―第二十九章:とえはたえ(後編)―
しばし、場に静寂が落ちた。
問うた剣心も問われた鈴も、その彼女に押さえつけられている弥彦も、そして宗次郎もまた誰も二の句を告がずに、ただ身じろぎもせずに静止していた。
もう一度、剣心は言った。
「お主は、鈴殿ではござらんな」
剣心の真っ直ぐな瞳と、鈴の挑発的な視線が交差する。臆すること無く己を見据え続ける剣心に、鈴は今度はにやぁっと笑う。
「ふふ、まぁ八割方正解と言っておこうか」
「・・・・!?」
最も鈴の間近にいる弥彦が目を見開いた。剣心の言葉の意図も掴めないが、鈴のこの返答も不可解極まりない。
例えば彼女は双子で、いつの間にか入れ替わっていたとか・・・? いや、けれどそれでは今の『八割方正解』という回答の謎が解けない。
その問答の行方は確かに弥彦も気になるところではあったが、とにかくこの状況から抜け出さねば話にならない。
弥彦は静かに、手足にぐっと力を込め始めた。鈴の右手は弥彦の首を締め上げてはいたが、幸い、今彼女の注意は剣心の方へと逸れていた。
鈴とて目の前の獲物をみすみす逃す気は無く、剣心に視線を向けながらも弥彦への拘束の手を緩めることも無かったが、それでも僅かに手の力が弱まる一瞬の隙があった。
その隙を弥彦は付いた。右足を前に伸ばし、横薙ぎに鈴の足を払った。
「・・・・っ!」
ぐらりと鈴の体が傾ぎ、右手が弥彦の首から離れた。弥彦と鈴では身長は弥彦の方が高い。体勢を崩した鈴の後ろ頭が、僅かに弥彦から見下ろす位置にあった。
間髪入れず、弥彦は鈴の首の付け根目掛けて手刀を振り下ろした。手応えはあった。
鈴もあの不利な状況から弥彦が反撃してくるとは思わなかったのだろう。手刀がまともに入れられ、脳震盪を起こした鈴はそのまま気を失ってどさりと倒れた。
弥彦はふうと息を吐いて、畳の上にうつ伏せになった鈴を見下ろす。
「ったく、なんて女だ」
己の右手で、弥彦は喉の辺りをさすった。油断していたわけでは決してなかったが、それでも思った以上に苦戦を強いられた。あの明るく無邪気な様子とは裏腹に、鈴は闘いに関しては冷徹で非情だった。そして男勝りな本性を現してからは容赦無かった。
もし反撃に転じなかったら、鈴は弥彦をそのまま絞め殺していたに違いない。
「・・・・それはそーと剣心、さっきのは一体どういう意味なんだ?」
ぞっとしない考えを頭から追い出し、弥彦は剣心に振り返った。宗次郎も弥彦に続いて剣心に尋ねる。
「そうそう、それ僕も気になってたんですよ。いくら性格がころころ変わってたとはいえ、この人は紛れもなく鈴さんでしょう?」
宗次郎はちら、と鈴を見遣る。瞼を閉じ、眠るように気を失っている鈴は、こうして見るとあどけない寝顔をしたごく普通の少女だ。
宗次郎達の前でたびたび見せていた楽天的で活発そうな姿、弥彦に一撃を入れられた後しおらしく泣いていた姿、そうして男顔負けの荒々しさと冷酷さを垣間見せた姿。
今宗次郎自身が言ったようにこの闘いの中で鈴の性格は二転三転していて確かに一貫性が無いようにも思えるが、それでも鈴本人なことに変わりはない。
そう思っての疑問だったのだが、しかし剣心は小さく首を横に振った。
「その性格の変貌が気になるのでござるよ。闘いの中で普段なら見せないような気質を現す者はいる。例えば拙者で言うなら、死闘の中で抜刀斎の自分へと立ち戻ってしまうように・・・」
剣心は目を伏せた。その例えの差す剣心の内にある苦しみを察したのか、弥彦も苦い表情を浮かべた。
宗次郎は抜刀斎へと立ち戻った剣心を見たことは無かったが、それでも彼のその言葉に思い当たることがあった。他でもないこの剣心との闘いの時、宗次郎は封じ込めていた感情が急激に呼び起こされ、それまでの楽の感情しか抱かなかった自分にしてみれば酷く異質ともいえる、冷たくも激しい怒りの情を顕にした。表情も、どこか刺々しい口調も、普段の穏やかな宗次郎とはかなりかけ離れていたものだった。
「けれど、鈴殿はあまりにもそれぞれの性格が違い過ぎている。不思議と同じ人物に思えないのでござるよ。それに、複数の違う名前を口にしていた。まるで性格の違う己を呼ぶように・・・・・」
剣心は瞼を上げ、静かに言葉を続けた。言われてみれば、と宗次郎は思う。怒りの感情に支配された時は、冷静さを多少欠いてはいても、それでも宗次郎は宗次郎だった。
けれど確かに、よくよく思い返せば、鈴の変貌は剣心や宗次郎のそれとは明らかに違っていた。当の鈴と闘った弥彦が最もそれが分かったのだろう、小さく頷いた。
「そうかもしれねェな。それに妙なこと口走ってたし・・・・『鈴や百合の時に完全に勝負を着けてたら』とか何とか。けど、一体何でまた・・・・」
「それは私が教えてあげるわ」
大人びた少女の声に、一同はバッとそちらを向いた。むくりと体を起こした鈴がゆっくりと立ち上がりかけていたところだった。先程まで気絶していたのにもかかわらず、鈴はしっかりと立ち上がると太股を覆う辺りの着物をパンパンと叩き埃を払った。
「一郎汰ったら、最後に詰めを誤ったわね」
半ば呆れたように、鈴は小さく一人ごちる。
そうして鈴はゆるりと宗次郎達を見回す。先程までの殺気を帯びていた瞳とは違い、静かで冷静で、そしてどこか妖艶な眼差しだった。
「初めまして・・・・じゃないわね。あなた達とは確か前に一度会ってるから」
面食らったような顔をしている三人を見て、鈴はくすりと笑んだ。
「私は一郎汰ほど残酷じゃないから、そんなに警戒しなくたって大丈夫よ」
「って、そうじゃなくて一体何なんだ? さっきからお前の言ってること、訳が分からねェよ!」
歯痒そうに弥彦は声を荒げた。本当に訳が分からない。一郎汰? 前に一度会っている? その言葉は一体何を意味するのか。
宗次郎がほんの少しだけ前に進み出た。まさか後にこんな事態になるとは露ほども思っていなかったが、三人の内で鈴という少女に最初に出会ったのは宗次郎だった。
「もし、あなたが鈴さんじゃないって言うなら、あなたは一体誰なんですか?」
相も変わらず柔和な笑みで、宗次郎は鈴を見据えている。鈴はその視線を受け、小さく笑んだ。
「私の名前は如月。確かに、私は鈴じゃないわ」
鈴ではないということを、はっきりとその少女は口にした。じゃあ、と続けようとした宗次郎を、けれど鈴はその前に遮るようにして言った。
「でもこの肉体は鈴のもの。だけど、厳密には鈴のものじゃない。元は佐和田ふみっていう、一人の心優しくか弱い少女のものだった」
「・・・・・?」
宗次郎が話を飲み込めずに首を傾げると、鈴はまた微笑を浮かべ三人に向き直った。
「分かりやすいように、昔話をしてあげましょうか・・・・。昔々あるところに、一組の夫婦がおりました」
如月、と名乗った鈴は、そのままなだらかに昔語りをし始めた。
「その人達は士族の出で、古い考え方や習わしにこだわる人達でした。二人にはなかなか子どもが生まれませんでしたが、ようやく待望の第一子を授かりました。それはもう大層喜んだそうです。
けれども生まれた子どもは、彼らが望んでいた男の子ではなかったのです」
客観的に語ってはいるが、その生まれた子どもとは間違いなく鈴のことだろう。自分と同じく士族の出だということに弥彦は小さく反応したが、鈴はそんなことは気にも留めず、語りを止めることも無い。
「二人は失望し、また、周りから男子が生まれなかったことを手酷く責められました。疲れ果てた二人は、その苛立ちを幼い我が子にぶつけたのです。
『男だったら良かったのに』『お前なんか生まれなきゃ良かったんだ』と毎日両親から罵られた少女は、だったら自分が男の子だったらいいんだと考え、一人目の人格を生み出しました。それが、一郎汰。ふみの屈折した思いから生まれたから、一郎汰は乱暴で破壊的なの」
一郎汰、とは先程確かに彼女の口から出た名前。剣心達が不審そうな顔つきになるのにも構わず、感情の篭もらない冷静な声で鈴は続けた。
「それでも両親の酷い仕打ちは止まず、冷静に賢く立ち回るために二人目の人格を生み出しました。それが私、如月。
それでも両親の酷い仕打ちは止まず、むしろ以前より酷くなって、悲しむことに疲れた少女は、己に変わって悲しみの全てを引き受けてくれる人格を生み出しました。それが百合」
鈴が―――いや今は如月と呼んだ方が正しいのか―――が淡々と述べた彼女らの誕生秘話に宗次郎達はただただ驚くばかりだった。
通常、人格というものは一人につき一つだけ。それなのに一人の人間の中に複数の人格が存在するなど有り得るのだろうか?
当人が言うのだから事実には違いないのだろうが・・・・・けれど宗次郎達の疑問には相反して、実際にそれは起こり得る事象。
本来、人の人格は成長するにつきその人物の個を示すものとして確立されていく。だから当たり前だが人の人格は一つであるはずなのだ。
けれど大人に虐待を受けるなどして心的外傷を負った時に、今苦しんでいるのは自分じゃない、他の誰かなんだと、自我を守るために記憶や意識、知覚などを高度に解離し『別の誰か』に成り代わってしまうということがある。
そしてそれが顕著になると、あたかも『別の誰か』が一つの独立した人格を持っているかのようになるという。
それは、明治の世では例も少なく、一般に知られた症状ではなかった。けれど、現代の言葉で置き換えるならこう呼べただろう。
解離性同一性障害、分かり易く言えば、それは即ち、
―――多重人格と。
「それでも両親の酷い仕打ちは止まず、己が完全に愛されていないことを悟り、だったらもう何事も気楽に考えることにしよう・・・と諦めた少女は、どこまでも無邪気で楽天的な人格を生み出しました。それが、鈴」
如月の発言に剣心と弥彦はハッと気付いた。
状況は違えど、境遇は違えど、己の心を守るために敢えて楽の感情に全てを委ねた、その点においては宗次郎と鈴は同じ。
鈴と宗次郎はどこか似ている、そう感じていて当たり前だ。笑顔に頼らざるを得ない、それは二人は一緒だったから。
そうしてそれを悟ったのは剣心達だけではなく。
(そっか・・・・・鈴さんと、僕は似てる・・・・似てたんだ)
宗次郎はようやく気付いた。あっけらかんとした彼女に、奇妙な既視感を覚えていたのは。
鈴という存在が生み出された過程が、表情と感情を閉ざした幼い自分と似ていたからだ。
「己が傷つくことに嫌気が差した少女は、苦しみを自分でない他の誰かに任せて、自分自身は心の奥底に閉じ篭もることにしました。そうして以降は、佐和田ふみは佐和田鈴として、生きていくことにしたのです」
例えばそれは、宗次郎が心の痛みを笑うことで耐えたように。雪代縁が姉を喪った痛みを白髪という姿で表したように。
佐和田ふみという少女は、これ以上心に傷を負わないために負いたくないために、他の人物に己の肉体を人生を委ね、自らは眠りについた。それが彼女の痛みの形。
佐和田ふみという存在がこの憂き世を生きるには、佐和田鈴という己とは違う人格で生きるしか他に術は無かったのだ。それは皮肉な二律背反。
「そのうち弟が生まれて名実共にいらない子になって、家を飛び出した鈴はやがて琢磨蘇芳という一人の男の人に出会います。本来ならこの世に生まれるはずの無かった私達の存在を、蘇芳さんだけが認めてくれた・・・・。
そうして鈴と私達は、たった一人、私達を必要としてくれた、蘇芳さんの力になることに決めたのです―――!」
円月輪を両手に構え、如月は凛然と宗次郎達に向き直った。その勇ましい瞳からは迷いや躊躇いは微塵も感じられない。如月が鈴が心から本気で言っている言葉なのだと、宗次郎達に思わせるには十分だった。
「実の親にすら疎まれた私達を、認めてくれたのは蘇芳さんだけだった! 私を、私達を必要としてくれたのはあの人だけだった! だから私達は、あの人のために生きているのよっ・・・!」
それは、鈴がに述べたのと同じ言葉。
鈴だけでなく、この如月も、蘇芳に対し同じ思いを抱いている。
蘇芳の力になると。蘇芳のために生きると。それはきっと、佐和田鈴という人間を構成する人格の皆が持つ共通の誓い―――。
そしてそんな気持ちを、宗次郎は何となく理解できるような気がした。
(鈴さんにとっての蘇芳さんは、僕にとっての志々雄さんと同じような存在なんだ、きっと)
かつて、宗次郎にとって志々雄は絶対的な存在だった。弱い立場にいた宗次郎に強さへの憧憬の念を抱かせ、弱肉強食の理念を教え、最終的にそれは彼の命を救うことになり、そうして志々雄は言ってくれた。「ついてくるか?」と。
宗次郎は素直に頷いた。養父母達を殺めた瞬間から弱肉強食が彼の真実となってしまった、勿論それはある。けれど、その短い問いかけは、誰からも相手にされなかった宗次郎という存在を、志々雄だけが認め、必要としてくれるように思えたから。
だからあの時は本当に、宗次郎はいつかは志々雄のように強くなりたいと、そう願っていた。
そして道を違えても、宗次郎の志々雄に対する畏敬の念は、未だ心に残っている。
(勿論、鈴さんと僕とじゃ違うところは多いけど。だけど、蘇芳さんのために生きること、それがきっとあの人の・・・・)
「あなた達には何の恨みも無いけれど、蘇芳さんの邪魔をする者は排除あるのみよ!」
宗次郎が鈴への考えを巡らせていると、その眼前では如月が円月輪を前に掲げ、好戦的な視線をキッと弥彦へと向けていた。
「明神弥彦! 闘いを再開するわよ。蘇芳さんの国盗りを阻みそうな若い芽は、ここで摘んでおかないとね・・・!」
「・・・・分かった。相手になってやらぁ」
この少女のこれまでの経緯を不憫に思う気持ちもあったが、それでも如月が本気で弥彦達を仕留める気でいる以上、それに応えないわけにはいかなかった。
弥彦も一歩も引かず、再び逆刃刀を手に如月と向き合う。正眼に構え、刃の向こう側にいる如月に目の焦点を合わせた。
この少女は確かに佐和田鈴、けれども今は如月だ。そうして本当は全く別の・・・・。
「その前に一つ、聞きたいことがある」
「悪いけど却下よ」
弥彦の申し出は、如月に呆気なく取り下げられた。不服そうな顔をする弥彦に、如月はくすりと笑んだ。
「私はね、あなた達の口車に乗る気は無いわ、よっ!」
ひゅん、と風を切る音が二つ聞こえ、次の瞬間には如月の手から放たれた円月輪が弥彦の目前まで迫っていた。逆刃刀を払って弥彦は円月輪を退けたが、投擲したそれらを追いかけるように如月もまた前に踏み出していた。懐に入り込んできた如月の表情に、弥彦はぎくっと顔を強張らせた。
弥彦を見上げ、にやぁと残虐な笑みを浮かべたその表情。これはもはや如月ではなく、その前に表に出ていた一郎汰―――!
「くっ・・・・!」
「遅ぇッ!」
いつの間にか如月と人格交替していた一郎汰は、掌底で弥彦の顎を打ち上げていた。その拍子に下唇を歯で切り鮮血が舞ったが、弥彦は委細構わず逆刃刀を横薙ぎに一閃した。咄嗟に後ろに飛び退いていた一郎汰は、直撃こそ避けたものの、右脇腹にその刀身を受けていたらしい。左手をそこに当て、歪んだ表情で弥彦を忌々しげに見つめる。
「さっきはよくもやってくれたなぁ。あのまんまじゃ腹の虫が治まらなかったところだ」
「それはこっちの台詞だぜ!」
弥彦は口内の血を唾と共にぺっと吐き出し、威勢良く一郎汰に応酬する。
先程、如月自身が言っていたように、佐和田鈴に存在する人格が一人一人独立しているというのなら、そのうち最も弥彦が苦汁を舐めさせられたのはこの一郎汰だろう。男としての人格なら多少の遠慮はいらないと判断し、弥彦は雪辱を晴らすべく彼と対峙する。
「お前も蘇芳のために、って口か?」
「あぁそうさ。あいつは俺に生きる意味を闘う場所を与えてくれたからな」
弥彦の投げかけた問いに、一郎汰も容易く答える。
「俺の糞親なんかな、俺の存在を直視しようともしなかった。あいつらが男が欲しいって望んだから俺はここにいるってのによ、勝手な奴らだぜ、ハッ・・・・!」
視線を落とし、力無く吐き捨てるように言った彼は、笑っているのに何故だかとても寂しげに見えた。
そんな一郎汰に弥彦は何事かを言おうとして、けれど何と言葉をかけていいのかすぐには出てこなかった。そんな弥彦を一郎汰は全く歯牙にもかけず、スッと顔を上げた。ちりん、と一つ鈴の音が鳴る。
「まぁ、あんな奴らなんかもうどーでもいい。復讐する気すら起きやしねェ。蘇芳さんのために闘えて、そんでお前らみたいな偽善者をぶっ殺すことができれば、それで俺は満足なんだよっ!」
「オイ、お前っ・・・・!」
「会話はお終いだ。いくぜ!」
言いかけた弥彦を遮って、一郎汰は懐から小柄の群を取り出し針の雨のように弥彦に放ってきた。
弥彦はもうそれを避けない。ただ逆刃刀を左右に振るいながら、真っ直ぐに一郎汰の方へと立ち向かっていく。顔や肩や腕に小柄を掠らせ赤い筋を幾つもその身に刻みながら、それでも弥彦は怯まずに一郎汰に、いや正確には彼女に呼びかける。
「おい、本当にお前はそれでいいのかよ!? もっと他に、何か生きていく道は無いのかよ!?」
「ハッ! お前らみてえな綺麗事しかほざかねぇ野郎の言うことなんか、誰が聞くかよっ!」
「違う! 俺はお前じゃない、ふみって奴に聞いてんだ!!」
一郎汰が素早く構えた懐剣と、弥彦の逆刃刀がぶつかり合う。ぎぎ、と鍔競り合いの不快な金属音が響く。
弥彦は限りなく直向きな目で、一郎汰の歪んだ瞳を覗き込んだ。
「鈴とか如月とか百合とか一郎汰じゃねぇ、おまえ自身はどう思ってんだよ!? 他の人格の望みじゃねぇ、おまえ自身は何を望んでるんだ!?」
他の誰でもない、本来のこの少女、佐和田ふみという一人の少女に。
弥彦は必死に呼びかける。確かに、鈴や如月といった面々は蘇芳のために生きることを至上の喜びとしているのだろう。けれど、本来の彼女は? 元々の人格であるふみという少女は、一体何を望んでいる?
弥彦はそれが知りたかった。主人格に取って代わって表に出ている人格達の望む生き方でいいと、本当にそれでいいとふみは思っているのかどうかを。本当の彼女が、どう生きたいと思っているのかを。
「おい、俺の声が聞こえてるんなら、出てきやがれ! こいつらじゃねぇ、お前自身は何を思ってるんだ!?」
「その程度の呼びかけでふみが出てくるわきゃねーだろーよ!!」
きん、と一郎汰は弥彦の逆刃刀を弾いた。そうしてバッと後ろへ飛び、弥彦から距離を取る。
浅い息を吐きながら、一郎汰は腹立たしそうに弥彦を見た。
「あいつは詰まる所、嫌なことをぜ〜んぶ俺達に押し付けたんだ。自分だけ殻に閉じ篭もってよ・・・・。まぁ、恨んだりなんざしてないさ。ふみがいなかったら、俺だってここにこうしていることも無かった」
「・・・・・・」
弥彦はただ黙って、一郎汰のその言葉を聞いていた。
一郎汰がふみを恨んでいないというのは恐らく事実なのだろう。一郎汰の弥彦に対する嫌悪感は感じても、ふみに向けてのそれを感じることは無かった。
「そうしなきゃ、ふみ自身生きていけなかったんだよ。自分自身でない他の誰かとしてでもどうにかして生きていきたかったから、あいつは俺達を生んだんだ。そんな奴に、お前ごときの詭弁が通じるか!」
「・・・・オイ、お前・・・・」
怒りに目を吊り上げる一郎汰に、弥彦はぽつりと呼びかけていた。今までのように荒々しく、では無く、どこか戸惑うように目を見開いて。
一郎汰の言い方は乱暴なものではあったが、ふみという存在を否定しながらも擁護しているように思えたからだった。
「どうしてもふみと話がしたかったら、俺を倒すんだな。ま、そう簡単にふみが出てくるとは思えねェが」
「言われなくてもそうしてやるさ。それしか方法が無いんならな!」
挑発的な一郎汰に、弥彦は逆刃刀を構え直し改めて向き直る。
先程からの弥彦と一郎汰との闘いを黙って眺めていた宗次郎は、ここでようやく口を開いた。隣にいる剣心に話しかけるようにして。
「何か、弥彦君の闘い方、緋村さんに似てますね」
「そうか?」
目線だけ動かして剣心は宗次郎に問い返す。そうしてまたすぐに弥彦と一郎汰の方へと戻した。
どこか不思議そうに尋ねてきた剣心に、宗次郎は「ええ」と小さく笑みを漏らして答えた。あの時、僕と闘った時もそうだったじゃないですか、と。
「ただ敵を倒せばいい、なんて考えてない辺りそっくりです」
「行くぜ!」
そうしてそんな宗次郎達の前で、弥彦対一郎汰の闘いの第三幕目が切って落とされた。
今度は先に仕掛けて行ったのは弥彦だ。右手だけで逆刃刀を振るっている。鋭いその太刀筋を一郎汰は身軽に避け、時折懐剣で反撃を試みている。とはいえ懐剣は逆刃刀と比べると刃渡りがその半分にも満たないため、一郎汰は前へ前へと踏み込み攻撃を仕掛けると共に弥彦の斬撃を出し難くさせている。
そうこうしているうちに、弥彦は再び壁際へと追い詰められていた。トン、と弥彦の背が壁にぶつかる。
「もらった!」
ニッと勝利を確信した笑みを浮かべた一郎汰は、恐ろしく鋭い突きを繰り出した。
弥彦はカッと目を見開く。一郎汰の懐剣の切っ先が己の体へ届くその寸前、弥彦はその瞬間を見極め左手を伸ばした。そうしてそれは寸分違わず一郎汰の懐剣の刀身を掴み取る。
「!?」
「神谷活心流奥義の極―――」
一郎汰は狼狽し逃れようとするも、弥彦は刀身を放そうとしない。そればかりか、ぐっと指と掌全体に力を込め始めた。まるでそれは弥彦の剣気が一点に集中しているかのようで。
「刃断!!」
裂帛の気合と共に、弥彦は一郎汰の懐剣の刀身を真っ二つになるように砕いた。
相手を倒すのではなく制することを極意とした神谷活心流の最後の奥義とでも呼べるべき技。かつて刃止め・刃渡りを習得した後に更に修行を積んでこの刃断も弥彦は自在に扱いこなせるようになり、五年前に越後で起きた志々雄一派の残党の事件の時のように、一郎汰の懐剣を断ったのだった。
武器が破壊され、一郎汰は舌打ちして後退しようとする。恐らく、体勢を立て直して円月輪で今度は仕掛けてくる気だろう。けれどもうこの機を逃すわけには行かない。
弥彦は畳を蹴り、一郎汰に肘打ちと共に当身を食らわせた。肘打ちは一郎汰の鳩尾に見事に入っていた。
「く・・・・そ・・・・」
「ゆっくり寝てろ一郎汰。そんで、さっきの俺の言葉が聞こえたんなら・・・・出てこいよ、ふみ」
弥彦が言葉を言い終えるのを待っていたかのように、一郎汰の頭はがくりとうな垂れた。三度気を失ったのだ。一か八かだが、確実にこの少女に人格交替をさせるには、これしか思いつかなかったのだ。
弥彦はふうと息を吐いた。とはいえ、ふみが出てきてくれるという確証は無い。如月や一郎汰の言う通り、他の人格に己を任せ、ずっと殻の中に閉じこもっているのだとしたら。
とりあえず、意識を失くした一郎汰を弥彦は畳に横たわらせた。いや、この場合彼女を一郎汰と呼ぶのは正しいのか・・・・。
弥彦は無言で彼女が目を覚ますのを待った。宗次郎と剣心も同様だった。或いは鈴や如月といった人格が再度覚醒するのかもしれなかったが、とにかく彼女が目を開けるのを待ち続けた。
そうしてどの人格も目覚めること無く、時間にして十分ほど経った。
「変だな・・・・どの人格も起きやしねェ」
流石に痺れを切らした弥彦が呟くと、宗次郎も揶揄するように言った。
「弥彦君が気絶させ過ぎちゃったからじゃないですか?」
「あ〜の〜な。だからそれは仕方なかったんだっつーの」
俺だって好きで何度も気絶させてたわけじゃねぇ、と弥彦は続けようとし、そうしてふと彼女の方を見て目を丸くした。
ゆっくりと瞼を上げた少女は、瞬きを幾度か繰り返した。むくりと上半身を起こすと、己の右手を顔の下に持ってきて、じっとそれを眺めていた。そしてその手を開いたり閉じたりしている。まるで何かを確かめるように。
そうして、ようやく顔を宗次郎達の方へと向けた。その顔は、彼女が今までに見せてきたどの顔とも違う、気弱そうで柔和な表情だった。少し申し訳なさそうに笑って、彼女は立ち上がった。
鈴ではない。如月でも百合でも、勿論一郎汰でもない。
もしも宗次郎達の予想が正しいのなら、この人格は。
「初めまして。わたし・・・・・佐和田ふみです」
弥彦の顔に喜色が浮かぶ。
呼びかけたのは無駄じゃなかった。ちゃんと心の奥底に眠るこの少女に届いたのだ。
けれど弥彦の明るい表情とは裏腹に、ふみの表情は沈んでいた。そうして、力無く部屋の惨状を見回している。畳の上に無造作に投げ出されている無数の小柄、あちこちに撒き散らされた血、そして傷だらけの弥彦。
「これ、きっとわたしの中にいる誰かがやったんだね・・・・・。わたしが謝っても仕方ないのかもしれないけど、ごめんなさい。それに、その傷も・・・・」
心底申し訳なさそうに言うふみに、逆に弥彦は面食らう。そしてそのふみの言い方に、弥彦ははたと気付くものがあった。
「って、もしかして、鈴とか一郎汰がやってた事って、あんたは知らないのか?」
こくん、と小さくふみは頷いた。それでもその存在を主張するように、髪留めの鈴がちりちりと音を奏でた。
「うん、他の子達が出ている時の記憶って、わたしほとんど無いんだ。みんなが何をしてるか、何を考えてるか分からないの。変だよね、自分自身のことなのに・・・・・」
ふみは小さく、自虐的に笑った。多重人格者においては、ある人格が表に出ている際、他の人格がその時の行動を認識することはあまり無いという。記憶などを切り離した、あくまでも別個の人格として存在しているからだ。勿論、例外も多々ある。
ふみの場合、現在の主人格である鈴は、他の人格のことは何となく把握しているし、百合、如月、一郎汰も鈴のことは認識し、お互いのことも大体分かっていた。
ただ、本来の主人格であるふみは、交代人格が何を考えどう行動しているのか、全くといっていい程掴めていなかった。
「表に出たのだって、本当に久しぶり。出るつもりだって、本当は無かった。でも・・・・」
ふみは顔を上げて、正面から弥彦を見据えた。力無いものではあったが、その顔には確かに、小さな微笑が浮かんでいた。
「あなたが、わたしに・・・・・鈴でも如月でも百合でも一郎汰でもない、本当のわたしに本気で呼びかけてるんだって分かったから。わたしと話したいんだって一生懸命語りかけてくれたのが分かったから。だから、出てきたの」
にこ、とふみは嬉しそうに笑う。
弥彦は内心複雑だった。ふみのこんな風にか弱い姿は、本当ならば自分の剣で庇護すべき対象であるはずだった。それなのに彼女の周囲は彼女が彼女らしく生きていくことを許さなかった。
もし、彼女の過去の境遇がもっと良いものであったなら。両親がふみという存在に我が子への愛情を注いでいたら。
そうしたら出会うことも鈴らの存在が生まれることも無かったかもしれないが、少なくとも彼女がその手を血に濡らすことは無かっただろう。もっと自分らしく、生きることができただろう。
とはいえ過去は変えられない。いくら考えても詮無いことだから、そこで弥彦は考えるのを止めたが。
「でも、ごめんなさい。せっかくわたしに呼びかけてくれたけど、わたしの答えも多分、他のみんなと一緒よ」
けれど、弥彦のそんな思いに反して、ふみははっきりとそう言った。
他の人格達の思考や動きは読めなくても、ただ、あることだけはふみは分かっていた。
それは鈴達に共通する思いで、そしてふみもまた抱いているもので。
「わたし自身は、蘇芳さんとそんなに会ったことはないんだ。でも、分かるの。わたしも含めて、みんながあの人に必要とされてるってこと。みんなそのために、動いてるんだってこと。
みんなが蘇芳さんのためにどう動いてるのかわたしは知らない。でも、みんなが蘇芳さんのために生きてるんだってこと、わたし、何となく分かるの。人格は分かれてしまったけど、誰もが紛れも無く、わたしから生まれた存在だからかな・・・・」
ぽつりぽつりとふみは心中を吐露し始めた。右手を胸に当てて、自分の思いを一つ一つ確認するように、ごく穏やかに言葉を紡いでいく。
鈴や如月達と同じく、ふみにもまた、そこに迷いは無いように見えた。
「みんなを、わたしを、認めてくれたのはあの人だけだった。あの人だけがわたし達を必要としてくれた。
だから、わたしも蘇芳さんのために生きていくって、もう決めてるの」
みんなと一緒、と前置きした通りに、ふみの答えもまた鈴らのそれと同じだった。
黙って自分の言葉を聞いていた弥彦達に、ふみは申し訳無さそうな笑みを浮かべた。
「望まない返事で、がっかりしたかな・・・・?」
「いや」
自信無さそうに尋ねるふみに、けれど弥彦はきっぱりと否と返事をした。
「お前もそう考えてるんならいいんだ。俺はただ、他の奴らじゃなくて、本当のお前がどう思ってるのか聞きたかっただけだから。正直、蘇芳の奴は俺は嫌いだけどよ、お前らみんなが同じ考えなんじゃ、その信念をどーのこーの言うつもりはねェ」
そう弥彦は答えたものの、何であんな奴のために命を懸けるんだ、という思いも無いわけではなかった。
けれど、鈴達の、何よりふみの意志をはっきりと聞いて、それはどうあっても動かせない信念だということを悟ってしまった。実の親にすら見捨てられた彼女達にしてみれば、唯一自分達を受け入れてくれた蘇芳は、己の人生を託すに値する程までに大切な存在なのに違いない。
これ以上何を言っても、相容れることは無いのだろう、きっと自分達とは。
けれど、それでもいいと彼らは思う。何故ならば。
「僕も別にとやかく言うつもりはありませんよ。だってそれが、あなたが見い出した答えなんでしょう?」
宗次郎もまた柔和な笑みで、ふみに確かめるように問いかける。
『蘇芳のために生きる』。それがふみや鈴達の生き方であり、信念であり、そして彼女達が見い出した答えだった。
誰の意見にも惑わされず、ただ己の価値観の下にその主に全てを殉ずる。
もし、志々雄が今でも生きていたら。
もし、剣心と闘った時に情が呼び戻されなかったなら。
もし、最後まで弱肉強食の理念が崩されなかったなら。
そうしたら、宗次郎も或いはそんな生き方をしていたのかもしれない。
今となっては、全て仮定にしかならないけれど。
「ふみ殿。もう退くでござるよ。勝負はもう着いたのではござらんか? お主達とのこれ以上の闘争は無用でござるよ」
剣心が静かに語りかけた。実際に勝負は弥彦の方に軍配が上がっていたというのもあったし、何より、彼らに更に闘争を続けさせるのは忍びなかった。
それに弥彦の心気は、彼女達に確かに届いたのだ。
「そうだね。この勝負はわたしの・・・・ううん、わたし達の負けよ」
剣心の己を気遣う気持ちも伝わったのだろう、ふみは笑んで頷いた。
そうして今度は弥彦を見た。
「明神さん」
ふみはにっこりと笑った。鈴も目を細めてよく笑っていたが、それでもこれがきっと本来の彼女の本当の笑顔。
「あなたが、他の誰でもないわたしに呼びかけてくれたこと、わたしちょっと嬉しかった」
ちりん。
また小さく鈴が鳴った。
「そっかぁ。ふみが出てきて負けを認めたんだぁ。それじゃああたし達も潔く諦めるしかないな」
ふみがふっと奥へと引っ込み、代わりに現われた鈴は弥彦から攻撃を受けたあちこちを擦りながらそう言った。激しい攻防で乱れた着物の襟や裾を引っ張って直して、鈴は宗次郎達に振り向いた。
「まっ、負けちゃったもんは仕方ないから、さっさと次に行きましょーかっ!」
底抜けに明るいこの表情は、紛れも無く鈴だった。
「おい、何でお前が出てきてんだよ・・・・」
「だってぇ、案内役はあたしに一任されてるし♪」
先程までの深刻な空気はどこへやら。相変わらずといった風の鈴に、弥彦は思わず肩を落とす。
目に見えて脱力した弥彦の姿に、鈴はくすくすと笑う。それでも普段よりは真剣そうな面持ちになると、鈴は弥彦達に素直に述べた。
「今更、分かれちゃった人格は一つにならないよ・・・・あたし達はね。それでも、ふみが表に出るのは滅多に無いことだから、それだけでも十分、あたし達の負けだよ」
(優しさで何とかできる部分。確かにあったよ、ちゃん)
それは心の中で鈴は呟く。声に出して言うつもりは無いが、少なくともふみは弥彦のそれに触れて自分の殻から出てきたようなものだから。
鈴はふっと笑った。彼女が今のこの闘いの顛末を知ったらどう思うだろう。そして知ってもなお、普通に接してくれるだろうか。それに何より、宗次郎は果たして蘇芳とそのの元に無事到達することはできるのか。
鈴は今度は、くるりと宗次郎に向き直った。
「さて、それじゃあ次の間に行くけど、瀬田さん、覚悟はいい? 次からはあなたの番よ」
「ええ、覚悟なんてとっくに決まってますよ」
次の間に待ち受けるのはあの桐原雪哉。そしてその先には真由と真美。最後には蘇芳。
連戦となるが、それでも勝ち続けなければ蘇芳の元に辿り着けることはできまい。
厳しい闘いになるということは、静岡を発つと決めたあの時から分かっていた。そしてを巻き込んでしまった時からやはり蘇芳らに敗れることはできないと。
覚悟も何も、元よりそのつもりで宗次郎はここにいる。いっそ清々しく、笑みさえ浮かべて答えた宗次郎に、鈴はまた小さく笑った。
「それでこそ、蘇芳さんが見込んだ剣客だわ。あなたを蘇芳さんの所までお連れすることもあたしの役目の一つなんだから、がっかりさせないでよね」
(ちゃんも、待ってるんだし)
鈴はそっと言外にそう含みを持たせた。生憎と宗次郎は気付くこと無く、ただ鈴の言葉の表層のみをその耳で捉えていた。それでも蘇芳と共にもいること、それは再度認識することとなった。
蘇芳のことを語る時の鈴は、本当に楽しそうだ。
ふと、先程まで表に出ていた本来の主人格、ふみの言葉が宗次郎の脳裏に蘇る。
『みんなを、わたしを、認めてくれたのはあの人だけだった。あの人だけがわたし達を必要としてくれた。
だから、わたしも蘇芳さんのために生きていくって、もう決めてるの』
ふみ達の共通のその思いは変わらない。その答えは揺らぐことが無い。
例え幾重にも自己が分かれていても。
過去の境遇がどこか重なりながらも違う答えを見い出した彼女が次の間へと続く扉を開け放つのを、宗次郎はただ、穏やかな笑顔で見つめていた。
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