―――寒梅は花をつけましたか。
それとも、まだですか?
―第三十一章:寒梅、花をつけしや未だしや 十―
「まだだ・・・・まだ俺は、倒れるわけにはいかない・・・・!」
奥歯を噛み締め、荒い息を吐きながらも雪哉の凄惨な気迫は衰える所を知らない。気絶してもなお手放さなかった両刀をぎゅっと握り直し、雪哉は宗次郎を睨みつける。
「行くぞっ!」
確実に強烈な一撃を叩き込んだのにそれでもこうして立ち上がった雪哉に宗次郎は驚いていないわけではなかったが、また向かって来るのならと思い直し、天衣を持つ手に力を込める。
先手を仕掛けてきたのは雪哉だった。大刀を振り被って力任せに斬りかかってくる。だが、先程の宗次郎の一撃がやはり効いているのか、その動作は精彩を欠いていた。
宗次郎は難なくかわし反撃を試みる。防がれるかと思われた上段からの一撃は、けれどあっさりと雪哉の左肩口に入った。幾らその目で宗次郎の動きを見切れていても、痛みで体が思うように着いていかないのだろう。
「ぐっ・・・・!」
雪哉は呻いて後方へと身を引く。それでも宗次郎に鋭い目を向けると、もう一度雪哉はダッと前に駆け出した。突き出された脇差を天衣の刀身で受け流し、宗次郎はそのまま刀で雪哉の胴を薙ぎ払う。
雪哉は苦しげに顔を歪めたものの、倒れたりはしなかった。踏み止まって大刀を振るう。しかしそれは宗次郎に届くことはなく、空しく宙を斬った。
その隙を付いて、宗次郎は再び雪哉に天衣を叩き込んだ。右上腕を強かに打ち据えられた雪哉は大刀を取り落としそうになるが、何とか持ちこたえて柄を握り締めた。とはいえ、幾らか感覚が麻痺してしまったようで、その手は震えている。
「く・・・・」
小刻みに刀身が揺れる。雪哉は歯を食い縛ってその震えを押さえつけようとする。柄を握っているのも辛いはずなのに、雪哉はまた宗次郎に向かってきた。
たとえ斬撃がかわされても、宗次郎からの攻撃を食らおうとも、何度も、何度も―――。
(・・・・・雪哉さん)
当初は傷ついてもなお根気強く剣を繰り出してくる雪哉に同じく刀で応酬していた宗次郎だったが、少しずつ心境に変化が生じてきた。
全身が痛むのにもかかわらず未だ諦めの見せない目で向かってくる雪哉の姿は、執念の一言に尽きる。家族の仇を討つ、宗次郎を斃すというその一心が雪哉の体を突き動かしている。
親しい者を誰かに無慈悲に奪われた時に沸き上がる激情をいうものを宗次郎は知らない。今の心に怒りの感情が浮かぶことはあれど、身をも焦がしてしまうような憎悪は知らない。
が蘇芳の手に捕らわれたと知った時の、どうしようもない不快感を怒りと呼ぶのならば。
それよりも強い憤怒や憎しみは、どれだけ雪哉の内に込められているのだろう。
(何が何でも僕を斃したいって思うの、当たり前だよね・・・・)
血の繋がった者同士の絆、というものは宗次郎には理解し得ぬものではあったが、雪哉がそれを大事にしており、そして宗次郎がその仇であるならば、恨まれても当然だという気持ちが浮かぶ。
そしてそれは、何よりも己を斃さねば、成就できない悲願であろうということも。
剣を向けられたから剣で返していた。けれど本当にそれで良いのかと、宗次郎は再び自問した。彼の家族を死に追いやったのは、紛れもなく自身の犯した過ちなのだ。
そうしてそう考えた末に―――
宗次郎は雪哉の刀が振り上げられた時、ぴたっと動きを止めた。
「・・・・っ!!」
雪哉が驚いたように目を見開いた。それでもそのまま振り下ろされた刀は、宗次郎の左頬を掠って止まった。ほんの僅か縦に裂けた頬からつ、と赤い筋が流れる。
肩に触れる寸前のところにある雪哉の大刀がカタカタと鳴っていた。
「何故、避けなかった・・・・」
茫然と雪哉は宗次郎に問うた。宗次郎は刀が突きつけられてもなお、にこっと小さく笑った。
宗次郎にしてみれば、雪哉が刀を止めた方が不思議だった。あのまま叩き斬ろうと思えば、幾らでもできたはずなのに。
「その方が、あなたの気が晴れるかなぁって思いまして」
「ふざけるな! 無抵抗の貴様を痛めつけたところで、俺や咲雪の恨みが消えるわけが無いだろう!」
カッと瞠目した雪哉が声を荒げた。宗次郎は無言で雪哉を見つめ返していた。
雪哉の端整な顔に浮かぶのは紛れもない怒り、けれどその中には確かに僅かな狼狽も含まれていた。
雪哉が口を噤んでしまったのを見て、宗次郎は一歩も動かないままで言葉を返す。
「でも、今その刀で僕を突き刺せば、あなたがあんなに望んでいた御家族の仇が取れるんですよ。簡単に。それなのに、どうしてそうしないんです?」
死ぬのを望んでいるのではなく、宗次郎はただ疑問を口にしたに過ぎない。あれほど自分に憎しみを抱いていた雪哉が、王手のかかった仇敵を前にして躊躇するのが不可解で仕方なかった。
雪哉は何か言いたげな顔で宗次郎を睨んでいた。宗次郎はまた淡い笑みを浮かべる。
この、何かに迷ったような表情。
咲雪さんにそっくりだ。
「言い訳になっちゃうかもしれませんけど、僕、本当に咲雪さんには死んで欲しくなかったんですよ。咲雪さんが死ぬ間際になってから気付いたって、遅かったんでしょうけど」
雪哉が今度は悔しげに目元を歪めた。その刀はやはり動かない。
宗次郎は真っ直ぐに雪哉を見据えた。
「でも、そのおかげで僕、色んなことに気が付いたんです。誰かが死ぬのって、こんなに苦しいことだったんだなぁって。一人亡くしただけでもあんなに苦しかったんですもの、雪哉さんはきっと、もっと苦しかったんでしょうね」
雪哉は何も言わない。ただ表情を険しくしたままで、宗次郎の言葉を半ば茫漠と聞いていた。
「僕が奪ってきたたくさんの命に、どうやって償えばいいのかって、その後ずっと考えてた。けど、幾ら何をしたところで、死んだ人が生き返るわけじゃないし、償えるものでもないんですよね」
宗次郎は小さく微苦笑を浮かべて語る。
悔しいがそれは真理だ、と剣心は内心呻いた。旧時代を壊す時に奪ってきた命への償いに、新時代で人々を剣で守ることを剣心は選んだ。けれど幾ら何をしたところで罪が消えるわけではない。人達の死を無かったことにすることなどできない。
今しがた宗次郎が言ったように、死んだ者は何をしても生き返りはせず、どんなに贖おうとしても、人を殺めた罪というものは償いきれるものではない。
例えどれだけ多くの他の者を守ったとしても、死んでいった者達に対しては、何をどうすることもできないのだ。
過去幾度と無く苛まれた葛藤に、剣心は歯噛みする。
「でも、だから僕は、もう人を斬らないって決めたんです。死んだ人達に何もできないんだったら、せめてもう誰も殺さないようにしようって。それが本当に償いになるかどうか分からないですけど、それでもこれからはそうやって生きていこうって」
宗次郎は笑みを湛えていたが、それが楽の感情によるものではないことは誰の目から見ても明らかだった。自身が見い出した道に信を置き、それ故に浮かべた笑みであろうことが。
宗次郎がこの手で殺めてきた数え切れぬ程の人達。その周囲の人達。失いたくない者を失った時、宗次郎が例えようも無く苦しかったように―――彼らもまた、苦しかったに違いない。幼い頃の自分がそうだったように、迫り来る刃を前に、死にたくなかったのに違いない。
人の死の痛みを真に感じたことで、宗次郎の意識は自身から外へと向いた。当たり前のことにようやく気付いた。誰かを自分本位で殺めるなど、あってはならぬことなのだと。
強くならなければ生き延びられなかった現実は否定しない。ただ、そうしなくても生きていけるようになった今、宗次郎は己の体感した様々なことを一纏めにした中から、『斬らない』というはっきりとした意思を引き出せた。
死んでいった者達に何も償うことができぬのなら――――もうこれ以上、誰も殺めないと心に決めることが、宗次郎なりの償いの形の一つだった。
「雪哉さん」
雪哉が弾かれたように宗次郎の顔を見た。その視線を受け、宗次郎は再び口を開く。
「だけど幾らそんなこと言ったところで、咲雪さんや、あなたのご両親が戻ってくるわけじゃない。だから謝ります。たくさんの人達を殺してしまって、すみません」
雪哉の顔にはっきりとした動揺が走った。そんな言葉が宗次郎の口から出てくるとは思わなかった、そういった表情だ。体もまた、身動ぎ一つせずに硬直してしまっている。
宗次郎の方も笑みが消えていた。普段明るい表情を浮かべているだけに、微笑の失せたその顔は酷く神妙に見えた。
しばし雪哉を真っ直ぐに見据えた後、宗次郎はゆっくりと頭を下げた。深く、深く、腰を曲がり得る限り曲げて。
深々と礼をした宗次郎は目を伏せた。
申し訳ないと宗次郎は思った。本当に。今まで奪ってきた多くの命に。その挙句、苦しませてきた多くの人達に。
他でもない咲雪の死を経て、申し訳ないと宗次郎は思えるようになった。
だから言える、今なら。
―――いや、言いたかったのだ。
「あなたの御家族を奪ってしまって・・・・本当に申し訳ありません」
深く頭を下げたままで、宗次郎は心からの謝罪の言葉を述べる。
雪哉は息を飲んで瞠目し、次第にその表情はまるで悔し泣きを堪えているかのようなものへと変わった。
宗次郎の言動に驚愕したのは雪哉だけではなかった。剣心や弥彦、鈴もまた、宗次郎の口からそんな詫びの言葉が出たことに衝撃を隠せずにいる。
とはいえ剣心は、あの宗次郎が人を殺めたことを誠意を以って謝り、またそんな風に思い至ることができるようになったことに、彼の成長とそれまでの内に秘めた苦悩を思わずにはいられなかったが。
「・・・・っ!」
辞儀をしたままの宗次郎を見下ろしながら、雪哉は両手をわなわなと震わせていた。同じように唇を戦慄かせるのは、果たして怒りか悲しみか、或いはそれ以外の何かか。
乾き切った喉の奥から絞り出すように雪哉は言う。
「・・・・頭を上げろ。そんなので俺が納得するとでも思ってるのか!?」
「そうですよね、すみません」
小さく笑って、今度はあっさりと謝った宗次郎は素直に頭を上げた。その時見た雪哉は、酷く狼狽しているように宗次郎は思えた。
宗次郎自身は気付かなかったが、彼が顔を上げた時、雪哉のそれに拍車がかかった。
「く・・・・っ、クソッ、畜生!!」
雪哉は刀を投げ捨て、力任せに宗次郎の左頬に拳を叩き込んだ。勢いで体が傾き、宗次郎は畳に横様に倒れ込んだ。
ずきずきと頬が痛む。宗次郎はぼんやりとその痛みを噛み締めた。血の味がする。今ので、どこか口の中を歯で切ったのかもしれない。
宗次郎はゆるりと顔を動かし雪哉の方を見た。頬は相変わらず痛む。後で幾らか腫れるだろう、これは。
雪哉は宗次郎を殴りつけた体勢のままで、拳は行き場を失くしたように震えていた。目が合うと雪哉は宗次郎にずかずかと近付いてきて、左手でそのシャツの襟元をぐいっと掴み上げた。そのまま立ち上がる。宗次郎もそれに引きずられて立つような形になった。
シャツを掴まれているので宗次郎はぐっと息が詰まるようだった。けれど宗次郎は抵抗せず、雪哉のされるがままになっている。どうぞお好きなように、そう言いたげな表情で穏やかに笑んでいる。
雪哉が再び拳を振り上げた。次に起こるであろう事象を想像し、二人の闘いを静観していた弥彦が思わず顔を顰める。
けれど雪哉のその拳は、宗次郎目掛けて振り下ろされることは無かった。
「・・・・・クソッ・・・・!」
再度そう吐き棄てて、雪哉は宗次郎を突き飛ばすようにして手を放した。押された宗次郎はよろっと二、三歩たたらを踏んで止まった。
宗次郎は唖然と雪哉を見返す。てっきりまた殴られるとばかり思っていたのに。そして雪哉の気が済むならそれでもいいと思ったのに。
「どうして殴らなかったんですか?」
「―――・・・・っ」
雪哉は唇を噛み締め、言葉に詰まる。自分自身でもその理由が分からない、そんな風にも見えた。
と、その時、雪哉の懐からひらりと白い何か落ちた。どうやら手紙のようだった。
和紙が折り畳まれ細長い形となっているそれは、丁度宗次郎と雪哉の中間辺りで動きを止める。
「それは・・・・?」
闘いの最中にも懐に忍ばせる手紙なんて一体と、不思議に思って宗次郎は尋ねた。雪哉はやや間を空けて答えた。
「―――咲雪からの手紙だ」
「えっ・・・・?」
その返答に宗次郎は目を丸くする。
「咲雪が死ぬ三日前に届いたんだ。自分で自分の死期を悟ったかのようにな・・・・」
「咲雪さんが・・・・」
彼女が死んだ時、居場所も知らない彼女の兄にそれをどう伝えようかと考えあぐねていたことを宗次郎は思い出した。宗次郎は雪哉に連絡を取りようがなかったのだが、咲雪の方がちゃんと兄には報せていたのだ。それも、まるで計ったかのような時期に。
雪哉の言う通り、咲雪は己の死期を悟っていたのだろうか。
「これにはお前と出会ってからのことが事細かに書かれていた。父さん達が死ぬ原因を作ったお前と再会して咲雪は復讐目的で近付いたことも、本懐を遂げる前に自分が労咳だって知られてしまったことも、それでもお前が離れていかなかったことも・・・・・」
雪哉はその手紙を拾い上げ、親指と人差し指で挟んで持った。咲雪が書いたものだろう、『桐原雪哉殿』と達筆に書された宛名が宗次郎の目に映る。
いつ書いたのかと宗次郎が疑問に思うまでも無い。同じ家で過ごしてはいたが、例えば宗次郎が一人で畑仕事をやっていた時だったとか、想像の余地は幾らでもある。
「他には、何か書かれてなかったんですか?」
素朴な宗次郎の質問に、雪哉は逡巡するような表情になった。
そうして、何事かを諦めたかのように、力無く笑う。
「この手紙が届かなかったら・・・・きっと俺は、動きを止めたお前を躊躇いも無く斬り殺してたんだろうな・・・・」
雪哉はそう言って今度は自嘲するように笑い、手にしたその手紙に視線を落とした。
ややあった末に、ようやく口を開いた。
「手紙の最後に、俺より先に逝くことへの詫びの言葉があった。その後にはこう書かれてたよ。『兄さんも宗次郎を恨むのは構わない。だけど決して、殺さないで』と」
「・・・・!」
雪哉が静かに告げた咲雪の最期の言伝に、宗次郎は少なからず衝撃を受けた。
あの時、最期の時にも咲雪は宗次郎に『少なくとも答えを見つけるまでは生きろ』と、そう言い遺して死んだ。それと同じようなことを、兄にも伝えていたのだ。自分と同じく家族を宗次郎達によって奪われた兄に、そして彼女自身の死を以って更に悲しみの淵に追い落としてしまうであろう、もうこの世で唯一の肉親に。
「咲雪はそう書き残していたが、簡単にお前への憎しみが消えるわけじゃない・・・・。俺は恨んだ。憎んだんだ、お前のことを」
雪哉は視線を手紙から引き剥がし、宗次郎を睨み付けた。
その目には宗次郎に対する怒りが浮かんでいた。けれど不思議と、先程まで突き刺すような殺気は消え失せていた。
宗次郎自身は雪哉の激情の変化を敏感に感じ取れなかったが、少なくとも端から見ていた剣心にはそう思えた。
「それでお前を探し回ってた時に俺は蘇芳と出会った。蘇芳に協力する代わりに、俺はお前に復讐する機会を得た。やっとお前を殺して皆の仇を討てるんだ、そう思った。なのに、なのに・・・・・!」
「・・・・迷っていたのでござるな」
剣心の一言に、雪哉がハッと顔を上げた。
拳だけでなく、肩や声までも震わせていた彼の姿は、真実何かに迷っていたようだった。
彼の心の惑いを看破するように、剣心は穏やかに雪哉に向けて語りかける。
「真に宗次郎を殺したいと願うなら、先程お主自身が言ったように、あの局面で何も躊躇いも無く刀を振り下ろしたはず。されど、お主は刃を止めた。宗次郎が無防備になった途端、まるで大義を失ったとでもいうように・・・・・」
「あんた・・・・そうか、例の人斬り抜刀斎か。成程、大した洞察力だな」
剣心を見て、雪哉は得心したように口の端を僅かに上げた。
赤毛。短信痩躯。左頬に十字傷。
雪哉は剣心と対面するのは今日が初めてだったが、彼を抜刀斎だと判断する材料は十分に揃っていた。最も、このアジトに乗り込んできた三人のうち一人は宗次郎なのだから、抜刀斎は残り二人のいずれか、と必然的に絞り込まれることにはなるが。
「そうさ、確かに俺は迷ってた・・・・」
剣心のその言葉を受けて、雪哉が掠れたような声で呟いた。
「咲雪がもう、瀬田への復讐を望んで無いっていうのは分かってた。だが、だが俺は・・・・・瀬田を簡単に許すことなんかできなかった・・・・!!」
静かだった声は、雪哉の中の感情の昂ぶりと共に激しく荒立っていった。右手を頭に当て、苦悩を振り払うかのように雪哉は頭を振った。
それは恐らく、今初めて浮かんだ迷いではないのだろう。
手紙が届かなかったら宗次郎を躊躇い無く殺していた、と雪哉は言った。逆を言えば、手紙が届いたことで雪哉に躊躇いが生まれた。咲雪からの手紙で、宗次郎への復讐をしようとした妹のことと、その思いの変遷を知ることになった。
それでも、雪哉からは自分達を苦境に追いやった宗次郎達を憎む気持ちは消えなかった。けれど咲雪は憎みながらも、彼の存在を享受していた。そうしてただ一人残される兄に、仇を討って欲しくは無いということを望んでいた。
妹を初めとする家族達の仇を討ちたいという己の気持ちと。
他でもないその妹の遺志を尊重したいという思いが。
雪哉の中で同じくらいに膨れ上がり、絶えず鬩ぎ合っていたのだろう。
その末に彼は復讐を選んだ。だが、もう一つの思いを完全に消し去ることはできなかった。
二つの思いの狭間で揺れる気持ちは、宗次郎も何となく分かる。宗次郎自身、そうした経緯を経て流浪れ始めた。
普段は冷静な顔を歪め、呻く雪哉の姿は苦しそうだと宗次郎は思った。
こんな風にも、自分は人を傷付けてきたのか。
「許すことなんかできない、そう思ってた。だが・・・・」
雪哉は一度大きく吸い込んだ息を、一瞬喉の奥で止めて重々しく吐き出した。そうして頭に当てていた手を放す。
先程よりも落ち着いたようで、表情も苦虫を噛み潰したような顔でありながら、冷静さが戻ってきていた。
「あんな風に瀬田に謝られるとは、思ってもみなかった」
真っ直ぐに雪哉は宗次郎を見た。宗次郎も正面からその視線に応える。宗次郎のその目は、多くの人間の命をその手で奪ったというのに恐ろしい程に澄んでいる。
それは彼の純粋さの表れなのかもしれない。ただ、純粋さが掛け値なしに良いこととは限らない。素直であるがために、何事をも飲み込んでしまう危うさもそれは秘める。
それでも宗次郎は、自分のしてきた罪科に気付いたから、雪哉に素直に頭を下げることができた。謝るから許して欲しい、等というエゴはそこには無い。ただ己が命を奪ってきた者達に、苦しめてきた者達に悔いたのだ。それはある意味、彼の持つ素直さ故。
それは確かに雪哉にとっては意外な行動には違いなかった。それでも、咲雪の死がそのきっかけだったということに、雪哉はどこか、不思議な安堵を噛み締めていた。
「咲雪の死は無駄じゃなかった・・・・・」
雪哉は何歩か後ずさり、どさっと腰を下ろした。気力だけで立っていた体がもうその必要は無いと認知したかのように。
胡坐であるが片膝は立てたような姿勢で座り直すと、雪哉は苦笑いを浮かべて宗次郎を見上げた。
「お前の勝ちだ、瀬田宗次郎」
唐突な勝敗宣言に宗次郎はきょとんとする。
けれどすぐに雪哉は顔を引き締め、キッと目を吊り上げた。
「だが勘違いするなよ。俺はまだお前を許したわけじゃないんだ。とりあえずはその脇腹の傷とぶん殴った分で勘弁してやる」
宗次郎も一瞬だけ苦笑し、次ににこっと笑った。
左頬はまだ熱を持ってずきずきしている。今までの人生の中で散々殴られたが、さっきの一撃が一番効いたかもしれない。
「肝に銘じておきます」
かつて咲雪にも言った言葉を、宗次郎は雪哉にも紡いだ。
己のしてきたことは、簡単に許される罪じゃないことは分かっている。許しを請うつもりも毛頭無い。けれど咲雪や雪哉のように、それをほんの僅かでも許容してくれる人がいる。自分自身が苦しめてきたのにも関わらず―――。
まだ始めたばかりの償いの一歩。それは歩み出したばかりだから。
だから、今は雪哉のその言葉だけでも十分だった。
「・・・最後に一つ、訊いていいか?」
「何です?」
ふと、雪哉が神妙な面持ちになり、沈んだ声で尋ねてきた。相槌を打ちながら宗次郎は首を傾げる。
「咲雪の最期は、どんな風だった・・・・?」
雪哉の言葉に、宗次郎はハッと目を見開いた。雪哉の瞳はこれ以上ない程に真摯だ。それに導かれるようにして、白と赤の二つの色で彩られた思い出が宗次郎の胸の中に蘇る。
あの時は咲雪が死んでしまうことが宗次郎は苦しくて仕方なかったけれど、今思い起こしてみれば、彼女自身は安らかにこの世に別れを告げていた。
あの時のことを思い出すと、宗次郎は今でも喉の奥がちくりと痛むような気がしていた。けれど、自分がどうであれ、あの時咲雪は笑っていた。血を吐いて、息もできなくて、苦しかったに違いないのにそれでも確かに微笑っていたのだ。
何故に咲雪が安堵の中で微笑んで逝けたのかは、当の宗次郎は知る由も無いけれど。
「すごく穏やかでした。咲雪さんは最期まで、微笑ってましたよ」
「・・・・・・そうか」
宗次郎もまた、自然と柔らかく笑んでそう答えていた。宗次郎自身は気付くはずも無いだろうが、どこか優しいものを含んでいたそれに雪哉は複雑そうな表情を浮かべ、そうして彼が述べた妹の死の様子に静かに頷いた。
それきり、雪哉は俯いて黙り込んでしまう。長めの前髪が表情を隠し、彼が今何を考えているのかは知れない。
何と声をかければいいのか分からずにいる宗次郎に剣心は近付き、その肩に手をぽんと置いた。
「今は、そっとしておく他に無いでござるよ」
「・・・・そうですね」
沈痛そうな面持ちをした剣心の言葉に、宗次郎も同意した。
闘いの勝敗が決まっても、心の中の揺らいだ気持ちにはそう簡単に決着は着きはしない。妹の最期の様子を知って、また何か困惑したところもあったのかもしれない。
しばし、心が落ち着くまでの時間が必要だろう。
「雪哉さん、すみませんけど、僕達先に進みますね」
一応、そう声をかけるが返答は無い。宗次郎は困ったように小さく笑って、それならば仕方ないかと鈴の方に向き直る。
鈴はじっと雪哉の方を見ていたが、敗者である仲間に対し何も言葉をかけようとしない。楽観的な彼女なりに何か思うところがあるのだろうか。
宗次郎がこちらを見ていることに気がつくと、鈴は一転明るい笑顔になったが。
「話は終わったかな?」
宗次郎はこくんと頷いた。それを受けて、鈴も次の間へと案内すべく雪哉の横を通り抜け部屋を突っ切るようにして歩き出す。廊下へと続く扉は雪哉の後方にあるのだ。
宗次郎も踵を返し歩き出した。けれど、何歩も歩かないうちに「待て」と雪哉に呼び止められて振り返る。
「どうしました? 雪哉さん」
雪哉が今になって引き止めたことを意外に思いながら、宗次郎は疑問を投げかける。
雪哉は俯いていた顔を上げ、真っ直ぐに宗次郎を見た。
「・・・・お前はという少女を、咲雪のように死なせたくは無いのだろう?」
「え、ええ、そうですけど・・・・?」
それは確かにそうなのだが、いきなりの話が出たことに宗次郎は困惑する。
雪哉は鋭い視線を宗次郎に向け、忠告するように告げた。
「あの少女を死なせたくないなら、急いだ方がいい。・・・・・奴は、蘇芳は、をお前の目の前で殺す気だ」
「えっ・・・・!?」
思わず驚きの声が漏れた。咄嗟に宗次郎の脳裏に浮かんだのは、明るく笑ったの姿だ。それと交互するように、咲雪が大量の血を吐いて死んだ瞬間がフラッシュバックする。
蘇芳は宗次郎が指示に従えばの安全は保障すると言っていた。だが、それを鵜呑みにして最終決戦の場に赴いた宗次郎らを嘲笑うかのように、彼女の命を奪おうというのか。
宗次郎の足下から頭の天辺まで、一瞬にして鋭い痺れが駆け上がった。
を殺す? が死ぬ? 咲雪のように、自分のせいで?
「何よそれっ!? あたし、そんなの聞いてない・・・・!」
蘇芳一派の幹部の中で唯一そのことを知らなかった鈴が素っ頓狂な声を上げる。あぁ、こいつは確かあの少女と仲が良かったな、と思いながら雪哉は冷静に返事を返す。
「お前は確か、その場にいなかったからな」
「クソッ・・・・! 本当に性格悪いぜ、蘇芳の奴は!!」
鈴の隣にいた弥彦が、怒りのままに拳を掌に打ち付ける。それを横目で見た剣心が、今度は宗次郎を見た。
「その言葉が事実なら、急がねば。手遅れにならぬうちに・・・・!」
自身の過去の経験が頭を過ぎりでもしたのか、どこか切羽詰ったような表情だった。
蘇芳の非道なやり方に、流石の宗次郎の顔もやや厳しくなる。の命が今まさに脅かされているという事実が普段は安穏とした彼の心の中に焦りを生じさせたのか、鈴に案内を促す声は少し鋭い。
「鈴さん、次の間への案内お願いします」
「分かってるっ」
蘇芳に絶対の忠誠を誓っているとはいえ、それでも多少なりとも交流のあったの安否は、鈴も気になるところだった。宗次郎の言葉に力一杯頷くと、扉に向けて鈴は駆け出し宗次郎達もそれに続く。
鈴が開け放った観音開きの扉から廊下に踏み出そうとして、けれど宗次郎は足を止めて振り返った。
「雪哉さん」
その声に雪哉も振り向く。
「どうして、そのことを教えてくれたんです?」
「別にお前のためじゃないさ。にも兄がいるんだろう? そいつに、俺と同じ思いを味合わせたくないだけだ」
雪哉は目を伏せ、苦々しく笑いながらもそう答えた。兄妹という立場が同じ、それ故に感じるものがあったのだろうか。
そして宗次郎に言うつもりは無いが、雪哉がほんの少しだけ対峙したの姿が、亡き妹と重なったというのもある。
「分かったら、さっさと行くんだな」
「はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げ、律儀に礼の言葉を述べて宗次郎は今度こそ廊下へと出た。先導する鈴の後を追ってほとんど駆けるような速さで進んでいく。
走り去って行った四人の足音が次第に遠ざかり聞こえなくなると、辺りは急に静かになった。
激戦の後の静けさに、雪哉はふうと重い息を吐く。
力を失った手からすり抜けるように、咲雪の手紙が再びひらりと落ちた。
自分から二寸程の距離にあるその手紙を拾おうとせず、雪哉はぼんやりと見つめた。
「本当にこれで、良かったのか・・・・?」
額に手を当て、雪哉は自分自身に問うように呟く。
長年散々迷った挙句に、自分の憎しみよりも咲雪の最期の想いを取り、仇を討ち切らずに宗次郎を見逃した。
勿論、あの程度で雪哉の積年の気持ちが晴れたわけではない。ただそれでも、己の罪を認め、素直に頭を下げた宗次郎に、雪哉の心は揺り動かされた。
雪哉が知っていた宗次郎は、志々雄に略取された新月村で何の罪のない村人達を斬り殺して―――それも、笑顔でやってのけていた姿だ。咲雪の手紙で流浪人となった彼の様子を知らされはしたが、彼の変貌をそう簡単に信じられるはずも無かった。
葵屋で対面した時もそうだった。けれどこの闘いの中では、確かに彼は以前の彼とは違っていた。かつての彼なら絶対にしないであろう、謝罪までして見せたのだ。
あれは嘘偽りの無い言葉だと、雪哉は直感でそう感じ取っていた。宗次郎はかつての感情欠落の影響が大きく、今でも天真爛漫で限りなく素直な性格だが、それ故にあの申し訳ないという言葉も、彼が素直に感じた思いなのだろう。
咲雪には死んで欲しくなかったとも言っていた。彼女が死ぬ間際になってそれに気付いたとも言っていた。
宗次郎と咲雪との間に何があったのか、雪哉は直接は知らない。けれど、あの情の薄かった宗次郎にそんな思いを抱かせるほど、咲雪は彼にとって大きな存在になっていたのだ。
彼は妹を孤独に追いやった。
けれど、妹を孤独から解き放ちもした。
宗次郎が生きて答えを見つけることこそが、彼女の最期の願いだったのだ。
「本当に、これで良かったんだよな・・・・?」
静かに、雪哉の頬を涙が伝った。
すぐ傍らに落ちたままの咲雪の手紙が小さく揺れた。風も無いのに。
あたかもそれは、咲雪が雪哉の行為を肯定しているかのようにでも。
紙が畳に擦れる音に気付いてゆるりと瞼を上げた雪哉は、手紙が移動していることに驚いてはっと目を見開いた。
雪哉が動きを止めた手紙を不審な眼差しで見つめていると、今度は甘い香りがふわっと彼の辺りを包んだ。ほんの微かに、ほとんど気のせいのように思われるくらいに。
それでも雪哉は何の香りか分かった。それは梅だった。
不意に、また咲雪の姿が雪哉の脳裏に浮かび上がり、彼はまた、涙を流した。
幻聴かもしれない。
けれど雪哉には『兄さん』と、咲雪が穏やかに呼ぶ声が聞こえた気がした。
『兄さん。私の命はもう長くは無いでしょう。先に黄泉路に行ってしまうことをお許し下さい。
兄さんはきっと私と同様に、宗次郎を憎く思うことでしょう。兄さんも宗次郎を恨むのは構わない。だけど決して、殺さないで。殺してしまったら、それこそ私達の死が無に帰してしまいます。
確かに仇ではあったけれど、今は宗次郎がいてくれるから、一人きりではないから私は心穏やかに父さんと母さんの元に行くことができると思います。父さんと母さんが死んだ後、兄さんが私に対して、どれだけの情を注いでくれたか知っています。だからどうか、自分を悔やまないで下さい。
身勝手な願いかもしれませんが、兄さんは末永くお元気で』
咲雪からの手紙の最後には、そう綴られていた。
咲雪は最期に、微笑って逝ったのだという。
今も、遠い日のあの時のように笑っていればいい。
『咲雪を一人で待たせることになってすまないな』
『平気。慣れてるから。それに、どうしたって治らない病なのに、兄さんが懸命に私のために薬を買おうとしてくれてるんだってこと、分かってるもの』
『俺には、それくらいしかできないからな』
『私のことは心配しなくても大丈夫よ。私は一人でもやっていけるから』
『それでも、誰かお前の側にいてくれるといいんだがな・・・』
『あはは、この村の人達にそんなの期待できないわよ。・・・・大丈夫だから、私は』
『・・・・・・そうか』
『それに兄さんも、この梅が咲く頃には帰ってくるんでしょう?』
『ああ』
『じゃあ、梅が咲くのを楽しみに待ってるわ』
『あんまり無茶しないで、しっかり養生するんだぞ』
『ふふ、分かってるわよ。それじゃあ、行ってらっしゃい、兄さん。気を付けて・・・・!』
それこそ、花の綻ぶような笑顔だった。
咲雪の手紙を受けてすぐに陸奥のあの村に取って返したが、彼女は既に冷たい土の中だった。
一人きりの妹の死に、雪哉は立ち会えなかった。それを酷く後悔した。
先の長く無い生だったのなら、咲雪の側にいた方が彼女は救われたのではないだろうか・・・・?
幾度と無く悔やんでも悔やみきれなくて、そしてそれは宗次郎に対する憎しみとはまた少し別のところにあった。
不甲斐無い自分自身への嫌悪。悔恨。そしてそれを無意識のうちに、多少なりとも宗次郎への復讐の思いに転化させていたのは否めない。
「・・・瀬田宗次郎」
ぽつり、と雪哉は呟いた。
宗次郎本人にはそれは言わない。これは最後の意地だ。
「俺はお前を許す気は無いが、お前が咲雪の最期に側にいてくれたこと・・・・それだけは、感謝する」
咲雪の墓には梅が一輪供えられていた。村中の人間に訊いても、誰もそんなことをした者はいないと言うから、ならば誰がそうしたのか大体見当は付いていた。
花は咲いた。
ほんの少し遅かったが、花は確かに、咲いたのだ。
雪哉はふっと瞳を閉じた。疲れ切ったように、或いは何かを成し遂げて満足したかのように、そんな表情をその面に浮かべた。
その手にもう、復讐の刃は握られてはいない。
梅の香りが名残惜しそうにしばらくその場に漂って、そうしてやがて安心したかのように、ふっと消えた。
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