―第三十五章:答(前編)―




大灼熱の間の先に再び続いた階段を上り、宗次郎達はついに蘇芳の待つ間の扉の前へと辿り着いた。
動けない真由と真美は大灼熱の間に残り―――最も二人曰く、蘇芳にはここまで育てて貰っている恩義があるから自分達は誰かと違って最終決戦は必ず後から見届けに行くとのことではあったが―――ともかく、このアジトに踏み込んだ時と同じ宗次郎、剣心、弥彦、そして案内役の鈴といった面々だけが重く閉ざされた扉の前に肩を並べている。
宗次郎はじっとその閉ざされた観音開きの木戸を見た。
自分自身の行いから始まった闘い。修羅であった頃の自分と決着を望む蘇芳、そして真由と真美との因縁にも応えるため赴いた個人的な闘い。
元はたった一人での闘いだった。けれどここまで来るまで、宗次郎は多くの人達と関わってきた。
アジト内で共に闘いを切り抜けた剣心、弥彦。後方支援をしてくれた操や蒼紫、薫、葵屋の者達。
敵でありながらもそれぞれの信念と思いを持ち、立ち向かってきた雷十太、鈴、雪哉、それに真由と真美。
そして今でも忘れない、忘れはしない存在、志々雄真実とその一派の者達。誰がなんと言おうと、今にして思えば、彼との出逢いこそが宗次郎が自分自身の人生を生きるための、全ての始まりだった。一人きりでここまで来たわけではなかった。
この闘いも、全てはあの日と繋がっている。あの日があったからこそ、今の宗次郎はここにいる。ごくごく当たり前のことかもしれないが、過去があるからこそ今がある、そんなことをまた思い返す。
そうして今に至って出逢ったと浅葱という存在は、人々が過ごす穏やかな日常というものを宗次郎に教えてくれた。与えてくれた。共に過ごさせてくれた。
『行ってらっしゃい、宗次郎君』
『気を付けてな』
静岡から旅立った時のことが、ふっと宗次郎の脳裏を過ぎる。
穏やかな毎日でありながらも、医師という立場上、剣客である宗次郎とは違う形で彼らは常に死と隣接していた。
すべての人々が救えるわけではないということも、彼らはよく分かっていた。それなのに、それでもと浅葱は救える限りは全て、救おうとしていた。
『だって人の人生って、どう足掻いたって一回しかないじゃない? たとえ輪廻の輪をくぐってまた生まれてくるとしても、その人の人生は一回だけ。
だったら、その一回を、私は精一杯生きていたい。人にもそうして欲しい。全部の命が救えるなんてことないって、そんなことは分かってる。でも、私はできる限りのこと、したいんだ』
以前、はそんな風に言っていた。あれは確か、彼女と浅葱に彼らの両親の死の経緯を聞いた時だったろうか。
その人にとってのすべてが終わる死というものを知っているからこそ、と浅葱は人をそこから救おうとする。誰もが逃れられない死というものを論理的にも感情的にも理解しているからこそ、今そこにある生を繋ぎ止めようとしていた。
咲雪の死を間近で見ていた宗次郎だったから、人の死を防ぐことにも限界があるということを、改めて思わずにはいられなかった。けれど同時に、宗次郎はと浅葱の二人の元で、人が迫り来る死から逃れた瞬間も、幾多となく目にしていたのだ。
人の死を知るが故に、何よりも人を生かそうとする。そんな二人を見て、どこか眩しさのようなものを覚えたのを宗次郎は憶えている。
そしてその当のの命が、今蘇芳に脅かされている。それを知った時、宗次郎の闘う理由が一つ増えた。
咲雪が宗次郎に死の痛みを教えてくれた人ならば、は宗次郎に、生の尊さを教えてくれた人。
我侭かもしれない、けれど失いたくない人を、二度も失うのは御免だった。
宗次郎はすうっと深呼吸してやや顔を上げた。今こそ、この闘いの全てに決着をつける時。宗次郎はトン、と扉に掌を付いた。
「いよいよ、だね」
傍らの鈴が笑顔ながらもいささか緊張した声で呟く。宗次郎の背後にいる剣心と弥彦も、押し黙ったまま頷いた。
宗次郎はにこ、と小さく笑んだ。
「行きます」
宗次郎はそのまま、掌に力を込めた。扉は大した手応えも無く、呆気なく開け放たれる。
扉の先に続いたのは、床も石畳も無い荒涼とした土の広場。ただ、その辺りを囲むようにして包み込んでいたのは、人の血潮の如く真紅に染まった葉を誇らしげにその枝々につけた紅葉の森。そしてその奥に控える正面の赤い山肌の上方からは、地下水が繋がってでもいるのか、水飛沫を上げる滝が流れ落ちている。その水の行方は手前の紅葉した木々に阻まれて見ることは叶わないが恐らく、深い断崖の底へと通じているのだろう。
澄んだ滝の美しさもさることながら、闘場を囲んだ紅葉のその荘厳さや優美さは、今まで何度も目にしてきたのに改めて圧倒的な質量感をもって宗次郎達に迫ってきた。
計ったかのように、その場を風が通り抜ける。
抗うことなくその流れに身を任せる、幾多もの木の葉・・・花吹雪ならぬ紅葉の吹雪とでも形容できそうなそれは、血の色にも似たせいかあたかも人の命の儚さをまざまざと見せつけるかのよう。
当然それだけではなく、はらはらと散る紅色の葉が緩やかに地へと滑り降り、足元をも埋めつくしそうな様はこの上もなく典雅で絢爛な光景だった。
その紅い落葉の嵐の中心地に佇むのは、無論その男―――琢磨蘇芳。
「ふふ・・・なかなか雅な舞台だろう?」
にや、と蘇芳が笑う。その村正の刀身は既に剥き出しになっており、彼の背後、杭のように地面に突き立てられた丸太に縛り付けられているの首筋に、ぴたりと宛がわれていた。
不安げな表情のと、宗次郎は一瞬、目が合った。
蘇芳はこのを宗次郎の目の前で殺す気だ、との雪哉の忠告通りの有様に、宗次郎は怒りに似た不快感を感じるより先に思考が一瞬、空白になる。切迫した危機的状況に、剣心と弥彦もあれが例の少女かと感想を抱く間も無く目を見張った。
が、蘇芳は意外にもスッと刀を引いた。
「ふん、焦るな。この娘はある意味大事な切り札だ。そんなすぐには殺したりしないさ」
笑みでない表情を浮かべた宗次郎を鼻であしらうと、蘇芳はざっと前に進み出た。とりあえずの近くから離れたことに、宗次郎は知らず知らずのうちにほっとする。
「あなたの望み通りにここまで来たんですから、もうさん達のことは放っておいてくれません?」
再び笑顔を浮かべることができた宗次郎の言葉の裏にあるのは、もう己の闘いに達を巻き込むなということだろう。は元々は宗次郎を自分の思惑に従わせるためにと、蘇芳が用意した人質だ。
けれど蘇芳にはそこにまだ企みがあるということを、宗次郎は知らない。
「そういうわけにはいかんな。真由と真美すら破って、お前がここまで来たからにはな・・・・」
長く後ろに垂らした黒髪を靡かせ、蘇芳は更に前に進み出る。そうして生憎とそのおかげで、宗次郎とは数間程の距離がありながらも、再び顔を合わせることができた。
右脇腹、左肩から血を滲ませ、浅くはあるものの全身に刀傷と軽度の火傷を負っているという宗次郎の姿に、は酷く衝撃を受けたようだった。表情からそれが分かる。
けれど宗次郎はそんなに、にっこりと微笑って見せた。
「大丈夫ですよ、これくらい。さんのことも死なせやしませんから、すみませんけど、ちょっとだけそこで待ってて下さいね」
宗次郎はあっさりと言ってのける。ごくごく普段通り、といった宗次郎の言動にの見開かれた瞳が僅かに歪んだ。
満身創痍ながらもとりあえずは無事だった宗次郎を見て、は安堵しなかったわけではない。申し訳無いという気持ちが先に立ったが、それでも宗次郎がここまで来てくれて、嬉しかった。本当に嬉しかった。ただ。
子どものように笑う宗次郎にはあぁと嘆息し、今度は泣きそうな顔になった。
ああ、どうしてこの人は。
傷だらけなのに、それでもなお笑うのだろう。
「・・・・鈴」
「は、はいっ!?」
そのの方が余程悲痛な表情をしているのに思わず目を奪われていた鈴は、蘇芳の呼びかけに慌てて顔を上げた。鈴の意識が己に向いたことが分かると、蘇芳は彼女を労うような力強い笑みをニッと浮かべた。
「案内役、ご苦労だったな」
「は、はい!」
その蘇芳の一言に、鈴の顔は今までに見たこともないくらいぱあっと明るくなる。けれど、鈴は、あ、でもと口篭り、どこか気まずそうな表情に変わった。
「でも、あたし、あたし達、闘いには負けちゃって・・・」
「そんなことは別に構わん。如月も百合も一郎汰もふみも、皆立派に闘ったのだろう? 上出来だ。それに、瀬田達をちゃんとこの場へ連れて来ることができたんだからな」
自分だけに向けられたわけではない言葉に、鈴は再び笑顔を取り戻す。それはつまり、蘇芳は彼女が内包する他の人格達をも褒め称えたのと同義だからだ。
心底嬉しそうな鈴に弥彦は、たとえ自分達から見ればどんなに厄介な相手であろうとも、彼女にとってやはりこの蘇芳は唯一無二の存在なのだろうと、納得する反面どこか歯痒さにも似たものを感じずにはいられなかった。
その蘇芳は、宗次郎に向けては薄く冷笑を浮かべるのみだ。
「そう、お前はここまで辿り着くことができたんだ。雪哉も真由も真美も、誰もお前を斃せなかった。皆奮戦したんだろうがな。だからこそ・・・」
蘇芳は一度言葉を切り、己の前方の空間を斬り払うように刀を振るった。ひゅん、と風切音が上がり、刀を振るうことで生じた風圧が地に舞い降りた紅い木の葉をふわりと宙に巻き上げる。
刀を両手持ちにした蘇芳は、宗次郎に好戦的な視線を向け至幸の笑みと共に言い放った。
「奴ら全てを打ち破ったお前の今の強さ、俺も愉しませて貰おうか!」
宙に巻き上げられた木の葉が、蘇芳の発した剣気に反応してなお高く舞い上がる。
旋風に乗る紅葉の舞のなんと美しいことか。だがそれは、闘う前からも既に極限まで高められた蘇芳の剣気と闘気が引き起こした現象。
手足を痺れさせるような激しい剣気を剣心もまた全身で感じ、同時にそれは蘇芳への危惧となる。やはり、この男は油断ならぬと。
ただそれでも、宗次郎は自身に纏わりついてくる木の葉の群れにも臆さず立っている。空に流れる風を掴もうとしても全く手応えが無くその指はすり抜けてしまうように、柔軟にその剣気を自然受け流している宗次郎は、笑みを湛えたままで天衣の柄に右手を添えた。
「今度こそ決着をつけましょうか、蘇芳さん」
片や鬼気迫り、片やごく穏やかに、質の違う笑みを浮かべた蘇芳と宗次郎。
その二人の狭間に、引力に負けた紅い木の葉が静かに降りてくる。雪よりもなおゆうるりと、一枚、二枚と地へと寝そべる。三枚目が土に触れた時と同じくして、地を蹴って蘇芳は走り出していた。筋肉の隆々と盛り上がった体躯にしては俊敏な動きで、蘇芳は一撃目を仕掛けてきた。
勿論それを大人しく受ける宗次郎ではない。蘇芳が足を踏み出すや否や即座に天衣を抜刀、宗次郎もまた前へと進み出る。
上から振り下ろされた重い一撃を、宗次郎は刀で受け止めることはせずに体を傾けて回避する。避けながら横薙ぎに刀を一閃させるが、その太刀筋に向けて蘇芳は刀を振り上げ、宗次郎の天衣を弾き飛ばす。
その隙を付いて蘇芳は袈裟懸けに斬りつけようとするが、渾身の力を込めた斬撃が薙いだのは宗次郎が消え失せた空間だけ。既に宗次郎は縮地の三歩手前でその場から離れ、蘇芳に背後から強襲していた。
けれど易々と宗次郎の太刀を喰らう蘇芳ではない。ざっと身を翻すと、己の村正で宗次郎の刀を受け止める。即かず離れず、といった風に、互いの体に一撃も入れられないまま宗次郎と蘇芳の攻防は続く。
「・・・・できるな、蘇芳の奴」
黙って闘いを検分していた弥彦が、小さく感想を漏らした。
視線の先にいる宗次郎は、再び三歩手前を用いて蘇芳に斬撃を繰り出している。蘇芳と宗次郎との闘いは、以前目にしていたが、あの時は互いに全くの本気ではなかったのだと弥彦は再確認するに至る。何故なら蘇芳の剣は此度の闘いでは鋭さと重さ、凄みを増し、宗次郎の方もまた三歩手前とはいえ縮地を闘いの序盤から使用しているからだ。
達人同士の闘いであるから、双方共に簡単に一撃が極まらないのは当然とも言える。ただ一つ弥彦が気になることがあるとすれば、蘇芳の仕掛ける攻撃に対し、宗次郎がそれをほとんど回避する形で凌いでいるということ。力では確かに蘇芳の方が上かもしれないが、それにしては前の闘いと比べ、宗次郎が直接刀を交えなさ過ぎる。まるで、敢えて鍔競り合いを避けているかのような。
「体力の消耗って点を差し引いても・・・・何つーか攻め手に欠けてるぜ、宗次郎」
回避から攻撃に繋げる手も無くはないが、何度もそれを繰り返していては蘇芳とて対処の仕様は幾らでもある。要は宗次郎の攻め方が単調になってしまうということだ。ぼやくように呟いた弥彦に、隣の鈴はふふ、と何かを含むような笑みを零す。
「それは、瀬田さんが蘇芳さんの『鬼刃』の凄さを知ってるからだよ」
「その鬼刃ってのは一体何なんだ?」
そういえば宗次郎は蘇芳と再会したあの場でも鬼刃がどうこう言っていたな、と弥彦は思い返す。十本刀時代の蘇芳の字名でもあったと聞くが、その本質は依然明らかでない。
豪快に剣を振るう蘇芳を目を細めて見詰めながら、鈴は目線を動かさないままで今度は剣心に向けて言う。
「維新志士だった緋村さんだったらご存知だよね? 『二の太刀要らずの示現流』」
「・・・・ああ」
維新志士、という単語に小さく反応を示しながら剣心は頷く。
示現流、それは一の太刀を疑わず、二の太刀要らずとも呼ばれ、初太刀から勝負の全てを賭けて斬りつける鋭い斬撃が特徴の、薩摩で生まれた類なき豪剣。
一撃で必ず相手を致死に追い込む、という気迫を以って、幕末の頃数多の薩摩隼人が新時代を切り拓くためにその剣を振るっていた。
剣心が属していたのは長州藩だったので藩こそ違えたが、同じ討幕派の人間として彼らとは共に命を賭して戦乱の中を駆け巡ったのだ。
「初太刀で勝負を決める、薩摩の最強剣・・・・」
「原理はそれに近いよ、蘇芳さんの鬼刃は」
剣心の静かな返答に、鈴は真相を隠そうともせずにさらっと述べる。
そうして、我がことを自慢するかのように、活き活きとした表情で鈴は続けた。
「ただ、初太刀に全てを賭ける反面、空振りすると隙の大きくなる示現流と違って、蘇芳さんの剣は二の太刀でも初太刀と同じ強さの斬撃を繋げられるんだ。たとえ一撃目をかわされても、二撃目、三撃目は間髪入れずに同等の強さで繰り出される。その全てが一撃致死の力を持つ強力無比な剣、それが蘇芳さんの『鬼刃』!」
そう述べた鈴はこの上も無く誇らしげな表情だ。事実、蘇芳の強さが鈴は誇らしいのだろう。物事を冷静に分析するのは如月の人格の方が得意分野なのだろうが、鈴自身が蘇芳の技の本質を熟知しているが故に、そしてその強さを他者にも知って欲しいからこそ、至極嬉しそうに胸を張って説明する。
「元同志だもん、瀬田さんもそのことは知ってる。だからこそ迂闊に蘇芳さんの鬼刃を刀では受けられない。体格から見ても腕力の差は歴然、押し切られたらどうなるかくらい、瀬田さんも良く分かってるだろうしね」
「そうか、それで・・・・」
弥彦は納得したような声を上げた。端で見ているだけでは分からない闘いの真実。剣気が届かぬとも、宗次郎は蘇芳がこの闘いに向ける妄執の深さを知っている。だから宗次郎は先の対雪哉と対真由・真美の二戦でもそうであったように、この闘いにも本気で臨む気でいた。闘いをけしかけてきた蘇芳が、本気でない筈があろうか―――。
蘇芳が本気で向かってくるであろうことを宗次郎も確信していたが故に、その鬼刃を警戒し、身に受けぬよう気を払っているのに違いない。
事実、縮地の三歩手前で闘場を疾駆する宗次郎が動きを止めた瞬間に垣間見せる表情は、笑みこそあれ瞳は真っ直ぐに蘇芳の動きを捉えようとしているからだ。
「けど、だからってこのまま後手に回り続ける気はねェんだろ、宗次郎!?」
焦れったいという気持ちもあるのだろうが、膠着状態に活を入れるように弥彦は大声を発した。宗次郎はそんな弥彦を一瞬だけ見、にこっと小さく笑んだ。
「それは勿論」
そうして意識を再び蘇芳の方へと戻した宗次郎は、蘇芳の正面、距離を置いたところで一度立ち止まった。そうして片足立ちになると右足をトントンと地面に打ち付ける。
対する蘇芳も動きを止め、超然とした余裕の表情を崩さないままで村正を片手持ちに変える。ニヤ、と蘇芳は薄い笑みを口元に乗せる。
「十三年前、初めて直接剣を交えた時は、お前は縮地の三歩手前すら使わなかったのにな」
「そうですね。だってあの時は実際、縮地を使うまでもありませんでしたから」
歯に衣着せぬ宗次郎の返答に、蘇芳は低くくつくつと笑う。やはり面白い男だ、と口の中で呟く。
「今度の闘いばかりは、遠慮なく行きますけど」
「そうして貰った方が有り難い・・・・いや、そうでなくては困るな。そのために俺は今回の闘いの舞台を整えたんだ」
蘇芳の言葉を最後まで聞き届け、宗次郎は足を地に打ち付けていた動きを止めた。す、と両足を軽く前後に開く。
「縮地の一歩手前、行きます」
静かな言葉の終わりと共に、一段階飛ばした速さで宗次郎は走り出した。鍛え上げられた宗次郎の健脚が可能とした一瞬で相手の間合いを侵略するその疾走は、最早振り上げた天衣で蘇芳を捕らえる所まで辿り着くことを可能とした。
後はこの刀を蘇芳の首の根元に振り下ろせば、形勢は逆転、或いは闘いの流れを変えることができると宗次郎は予測していた。その予測通りに、宗次郎はかつて天剣とも謳われた鋭い斬撃を蘇芳に繰り出す。
刀身が蘇芳の肩に衝突するその寸前、蘇芳の大きな手が宗次郎の華奢な手首をガッと掴んだ。途端、足が止まり前のめりになるが、蘇芳が手首を捕まえたことが作用して倒れるまでには至らない。
「・・・・っ!」
攻撃が届かなかった、という感想は、蘇芳が宗次郎の手首をそのまま骨が折れるような勢いで強く握ってきたことで押し流される。このまま握り潰されるんじゃないか、という程にかけられた握力の強さに、宗次郎は小さく声を漏らす。
宗次郎は空いた左手で蘇芳のその手を引き剥がそうとしたが、指の一本すら離れない。それどころか蘇芳はそんな足掻きを鼻で笑うと、膝を曲げて宗次郎の鳩尾を蹴り込んだ。
腹の底から突き上げられたような痛みに宗次郎はグッと呻き、ごほごほと咳き込んでしまう。
自然、下を向いてしまった宗次郎を見下ろして、蘇芳は残虐な笑みを緩やかに浮かべた。見開かれた目はどこまでも冷然で、残酷、という言葉以上に当てはまるものは無い。
「どんなに速くても、今のお前は血の臭いがし過ぎてるのさ。それを頼りに捕まえちまえばこっちのもんだ」
未だ宗次郎は咳が止まらないままだったから、蘇芳のその言葉も断続的にしか聞こえない。ただ、全体の意味は大体察知した。
元々、蘇芳は血を求める殺人快楽主義者的なところがある、恐らくは血の臭いには敏感なのだろう。そしてこれまでの闘いの中で負った傷が、それにより流れた血が、蘇芳に宗次郎の位置を正確に指し示した。
(参ったなぁ)
心中で閉口したように呟いて、宗次郎は息を整えながら目線だけで蘇芳を見上げた。
今まさに斬首するかのごとく、振り上げられた煌めく刃が頭上に見える。
即座に事態を悟り蘇芳から逃れようとしたが、相変わらず彼の手は宗次郎の手首をがっちりと掴んだままで、逃れることはできなかった。
蘇芳は再び、ニィと笑った。掴んだ宗次郎の右手をぐいと前に引き、無理矢理その体勢を崩すと、無防備な背中に村正の刃を押し当てた。着物越しでも分かる研ぎ澄まされた刃の感覚に、宗次郎はハッと目を見開いた。
「この村正も言ってるぜ。お前の血が欲しいってな・・・・!!」
蘇芳はそのまま、刀身を手前に引くようにして宗次郎の背中を斬った。素早い一撃が振り切られると同時に血飛沫が舞う。宗次郎の背中は一文字に裂かれ、切れた着物とシャツの間から露出した肌はただ赤く染まっていた。
蘇芳がようやく宗次郎から手を放し、当の彼が地面に倒れ込んだのを、は身動きが取れないまま目の当たりにするしかなかった。
宗次郎君、という悲鳴は、声にならなかった。