくては、人として通常あるべき感情を、封じていたりなどしない筈。
彼に一体何があったのだろう。何が彼をそうさせたのだろう―――。
それを思うと苦しかった。蘇芳の発言でそれを確信してしまったから尚更。ただ、彼がそんな風でないと生きられなかったのだとしても、少なくとも達と出逢ってからは違っていた。
蘇芳の知っている宗次郎と、の知っている宗次郎との間には差異がある。それを生じさせたのはだと蘇芳は言う。
けれど、それは決して自分の力だけではないと、には思えてならない。
「・・・・もし、それが事実だったとしても、宗次郎君はきっと、元々持っていたものを思い出しただけ。私達と出逢った頃から宗次郎君、笑う他にも色んな顔、見せてたもの」
日々の生活の中で、笑み以外の表情も確かに宗次郎は見せていた。それは本当に些細な変化で、時には笑みに混じることもあって酷く判別しにくいものではあったけれど。
それでも、宗次郎には確かに楽以外の感情があった。にはそう思えた。
初めから何も無いのと、後から何かを無くしたのとでは、似ているようで大きく違う。
「宗次郎君に昔何があったのか、私は全部知ってるわけじゃない。でも、今の宗次郎君があるのはきっと、昔の様々な出来事があったからって思うから。今までの人生や旅の途中で、たくさんの人と出逢ったからだと思うから。決して、私一人だけの力じゃない・・・・!」
「貴様、」
たどたどしくも、は彼女の中に確固としてある宗次郎の姿を蘇芳に真正面からぶつけた。
蘇芳が何か言いた気に顔を歪める。お前のような小娘に何が分かる、そういった表情だ。
はそれにほんの少しだけ怯んだが、蘇芳に一歩も引かなかった。蘇芳を真っ直ぐに見た。
そう、蘇芳の言うように宗次郎の中身が昔と比べ変貌していたとしても、それは一人で引き起こしたものではないのだ、恐らくは。
彼がこの世に瀬田宗次郎というたった一人の存在として生れ落ちた時から、時に迷い時に疑いなく進んできた道程の中で、少しずつ見い出してきたもの―――。
それ故に起こり得た現象は、変貌ではなく成長と、呼んだ方が正しいのかもしれない。一つの物事だけに捕らわれるのではなく、もっと広い視野で世界を見ることができるようになったと、たとえばそんな風にとも。
と蘇芳のやりとりに誰も場外から口を挟むことは無く、ただ彼女の宗次郎に対する真摯な思いだけを皆、汲み取っている。
「もし、あなたから見て宗次郎君が前と変わっていたのだとしても、それは宗次郎君自身が選んだ生き方だよ。多分それが、宗次郎君がずっと探してた・・・・」
「もういい。どうやら貴様は、余程お喋りな口から潰して欲しいらしいな・・・・!!」
の発言に業を煮やした蘇芳は、怒気を孕ませた声でその語尾を遮った。怒りに任せ村正を振り上げると、そのままの顔面目掛けて振り下ろす。
流石のも、ぎゅっと瞳を閉じた。
が、いつまで経っても予測していた痛みがやってこない。変わりに感じたのは、一筋の風が頬にかかる髪をふわりと靡かせた感覚。
はそうっと瞼を上げた。眼前に見えたのは、ほとんど赤く染まってしまった水色の着物を纏う背中と、さらりとした散切りの髪。
に迫った刃を食い止めるために、蘇芳との間に縮地で割って入った宗次郎の姿が、そこにあった。
「・・・宗次郎君!」
驚きと喜びで頬を緩ませたが声を上げる。宗次郎は天衣で蘇芳の刀を押し止めながらも、ほんの少しだけ振り向いてにこっと笑った。
『守りたい』。が蘇芳に捕らわれたと知った時、宗次郎に芽生えた息吹が今、風となって彼の体を突き動かしていた。
宗次郎を変えたのは私一人の力ではない、とは言った。けれど、今までに出逢った人達が今の宗次郎を形成しているというのなら、彼女もまた彼の中の何かを変えた者の一人。彼女の言葉、彼女の行動する姿、その一つ一つに宗次郎がどれだけ、言葉にならない思いを浮かべていたか。
―――そうして、今。
死んで欲しくない、死なせたくない。危険に瀕した彼女に対し抱いていた、宗次郎のその思いの延長上に生まれたのは、を守る、守りたい、他者に対し初めて感じた庇護の思い。それは彼女が蘇芳に捕らわれたと知った時よりもずっと強く、宗次郎の中にしかと形を作っていた。
だから宗次郎は、守りたい、その毅然とした意志の下、蘇芳の前に立ちはだかっている。
「良かった、間に合って。さんも頑張ってるのに、僕一人寝てるわけには行きませんからね」
ごくごく軽く宗次郎は言う。けれど顔を前に戻し、蘇芳を見据えた時には口角は上げながらも、その瞳はどこまでも真っ直ぐだった。
「お望み通り立ちましたよ。あなたの相手は僕でしょう、蘇芳さん? それじゃあ、闘い再開と行きましょうか」
「くっ・・・・!」
僅かに落ちた声のトーン、それでも浮かぶ明るい笑顔。宗次郎のこの柔和な笑みからは想像もつかないような力で、村正は徐々に蘇芳の方へと追いやられていく。
全身を負傷しながらも、再びいつもの調子を取り戻した宗次郎に蘇芳は小さく声を漏らす。そうして村正の刃を返し天衣を弾くと、ざっと後退して宗次郎と二、三間程の距離を取った。
宗次郎は自然、を背後に庇うような形になる。立ち構えの姿勢を取った宗次郎に、蘇芳は納得が行かぬとばかりに吠え立てる。
「何故だ・・・・何故これだけの力があるのに、貴様は再び修羅として生きようとしない!? 所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ・・・・! 今こそ、その真実を思い出せ!」
ぎり、と歯を食い縛る蘇芳。笑みを消し蘇芳の言葉に黙って耳を傾ける宗次郎。
と、小さな音が足元でしたので宗次郎が一瞬だけそちらに目をやれば、水分を失った落葉が互いに触れ合い、乾いた音を立てて空気の流れに任せ地の上を這っていた。
宗次郎はほんの少しだけ笑みを浮かべ、目線を上げると蘇芳を見た。
「別に忘れてるわけじゃないんです。所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ。だってそれは、やっぱりどうあっても動かせない、この世の摂理ですから」
宗次郎の迷いの無い静かな口調に、は不安気な色を浮かべた顔を弾かれるようにして上げた。
その返答に、蘇芳は闘いのみに執着する彼に相応しい醜悪な笑みで口の端を吊り上げ、それ見たことかとばかりに宗次郎に言い募った。
「ならば―――」
「でも、」
己の思惑を続けようとした蘇芳の声を、宗次郎はしっかとした逆接の言葉で阻んだ。
先程自分自身で述べたように、宗次郎から見れば所詮この世は弱肉強食、強ければ生き弱ければ死ぬ、そんな世の中だった。弱肉強食、それはやはり覆せないこの世の摂理。動物や植物も、弱いものは滅び強いものがより栄える。人間もそれは然り。
人間は戦力による強さだけではなく、権力、公力、財力、知力、例えばそういった力のある者が生きる力をより強く持ち、そうでない人間は死んでいく。成す術も無い途方もない力というものの前に命を終えた者を、宗次郎は旅の中で幾度と無く目にしてきた。
やはり否定できない、この世は弱肉強食、その真実は。何より宗次郎の存在自体がそれを証明している。
それでも宗次郎がでも、と繋げたのは、それ以外のこの世の在り方を、長い旅路の中で知ったからだ。
「でもだからって、自分勝手に人を殺しちゃいけないんですよね。だって、死にたくないのは、生きていたいのはみんな同じなんですもの。僕もそうだったのに、そんな簡単なことに気付くのに随分遠回りしちゃいましたけど」
宗次郎は微苦笑を浮かべる。そう、そんな当たり前のことに十年、いや二十年もの時をかけてようやく辿り着いた。自身の罪は事実として受け止めながらも、雪哉にも語ったように、もうこれ以上誰かを殺めるつもりは宗次郎には無い。
そうして宗次郎は再び思い出す。今までの道の中で新たに見たこの世のもう一つの真実の姿を。強ければ生き弱ければ死ぬという状況下で、弱いながらも必死に生き抜こうとした人がいた。自身は強くありながらも、だからこそ弱い者を守ろうとした人がいた。今にも失われそうな命を、全力を尽くして救おうとした人がいた―――。
弱肉強食という前提は、誰もが同じだった。そうしてその下で、それぞれがそれぞれの生を精一杯に生きてきた。誰もが初めは弱いから、強くなろうとする。強い者がそうした弱者を庇護することもある。その上で強者弱者に差が付くにしても、それこそがこの世を成り立たせる因子。
相反する面を持つ人間というものを、一言では括れない。ただ、強くとも、弱くとも、この世で生きているのは皆同じ。
そう、同じなのだ。
「僕、やっと見つけました」
目を細め、にっこりと宗次郎は笑う。いっそ清々しく、限りなく明るい笑みだった。
それは蘇芳に向けて。或いは背後のに向けて。いつか諭してくれた剣心に向けて。この場の皆に向けて。
何よりも、自分自身に向けて。
瞼を上げ、宗次郎は真っ直ぐに前を見据えた。浮かぶのは揺ぎ無い笑みだった。
「所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ。
だけど、そんな世の中でも生きているのはみんな一緒だから―――もう誰も殺めないで、強いとか弱いとか関係なく、僕も、懸命に生きていきたい。
それが・・・・・僕の見い出した答えです!」
きっぱりと、宗次郎は言い切った。
自分自身の足で歩き、考えてみようと流浪の旅へ身を投じた末に、ようやく見い出した宗次郎の真実。志々雄のものとも、剣心のものとも違う、宗次郎だけの答えがそこにあった。
強さの優劣だけに拘らず、在りのままの自分で生きていく決意を表明した宗次郎に、剣心も感慨深い溜息を吐く。そこから横に少し離れた場所へと並び立つ真由と真美は、何事かを考え込むような視線で宗次郎を見る。弥彦の表情も明るく、鈴もまた感心するように目を見張る。
宗次郎の背後にいたは、彼の表情こそ窺い知ることはなかったけれど、その声の響きに確かなものを感じ胸がいっぱいになる。
そうして、宗次郎の真正面で彼の答えを受けた蘇芳は、気の沈むような影を帯びた顔を上げ、ほぼ無表情に近い裏の読めぬ表情で、静かに口を開いた。
「そうか・・・・それがお前の答えか」
「はい」
蘇芳の抑揚の無い声に、やはりにこっと笑って宗次郎は短く返事を返す。蘇芳はしばし押し黙り、次に宗次郎の持つ天衣を見遣った。刃の無いその刀身が目に入る。
「成程・・・・その刀を持つことは、たとえ刀を手にしていてももう誰も斬ることは無いという、お前の意思表示でもあるんだな」
「まぁ、そんなところです」
「・・・・・・・」
蘇芳は再び沈黙する。刀を下ろしたまま、再び目線もまた落とす。
長めの前髪で表情の隠れていた蘇芳は、やがて堪え切れぬといった風に低くくつくつと笑った。
「そうか・・・・もう何を言っても通じないようだな・・・・! ククク・・・ハーッハッハッハ!!」
やがてそれは、開き直ったような高笑いへと変わる。
宗次郎が己の願望の通り修羅へと戻ることを拒み今の自分の生き方を通そうとする姿勢に、蘇芳はある種、絶望に似たものを感じていた。
もう金輪際、自分が追い求めたあの頃の最強の修羅と再び剣を交えることは無いのだと。
だからこそ、蘇芳の修羅としての宗次郎に対する執着や未練はここで呆気なく崩れ去った。そしてそれ故に、ならばせめて修羅ではなくとも、かつて己が敵わなかった一人の剣客としての宗次郎を葬り去ってくれる、と新たな殺意が蘇芳には芽生える。
蘇芳はぎらつくような眼差しで宗次郎を射抜く。宗次郎はそれには動じず、ただそのままその視線を受け止めるだけだ。けれどその視線の意味は分かる。だからこそ宗次郎は天衣の柄をきゅっと握り直した。
「瀬田! 修羅に戻る気が無いならば、この俺の手でお前の生を断ち切ってくれる!!」
蘇芳の剣気と殺気に反応した紅葉の葉が、足元から巻き上がった。宗次郎の体を染める血よりも鮮やかな葉が視界の中を右に左にと通り過ぎる。
折りしも陽は遠い山の端にかかり傾き始め、青天の空は少しずつ茜色をその面に乗せていた。