「で、だ。この間で闘うのは一体誰なんだ?」
開け放たれたその間は雷十太の部屋と同じような造りだったが、待ち受ける者は誰もいなかった。
苛立ちを隠さずに問うた弥彦に、鈴はにかっと笑ってみせた。
「あたしだよ」
「はっ?」
「だから、あ・た・し♪」




―第二十八章:とえはたえ(前編)―




「冗談も休み休み言えよ。お前、案内役だろ?」
鈴の発言を本気で受け取らず、弥彦は腰に手を当てて溜息を吐く。何せ、当の鈴がへらへら笑いながら人差し指を頬に当てて、ポーズまで決めているから尚更だ。
しかし鈴は、反論するように言う。
「あらっ、案内役が闘っちゃあいけない、なんていう決まりなんてあるの?」
「う、そりゃ、そんなもんねーけどよ・・・」
「じゃあいいじゃない♪」
しれっと手を振る鈴に、弥彦は調子を狂わされるような気分になる。闘うと言いながらも鈴は何の武器も手にしておらず、相変わらず屈託無く笑っていられては、こちらとしても仕掛けどころが掴めない。
まして、鈴は女の子だ。敵として警戒していたとはいえ、それでもこんな少女相手に逆刃刀は振るえない。元々弥彦の活人剣は強さを挫き弱きを助けるもの。剣心と同じように弱い者を守るために振るうもの。いくら敵だといっても、この刀をそう簡単に抜くわけにはいかない。
鈴を目の前に躊躇する弥彦に、宗次郎は横から一言。
「鈴さん本人がいいって言ってるんですから、別に迷う必要ないんじゃないですか?」
「そうそう、瀬田さんは話が分かるわねっ。あたしが闘いたいって言ってるんだから、別にいーじゃないv」
「・・・・オイ、お前ら・・・・」
とことん気楽に構えている宗次郎と鈴に弥彦はがっくりと脱力する。この似た者同士め、と心の中で毒吐かずにはいられない。
「あはははは、あたし誰と闘おっかなぁv」
とはいえ、能天気さではこちらの方が上かもしれない。心底楽しそうに笑う鈴は、宗次郎と剣心と弥彦と、その三人を見比べた。ふわふわした髪がそのたびに揺れ、髪留めの鈴が小さく音を鳴らす。
そうして鈴は、今度は何かを企んでいるかのような笑みをにいっとその唇に乗せる。
「・・・・って言っても、後はこっちにはあたしと雪哉さんと真由君と真美ちゃんと蘇芳さんしか残ってないのよね♪ 瀬田さんはそのうち三人と闘うことは確定だし、緋村さんも真由君達が控えてるから、そうなると残るのは明神さんかなっ?」
「・・・・!」
鈴の口からさらりと語られた事実に、宗次郎達三人は少なからず衝撃を受ける。蘇芳のことだから顔が割れている一派の人間の他にも伏兵がいるのでは、と踏んでいたが、実際はそんなことは無かったらしい。それに、今の発言からすると、葵屋襲撃の可能性も消えたことになる。蘇芳の策を見越して三人だけでこちらに赴いたが、まんまと裏をかかれたわけだ。
また蘇芳さんにしてやられちゃったなァ、といったバツの悪い笑顔を浮かべた宗次郎に、鈴は目を細めて笑う。
「あなた達のことだから、また葵屋が奇襲を受けるとでも思ったんでしょう、でも残念でしたv せっかく少数精鋭で来たのにね。ま、けどあなた達ほどの実力の持ち主じゃあ、あんまり関係ないかな?」
「そうだなぁ、葵屋が無事ならそれはそれでいいし、元々闘う相手だってここに来る前から決まってたようなものですしね。確かに、あまり問題無いかもしれませんね」
鈴の言葉にほんの少し考えて宗次郎は答えた。
少なくとも、葵屋が無事なら残っている薫や操達といった面々への懸念は無くなるわけだ。剣心と弥彦にとっては特に、その意味合いは大きい。
それに今宗次郎自身が言ったように、元々決闘の相手は端から決まっていたようなもの。となれば三人のみでこのアジトに乗り込んだことも、ほとんど必然だとも言える。
最早けろっと返答した宗次郎に、鈴はまたケタケタと笑った。
「ふふっ♪ じゃあ何の心配もなくなったところで、さっそく闘いましょっ!」
鈴は素手のままざっと身構えた。両手をそれぞれ胸の前で握り締め拳を作り、体術でも使うような構えだ。
不敵に、けれど面白い玩具を前にした子どものような光を宿すその目は、真っ直ぐに弥彦に向けられている。鈴は完全に標的を弥彦に絞ったらしい。
弥彦は観念した風に息を吐き向き直る。が、まだその手は逆刃刀の柄には伸ばされておらず、体の横に下ろされている。
二人の対峙する様子を見て、闘いの邪魔にならぬよう宗次郎と剣心はすっと後ろに下がった。剣心は目を鋭く細めて弥彦に忠告する。
「弥彦、少女とはいえ油断は禁物でござるよ」
「ああ、分かってるさ」
振り向かぬまま返事を返して、弥彦は考える。
宗次郎はこの後、雪哉、真由と真美、そして蘇芳といった相手との確実な三連戦が控えている。真由と真美とは剣心も闘うことになるに違いないが、飛天御剣流が使えない上、体力はかつての彼より格段に衰えている。そして待ち受ける敵は、このアジトに潜入して倒してきた雑兵の群れや雷十太、そして目の前にいる鈴より、色々な意味で厄介な相手達ばかりなのだ。
そういった今後のことを考慮すると、ここはやはり弥彦が闘って、二人の体力の消耗を避けるべきだ。
「チッ・・・・気は進まねーが、仕方ねェか!」
ようやく覚悟を決め、弥彦は逆刃刀を抜刀した。そのまま正眼に構え、キッと鈴を睨みつける。
「行くぜ! お前も覚悟はいいな!?」
「あはっ、そう来なくっちゃ♪」
抜き放たれた逆刃刀を目の前にしても、それでも鈴は笑っている。やりにくい相手だ、と弥彦は改めて思わざるを得なかったが、それでもこの少女を倒さねば先へは進めない。
逆刃刀の柄を握り直し、弥彦は鈴に向けて斬りかかっていった。迎え撃つような体勢で身構えていた鈴は、けれど突然、顔をクシャリと歪めた。まるで今にも泣き出しそうな顔だ。
ぎくっとして弥彦の動きが止まる。
「え」
「ひど〜い!! 本当に女の子にそんなもの向けるなんて〜〜〜!!」
「え゛」
鈴はペタン、と座り込み、両手を顔に当てて大袈裟に泣き始めた。いきなりの事態に弥彦は、そして成り行きを見ていた宗次郎と剣心も唖然としてしまう。
「ちょっと挑発しただけなのにぃ〜・・・・本気で倒しにかかってくるだなんて酷いよぉ〜〜〜!」
「オイっ・・・・だってそれ、お前がいいって・・・」
泣き喚く鈴を前に弥彦はオロオロするばかりだ。闘おうと言い出したのはそっちなのになんでいきなり泣き出すんだこいつはっ!?
弥彦の方がある意味泣きたい気分だった。
「あ〜あ、泣かせちゃった」
「お前が言うなよ、お前がっ!!」
ぽつりと言った宗次郎に、弥彦は勢いよく振り向いて抗議した。直接的に泣かせたのは弥彦であっても、それを助長したのは宗次郎である。その宗次郎に言われたくない。
一応は闘い中であるということも忘れて、今にも宗次郎に食って掛かりそうな勢いの弥彦。その後ろで鈴は相変わらずわんわんと大泣きしている。
けれど、一旦呆気には取られたものの冷静さを取り戻していた剣心が、鈴の動作にいち早く気付き警告を発した。
「弥彦!」
「っ!?」
只事ではない剣心の表情に己の身に迫る危険を本能的に察知し、弥彦はバッと後ろを振り向いた。その瞬間右頬を何かが掠める。皮膚が薄く避け、ちりっとした痛みが走った。そうしてそれから間髪入れずにその何かが再び弥彦に向かって飛んできた。
「チッ!」
避けるより弾き飛ばした方がいいという咄嗟の判断で、弥彦は左手を柄から離しその何かを拳で撥ねつけた。僅かに痛みはあったが大して問題ではない。
それよりも問題は、先程まで泣いていたはずの鈴がニィッと不敵に笑って、手に数本の小柄を構えて弥彦に向き合っていることだ。
「ふふっ♪ 油断するなって、せっかく緋村さんが教えてくれたのに」
「お、お前なぁ・・・・・!」
弥彦の頭にカッと血が上る。確かに、油断した自分に落ち度はあった。それに対する怒りは勿論ある、けれどそれと同じくらい、泣き落としなどという小賢しい手段を使ってきた鈴へも腹が立った。
敵とはいえ、やはり少女は少女としてしか見なかったということもある。だが、それは相当に甘い認識だったらしい。
少女でも何でも、あの蘇芳の一派の中枢の人間であることに違いは無いのだ。
「泣き真似なんかして悪かったねぇ、けど、これもあたしの闘い方だからさっ!」
全く悪びれもせず言い放ちながら、鈴は小柄を弥彦に投げつけてきた。小柄とは刀の鞘の鯉口の部分に差し添える小刀のことだが、それ自体に殺傷能力はほとんど無い。まるで操の飛苦無のように鈴は用いているが、当たったところで大して深い傷にはならないだろう。とはいえ目にでも食らえば失明はするかもしれないが。
けれど相手の動きを牽制するのには十分である。
「くそっ!」
絶え間なく襲い掛かってくる小柄を払うので手一杯で、弥彦はなかなか鈴の間合いに入り込めない。一体どれだけその懐に仕込んでいるのか、鈴は小柄を取り出し構えるや否や弥彦に向かって投げつけてくる。それも、頭や目、胸といった箇所に向けて正確に、だ。
「あははっ、あなたの奥義は至近距離じゃなきゃ威力を発揮しないってことは、雷十太さんで実証済みなのよっ!」
高笑いをしながら、鈴はなおも小柄を放ってくる。弥彦は舌打ちしつつそれらを左手や逆刃刀で弾く。また目を目掛けて飛んできた小柄を左手で防いで、しかしその時、弥彦の背中にざっくりと何かが食い込んだ。
「・・・・っ!?」
「弥彦君!」
体勢を崩した弥彦に宗次郎は思わず声をかけた。弥彦の背中、左肩に近い場所が斬り裂かれ、赤い鮮血が散った。そうしてそれを引き起こしたものを、宗次郎はその目で捕らえていた。円の形をした何か、けれど完全に認識する前に、それは遠心力で宙を舞い鈴の手の内に戻ってしまっていた。
弥彦の血がついたその円盤状の物を鈴は見せ付けるようにして手に持っている。剣心はその武器が何か見当をつけ、穏やかながらも鋭い声でその名称を口にした。
「円月輪か・・・・!」
「そのとーりっ♪」
鈴はその青銅色の円盤の中央に開いた穴に人差し指を通し、楽しそうにくるくると回した。
円月輪は、古代インドで生まれた投擲武器の一種。戦輪、チャクラムとも呼ばれる。金属製の円盤の外側には刃が付けられており、鈴の持つ円月輪の直径はおよそ四寸といったところだった。
投擲武器という点では手裏剣と似たようなものだが、円月輪は主に斬ることを目的とした武器だった。また、形が円であるが故、投げた場合その軌道も直線ではない。
熟練した使い手が用いれば、遠距離としてはかなり有効な武器かもしれない。
「こっちがあたしの本当の愛用武器v なかなか素敵でしょ?」
「はん、確かにな。さっきの小柄とかよりよっぽどな」
自慢気に言う鈴に弥彦もニッと皮肉を込めて笑ってみせる。つまり、泣き真似も小柄もこの奥の手を出す布石だったということか。味な真似をしてくれる。
逆刃刀を構え直し、弥彦は再度鈴に向き直る。お天気娘な態度とは裏腹に、存外舐めてかかっていい相手ではなさそうだ、この少女は。
「それじゃあ・・・行っくよぉ〜!」
明るい掛け声と共に鈴は円月輪を投擲してきた。曲線を描きながら迫ってきたそれを弥彦は横っ飛びでかわした。かわした先に今度は小柄が雨のように降り注ぐ。鈴は円月輪を投げつけると共に高く跳躍し小柄を放っていたらしい。弥彦は逆刃刀を振るって防ぐが、全部は弾き飛ばせずに顔や腕に小さな赤い線が刻まれる。
と、戻ってきた円月輪を受け取った鈴が、今度はそれを手に弥彦に迫ってきた。円月輪の中央の穴に右手を入れ、そのまま弥彦に掌底を叩きつける。
小柄に気を取られ反応が遅れていた弥彦は、その一撃を避けることはできなかった。ただ、咄嗟の判断で逆刃刀の刀身を引き上げ、鈴の円月輪を受け止めた。キィン、と甲高い金属音が響く。
直後、鈴は弥彦から後退した。円月輪の形状上、鍔競り合いには向かないことを鈴は良く分かっていたからだ。だから再び円月輪を投げつける。そしてまた繰り出した小柄との波状攻撃。弥彦は再び鈴の間合いに入り込めなくなる。
「へぇ、鈴さんもなかなかやりますね」
どこか感嘆した風ないささか呑気な声を宗次郎は上げる。今のところ、闘いは鈴が優勢なようだ。鈴による決定打は今のところ無いが、それでも弥彦が自分の方に流れを引き寄せることができないでいる。
思わぬ苦戦に弥彦の表情は険しく、対する鈴には依然無邪気な笑みが浮かぶ。楽しそうに武器を振るう鈴に、宗次郎はふと何かを思う。
(あれ、何だろう、これ・・・・)
そんな鈴を見ていると、何かを思い出すかような感覚を覚える。どこか懐かしい何か・・・・・けれどその正体が何なのかは分からない。ただ、鈴と何かの姿が、宗次郎の中で重なった。
何だろう、この既視感は。
「・・・・鈴殿は、」
「え?」
「―――いや、何でもない」
小さく呟いた剣心は、けれど宗次郎が聞き返すと己の言葉を否定するように小さく首を振った。
実のところ、剣心は宗次郎が感じていた既視感を彼よりもより強く感じていた。その瞬間が時を同じくしたのは偶然だったが、元より鈴に初めて会ったその時から、剣心はこの少女にそれを感じていた。
言おうとし、だが結局言葉にしなかったのは、宗次郎に話すべきことではないかもしれないと剣心が判断したからだった。宗次郎に言わなかったのは、言おうとした事柄に彼の存在も関わっていたから。
(以前から思っていたが・・・・・この少女は、昔の宗次郎に似ているでござるな)
それは、楽の感情しか持ち得なかった、かつて敵として対峙したあの頃の宗次郎と。
「あははははっ!」
鈴は依然笑い声を上げながら弥彦に向かって攻撃を仕掛けている。闘気もあり、また表情もくるくる変わる以上、宗次郎同様に感情欠落というわけではなさそうだったが、それでも笑顔で武器を振り回している様は、かつての彼を彷彿とさせる。
宗次郎当人はそのことに気付きはせず、ただ相変わらず付き纏う不思議な感覚に首を傾げるばかりだ。
一方、鈴による飛び道具での攻撃を避け続けている弥彦はそれどころではなかったが。
「どうしたの? 反撃してみなよほらほらっ!」
「くそっ!」
反撃したくともできない、というのが弥彦の現状であった。けれど小柄や円月輪を跳ね除けながら、雷十太戦と同じく、鈴の間合いにどうにかして入らなければこの状況を打開できないとも考えていた。このままではだらだらと体力を削られるだけ。間合いにさえ入れれば、肉体的には華奢な鈴をどうにか制することはできるだろう。
弥彦は歯を食い縛ると、鈴にざっと向き直って動きを止めた。その隙を鈴は見逃さず、小柄と円月輪とをタイミングをずらして放ってきた。一方をかわしてももう一方から狙われてしまう―――だが、弥彦は避けようとはせず、逆刃刀を顔の前で横に倒して構えると、ダッと前へと駆け出した。
「!?」
鈴は一瞬、目を見開いた。正面から飛んできた小柄の雨の中を弥彦は真っ直ぐに進んできた。逆刃刀で防がれる物もあれば弥彦の体を傷付ける物もあったがそれもお構いなしに。
先の雷十太戦を考えれば、弥彦が我が身を顧みずに敵の懐へと突っ込んでくることを予想できた。そして予期していたはずだったのだが、鈴の思っていた以上に弥彦の踏み込みは速かった。
鈴が体勢を立て直す前に、弥彦は彼女の目前まで迫っていた。そして間髪入れずに、弥彦は逆刃刀を握っていない左手で拳を作ると、鈴の鳩尾に叩き込んだ。
「・・・・っ!」
鈴は先程よりも一層目を見開くと、そのままがくりと頭を垂れた。力を失ったその体を、弥彦はさっと左腕で抱きとめた。
どうやら目論見通り、気を失わせることはできたようだ。弥彦はほっと安堵の息を吐く。いくら敵で、しかも小ずるい手で攻めてきた相手だとはいえ、やはり弥彦はなるべくなら鈴に怪我を負わせたくは無かったのだ。少女という存在に対する弥彦の一本気なところは、十年前と何ら変わってないと言ってもいいかもしれない。
ようやく一段落ついて、弥彦の体に遅れて痛みがやってきた。円月輪でやられた背中の傷は元より、腕や顔に細く刻まれた小柄による傷も、ちりちりとした痛みを引き起こしている。そんなに深くは無いとはいえ、少々煩わしい痛みだ。
弥彦が僅かに顔を顰めていると、宗次郎と剣心が側へと寄ってきた。闘いの勝敗は着いたように思えたからだろう。
「案外、曲者でござったな、この娘御は」
「あぁ、まったくだぜ」
苦笑交じりに言う剣心に、弥彦は先程とは違う溜息を吐いて返事を返す。そうして己の腕にもたれながら目を閉じている鈴をちらっと見た。そんな穏やかな顔だけ見れば、ごく普通の少女なのに。
「でも、良かったですよ決着がついて」
宗次郎は率直な感想を述べた。そうしてふと、思案するような顔になる。
「それにしても、この後の案内はどうするんです? 鈴さんが闘う、って言い出した時はまぁ別にいいかって思ってましたけど、こうなっちゃうと困っちゃいますよねぇ」
「仕方ねーだろ! なるべく怪我させねぇように闘いを終わらすのには、気絶させるくらいしか方法が無かったん・・・・」
こいつが闘うことにはお前だって賛同してた癖に、と苛立ち混じりに返事を返しながら、弥彦は腕の中にいる鈴を見てぎょっとした。
つい今まで気を失っていたはずなのに、鈴はもう目を覚ましていた。それだけではない。顔だけを振り向いて弥彦を見上げている鈴の目には、大粒の涙が浮いていた。眉を思いっきりハの字に下げて、瞳をうるうると潤ませている。
「オイ、お前、」
「・・・・・酷い」
狼狽した弥彦が何事かを話しかけようとすると、それを遮るようにして鈴はぽつりと呟いた。そうして弥彦をどんと突き飛ばすと、たたっと駆け出して離れていった。
二間程、弥彦から間を空けて立ち止まると鈴はくるりと振り向いて、涙をぼろぼろと零しながら恨みがましく睨みつけてきた。
「何でこんなことするの・・・・? 酷いよ、あんまりだよ。お腹痛いよ。怖いよぉ・・・・」
鈴は自身を抱え込むようにして腹に手を当てている。顔を歪めて、またぽろぽろと涙を落としていた。先程までの鈴とはあまりにもかけ離れた変貌振りに、弥彦は勿論のこと、宗次郎も剣心も呆気に取られる。
けれど、弥彦は唖然としていた表情をすぐに引き締めた。さっきも油断していて不意打ちを食らったのだ。またこの少女に騙されるわけにはいかない。
「ふざけるなよ。さっきみたいに泣き落としが通じると思ったら大間違いだぜ!」
一喝した弥彦に鈴は一瞬、きょとんとしたような顔になって、またしくしくと泣き始めた。何となくこちらが泣かせているような気がして、弥彦もちくりと胸が痛んだが、それ以上に鈴への警戒心が働いていた。
「そんなしおらしいフリしたって無駄だぜ。お前の企みは読めてるんだからな」
「な、何でそんなこと言うの? 企んでなんかいないもん!」
しゃくり上げながら反論してきた鈴に、けれど弥彦は更に畳み掛けた。
「さっき泣いてるフリして不意打ちを仕掛けてきたのはどこのどいつだよ。しらばっくれるのもいい加減にしろよな!」
「しらばっくれてなんか・・・・だって知らないもの。本当だもん。何でそんな風に言われなきゃならないの? もうやだよ、こんなの・・・・・」
相変わらず白を切り通そうとする鈴に、弥彦はカッと頭に血が上りかける。
「てめ・・・・」
「待て、弥彦」
けれど更に怒鳴りつけようとする弥彦を、剣心はさっと手で押し留めた。弥彦の怒りは最もだったが、怯えている少女をこれ以上追い詰める必要は無い。
弥彦の憤りはそのまま剣心に向けられた。
「何で止めるんだよ剣心。コイツのやり口は剣心だって見てただろ?」
「ああ。あまり褒められたやり方ではないかもしれぬ。だが、今の鈴殿はどう見ても戦意を失くしている」
剣心は視線を前へと走らせた。鈴は力無くぺたんと座り込み、しゃくり上げながら静かに泣いている。
「それに、今度のは演技じゃないんじゃないですか? さっきと違って」
宗次郎もそんな鈴を見ながら思い起こす。闘いの始まりに泣き喚いていた鈴は、涙声ではあったがよくよく考えればその瞳から涙を流してはいなかった。顔を覆ってわーわー言っていたから宗次郎も騙されてしまったが、今こうして実際に泣いている鈴を見ると、あれはまさに嘘泣きだったんだという気がしてならない。
弥彦もそれに思い当たったようだったが、それでもまだ素直に頷く気にはならないようだ。
「だからって、そう簡単にあいつを信用できるかよ。また騙まし討ちされるなんて御免だぜ」
弥彦が吐き捨てるように言った言葉を、鈴は聞いていたらしい。顔を上げて、涙目で弥彦を非難するように見た。
「またそうやって酷いこと言うんだ。嫌だよ、そんなこと言わないでよ。嫌な言葉は聞きたくなんか無いのに・・・・どうしてこんな思いしなくちゃならないの?」
被害者意識丸出しな鈴の言葉に、ついに弥彦は堪忍袋の緒が切れた。剣心や宗次郎の制止も振り切って、弥彦はずかずかと鈴のところまで歩いていった。
そうして、逆刃刀を持たぬ左手でぐいっとその襟元を掴み上げた。
「いつまでもふざけたこと言ってんなよ。先に仕掛けてきたのはそっちじゃねーか」
「い、痛い、やめてよ・・・・」
顔を歪める鈴に、弥彦はぐっと言葉に詰まった。けれど一度騙された前例があるからか、そう簡単に鈴の言葉を鵜呑みにするわけにはいかなかった。
「もう騙されねぇぜ、俺は。口ではそんなこと言いながらも、裏じゃあ不意打ちする算段でも考えてんだろ?」
「よさぬか、弥彦!」
弥彦のらしくない振る舞いに、剣心も咎めるような声を上げる。けれど弥彦はそれに聞く耳を持たず、なおも鈴を追い詰めるように凄みを利かせていた。
背筋も凍るような弥彦の形相に、鈴は再び瞳を潤ませて、その双眸からぼとぼとと涙を零していた。
「怖いよぉ・・・・。放して、放してよ・・・・」
それでもこの態度を貫こうとする鈴に、弥彦は逆にカッとなった。普段の彼なら、この時点で鈴を許すことはできたのかもしれなかったが、冷静さを欠いている今では、それは無理な相談だった。代わりに再び怒鳴りつける。
「何が怖い、だ。何考えてるか分からねェお前の方がよっぽど怖いぜ!」
「やだよ、怖いよ。放してってばぁ!」
鈴はばっと弥彦の手を振り払った。それでも逃げ出すまではいかず、その場にしゃがみ込んだ。そのまま、声を上げてわんわんと泣き出してしまう。
「やだよぉ。こんなのやだよぉ・・・・・怖いよぉ・・・・」
また両手で顔を覆っているためにその表情は窺えないが、指の間から涙が零れ落ちているところを見ると、やはり嘘泣きではないらしい。
それでも弥彦は予断を許さず、といった風に静かに鈴を見下ろしている。
「ちょっと弥彦君、いくらなんでもやり過ぎなんじゃあ・・・・」
流石の宗次郎も微苦笑を浮かべながら苦言を呈するが、弥彦はそんな彼にもぎろっとした視線を向ける。萎縮するように宗次郎は小さく笑った。
(あちゃあ、相当怒ってるなぁ、これは)
けれど弥彦の性格を考えれば無理も無いかもしれない。当の鈴が何を考えているのか、実際のところ宗次郎にもまったく分かりかねたが、とりあえず彼女が未だ泣き続けていることに変わりはない。
「うぅ〜・・・・やだよ、こんなの・・・・怖いよ・・・・」
先程からそればかりだな、と思いながら宗次郎も鈴の言葉を聞いている。剣心も弥彦の行き過ぎた行為を内心非難しながらも、それでも鈴のこの有様は気になるところではあった。
鈴は相変わらず、弥彦の足元で泣き崩れている。
「怖いよ、この人・・・・もうやだ・・・」
泣き声がすすり泣きに変わってきた。
その段階になって、弥彦もようやく己の言動が度を超えていたものであったということに気付かされた。眼下の鈴は小さく肩を震わせている。
まさか、本当に本気で泣いているのか・・・・?
「弥彦」
その反省心を見透かしたのか、剣心がただ静かに彼の名前だけを呼ぶ。弥彦がハッと顔を上げた。そこには後悔の色が浮かんでいた。
弥彦は今度は気まずそうな顔になった。敵だとはいえこんなに責め立てて、少し(いやかなり)大人気なかったかもしれない。もっと早く、彼女が本当に怯えていることに気付ければ良かったのに。
弥彦は屈み込んで鈴と目線を合わせた。とはいえ鈴は両手を顔に当てている上に俯いていたので、実際に目が合ったわけではないのだが。
弥彦は声をかけようとして、けれど言いあぐねた。何て言えばいいのだろう? 疑って悪かったな、とか? でも先に仕掛けてきたのはそっちなんだからな・・・・と、いけないいけない、これでは自分の言い分を正当化している。
ともかくまずは謝らなくては。
そう決意して、弥彦はぎこちなく鈴に話しかけた。
「お、おい、あのさ・・・・」
「やだ。聞きたくない・・・・・」
けれど鈴は力無く首を横に振った。そうして、またうぅと呻いて泣き出してしまう。
「どうせ許してなんかくれないんでしょ。百合が何言ったって無駄なんだ。そんなこと分かってるよ。分かってる、のに、こんなの嫌だよぉ〜・・・・」
「? お前・・・・?」
微妙にズレた返答に弥彦は首を傾げる。ゆり、という名を鈴は今口にした。けれど何故突然、そんな名前が出てくる?
弥彦らの疑問に構わず、鈴は静かにしゃくり上げ始めた。
「お、おい、もう泣くなよ」
「・・・・・・・・」
けれどそんなことはさておいて、とにかく鈴を何とか立ち直らせないと話にならない。先に進めないのは元より、何より鈴を泣かせっぱなしでは弥彦とて気分のいいものではない。
「先に仕掛けてきたのはそっちだったとはいえ・・・・また騙まし討ちだ、なんて疑って悪かったな」
「・・・・・・・・」
鈴は何も答えない。
弥彦は三度溜息を吐いた。女ってのは一旦機嫌損ねると長々引き摺るからな・・・・とちらっと考えてから、けれどそれは身から出た錆だと弥彦は思い直す。
うまく言えるかどうか分からないが、誠意を込めて謝るしかない、と弥彦は腹を括った。
「確かに俺、言い過ぎだったな。悪かった」
「・・・・・・・・」
「もっと早く、気付ければ良かったのにな」
「・・・・・・・・」
鈴はまだ俯いたまま何の反応も示さない。悩むように頭に手を当てた弥彦に、宗次郎は助け舟を出してみることにした。
「鈴さん、まだ機嫌直らないんですか? 参ったなァ、このままじゃ僕、蘇芳さんと闘えないや」
切り札、とばかりに蘇芳の名を口にしてみたが、鈴がいつものような元気を取り戻すことは無かった。二重の意味で、これはいよいよ本格的に困ったな、と一同が思い始めた頃、ようやく鈴は口を開いた。
「そう・・・・蘇芳さんが待ってる・・・・行かなくちゃ・・・・」
やはり蘇芳の名を出したのは有効だったようだ。ぽつりぽつりと言葉を紡いだ鈴に、弥彦もぱっと顔を明るくする。
「そうだぜ、奴が待ってるんだろ? 決着は着いたし、また案内を頼・・・・」
「いつ決着が着いたって?」
ぞっとするような低い声が、鈴の口から漏らされた。
同時に、只ならぬ殺気を感じ弥彦は身を引く。けれどそれを追って刃の切っ先が突き出されていた。鈴が懐から取り出した懐剣だった。
胸を狙っていたそれは、弥彦が退いたことで脇腹を掠るだけに終わった。ざっと後退し体勢を整えた弥彦に、鈴は陰りを帯びた表情でチッと舌打ちする。
「もう少しだったのに」
「てめ・・・・やっぱり騙まし討ちだったんじゃねーか!」
ようやく引いた怒りがまた怒涛のように弥彦に戻ってきた。鈴は今度こそ本気で泣いていたんだ、とやっと信用したところだったから尚更だった。
鈴を攻めすぎたことを自己嫌悪までしたのに、それなのに彼女のこの一連の態度は全て嘘だったのか。
眉を吊り上げる弥彦に、鈴はけれど小馬鹿にするようにはんと笑った。
「騙される方が悪いんだよ。けど、ま、確かに不意打ちはもう止めだ。あんたにゃあ警戒されちまってるし、ここからが真の闘いの始まりさ」
懐剣を構え、鈴は挑発するような笑みを浮かべた。それに返すように、弥彦もまた不敵に笑んだ。
「本性を現しやがったな、この猫被り娘」
鈴はその言葉にニッと笑うと、弥彦に向かってダッと駆けて来た。動きのキレが先程とは違う。不意打ちを悪びれもせず、喋り方も男勝りなものへと変わって、これが佐和田鈴の地というわけか。
鈴が突き出してきた懐剣の切っ先を、弥彦はスッと肩を引いてかわした。振り上げた逆刃刀の柄を、そのまま鈴の背中に落とそうとする。けれど鈴もまた身軽にその一撃を避けると、畳の上に散らばっていた小柄をさっと拾って振り向き様に弥彦に投げつけた。弥彦は逆刃刀でそれを払う。
息も吐かせぬ攻防を、鈴はむしろ楽しんでいる風だった。
「ハハッ、楽しーなぁ! あんたなかなかやるじゃねーか、鈴がなかなか仕留められねーわけだぜ!」
「!? 何言ってんだ、鈴ってのはお前のことだろ!」
またも不可解な言動に眉を顰めながら、それでも弥彦は攻撃の手を緩めない。これ以上の油断はやはり禁物だった。
弥彦は横薙ぎに逆刃刀を振るうが、鈴は跳躍してその刀身から逃げる。懐へと手を忍ばせると、そこから円月輪を取り出した。弥彦は驚きに目を見開く。
「!?」
「円月輪が一つだけとは、誰も言ってねーぜ!」
言い放つと同時に鈴は円月輪を投擲してきた。曲線の軌道を何とか見切り、弥彦は後方に跳んで避けた。だがその時に、予期せぬ痛みが弥彦の左足首に走った。
「ぐっ・・・・!?」
「円月輪が二つだとも、俺は言ってないぜ」
既に畳の上に着地していた鈴は、戻ってきた二つの円月輪をぱしっとそれぞれの手で受け止めていた。最初に使っていた分も含めて、鈴は計三つの円月輪を所持しているようだった。
けれど弥彦がそれを思案する間も無く、鈴はその二つの円月輪を手に攻撃を仕掛けてきた。先程の思わぬ第三の円月輪の一撃で左足を負傷していた弥彦は、迎え撃つ体勢を取るものの足に踏ん張りが利かない。
そして鈴はその隙を見逃さず、手にした円月輪で斬りつける、と見せかけて回し蹴りを放っていた。鈴の細い足から繰り出されたとは思えぬ重い一撃が、弥彦の脇腹に食い込んでいた。
「がっ・・・・」
「そらよッ!」
ぐらりと傾いだ弥彦の鳩尾に、鈴は足裏での蹴りを叩き込んだ。それは見事なまでに極まり、弥彦はその衝撃で壁際まで吹っ飛ぶ。
弥彦の背が壁に打ち付けられ、追いかけるように前に踏み出していた鈴の右手が、その首にぱしっと宛がわれた。そのまま、弥彦の首を壁に押し当てるようにして、鈴はゆっくりと手に力を込める。
息苦しさで弥彦は眩暈を感じた。同時に、振り解けない程の鈴の力に、違和感を覚える。
(こ・・・の力、こいつ、本当に女か・・・・?)
まさかかつて相対したオカマの鎌使いと同類項じゃあるまいな、と弥彦はくらくらする頭の中でぼんやりとそんなことを思った。けれどそんな思考も、息が詰まるのと同時に飲み込まれていく。
「クク・・・・じわじわ殺してやるよ。あんたらみたいに綺麗事しか抜かさない奴らはな・・・・!」
鈴の口調はもう完全に男のそれだった。弥彦は己の首を圧迫している鈴の手を何とか引き剥がそうした。が、空いている鈴の左手が、抵抗する弥彦の手の甲に小柄を突き刺していた。
「ぐあっ・・・・!」
「あんたも可哀想にな。鈴や百合のうちに完全に勝負を着けてたらどーにかなってたかもしれないのに・・・・・。まぁ、でもこの俺が出てきたからには、容赦しないさ」
「て、めぇ、何言って・・・・」
「まぁ、とりあえず、死ねよ」
鈴は一層力を込めて弥彦の首を壁へと押し当てていく。どう見ても、このままでは弥彦の敗色は濃厚そうだった。
「また鈴さんが妙なこと言って・・・・いや、それよりも緋村さん、このままじゃあ冗談抜きでまずいですよ?」
いざとなったら縮地で飛び込んだ方がいいんだろうか、と宗次郎は考えていた。ここでの決闘は一対一とも明言されていないし、残りの人間は手出し無用とも言い渡されてない以上、乱入しても支障は無いように思われた。とはいえあの蘇芳のこと、後で言いがかりをつけてきてもおかしくは無さそうだったが。
事の成り行きを危ぶむように見ていた剣心は、けれど何事かにハッと気付いたように目を見開いた。
「そうか・・・・鈴殿は、もしや・・・・」
一人ごちるように呟くと、剣心はキッと顔を上げた。そうして鋭い制止の声を発する。
「待て! 弥彦を殺めることは拙者が許さぬ!」
静かに事の成り行きを見守っていたはずの剣心が声を上げたことに、鈴はゆるりと振り返る。邪魔をするな、と明らかに言いた気な顔にははっきりとした不満の色を浮かべている。
「何だよ。あんた達は大人しく見てな」
「お主に訊きたいことがあるでござる」
鈴の手は弥彦の首にかけられたままだが、注意は今は剣心の方へと向いた。
剣心がそう言ったのは、勿論、鈴の気を弥彦ではなくこちらへと引き付ける為でもある。そして単にそれだけでなく、ただ剣心は鈴に問いたかった。鈴のこの十重二十重の変貌の謎を解く鍵が、ようやく見えてきたようだったから。
睨みつけてくる鈴に、けれど剣心は穏やかに言葉を紡いだ。
「お主は・・・・・鈴殿ではござらんな」
宗次郎も弥彦も、剣心の言わんとしていることが分からず、ただ不思議そうに彼を見遣った。
けれど鈴は。
いや鈴であるはずのこの少女は、剣心のその言葉にただニッと笑った。